【民族自決】古本屋通信を指導するスレU【反日】
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読まなくても書物の内容を知ることができる
という超能力を、老店主は誇っていた。
彼の知的レベルも「読まないけど知ってる」
という水準にとどまらざるを得なかった。 WEB第三文明
<共産党が信用できないわけ@――なぜ公安当局は監視するのか>
https://www.d3b.jp/politics/6955 <WEB第三文明>
共産党が信用できないわけA――まやかしの護憲<|ーズ
https://www.d3b.jp/politics/6960 <WEB第三文明>
共産党が信用できないわけB――「反対」だけで「実績」なし
https://www.d3b.jp/politics/6977 <WEB第三文明>
共産党が信用できないわけC――デマを繰り返す謀略体質
https://www.d3b.jp/politics/6996 批評時間 NAMをめぐる二冊の本から現代日本の批評について考える
そのNAMは「失敗」だったと私も書き、一般に言及される時(まとまった論は、今回の
二冊以外見たことがないが) もそう形容されることが多いが、柄谷はそうはとらえて
いないようで、現在も続けているアソシエーション運動の一環として、NAMの解散も
発展的解消としてポジティヴに意味づけている。その意味づけ自体については、
知らないことが多いので言うことは何もないが、『ニュー・アソシエイショニスト宣言』
を読んで私が思ったのは、運動組織における「独裁」の問題が、相変らず空白のまま
だと言うことである。地域通貨や協同組合が理論的にいかに精緻になっても、精緻に
なればなるほど、理論化できない残余としての「人間力」の要素が大きくなる。日本に
おいて社会運動や対抗運動が一九六〇年代以降一貫して右肩下がりであり続けて来た
とすれば、結局この理論化できない「人間力」の次元で、多くの人を傷つけて来た歴史
があるからではないか。
中野重治は「素樸ということ」において、芸術家は、誰も記憶しておらず感謝もしていない
「車輪の発明者」のような態度で芸術を制作するべきだと述べていた。これは芸術だけ
ではなく、むしろ政治(マルクス主義においては芸術と不可分だが)において実行される
べきであるだろう。しかし共産主義運動においては、マルクスを始めとして、
「車輪の発明者」とは正反対に、知的指導者だけが記憶され感謝される方向に進んで
来た。NAMが成功する時があるとすれば、それはNAMの発明者としての柄谷のことを
誰もが忘れ感謝もしなくなる時だろうが、柄谷はその理論的必要性に思い至らなかった。
柄谷はくじ引き制によって政治的権力の集中を防ごうとするが、知的権威の集中を防ぐ
方法を考えなかった。しかし知は権力の不可分の要素である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています