現代帝国主義による侵略、その表現の可否について、解放派の文献を入手できる限りで、調べてみました。
解放派の理論機関誌「解放No.17」(93,3)のPKOカンボジア出兵粉砕の冒頭論文から引用します。
「侵略戦争」という主張について、という小節の内容です。
第一に我々は「侵略」という規定を、政治的規定として、厳密に用いる。
「侵略」とは領土的征服を意味する規定である。
そして、戦略としては「民族解放」「民族自決、独立」が対応するのである。
単に言葉の意味の正否を問題にするのではなく、不可避に戦略と結びついたものとして現在の戦争性格を厳密に確定していかなければならない。
まぁ、もっと詳しく展開されているのだが、しんどいので省く。
解放派が目指すプロレタリア国際主義は階級的国際連帯であって、民族ブルを含む民族丸ごとの連帯ではない。
侵略規定は、やはり、この点を曖昧にし、階級的には敗北を準備するものになってしまうだろう。
ただし、独島問題で、朝鮮人民が侵略として日帝と闘う時は、もちろん帝国主義の領土要求に反対し、階級的に連帯して闘う。
この場合、侵略表現についての、云わば説教など、怒れる朝鮮人民には全く無用だろう。
それこそ、表現の正否より、かっての植民地支配、侵略への忘れられね怒りに応えねばならない。
おのおのの魂、解放派にとっては階級的連帯の志しを堅持しつつ。
自らを欺き、表現だけ合わせても、真の連帯を生むどころか、お互いの利用主義と腐敗を結果するだけだと思う。
大事なことは、ただ批判し冷や水をかけるのではなく、たとえ相手がスタ、社民、アナ、あるいは民族主義者、リベラルであろうと、その運動、活動そして革命の実践、営みを組み付くし、学ぶべきは学び、可能な限り、連帯の闘いを追求することだろう。
まとまらないが、もう限界です。