【サロン派】社会主義協会・社青同26【学習サークル】
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向坂と宇野と大内力の理論の違いを教えて下さい。経済学部出身ではなく、若輩者なので判らないのです。 向坂 社会主義は実現する!と信じろ
宇野 社会主義は実現する!とは信じない
大内 どーでもいーよ、それ美味しいの? 向坂については
向坂逸郎「資本論入門」(岩波新書)
宇野経済学については
佐藤優「『資本論』の核心」(角川新書)
この辺が入手しやすい入門書 だいぶ昔のスレで学生上がりの同盟員(主流の清水派系と思われる)が支部でなじめずに
数年で去っていったという記述があったが国労支援は誤りだ。職場で言いたいことを言いきる
のがと大事だ(思想闘争ということか)という主張がさっぱり受け入れられなくて去って行った
ようだ。 向坂は典型的な労農派
宇野は労農というより心情講座派
大内は宇野の現状分析を尻尾を国独資として独立させた 飯田橋の事務所は維持できるのだろうか。
山崎氏泣き後の労働者運動資料室も解体目前だし 遺族が労働者運動資料室のサイトを消去したためサイトが閲覧できなくなって管理人さんが
あわてて修復したらしい。これは一概に遺族を責められない。昔から活動家が死んだらその
膨大な蔵書や資料の始末が大変だと聞いている。生前でも例えば今は本人も見ようともしない
レーニン全集やマル・エン全集を場所をとるだけと奥さんに責められていると元左翼の人の
投稿を何かで見た記憶がある。 そこに知識の財産があることがわからないってのは愚かしい話だ かって盛山建治氏は座談会で太田派に青年運動への甘やかしがあったと述べているが、
以前の太田派を批判するようで当時の向坂派社青同主流の傾向を暗に批判していた
のだろう。当時の社青同は資本主義的常識を覆すということで教条的で非常識な主張や
教条主義的なむちゃぶりを振りまいていた。それを奨励したり、もてはやす風潮もあり、
文字通り青年運動への甘やかし、迎合が横行していた。これも一種の思想闘争なのか?
灰原氏等もこうした傾向に迎合するから。向坂氏もこれを容認する。社青同主流は
お墨付きを得たとばかり増々暴走していった。 盛山氏に対して後に人力の指導者になった常岡氏より「あんなに意思統一したのになぜ
あっちに(向坂派)行くのか」と言われたと盛山氏は述べているが、常岡氏も太田派の人達
になぜ今の時点で社会党、協会から出ていくのかと言われただろう。意思統一云々は
深田肇氏が相当社青同指導部で意思統一をし、太田薫親衛隊としてかためたのになぜ
という素朴な疑問ではないか。 当時太田派が社青同の舵を左にきると右側の車輪が吹っ飛び、右側に急ハンドルをきると
左車輪が吹っ飛ぶと揶揄された。(人力が飛び出したのもその表れ) 社青同主流(イノケン派)の活動家がヤクザ口調の同盟員の報告者の録音(それなりの名調子)を
学習会で流して悦にいっているのを目の当たりにしたことがあるがこの頃は一種のカルト宗教
まがいのことがあった。灰原氏も録音を聞いて「ヤクザ口調がいいというわけではないが」と
一応釘をさしていたらしいが称揚するようなコメントを述べていたらしい。そういうコメントを聞いて
イノケン派はますます調子に乗ったようだ。まさに甘やかし・迎合で気が付いた時には灰原氏
直系の方が少数になっていても後の祭りだった。 当時大量のパンフを割り当てられて、それをかぶって大量に引き受けた人が模範同盟員
あつかいされていたが、たまたま同盟員夫妻が交通事故でなくなって家に大量にパンフが
山積みになっているのを訪問した同志に発見されたことがあったらしい。孤立的運動を
していた人達が大量にパンフを売れるはずもなく、自腹をきっていたのである。バンフ等を
大量にさばけるのは組合機関で買い上げてもらっていた時くらいだったからそうなる。
これをきびしい運動の実態として発表するから暗くなるばかりだ。 オルグが苦手な人もいるからな
適材適所じゃなかっただけだ カルト宗教で信者が書籍やパンフを自腹大量買いするのと同じ構造だ。パンフ一冊、
バッジ一個を青年部組合員に買ってもらうのも普段から相当酒やコーヒーをおごって人間関係を
つくってきた(もちろん世話役活動もあるが)結果であると活動家達は述べている。そういう活動が
苦手な人はしょいこむことになり、自腹となる。 春闘三十五万円賃上げ要求が出た時最初はもてはやし、全国大会でも擁護して
推奨されたが、向坂逸郎が批判してからは総括もされずに突然立ち消えとなった
誤った運動を続けるよりはましだが、どうにもみっともない話だった。甘やかし・
迎合も限界に達し、これ以上は放置できない水準になっていたということか。 せめて豚スキでなく、牛スキを食べたいという賃金要求を革マルあたりが揶揄していた。
しかし1960年代にはなかなか肉すら食えない貧しい時代もあったのだ。高度経済成長後の
公務員本工、正規社員・職員の労働者の実態とはかけ離れていたが。比較的めぐまれた
労働者の間で行われていたカルト的言葉の遊びだったのだ。 【トランプの圧>軍産】 玉城デニー(海兵隊撤退) 米朝和平(米陸軍撤退) 日ロ和平(米空軍撤退)
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1536803971/l50
危うし親米ポチ! 親分の軍産がズタズタにされてる、猛獣トランプに! ↑自分で親米ポチと勘違いしてるんだろう馬鹿が?パールーハーバーは忘れないとは言わんだろう。 かなり昔協会規制からだいぶたってからの話。協会の先輩が社青同同盟員から
「まだ協会ってあるのですか」と」問われたと聞かされた。すでにサロン化、有名無実化が
かなり進んでいたのだ。「協会てものを決める所ではない」と言ってはばからない人もいた。
では一体なんなのだ、それならわざわざ入る人はいない。 労働者運動資料室の事が書かれていたがそこに当初交流の場として掲示板を設けようとも考えたがネトウヨに荒らされる危険があるので断念したということである。たしかに四六時中はりついて削除しているわけにはいかないから。今ではここのスレを
見ればわかるように協会や左翼全体への関心も薄れているから大丈夫という見方も
あるだろうが職業的ネトウヨは何をするかわからないから油断してはいけない。 この協会・社青同スレのNO1からしばらくのスレはいろんな人が書き込んでいたし、多くの
閲覧者もあったろう。それなりに注目もされていたらしい。今では過疎スレになって久しいが 昔は協会や左翼運動経験者もまだ仕事が現役で過去の話も生々しかったから
書き込みや閲覧も多かった。今は運動とかけ離れた生活が長くなり、かっての運動への
記憶や興味も薄らいだ。仕方がないことだ。 俺は社会主義思想の有効性を確信してるから
興味が薄らぐことなんてありえない けっこう社青同関係者でもイノケン派とか鎌倉派とか知らない人がいたから情弱状態に
置いていたのだろう。ネット時代だと関係者はアクセスするからいくら情報を遮断しても
すぐ知れ渡ってしまう。 福岡なんて三池労組があったから全国の協会派・社青同同盟員の尊敬のまと、あこがれで
あったが、社青同は九大ブントあがりの桜木派の指導下にあった。三池労組の親組合は
協会派だったが、青年部は桜木派の影響下だった。しかも福岡は太田派、向坂派のそれぞれ
の拠点でもあった。さらに後に国労委員長になった武藤久氏らは太田派、向坂派のどちらにも
与せず中立になった。しかも桜木派は協会派に溶け込むため変に協会派に寄せた方針を
出していた。ゆえに協会派フラクの中でも重要な発言権をもっていたそうである。 ラウル・ペックの「マルクス・エンゲルス(原題「THE YOUNG KARL MARX)」という
ヨーロッパで評判の映画が国内で公開されてるんだけど
国内の公開が終盤にきてて
宇都宮ヒカリ座、塩尻東座で今やってる
岩波ホール等での東京での公開は終了してて
これが終わると10月に鹿児島、宮崎しかない
是非見ておくべき作品
原題で城塚登の若きマルクスの思想を思い出した
ライン新聞からパリの初期マルクスの思想的格闘が
プルードンやヘーゲル左派などを交えて描かれている
左派界隈でもあまり話題になっていないのが悲しくもあり、問題でもある 構造改革派と新党派を模索していた水原氏と後の人力になる人達が袂を別ったのも
サンディカリストたる協会左派の流れを組む人達とすなわち後の人力派の反構改思想
合わなくなったためであろう。中大の人達の内輪話で民学同や太田派との共同が出来ない
ものかという話でも構造改革派的共通項からのものであろう。灰原反合研派やイノケン派に
うんざりしていたのだろう。でも民学同の日共分派色の強さや太田派とは党組織論の違いに
より共同は出来ないという結論になっていた。 >>298
豚ではなく牛肉を食べたいとか、発泡酒ではなくビールを飲みたいというのが現代労働者
サラリーマンの切実な声。せめて380円ではなく450円の弁当を買いたいとか切ない要求も
ある。イノケン派の高度成長の恩恵を受けた正規・本工労働者の生活実態ごっこの頃と
違って革マル派も揶揄できない。イノケン派に言わせれば今言っても当たり前すぎて思想
闘争にならない。と猛反論があるだろう。 一億総中流が言われていた時に一億総窮乏化を訴えて引かれた協会派。
本当に一億総窮乏化した時には動く若手活動家がいない。 >>313
活動家が米を食うのはぜいたくだという○い〇という人もいます。 すでに70年代に「せめて肉を食いたい」と言ったら「きのう肉食っていたじゃないか」と
反論された。安倍晋三のご飯論法みたいに「朝ご飯食べてません。パン食べました」
という世界だ。 社会党乗っ取り寸前に大騒ぎされて失敗した協会。いつの間にか自民党を乗っ取って
乗っ取りに成功してから少し騒ぎになっただけの日本会議。 協会の方と話すとすごくニヒルになっている人が多い
若い頃の彼らとは大違いになっていて驚く それは察してあげなさい。ソ連・東欧社会主義が崩壊し、社会党、総評がなくなり、
社民党、新社会党もなくなりそうだ。虚無的にもなりたくなるよ。 前衛党としての意識の欠落だな
来月10月
スカパーの東映チャンネルで松本治一郎の伝記映画があるぞ ネットニュースで安倍政権はリベラルなんてアホなことを言い出してるのがいる
LGBT差別やってる安倍直属がいてどこがリベラルなんだか
こういう連中が中立ぶって右傾化の尻馬に乗っかってるんだろな 昔,昔、「僕はリベラル」という若者に」「ソシアルでなんければならない」と言っていた
協会派の長老がいてたが、今ではリベラルでもネトウヨからは左翼扱いだ。 協会内で幹部と下っ端に格差があれば、それは幹部による搾取だぞ!!
ほんこん「中国って共産主義。共産主義って格差あったらあかんでしょ?
それやのに何で格差があんねん
https://snjpn.net/archives/70138 トンシャオピン路線が格差を拡大させた
資本主義的改良主義がその理由であることも知らんで
一丁前に語るご意見番芸人の増殖することすること リベラルは自由主義者のこと。
協会は共産党みたいに資金が豊富でなく、幹部と下部の格差というほどのものはなかった。 清水派は、党問題や労戦問題を取り組む人々をかっての太田派と同じと言っていた。
情勢に焦りをもって党や労組の左派結集を言うのがかっての太田派(第三見解派)と
同じと言いたいわけだ。そして自分達こそ第一見解派(清水由紀朗執筆)の流れを
引き継ぐものだと豪語していた。そして太田派は改憲阻止の強調や政治闘争に打開の
道を求めたりして当時の反戦派と同じ構造だと言って見せる。その反合だけ論と政治闘争拒否を正当化しているのだ。たしかに当時の協会派とりわけ主導権を握っていた
太田派が地方の組織が社青同中央をバイパスして反戦派に合流していくのを焦りをもって見ていたのは間違いない。それなら向坂派がマヌーバー的にメットをかぶって
反戦派まがいのことをして孤立化を防いでいた事には一切ふれないずるさがある。 清水見解は思想闘争路線色が強く、けして向坂派全体がもろ手をあげて賛成ではなかった。
案の定その後イノケン派の思想闘争過剰路線が猖獗を極めた。また職場闘争を激しく闘った
のはむしろ太田派であり、後のイノケン派や清水派のイメージからいくと以外にも向坂派は
穏健派であった。むしろ三池研のイメージに近い。だから当時の太田派は断固戦うと言っても
それは物取り主義的な意味だったとはぐらかしてみせる。たしかに清水路線は思想闘争路線だ
から物取り主義ではないと言い張れる。だから太田派の行動を正面から批判できないのだ。
イノケン派や清水派の職場突出主義を自己否定することになるからだ。 『選択』2018年10月号
米国で旋風起こす「社会主義」
―民主党と若者の「左傾化」進む―
http://www.sentaku.co.jp/ 社会主義と言っても修正資本主義的な意味でだろ。協会派は長らく民主社会主義や社民主義を
修正資本主義として一切認めようとしなかった。 清水派や三池研は後々日和見扱いに対して見の証の為に妙に原則論を押し出した。 >>40
新潟の日農の一部は今でも拉致をデマだと思ってるような
取り上げられたくない、聞きたくないって感じ
だいたい新社系になってるけどな 新社には○い○さん以外にもトンデモがすり寄るのですね? そりゃ鎌倉がそうだもの
鎌倉がそうなのか宇野派がそうなのか
カントが好きなのな
主体とカントは相性がいいんだろうか 鎌倉さんはなんと言うか良い意味でも悪い意味でも協会内宇野派の「突然変異」だろうな
ところで中大SYが鎌倉派を自称したってことはあるのかね? 革マルがそう呼んだだけ?
しかし向坂協会、ブント、革共同そろって宇野派系「学者」は政治的には師匠の宇野弘蔵と違ってるな(悪い意味で) >>339
その日農系が新社になったのは地域人脈的なものだと思います。
>>340-341
鎌倉らチュチェ研やらは招待され、メロメロになったタイプでしょう。
なお、カントとチュチェ思想に親和性があるとは思えません。 >>343
>>339の○い〇さんは日農とは関係ないですよ チュチェ研と自称鎌倉派の中大グループとは関係ありません。 中大グループが我々は鎌倉派と他党派に自称していたのはたしかみたい。革マルも
そういう自己紹介を受けたのだろう。洋大などの主流派は自らはイノケン派、後には
清水派ということを自覚していたようだが自分ではそう名乗らなかった−当たり前。 イノケン派の鎌倉派に対する反発は相当のものだった。 鎌倉派の拠点が移転阻止を闘った中大と東京教育大だったのは偶然ではないと思う。 教育大から筑波大に変わってからノンセクトと鎌倉派が運動を担う。
教育大の教授には協会の先生がいたと思った。 社青同統一戦線派は福田派と分離した後、方向性を失って困っていたようだ。 >>349
その中大が学生数頭打ちで都心回帰ってのが
なかなか間抜けな大学運営だな 社青同反主流−統一戦線派は基本福田派だからな。協会佐藤派は下部に足場を
もっていなかった。協会主流−統一戦線派が佐藤派と福田派に分裂しても協会レベル
では協会反主流の灰原派と連合して福田派に対抗しても青年運動段階ではイノケン派に
迎合するか、沈黙するしかなかった。また社青同主流イノケン派も分解過程に入って混迷
していた。 ちょっと見たら過去スレに協会派関係のほとんどのことは書かれているな。 学生班は学習点抵抗の失敗をきちっと総括せずに六十年代につくられた
赤パンフ(表紙が赤いから)の復刻版か売れ残りを七十年代の後輩同盟員に販売してた。 初期社青同主流派だって首脳は平和同志会出身だったり、高見書記長も後に解放派に
なったように極端な右派ではなかった。本当の右派は民同の青年将校達だった。彼らは
主導権喪失後離脱していった。 当時の執行部のやり方は反対派、異論派を一人だけ執行員に取り込む方法だ。構改派
執行部には佐々木慶明中執を入れ、後を引き継いだ協会派執行部には佐々木氏に
代わって樋口圭之助中執を入れるという形をとった。第五回大会で中央に批判的態度を
とった福岡地本(桜木派)からは木原中執を入れた。また協会派を排除した東京地本執行部には
インターシンパと目される人を協会派枠でいれてみせた。 それは杉並の岩通の人ではないの。岩通班は当時協会派の拠点とされていたが、インター
の方に傾いてしまった。だから急進派連合の邪魔にならない人を協会派枠として一人だけ
入れたのではないか。 杉並の社会党て結局協会派それも向坂派の拠点になったでしょ。 >>358
学生班協総会に木原中執が指導に来て来賓の樋口圭之助氏に学習点抵抗路線を粉砕されすごすごと帰って行ったという話が合った。桜木派が鎌倉派みたいな立場にたてば
面白いことになっていたろうが、結局後々反戦派にもっていかれそう。もっとも協会系学生班の半分は太田派で人力→エル学同になるから。だから協会は学生を信用して
いなかった。解放派だって最初は労農派のはずだったし。どこに行くのか、どうなるのかわからん連中に学生活動家は見えたのだろう。 鎌倉派は学協のなかだけだった。
中大の連中は労戦に移行してもフラクさえ創造できなかった。
あとは議員とか労組専従に潜り込ませていたが区職労専従から経緯は知らんが自民党の区議員になっている奴がいるのを知って唖然とした覚えがある。
国労に潜り込んだ連中は「国労共闘」で中核と馴れ合っていたが、後にどうなったんだろうな? 追記
三多摩社青同で中小民間労組から形成されたヨントロとか全逓埼玉を中心とした青年労働者によって左傾化した主革と違って、鎌倉派ってのは「層としての学生運動」によって左派ぶってイノケン派と対抗しただけだから論議が噛み合うはずもなかった。 鎌倉派は福田派が協会を離脱した後、協会系に嫌気がさして協会系運動から離脱していった。
その後は、自分の基盤とか人脈に合わせて去就を決めていったみたい。ある人は生協運動に
潜り込んだり、地方議員になったり、(市長から消費者庁長官になった人もいる)自民党区議
というのは極端な例だが、大勢は民主党ではないか。社民党に残留した人、新社会党に行った
人、最後は立憲民主党に行った人。清水派でも社民党と新社会党に分けている。
国労では最後中執になった人もいた。 鎌倉派出身者の社民党市議が民主党に行きたがっているのを説得して社民党にとどめた
話を昔きいたことがある。立憲民主党が出来た時に中大出身の民進党幹部専従職員が
苦笑いして党立ち上げに奮闘していた。「結局、左岸に打ち上げられちまったよ」という
思いかもしれない。 三池研は闘えない実態を強調して万年主体形成論だと批判されていたので(この傾向は
長期抵抗・大衆路線の頃から解放派から言われていた。この批判に応じて断固たる闘いに
踏み出したのは太田派で向坂派はむしろ三池研のような路線であった)
三池研はある職場を抽出し、闘いのショーウィンドーのように闘わせてみせると清水派は
批判し、権問研筋の人も「あの闘い」はやめた方が良いと」冷ややかな反応であった。自派の
闘い、運動以外に動員されたくない利用されたくないという雰囲気があった。清水派が突出した
闘いをしても誰もついてこず、むしろ批判的空気のなかで立ち消えになることがあった。 イノケン派が分裂し、イノケン路線を引き継ぐ清水派が主導権を失ったとき、統一戦線派の人は
明確な路線転換と認識し、物販の本売り場の三池研の本に大会参加者が群がっていたのを
目撃したとのこと。清水派の主要活動家は悔しがり脱権への決意表明をしていた。そして大会後
各方面にオルグを入れていた。その後三池研の分裂で生じた善明派と組んで社青同の主導権を
取り戻したが、日本階級闘争における運動的影響力は失われていた。 善明派はその後解消。清水派は佐藤協会派内で左派的スタンスに立ち、社民化に
抵抗して見せたが、すぐおとなしくなった。三池研は新社会党、坂牛協会内で
対社民党融和策に反対して主流派を困らせる。清水派と三池研は国労内では左派を
支持した。 学生班協論争のなかのやり取りで主流派の同盟員が集会の受付に一緒にいた
反主流派の女子同盟員に卑猥な冗談を投げかけ、それが後で問題になり(今で言う
セクハラだな。当時はそういう言葉はなかった)そういう応酬はいいから議論の中味で
やれよとみんな思った。結局話はうやむやになった。 子供の頃に読んだ学生運動解説本に社学同は何々派とつかないのに社青同だけ解放派
とかつくので不思議に思ったら、そのうち国際主義派(第四インター系)や協会派とあるので
ああ内部で別れているのねと素朴に理解した。そのなかで協会派はあまり勢力がないと
書かれていた。(むろん学生運動で)やがて社学同は統一派とかМL派とか分かれて書かれる
ようになった。 佐賀大学の物語というのをネットで見たらかって九州学連で唯一協会派で生き残った
佐賀大学の学生運動が向坂逸郎の協会派として書かれていたが、実は太田派になって
人力→エル学同になるわけだが、大学当局側の人間から見たらどうでも良い事なのだろう。長崎大学は解放派にとられてやがて右翼に負けて右翼の拠点校になった。
これが日本会議の源流になったということだ。彼らは全国学協を自称していたから
偶然の一致で社青同も全国学協と称していた。もっとも社青同の場合は全国学生
班協議会だ。社青同組織内の横割りの労働運動で言えば産別班協にあたるもので別名班協と言っていた。だからそれ自体が独自の全国組織である右翼の全国学協とはまったく性格が異なる。それこそ些末でどうでも良いことだ。 昔、佐々木慶明(滝口弘人)が向坂派に捕虜になった時、向坂逸郎を襲うぞと解放派がブラフを
かけたら佐々木はほどなく解放されたとのこと、こういう恥ずかしいやり合いはやめてほしい。 今はそんなことやっていないだろ。むしろ両派とも衰退して見る影もなくなっている。 そういうことは口にしないものだ
武勇伝で喋りたがる奴には困ったものだ 仙谷由人氏(旧:民主党/元・官房長官)が11(木)に御逝去。72歳。
http://y-sengoku.com/ 仙谷氏は社会党時代、協会と対立した人だ。
民主党政権の頃だったか、ネトウヨらしき者が仙谷氏を社青同構造改革派(フロント)出身と誤った書き込みをしていた。フロントは日共脱党組の構造改革派学生組織。
社青同構造改革派は主体と変革派で労働者主体の組織。社青同の学生に構造改革派
はなかった。どうやら昔の事情を良く知らない知ったかぶりをした新聞記者の発言を
鵜呑みにした模様。 主体と変革派は単に出自が「構革派」だったというだけ…
レーニン&グラムシを模索しつつ71年以降、社青同に未練を持たずに青年労働者主体の銀ヘルで沖縄〜三里塚を闘った。 鎌倉派というか中大のSYは班学習会とかにR・パイプスの「レーニン主義の起源」をゴリゴリにやってたなぁ
あの意図は何だったのか
当時はぺーぺーだったんでイノケン派なんて言葉も知らなかったし、発想がまるで違うってことすら分からなかった レーニンで言えば「何をなすべきか」でイノケン派の経済主義批判を意識して理論学習を
いたのだろう。でもイノケン派の古いメンバーはそんなこと百も承知であんな路線をやって
いたはずだ。ようは我々は力不足だから職場に集中しようという戦術論を開き直って正当化し、
一般路線まで高めてしまういつものやり方だ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています