フランソワ・デュヴァリエ(フランス語:Fran�ois Duvalier、1907年4月14日-1971年4月21日)は、ハイチの政治家。
医師として名声を得て「パパ・ドク」という愛称で親しまれ 
大衆的な人気を背景にして同国の大統領に当選するも就任後は独裁者となってブードゥー教を利用した個人崇拝を行い 民兵組織トントン・マクートで政敵を粛清しおよそ3万人のハイチ人が死亡した

守旧派となったムラートにとってかわる新たなエリート層を自らの手でつくりあげるために、デュヴァリエは脅迫や弾圧をいとわず
そうした手段で得た富をデュヴァリエは部下と分けあった。 
企業からリベートや賄賂をうけとり収奪をおこなう政府は腐敗がひとつのかたちをとったものであり
それは独裁者とデュヴァリエに忠誠を誓うものを富ませた

高度な教育を受けたハイチ人たちは ニューヨークやマイアミ
フランス語の通じるモントリオール パリ アフリカ諸国へと列をなして逃げだしもはや医者や教師はハイチから姿を消してしまっていた。
こうした専門的な技能を身につけた知識人たちの中には国連の要職につき
象牙海岸やコンゴといった新たに独立した国々の発展をたすける仕事についたものもいた。
だが当のハイチはいまだにこの頭脳流出から立ち直っていない。

周囲の人間に個人崇拝を浸透させたデュヴァリエはハイチという島国を体現した存在であると宣言するにいたった。
デュヴァリエは土着的なブードゥー教を事実上の国教のように蘇らせついでそれを政教一致のように政治利用した。
つまりブードゥー教の司祭「フーガン」としてである。
こうして自身をより大きな何かとして前面に押し出すとともに黒い山高帽をかぶり
蝶ネクタイの黒い燕尾服を着て自らをブードゥー教の死神ゲーデ�ニ重ねあわせてもいる。
ついには「パパ・ドクはロア、イエス・キリスト、神その人とともにある」といったプロパガンダをおこなうにいたったが
当時から非常に有名になったのが椅子に腰かけるパパ・ドクの肩に手をかけて立つイエス・キリストという構図で
そこには次のようなキャプションがつけられていた。
「私が選んだのは彼だよ」[28]。


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