【前進チャンネル】中核派全学連60【LOVE】
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中核派を応援しよう!中核派LOVE!!! 頑張れ中核派! 前スレ 【天田廃天皇】中核派全学連59【斉藤ニセ代議士】 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1672407665/ P213 ◇革命家マルクスと英国貴族階級との知られざる深い関係 マルクスの経済観は、ロンドンのシティーにおける特権的銀行家階級、とくにロスチャイルド商会の考え方とまったく矛盾しない。 そう考えてみれば、カール・マルクスの墓がモスクワではなくロンドンにあるのも偶然ではない。 また、ロシアにおけるボルシェビキの勝利とそれに続く血の粛清の結果、不運なツァー(皇帝)によってヨーロッパとニューヨークの銀行に預金されていた10億ドルを、 ロスチャイルドとその仲間がまんまと現金で奪取することになったのも偶然ではない。 マルクスがジェニー・フォン・ウェストファーレンと結婚したことから生じた縁で、英国の貴族階級と関係が深かったことを知る者はほとんどいない。 ジェニーはスコットランドのアーガイル公爵家と縁続きであって、このアーガイル公爵の家計は代々革命主義者を輩出した。 また、ジェニーはキャンベル家とも縁続きであるが、キャンベル家というのはバプティスト派の分派のキャンべル派を設立した家系である。 ジェニー・フォン・ウェストファーレンの先祖をたどると、以下のような人たちがいる。 まず、バルカラスおよびアーガイルの女伯爵アンナ・キャンベルは、1657年から59年までオレンジ公の家庭教師だった。 オレンジ公は未来の国王ウィリアム三世で、後年イングランド銀行に設立特許状を授与した人物である。 また、初代アーガイル公爵アーチボルド・キャンベルは、1688年にウィリアムが王座獲得のためにイングランドに向かった際に同行した人物である。 現バルカラス伯はカウドレー子爵ヴェートマン・ジョン・チャーチル・ピアソンと縁続きであるが、このピアソンの母がスペンサー・チャーチルの卿の娘である。 スペンサー・チャーチル卿の姉妹がアスル公爵と結婚し、スペンサー・チャーチル卿自身はブラッドフォード伯爵の娘と結婚した。 アーガイル=バルカラスの家系は現在、リンゼイ家、キャンベル家に代表される。 現クロフォード伯爵のロバート・A・リンゼイはクローフォード伯爵としては29代目であり、同時に第12代バルカラス伯爵である。 ロバート・A・リンゼイはまた、ナショナル・ウェストミンスター銀行の会長であり、ロスチャイルドのサン・アライアンス保険の役員である。 ロバート・A・リンゼイの母は、キャンベディッシュ家の出身である。 彼はかつて国務大臣の私設秘書を務めた後、国防大臣、外務大臣兼通産大臣を歴任した。 >>208 それな 統一教会は世界の右翼を集めてるからな アメリカでCPA取った知人が、会計の上位ポジションは白人に独占されていて、アジア系が入り込む余地はない、て言ってた しかも白人さえ「会計の世界は冷たいから会計の仕事につくつもりはない」て声が 和の精神 【日本文化】自分が損をしても相手に儲けさせたくない…日本人を縛る「スパイト行動」とは ★2 [おっさん友の会★] https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1680338308/ 小西議員「安倍総理がやった事はこれは法令解釈なんかではない。日本の法秩序を根底から覆すクーデター。日本の最高法規である憲法がその中身から根底から変わってしまって絶対に許される事がなかった憲法の平和主義とどう考えても矛盾する。 https://twitter.com/mugichoko1616/status/1641781431985897473?s=46&t=msrKFV6CXQV2idBilK6HNg その集団的自衛権が解禁されている。憲法9条すらこんなに解釈変更できるのであれば憲法の他の条文がいつでも時の内閣と多数を持つ国会で解釈の変更が出来ることになる。こんな事を絶対に許してはいけない」 #憲法を守れ小西を守れ https://twitter.com/mugichoko1616/status/1641781435748216832?s=46&t=msrKFV6CXQV2idBilK6HNg https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 「中核派戦士コンテンツを必ず掲載の権力・革マル必読文献」の作成を企み中核派下部構成員とネット「交流」を頻繁に行い、かつ一方では「自民党」と「日共」の両組織内部に「メンバー」として深く潜入し、「自民党が変なことをしたら日共にチクる」等公言するなど、中核派、自民党、日共の「3方向への秘密の接触を展開」していた例のオッサンがついに、 洞口朋子(杉並区で熱演の最中)に「声をかける」ことができる位置まで無言で忍び寄っていた ことが判明、というか自白。(3月30日) このオッサンがどんなツラをして洞口朋子に無言で忍び寄ったのか。少なくとも、中核派が警戒のために録画しているであろう聴衆の面々の記録には残っているはずだ。 >>227 戦前と戦後の日本人のメンタリティが180度変わったことを 私が>>187 >>188 で示しているだろうが 民主主義を偽装し、国家転覆 @WindyPaddy 民主主義を口実に国を破壊し果実をもぎ取る …ソロス本人がそう言っています ジョージ・ソロスは、2015年のアジアソサエティでの対談で、これまでの彼らの手口を暴露したうえで、 次はロシア崩壊を狙っていると言い、そのためにウクライナを利用していると語っていた https://twitter.com/WindyPaddy/status/1570295911246630913?s=20&t=jvHGeJUsILgv-zA7wj7rlw https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>233 あれは 「欲しがりません、勝つまでは の教育の成果で敗戦した不満と不信感から 「精神論なんて糞の役にも立たん と反動が起きて物質至上主義が主流になったからだよな >>235 アメリカ左翼て ハリウッドとか反核デモ隊とか戦争反対とかやで お前ら、3次元物質世界においての人類の本当の対立軸は、ナショナリズム(一般大衆)VSグローバリズム(資本家)だから。 共産主義VS資本主義なんて、どっちもカルト同士の嘘っぱちだから騙されないようにな。 ■知られざる世界権力の仕組み ロスチャイルド&ロックフェラー帝国の全貌 1992年出版(著者)ユースタス・マリンズ■ ●第二章 ソヴィエト・ロシア帝国の誕生と崩壊 P230 ◇ロシア訪問で王室メンバー並みの待遇を受けたオットー・カーンの妻◇ 1920年の1年間に、ロックフェラーは多くの親ソ的な取引に関係した。 スターリンとトロツキーのあいだの権力闘争がのっぴきらなくなっていたので、ロックフェラーは1926年10月に介入し、スターリンを後押ししてトロツキーを追放した。 後の1964年、クレムリンの足並みがそろわなくなった際、ロックフェラー家はふたたび介入し、デイビッド・ロックフェラーがただちにフルシチョフをお払い箱にした。 ジョン・D・ロックフェラーは、お抱えの広報係アイヴィ・リーに指示を出し、合衆国に共産主義を広め、ロシアとの公的関係促進運動をいっそう盛り上げるよう努めた。 その結果、運動は合衆国政府がソヴィエト・ロシアを承認した1933年に最高潮に達した。 1927年、ニュージャージー・スタンダード石油は、コーカサスの石油生産量の50%を扱う約束をとりつけたのち、ロシアに石油精製所を建設した。 ロックフェラーの会社ヴァキューム石油は、ロシア石油のヨーロッパでの販売契約をソヴィエト石油シンジケートとのあいだで締結した。 そして、ロシアに対して7500万ドルの融資を行なった。 ジョン・ムーディは1911年にこう述べている。 「スタンダード石油会社は、実際はもっとも巨大な種類の銀行である。言うならば、企業内銀行である。 ‥‥‥ほかの大銀行が行なっているのとまったく同様に、必要な借り手に多額の金を貸している。 ‥‥‥社名も『スタンダード石油銀行』というほうが通りがよい。ロックフェラー自身は銀行家でもなんでもない。 このことから、スタンダード石油はプロの銀行家たちの指令を受けて動いていたことがわかる」。 まさしく、スタンダード石油の経営は世界でもっともプロフェッショナルな銀行家、すなわちロスチャイルドの指令を常に受けてきた。 したがって、ロスチャイルドはその代理人であるクーン・ローブ商会を通じて「ロックフェラー」の財産を徹底的に監督し続けてきたのである。 1935年、スターリンはロシアにある外国の投下資本の多くを接収した。しかし、スタンダード石油の資産には手を触れなかった。 5ヵ年計画(1928年~32年、1933年~37年、1938年~42年)はいずれも国際的な銀行から融資を受けていた。 1920年代に、ロシアと取引のあった主な会社は、ヴァキューム石油、インターナショナル・ハーヴェスター、ギャランティ・トラスト、ニューヨーク生命などで、 いずれもモルガン-ロックフェラー財閥によって支配されている会社だった。 アーサー・アファム・ポープが書いたリトヴィノフの評伝には、こう記されている。 「1921年3月、英国との貿易協定が締結された。 それには、ロシアが買った機械類の代金として送られる金は、過去の負債の支払いに充てるために没収されないという取り決めがなされていた」。 これによって、英国に送られたロシア皇帝の金は、そのいとこの英王室一家によって没収されないことが保証されたわけである。 1922年7月7日リトヴィノフは、ハーグ会議においてロシア代表団がクーン・ローブ商会のオットー・H・カーンを含む金融業者の大物グループと交渉する予定であることを明らかにした。 1週間後、カーンはハーグ会議に到着して、こう語っている。 「ロシア人との会議は有益な結果をもたらし、ロシアの状況に関する英国、フランス、アメリカの側の見解と政策の統一に向けてさらに前進が見られるだろう」。 その後オットーカーンの妻が1936年にロシアを訪れた際には、まるで王室の一員が訪問しているかのような待遇を受けた。 1922年、チェース・ナショナル・バンクはアメリカ-ロシア商工会議所を設立し、対ロシア貿易および政府のロシア承認の推進に当たらせた。 その議長にはチェース副頭取のリーヴ・スライが就任した。 スライは、ハウ・サウンド、エレクトリック・ボート、ザ・エール社を始めとする多くの会社の役員であり、サンドストランドとアンダーウッドでは会長になった。 また、彼は、1917年から1919年まで合衆国燃料庁の長官も務めている。 彼の息子のリーヴ・スライ二世は、第二次世界大戦中、ドノヴァン将軍指揮下のOSS[戦略事務局、CIAの前身]の大尉であった。 チェースはエクイタブル・トラストとともに1920年代にソヴィエト連邦に対して率先して信用貸しを行なった。 チェースは、アムトルグ[1924年設立、在米のソ連の貿易会社]のメインバンクとしてロシアに対する軍事物資貸与契約による何百万ドルもの資金を扱った。 ■知られざる世界権力の仕組み ロスチャイルド&ロックフェラー帝国の全貌 1992年出版(著者)ユースタス・マリンズ■ 第二章 ソヴィエト・ロシア帝国の誕生と崩壊 P233 ◇ソヴィエトの原子力開発をスタートさせたルーズベルト◇ ルーズヴェルトはソヴィエト支援に全力を尽くした。 おそらくは、大統領補佐官のアルジャー・ヒス、ロックリン・カリー、ハリー・デクスター・ホワイトが3人揃ってソヴィエトのスパイであったことがその理由である。 ヒスの恩師は、かつてJ・P・モルガン商会にいたディーン・アチソンだった。 国務次官補A・A・バーリ二世は、1948年8月30日に下院非米活動委員会に喚問されて、「アチソンは国務省内の親ロシアグループの親分だった」と証言している。 その後アチソンはコヴィントン&バーリング法律事務所の上席共同経営者[社長]となり、共産主義政府9カ国のワシントン法律代理人の地位を会社のために獲得した。 1943年4月29日、経済戦争委員会はニューヨークのケマター社に特別ライセンスを与え、ソヴィエト購入委員会からの注文に応じてウラン酸化物200ポンド、硝酸ウラン220ポンド、 金属ウラン25ポンドといった、当時はまだ事実上世の中に知られていなかった商品を販売することを許可した。 これによって、ソヴィエトの原子力開発計画がスタートしたのである。 1944年1月29日、モスクワ駐在の特別大使W・アヴェリル・ハリマンは、国務省宛てにこう連絡してきた。 「『われわれ』は、ボストンのフォーブズ社が合衆国財務省のために彫刻した通貨印刷原版をロシアに引き渡さなければならない」。 国務省はこの要請に対して何週間も行動をとらないでいた。 3月22日になって、ハリー・デクスター・ホワイトがソヴィエト大使館でグロムイコと会い、原版はかならず届けると約束した。 それからハリマンとホワイトが二人して毎日のように、やいのせいのとせっついたために、ついに1944年4月14日になって原版がソヴィエト連邦に引き渡らせた。 ソヴィエト連邦はそれで3億ドルの通貨を印刷したが、この3億ドルはアメリカの納税者の負担で買いもどされた。 P236 ◇幻のソヴィエト帝国を支えた「冷戦」と「封じ込め」◇ 「冷戦」が始まってからも、金融業者たちはソヴィエトを支援する努力を続けた。 1967年、対ロシア貿易促進のために組合が結成されたことをニューヨーク・タイムズ紙が報じている。 その構成メンバーは、サイラス・イートン[1883年~1979年。実業家。のちに対ソ緊張緩和、反核の提唱者として活動。 反核の科学者会議であるパグウォッシュ会議の開催を後援]のタワー社、 ロックフェラーのインターナショナル・ベーシック・エコノミー社、およびロンドンのN・M・ロスチャイルド&サンズである。 イートンはジョン・D・ロックフェラーの日給2ドルの雑用係を出発点として出発した人物だが、のちにカナダ・ガス電気会社を買収する際には、 最初に仕えたジョン・D・ロックフェラー[1839年~1937年]に資金を融通してもらっている。 イートンは、仕えて間もないころに、ロックフェラーが自分にロシア問題への興味を起こさせたと述べている。 マイク・ウォレスとのインタビューで、イートンは「ソヴィエト連邦の国民は、共産主義体制のもとで完全に満足している。彼らは幸福である。 彼らがいかに幸福で、体制に対していかに献身的であるかを見て、わたしは驚いている」と主張している。 1939年のスターリンーヒトラー協定を真っ先に擁護した一人がイートンであった。 ロスチャイルド家が共産主義の教義と結びつけて考えられることは稀で、むしろ背後に隠れることを好んできた。 ロスチャイルド一族のなかでただ一人、J・P・モルガン商会で丁稚奉公(でっちぼうこう)をしたN・M・ヴィクター・ロスチャイルド[1910~90年]だけは、 ケンブリッジ時代に「アポストルズ・クラブ」に関係したことがある。 このクラブのことを、マイケル・ストレートは「構成メンバーのほとんどが共産主義者であり、同時にホモである」と評している。 このアポストルズ・クラブのよく知られたメンバーに、ガイ・バージェス、ドナルド・マクリーン、 王室絵画管理者のアンソニー・ブラント、および二重または三重スパイのキム・フィルビーらがいた。 第二次世界大戦中、MI5に勤めていたヴィクター・ロスチャイルドは、ベンティンク街五番地にあった自分のロンドンのフラットをバージェスに貸していた。 一方、ヴィクターの母チャールズ・ロスチャイルド夫人は、バージェスを自分の投資顧問として雇った。 ブラントはウォーバーグ研究所の研究員を辞めて、MI5に務めた。 彼は、ヴィクター・ロスチャイルドを自分の叔母のテレサ・メイヤーに紹介した。のちにレディ・ロスチャイルドとなる人である。 ブラントは女王陛下と「親密な」関係であったと、最近いわれている。 ロックフェラー一族は、時としてソヴィエト連邦の名門家族と呼ばれることがある。 1967年にネルソン・ロックフェラーが副大統領に指名されたとき、プラウダ紙はロックフェラー候補に対する批判者を憤然として糾弾した。 ロックフェラーに対する非難は、彼の信用を傷つけるためだけに計画されたものであり、告発の出所は極右組織であると決めつけたのである。 1971年、キエフのダートマス会議に出席したフランク・チャーチ上院議員は、そのとき見聞きしたことの驚きをこう語っている。 「デイヴィッド・ロックフェラーは、わが国では王室の人間をもてなすのと同じような待遇を受けていた。 ロシアの人びとは、自分たちがどれほどロックフェラーを崇めているかを証明しようとするかのようだ。こちらが困惑するほどものすごい。 デイヴィッド・ロックフェラーの飛行機が着陸すると、空港には群衆が出迎えにずらりと並ぶ。 彼のリムジンが通り過ぎるとき、モスクワの通りには群衆が並んで、歓呼の叫びをあげる」 またジョージ・ギルダーは、マルクス主義者たちほどロックフェラーを崇め、おだて、褒めそやすことができるものはだれもいないと述べている。 第二次世界大戦後、ディーン・アチソンはソ連への3億ドルの追加融資を認めさせるために、気違いのように議会工作を行なった。 フレデリック・A・デラノの義理の兄弟エド・バーリングは、アルジャー・ヒスの兄弟のドナルド・ヒスとともに コヴィントン&バーリング法律事務所を設立しており、アチソンはその共同経営者であった。 アチソンの議会工作がロシアへの援助を拡張させることに失敗すると、外交問題評議会(CFR)はその代案として「マーシャルプラン」を立案した。 CFRの機関誌フォーリン・アフェアーズは当時「X」(実はジョージ・ケナン[1904~2005年。ソ連通の外交官・歴史家])の執筆になる「対ソ封じ込め計画」を発表した。 封じ込め政策は1947年以降合衆国のソ連に対する公式な外交政策となったが、この政策はソ連の領土保全を保障するばかりではなく、 ソ連が武力によって抑圧している「虜因国民」を奴隷化し続けることをも保障しているのである。 ヘンリー・ルース[1897~1967年。タイム、フォーチュン、ライフ、スポーツ・イラストレイテッドなどの雑誌を創刊]は 自分の雑誌に国際的革命陽動家のための討論欄を常に提供してきたが、 このときもフォーリン・アフェアーズ誌の1947年7月号に掲載された論文をライフ誌の1947年7月28日号に転載した。 論文の鍵となる文章は、「ソ連に対する合衆国の政策はいずれも、ソ連の拡張主義的傾向に対し、長い目で見て忍耐強く、 しかし断固として警戒を怠らないように封じ込めることを主眼にしなければならない」という一文であった。 ルースのタイム誌は、ケナンを称して「アメリカの主席政策立案者」と持ち上げた。 その後ケナンは、プリンストン高等研究所[1933年設立]の研究員になった。 ケナンには同姓同名のジョージ・ケナンという叔父がいて、彼はこの叔父の名前ももらった。 叔父のジョージ・ケナンは、ボルシェヴィキ革命以前にロシアで長年にわたりジェイコブ・シフのためにマルクス主義スパイとして工作を行い、 最後には皇帝政府によって国外に追放された人物である。 ケナンが筆名に使った「X」は、社会主義工作員たちに好んで用いられた偽名である。1902年には、ニューヨークでジョン・デューイによって社会主義「X」クラブが創立された。 ちなみにデューイの社会主義的教育計画が20世紀のアメリカの教育をずっと支配してきた。社会主義「X」クラブの創立メンバーには、ほかに次の連中がいた。 ジェームズ・T・ショットウェル(国際連盟、国際連合などの創立者) モーリス・ヒルクウィット(ニューヨーク市長への共産主義候補者) チャールズ・エドワード・ラッセル ルーファス・ウィークス(J・P・モルガン配下のニューヨーク生命常務副社長) ■知られざる世界権力の仕組み ロスチャイルド&ロックフェラー帝国の全貌 1992年出版(著者)ユースタス・マリンズ■ 第二章 ソヴィエト・ロシア帝国の誕生と崩壊 P246 ◇幻のネヴァー・ネヴァーランドだった「ソヴィエト帝国」◇ ウォールストリート・ジャーナル紙は1986年3月10日号の論説欄でこう述べている。 「ソヴィエト連邦が武器販売を含む全財源からの外貨収入の年間総計が320億ドルほどしかないのに世界的帝国の地位を保っていることを、 多くの西側の政策決定者はなぜ奇異に思わないのだろうか?」 さらにウォールストリート・ジャーナル紙は、ソ連が長年にわたって銀行間市場で大きな役割を演じてきており、 ソ連が西側に所有する6つの銀行がこうした世界的銀行間資金の流れの主な受益者となってきたことを、次のように指摘している。 「西側におけるソヴィエト所有の大銀行には、北ヨーロッパ商業銀行すなわちパリのユーロ銀行には、北ヨーロッパ商業銀行すなわちパリのユーロ銀行、ロンドンのモスクワ人民銀行、 フランクフルトの東西商業銀行、およびルクセンブルク、チューリッヒ、ウィーンにあるその他の銀行が含まれる。 こうしたソヴィエト所有の銀行に預け入れられた西側の預金総額はおよそ50億ドルに達する」。 何がここで起こっているのか? 西側諸国がソヴィエト所有の銀行に何十億ドルも預金している。共産主義者と資本家のあいだの敵対関係はいったいどこへ行ったのだろうか? その答えは、幻のソヴィエト帝国なるものが存在してきたのは、ネヴァー・ネヴァーランド[現実に存在しない空想上の土地]にすぎなかったということである。 アメリカン・インターナショナル・コーポレーションは、第二次世界大戦まで米ソ間取引に黒幕的な役目を果たし続けたが、 第二次世界大戦時にはW・A・ハリマンがモスクワに陣取ってスターリンの戦争処理に指示を出し、そのお株を奪ってしまった。 スタンダード・アンド・プア社[S&P、マグロウヒルの子会社、各種統計サービスおよび出版業]が、1982年に明らかにしたところによれば、 アメリカン・インターナショナル・グループ社は資産34億ドルの保険持株会社で、その法律事務所はサリヴァン&クロムウェルである。 この保険持株会社は、CIAの対アジア工作の一環であったコーネリウス・V・スター保険のサービス網をもとにつくられた会社である。 アメリカン・インターナショナル・グループ社の現在の役員には次の人びとが入っている。 ○ハリー・カーンズ(アイゼンハワー-ニクソン大統領選出委員会議長、1969~1973年輸出入銀行総裁、現アメリカ・アジア銀行会長) ○ウィリアム・L・ヘンプヒル(ユナイテッド・ギャランティ社長、コーン・ミルズ役員[ヘンプヒル家はJ・P・モルガンと長年同盟関係にある]) ○ダグラス・マッカーサー二世(外交官) ○ジョン・I・ハウエル(J・ヘンリー・シュローダー銀行会長、ロンドンのシュローダー社会長) ○エドウィン・A・グランヴィル・メンティン(英国人、1946~1979年アメリカン・インターナショナル会長、現在スター財団理事) ○J・ミルバーン・スミス(ロンドンのロイズの理事) W・アヴェリル・ハリマンのようなアメリカの著名な実業家や政治指導者たちは、親ソ的な活動をわざわざ隠そうともしない。 駐米ロシア大使のドブルイニンは、ヘンリー・キッシンジャーの二重の役割に触れて、 「わたしは第三者として微笑みながらじっとして座っているんだ。キッシンジャーがわれわれの代わりにも交渉してくれるからね」といっている。 ロシアの独裁者ブレジネフは、どうしてソ連は中東和平に一枚噛まないのかと聞かれて、 「わが国の代表を送る必要がないからだ。中東ではキッシンジャーがこちらの人間なのだ」と答えている。 ■知られざる世界権力の仕組み ロスチャイルド&ロックフェラー帝国の全貌 1992年出版(著者)ユースタス・マリンズ■ ●第二章 ソヴィエト・ロシア帝国の誕生と崩壊 ★P251 世界権力の計画に盲従させる役目を担うCIAとFBI 連邦政府が武装した連邦警察、IRS(内国歳入庁)、FBI(連邦捜査局)、BATF(財務省アルコール・タバコ・火器局)、CIA(中央情報局)を使う目的はただ一つ、 テロによってアメリカ国民を世界権力の計画に盲従させるためである。 ほとんどのアメリカ人はこれまでに、FBIが関心を持っているのは共産主義と闘うことではなく、 アメリカの反共産主義者を叩きつぶすことなのだという苦々しい思いを否応なく抱かざるをえなかった。 いまやアメリカ人は、IRSの武装テロ集団としての機能が(政府はなんら必要としていない)資金を集めることではなく、 世界権力の計画の一部として、アメリカの市民から金を力ずくで巻き上げることだけを目的とすることに気づいている。 その意図は、アメリカ人を貧困化しテロで痛めつければ、その結果として無気力になり、 世界権力に抵抗するために団結できなくなるだろうということなのである。これが1984年の計画である。 世界権力の5人のご主人様たち[下巻・第9章330ページ参照]は、これ以外の計画を立てたとしても、 いまごろ世界戦争か世界的経済崩壊、もしくはその両方に至らざるをえない状況をつくり上げていただろう。 進行中の世界闘争における次なる敵対者として、30年をかけてソヴィエト連邦を増強してきたことについて、 スラリー・ブラットニクはフォーブス誌の1983年11月7日号で、次のように述べている。 「ニューヨークのさる裕福な弁護士は、有価証券資産としてマグダネル・ダグラス、レイセオン、ゼネラル・ダイナミックスのかなりの株を保有していたが、 『ちょっと考えただけで、気になってしょうがないんだが、軍縮競争で年間5%の削減をしようというアメリカ側の提案にロシア人が本気で応じようと決断したら、 いったいどうなるんだろう?いったんわが国が戦略兵器の削減を始めたら、防衛関連株に比べればハイテク株のほうが安定して見えるだろう。 フォーチュンのコンピューター・システムでわしは60%も損をしたが、これがこの先起こる事態のヒントになるかもしれんな』と語ったことがある」。 世界権力は「世界奴隷化」計画以外に、宗教的・政治的・経済的な計画をまったくもっていない。 寄生体は考えうるあらゆる抵抗を排除すること以外に宿主に取り憑こうとする立場を確保できない。 世界権力は、どんな思想に対しても、一方でその思想を宣伝する無数の団体を設立し、 その団体に徹底的に対抗するもう一つの団体を設立して互いに戦わせようとする[いわゆる両建て主義]。 しかし、世界権力のご主人様たちは、世界の奴隷化以外には本気になることはないのである。 まさに、R・E・マクスターがリーパー誌で次のように書いているとおりだ。 「国際共産主義の目標は、西側の国際的債務資本主義を打倒することではない。国際共産主義の目標は、 西側の国際的債務資本主義の依頼を受けて、人類を奴隷化することなのである」。 これこそ、現在の世界の状況について、われわれが知りうることのすべてであり、そして知らなければいけないことのすべてなのである。 アメリカで左翼は文系インテリの代名詞だよな 人気の左翼メディアはABC、CBS PBS、NPRとかな 右翼メディアはFOXや統一教会の超マイナーなワシントンタイムズ(ワシントンポストじゃないよ) ■知られざる世界権力の仕組み ロスチャイルド&ロックフェラー帝国の全貌 (著者)ユースタス・マリンズ 1992年出版■ 第二章 ソヴィエト・ロシア帝国の誕生と崩壊 P254 ◇1917年にロシアはイングランド銀行の植民地として合衆国に編入された◇ 1985年に本書『世界権力』の第一版を刊行した際に、「ソ連の驚異」にほぼ 全面的に依存している合衆国経済のために、わたしは最悪のケースを想定した理論を仮定しておいた。 すなわち、ロシアに革命が起これば、それはとりもなおさず合衆国経済の崩壊を意味することになるというものであった。 1992年の今日。 これまでにわれわれが見届けてきたのは、ソヴィエト帝国が崩壊し、合衆国経済はガタガタの状態にあるということだ。 当然ながら、ブッシュと結託する政府高官たちは、二つのできごとのあいだにはなんの関連もないといってアメリカ人を納得させようと躍起になっている。 だが実際には、ソヴィエト帝国なるものは、絶えて存在したこともない幻の帝国なのである。 ロマノフ家の統治のもとに確かにロシア帝国は存在した。 しかし、歴史上最大の強盗事件が起こり、「共産主義者」と自称する殺し屋どもに 世界最高の大金持だった皇帝ニコライ二世が財産を強奪され、家族ともども虐殺された。 そのあと、世界中の御用新聞を総動員して圧倒的なまでの一大宣伝活動が展開され、 「共産主義は存在する」「ソヴィエト帝国は存在する」と必死にわれわれを納得させようとしてきたのだった。 わたしは本書において、アメリカ人とりわけアメリカの納税者たちが「ソヴィエト」に財政援助をはじめとする種々の援助を行なってきたこと、 しかもその援助が1917年以来今日まで一貫して行われていることを詳しく説明してきた。 今日ブッシュ大統領は藪(ブッシュ)を叩いて、ロシアへの何千億ドルもの追加援助を引き出そうとしている。 まことに、「天が下に新しきことなし」(『旧約聖書』「伝道の書」)である。 ブッシュ大統領はただ、ジョージという名前を譲り受けた祖父のジョージ・ハーバート・ウォーカーが打ち立てた伝統を、いま実行しているにすぎない。 ブッシュの祖父は、ボルシェヴィキ革命を資金援助するために設立したウォール街の会社アメリカン・インターナショナル・コーポレーションの役員になったのだった。 それでは、1917年にロシアでほんとうはなにが起こったのだろうか? 当時モスクワにいた英国特殊情報部(SIS)のスパイたちの隠密の活動によってロマノフ政府が転覆され、一植民地政府が樹立されたということなのである。 つまり、1917年にロシアはイングランド銀行の一植民地として合衆国に編入されたのである。 ロシア皇帝の財産は、数ある使徒のなかでもとりわけ、1億4400万ドル分の連邦準備銀行の株式を購入するために使われた。 今日、その株式の正当な所有権者はロマノフ家の法定相続人なのだ。 P255 ◇ロシアの経済規模はCIAの統計数字の10分の一にすぎなかった ジョージ・オーウェルは『1984年』のなかで、1984年の世界を描いてみせた。 その世界では敵対する二つの勢力が、不断の敵対関係にあって戒厳令を継続しているが、互いに戦争には突入しない。 実際の『1984年』の世界は、一方の主役である合衆国が弱体化されて、もうこれ以上は敵に助成金を出す余裕がなくなるまで続いた。 「共産主義の脅威」の掛け声に踊らされたアメリカの納税者たちが世界権力の手先たちによって略奪され、裏切られて、 もはやロシアの共産主義のために金を出す余裕がなくなったということなのである。 ペテンが危うくバレそうになったのは、バージェス-マクリーン事件のときであった。 この英国スパイ二名はロシアに「亡命」し、続いてこの二名の統制官だったキム・フィルビーも亡命してKGB(国家保安委員会)の中将となった。 この事件は舞台裏の光景をすんでのところで暴露しそうになった。 舞台裏の世界では、英国SIS(特殊情報部)とモサド、KGB、CIAがそれぞれ独自のおとぎの国に住んでいて、 この世界には、味気のない現実が立ち入ることはけっして許されなかった。 それでは金融業者たちはなぜ、こうしたペテンにうつつを抜かしたのだろうか?それは、ごく単純な経済的な理由からである。 1917年以来ロシア国民の巨大な富と潜在的な生産性は世界の目に触れないように隠されてきた。 偉大なる競争相手は手錠をかけられ、刑務所送りになっていたのだ。 世界の陰謀家たちが今日直面している問題は、どうやってロシアを抑えつけたままにしておこうか?ということなのである。 この茶番劇がグレートホワイトウェー[ニューヨークのブロードウェー中ほどの劇場集中地区]で これほどのロングランを続けた理由の一つは、CIAがニセのロシア像をせっせと売り込んだからだ。 われわれも現在は知っているが、ロシア経済の規模はCIAが合衆国政府役人に提供してきた年間統計数字の10分の1にすぎなかった。 ヘンリー・ローウェンやチャールズ・ウルフなどの金融評論家が ソ連の生産高は合衆国の3分の1以下などと論じると、CIAの統計専門家たちが大声で反対して黙らせてきたのだ。 ロシアが崩壊の兆しを見せると、世界権力の指導者たちが急遽モスクワに派遣されて破滅を食い止めようとした。 ブッシュ大統領みずから日米欧三極委員会(TC)に代わって独裁体制を温存するために何度もモスクワを訪問した。 1991年8月1日にキエフでブッシュは、「ソ連はいま自己を改革しているところなのだから」善良なソヴィエト市民たれとウクライナ人に勧告した。 その18日後にソ連は崩壊した。TCにとってはさぞや大打撃だったことだろう。 ジョージ・ブッシュのゴルバチョフに対する愛情をもってしても、歴史的事実を覆い隠すことはできなかった。 つまり、アメリカ人納税者から取り立てたカネをワシントンから恵んでもらって生きのびてきた「悪の帝国」は、1917年から1990年まで一度も存在しなかったという事実である。 合衆国が景気後退に陥ったときソヴィエト・ロシアも同時に崩壊したことが、それを如実に物語っている。 アメリカ右翼が多いのは特に南部州(最後まで奴隷制を支持していたあたり) 今もKKK(クークルックスクラン)ていう黒人狩り秘密結社がある地域な 低学歴や農場関係者が多いよな ホワイトトラッシュ(白いゴミ)て言われがち ブッシュ大統領はソヴィエトのKGB体制を救済するため、あまりに何度もロシアを訪れたので、自国での大統領再選に深刻な影響を受けている始末である。 ブッシュは何ヶ月も懸命になってゴルバチョフを世界権力のKGBの手下として権力の座にとどめようと尽力した。 ブッシュはボリス・エリツィンをせせら笑い公然と馬鹿にする一方で、ゴルバチョフをやたらと褒めそやした。 1991年12月26日の全国民向け挨拶で、彼はこう言った。 「ミハイル・ゴルバチョフが長年にわたって継続してきた世界平和への貢献と、彼の知性、洞察力、そして勇気に対し、わたしは彼に感謝の気持ちを申し述べたいと思います」 これより前の1991年10月30日にUSAツゥデー紙は、ブッシュの言葉を引用している。 ロシアで日々追放の危険に直面しているゴルバチョフに「君はまだ主人なのだ」と言って安心させたというのである。 ロシア国民はTCを代表するブッシュの推薦を無視してエリツィンを選んだが、エリツィンは世界権力の野心的なスパイたちによって瞬く間に包囲されてしまった。 年をとって信用をなくしたトロツキストたちが、隠れ家からのこのこと這い出してきて、「おれたちはまだ大物なんだぞ」とわめいている。 ワシントン・ポスト紙は、エリツィンのアメリカ代理人を自称する者たちの名前をいくつか挙げている。 その一人がアレン・ワインシュタインで、彼は「ワシントンのエリツィン派」を自称している。 さらに、パロアルトのフーヴァー研究所の大勢の難民たちがいる。 ワシントンDC出身のO・ロイ・チョークという名前の路面電車運転手も自称エリツィンの代理人である。 中核派サイトでオンラインワークショップみたいなサイト作って欲しい 共鳴する人が増えるんじゃね? 訂正 中核派サイトでオンラインワークショップみたいなサイト作って欲しい 共鳴する人の参加が増えるんじゃね? 北欧社会主義良いんじゃね? 世界で最も幸福な国ランキング・トップ10 [2023年版](海外) [首都圏の虎★] https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1680398890/ >>262 世界都市ランキングも竹中平蔵がやってたし、 嘘吐きDS一味がやっているランキングなんか無意味よw 竹中のだったかw これもあるよ 【少子化】「子供は“嗜好品”“贅沢品”」…結婚・子供を諦め始めた若者たち ★3 [おっさん友の会★] https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1680401482/ 戦前の日本て身分社会の封建制度だろ そんなタリバン社会にタイムトリップしたくないわ 日中戦争のシナリオを話すDSの重鎮ジョージ・ソロス 「改憲し(緊急事態条項)海外参戦が必要。 改憲し海外参戦出来る国になる事が日中戦争に必要不可欠」 DSにとって日本はアメリカの植民地にしておく必要があるから憲法9条改正ではなく緊急事態条項を成立させて、 ウクライナと同様に日本を代理で戦争させるわけです。 https://twitter.com/mama111777/status/1556189162835185665 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>266 江戸時代までは確かにそうだったとも言えるがな 民主主義を偽装し、国家転覆 @WindyPaddy 民主主義を口実に国を破壊し果実をもぎ取る …ソロス本人がそう言っています ジョージ・ソロスは、2015年のアジアソサエティでの対談で、これまでの彼らの手口を暴露したうえで、 次はロシア崩壊を狙っていると言い、そのためにウクライナを利用していると語っていた https://twitter.com/WindyPaddy/status/1570295911246630913?s=20&t=jvHGeJUsILgv-zA7wj7rlw https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>268 つか明治に儒教取り入れて家制度で縛りまくった 最下層が女子供で人権がなく、しつけのために女子供を殴り殺してokだった それ。儒教は権力者が都合よく自分ら以外を奴隷化し支配するための洗脳ツール >>264 壺教祖「日本人口を半減させてやりたい ↓ 自民党小泉進次郎「日本の人口は半分ぐらいがちょうど良い >>271 よくもそんなデタラメが言えるな。 嘘も100回言えば真実になるの47チョン魂じゃないか。 >>271 これがお隣の国にある本物の儒教国家だ 当時の朝鮮半島と日本と朝鮮半島の関係、日本の朝鮮半島に対する姿勢を、第三者であるイギリス人女性の客観的な視点から書かれた朝鮮紀行 ~英国婦人の見た李朝末期。 この書が発行されたのは1897年のために、戦後の歴史観を捻じ曲げた戦勝国、東京裁判史観、連合国史観の入る余地が当然なく、 著者であるイザベラ・バード自身が見て感じた事実が正確に記述されているために、戦後に戦勝国、連合国や韓国、中国によって創られた嘘、捏造まみれの歴史などとは まったく比較にならない貴重な歴史的資料である。 朝鮮紀行 ~英国婦人の見た李朝末期 著者=イザベラ・バード http://rakukan.net/br01.html 『朝鮮紀行』(ちょうせんきこう、Korea and Her Neighbours)はイザベラ・バードが1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて、 4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れた旅行の記録。当時の朝鮮の風俗、社会、政治情勢などを知ることのできる歴史的資料である。1897年に出版された。 以下「朝鮮紀行」より、重要な部分を抜き出し引用しました。 (P32) 朝鮮の言語は二言語が入り混じっている。知識階級は会話のなかに漢語を極力まじえ、いささかでも重要な文書は漢語で記される。 とはいえそれは1000年も昔の古い漢語であって、現在、清で話されている言語とは発音がまるで異なっている。 朝鮮文字である{ハングル}は、教養とは漢籍から得られるもののみとする知識層から、まったく蔑視されている。 (P58) 城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、 紹興〈シャオシン〉へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのだから!都会であり首都であるにしては、 そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。 路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、 おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。 悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、 疥癬〈かいせん〉持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしている。 (P64) 南山の斜面には簡素で地味な白い木造の日本公使館があり、その下には茶屋、 劇場をはじめ日本人の福利に不可欠なさまざまな施設を備えた、人口ほぼ5000人の日本人居留地がある。 ここでは朝鮮的なものとはきわめて対照的に、あくまで清潔できちょうめんで慎ましい商店街や家々が見られる。 女は顔を隠していないし、着物に下駄ばきの人々は日本と同じように自由に動きまわっている。 ここではまた下っぱの兵士や憲兵、それにスマートな帯剣の将校も見られる。 将校は一定間隔で警備を交代するが、朝鮮では反日感情が根づよいためこのような警戒が必要で、 日本公使館員が戦いをまじえつつ海まで逃げざるをえなかったことが二度あった。 (P83) ある意味でソウルは朝鮮そのものである。 土壁のあばら家や軒の深い茶色の屋根、汚物をたたえて緑色にぬめり悪臭を放つどぶのある、 ソウルのみすぼらしいひとつをとっても、地方のどんな町や村にもある通りの典型だといえる。 (P85) 朝鮮人にとって、ソウルは生活に値する唯一の場所なのである。 とはいえ、ソウルには芸術品がまったくなく、古代の遺物はわずかしかないし、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。 他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ 無関心だったため寺院もないし、いまだに迷信が影響力をふるっているため墓地もない! ソウルには公認の寺院がひとつもなく、清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある、堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない。 (P111) 小集落はべつとして、漢江沿いの村々には学校がある。ただし学校といっても私塾である。 家々でお金を出し合って教師を雇っているが、生徒は文人階級の子弟にかぎられ、学習するのは漢文のみで、 これはあらゆる朝鮮人の野心の的である官職への足がかりなのである。ハングルは軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない。 (P137) 朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。 両班はみずからの生活のためには働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、 妻がこっそりよその縫い物や選択をして生活を支えている場合も少なくない。 両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。 両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、 おおぜいのお供をかき集められるだけかき集めて引き連れていくことになっている。 本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。 従者たちは近くの住民を脅かして飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。 (P170) そして悪魔祓いの儀式が終わったあと、その一部が病を治す薬として病人に与えられるが、往々にしてこれは病状を深刻に悪化させる。 なにしろ腸チフスや赤痢にかかった病人に豚肉やキムチを食べさせるのである! (P211) 日本と土壌がきわめてよく似ているのだから、しかも朝鮮は気候には日本よりはるかに恵まれているのだから、 行政さえ優秀で誠実なら、日本を旅した者が目にするような、ゆたかでしあわせな庶民を生みだすことができるであろうにと思う。 長安寺から元山にいたる陸路の旅のあいだには、漢江流域を旅したときよりも朝鮮人の農耕法をを見る機会に恵まれた。 日本人のこまかなところにも目のいく几帳面さや清国人の手のこんだ検約ぶりにくらべると、朝鮮人の農業はある程度むだが多く、しまりがない。 (P223) 日中のいちばん暑い盛りにわたしたちは発展中で活気のある町元山の、汚れて狭い路地とでこぼこした商店の屋根がひしめき合う街道に着いた。 路地の悪臭はすさまじく、土ぼこりはまったくひどいもので、哀れな犬は大量にいる。また大量のしたたる肉片がひなたで黒ずんでいくのには完全に胸が悪くなった。 屠殺方法のちがいが肉をこうさせてしまうので、ソウルでもほかの町でも外国人は肉は日本人の肉屋で買わざるをえない。 以下略 わたしたちは朝鮮国内で最も整然として魅力的な街に入っていた。1880年に日朝貿易に対して、1883年に海外貿易全般に対して開港した元山条約港の日本人街である。 通りは広くて手入れが行き届き、波止場は整然とし、家々はこぎれいかつ丈夫で、つんと取り澄まして諸事にうるさい日本人の性格をあらわしている。 和洋折衷の大きくてとても目立つ日本領事館、日本郵船会社「NYK」の社屋、定評のある日本の銀行、こぎれいな読書室のある税関の建物、 西洋の品物が手軽な値段で購えるこぎれいな日本の商店、洋装の教師のいる大きな学校、ちょこまか動くと矮人の男たち、 歩き方はぎくしゃくとしているもののベールなどで顔を隠さない、しとやかな女たち。こういったものを特徴とするこの気持ちいい日本人居留地は、 幸運にも歴史を持たず、その発展は急速ではないものの、平和でおだやかで、朝鮮その他の外国との軋轢に損なわれてはいない。 先ごろの戦争「日清戦争」ですら、清国領事とわずかにいたその同国人を退去させたとはいえ、それは人口からいえば微々たる数で、この街にはこれといった爪痕を残さなかった。 例外といえば、日本人の支払う膨大な賃金のおかげで、荷役夫が穴あき銭(朝鮮の唯一の通貨)ではなく円でギャンブルができるようになったことくらいである! (P265) 同日、日本は清に対してみずからも進軍の意志があることを明らかにした。清国軍葉提督は3000の兵を率いて牙山に上陸し、また日本軍は済物浦とソウルを武力で占領した。 急送外交文書で清は二度朝鮮を「わが国の属国と」と呼んでおり、これに対して日本は、大日本帝国政府は朝鮮を清の属国と認めたことは一度としてないと答えている。 ついでに朝鮮の統治に関して、日本から次の三項目を日清合同で行ってはどうかという提案があった。①財政管理の調査、②中央官吏、地方官吏の選定、 ③国防および国内平和維持を目的とする訓練を受けた軍隊の創設、がそれである。 これに対して清は、朝鮮は自力で更生すべきであり、日本軍はいかなる折衝も求めず撤退すべきであると答えたが、日本軍はこの提案を拒絶し、 7月14日、軍をこれ以上朝鮮に送れば、好戦的と行為とみなすと清に通告した。7月20日、日本は朝鮮国王に対し清国軍への撤退命令を要求し、 それに応じなければ、「決定的手段」を講ずると威嚇した。 7月23日、かねてから威嚇していたとおり「決定的手段」に訴えて王宮を教習占拠し、事実上国王を幽閉してしまった。 7月30日の時点ですでに朝鮮は清との協定を破棄すると宣言したが、これはすなわち自国に対する 清国の宗主権をもはや認めないと言っているのと同じである。8月1日、宣戦が布告された。 1894年8月1日に宣戦が布告されると、事態は急速に悪化した。日本が制海権を完全に掌握していたため、清国軍は満洲を通って進軍せざるをえず、 吉林、チチハルその他の北部都市から集めた、訓練を受けていない満州族兵士が一日1000人の割りで奉天を通過していった。満州族兵士は南進する途中、 手当たり次第にものを略奪し、料金も払わずに宿屋を勝手に占領し、宿の主人をなぐり、キリスト教へのというより西洋文明への反感からキリスト教聖堂を荒らした。 (P274) 日本軍が渤海沿岸に上陸したといううわさが流れ、極東ではほぼ二週間にわたってこのうわさが信じられた。 以下略 大海戦が勃発するといううわさが毎日のように飛ぶなかで、何週間かかけてウラジオストク行きの汽船を探したが、ようやく見つかったのは、 乗客ひとりだけならとしぶしぶ応じてくれたドイツの小型船しかなかった。そして悪天候にもまれた船で快適とは程遠い5日間をすごしたのち、 ちょうど菊が満開の季節を迎え、まっ赤な紅葉の燃えるように美しい長崎で、わたしはそれまでとはがらりと変わった気持ちのいい一日を味わった。 照明もあり、清潔で、完璧なまでに治安もよく、道路には穴ぼこもごみの山もない、矮人と人形のこぎれいな街は、清国のほとんどどの都市ででも外国人居留地の 外に出さえすれば見られる、吐き気を催すような不潔さやみすぼらしさとは、胸のすく対照を示していた。 (P289) ロシア領満州を訪れた主な目的は、ロシア国旗のもとに安住の地を求めた推定2万人におよぶ朝鮮人はどうしているのか、 というずっと気にかかっていた疑問を自分の手で調べてと解くところにあった。 (P319) 日本軍に敗れた清国軍と清国人は撤退して清に変わり日本が実質的な支配権を得た朝鮮 シーズン最後の日本の汽船でウラジオストクを発ったわたしは、元山で二日すごした。元山はほとんど変わっておらず、 変化といえば、町並みのむこうの山が雪をかぶっていること、朝鮮人が戦時中に日本人の払ったとほうもない労賃で裕福になったこと、 商取り引きに活気があること、木造の哨舎に日本人の番兵が立って平穏な通りを警備していることくらいだった。 以下略 1895年1月5日、長崎を経由して済物浦に着くと、港は前年6月の喧騒や活気と奇妙なコントラストを見せていた。 以下略 かつて大きな商店が立ち並び、雑踏にあふれ、取り引き交渉のわめき声が騒々しく、昼夜分かたず太鼓や銅鑼や爆竹の音が鳴りやまなかった清国人居留地は、 森閑として人気がなくイータイに着くまで清国人には一人も出会わなかった。 一軒の商店が思い切って商売を再開していた。夜間には雑踏のざわめきや物音や照明や浮かれ気分の代わりに、 閉ざした鎧戸の向こうからかすかなあかりがさびしくもれてくるばかりだった。 日本軍による占領は済物浦のこの区域を中世の悪疫のように壊滅してしまったのである。 日本人街と海岸沿いは殷賑をきわめていた。浜には入ってきた貨物と出て行く貨物が積みあげられている。 通りは荷物を積んだ牛やクーリーが大量に行き交うばかりか、山積みにした豆や米を路上で計っては袋につめているので、 人がやっと通れる混雑ぶりである。物価は高く賃金は2倍以上になっており、「搾取」はなくなって朝鮮人は自発的に働いていた。 わたしは馬でソウルに向かった。雪が降りどおしに降っていた。お供がいらないほど事案はよく、オリコルまでは馬夫もつけなかった。 途中、私が立ち寄ったのは日本の郵便局で、情勢の変化をなにも知らずに郵便局に入ったわたしは、親切な日本兵に迎えられ、お茶と火鉢でもてなされた。 ソウルにいたる道路は境界に日本の測量技師の手で鉄道敷設用の杭が打ってあり、荷物を運ぶ人と牛が頻繁に行き来していた。 (P322) その前年の冬の不況は終わっていた。日本は支配的な立場にあった。この首都に大守備隊を置き、内閣の要人数名が国の名代として派遣され、日本の将校が朝鮮軍を訓練していた。 改善といって語弊があるなら変化はそこかしこかにあり、さらに変化が起きるといううわさがしきりにささやかれていた。表向き王権を取り戻した国王はそのような状況を容認し、 王妃は日本人に対して陰謀をいだいているとうわさされたが、井上馨伯爵が日本公使を努めており、伯爵の断固とした態度と臨機応変の才のおかげで表面上は万事円滑に運んでいた。 1895年1月8日、わたしは朝鮮の歴史に広く影響を及ぼしかねない、異例の式典を目撃した。 朝鮮に独立というプレゼントを贈った日本は、清への従属関係を正式かつ公に破棄せよと朝鮮国王に迫っていた。 官僚腐敗という積年の弊害を一掃した彼らは国王に対し、<土地の神の祭壇>前においてその破棄宣言を準正式に執り行って朝鮮の独立を宣言し、 さらに提案された国政改革を行うと誓えと要求したのである。小事を誇張して考える傾向のある国王は自分にとってきわめて嫌悪を感じさせるこの誓告をしばらく延期しており、 式典の前夜ですら、代々守ってきた道をはずすことはならぬと祖先の霊から厳命される夢を見て、式典執行におびえていた。 しかし井上伯爵の気迫は祖先の霊を凌駕し、北漢山のふもとの鬱蒼とした松林にある、朝鮮で最も聖なる祭壇において、王族と政府高官列席のもとに誓告式は執り行われた。 (P327) 現在朝鮮の改革は日本の保護下ではおこなわれていないとはいえ、進行中のものはほとんどどの段階においても 日本が定めた方針に則っていることを念頭に置かなければならない。 日日新聞は井上伯が朝鮮に関し「王室と国しかわたしの眼中にはなかった」とい述べたと報じている。 1895年当初においてはこのような結論が正当だったのであり、おなじ結論に達したわたしは井上伯のように申し分のない権威に擁護されていることをうれしく思う。 (P342) 1895年1月、ソウルは奇妙な状態にあった。「旧秩序」が変わりつつあるのに、新しい秩序は生まれていなかった。 陸海戦ともに勝利した日本は、戦前、清に協力を要請していた国政改革を朝鮮に強要する態勢にあった。 1894年7月に日本軍が王宮を占拠して以来、国王は「棒給をもらうロボット」にすぎず、またかつて権勢を誇った閔一族は官職から追放されていた。 日本は全省庁の監督責務を引き受け、腐敗した行政官に公正を強いる構えでいた。 1894年9月17日、平壌で清国軍を敗退させた日本に、目的実行をはばむものはなにもなかった。 以下略 とはいえ、改革事業は予想をはるかに超えて難航し、井上伯がほぼにっちもさっちもいかない状態であることは明らかだった。 伯爵は「使える道具が何もない」と考え、それをつくれたらという希望のもとに、上流階級の子弟多数を2年の予定で日本に留学させた。 最初の1年は勉学に努め、次の1年は官庁で実務の正確さと「道義の基本」を学ばせるのがねらいである。 以下略 朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。 一般大衆は、本当の意味での愛国心を欠いているとはいえ、国王を聖なる存在と考えており、国王の尊厳が損なわれていることに腹を立てていた。 官吏階級は改革で、「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。 政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、 首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層ををしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。 このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。 名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。 公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。 そして盗む側には官界を膨大な数の人間が含まれる。 「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。 以下略 かくして「旧秩序」は日本人顧問の圧力下で日々変化を見せており、概してその変化は良い方向を目指したものであったとはいえ、 制定ずみもしくは検討中の改革の数があまりに多いため、なにもかもが暫定的で混沌としていた。朝鮮は清と日本のあいだで「迷って」いた。 清が勢いを盛り返したら「憎まれる」のではないかと、日本の提案する改革に心から同意することもできず、 また日本の天下がいつまでもつづくのではないかと思えば、改革に積極的な反対もできなかったのである。 (P350) わたしが朝鮮を発った時点での状況は次のようにまとめられよう。日本人は朝鮮人を通して朝鮮の国政を改革することに対し徹頭徹尾誠実であり、 じつに多くの改革が制定されたり検討されたりしていた。また一方では悪弊や悪習がすでに排除されていた。国王はその絶対君主権を奪われ、 実質的には棒給をもらう法令の登録官となっていた。井上伯が「駐在公使」の地位にあり、 政治は国王の名において10省庁の長官でなる内閣に司られていたが、その中には「駐在公使」の指名する者が数人含まれていた。 (P364) 王妃暗殺からほぼ1ヶ月、王妃脱出の希望もついえたころ、新内閣による政治では諸般の状況があまりに深刻なため、各国公使たちは井上伯に訓練隊を武装解除し、 朝鮮独自の軍隊に国王の信頼を得るに足るだけの力がつくまで日本軍が王宮を占拠するよう勧めて、事態を収拾しようと試みた。 日本政府がいかに列強外交代表者から非難を受けていなかったかが、この提案からわかろうというものである。 しかし井上伯は日本軍は武装して王宮を再度占拠するという方策は、国王の身の安全を確保するという目的のためとはいえ、 重大な誤解を受けやすく、またきわめて深刻な紛糾を招きかねないと考え、即答を避けた。 列強が日本に対してはっきりと要求しないかぎり、このような発案が考慮されるはずはなかった。 電信機が待機し、しかるべき根回しが行われ、11月7日に北部への旅行に発ったわたしは、平壌に着いたとき、 諸外国公使の見守る中で重大なクーデターが首尾よく遂行されたというニュースが待っているものと思っていた。 ところが日本は井上伯と新公使の小村氏がふたりして働きかけたにもかかあらず、王宮占拠を行わず、訓練隊は相変わらず権勢を誇り、国王は軟禁されたままだった。 なかでも日本の干渉を最もつよく勧めたのはロシア公使なのであるから、日本が各国公使の提案を受け入れていれば、 現在のようにロシアが朝鮮に対して圧倒的な影響力を持つような事態も避けられたのではあるまいか。 たしかにロシア政府は訓練隊を武装解除させて国王を守るよう日本にはっきり要求したのである。 その要求を断った日本政府が結果的にロシアに干渉を許してしまうことになるのも身からでたさびといわざるをえない。 11月のあいだに新しい国策に対する不満は朝鮮国中で増大し、情勢は緊迫の度を深めた。 各国代表ばかりでなくあらゆる階層の国民から、10月8日の事件を調査すべきだ、王妃はどこかに身を隠しているという作り話でごまかすなという声が高まり、 内閣もしぶしぶ何らかの手を打たねばならなかった。 (P404) 平壌は猛襲を受けたわけではない。市内では実際の戦闘はなく、敗退した清国軍も占領した日本軍も朝鮮を友邦として扱っていた。 この荒廃のすべてをもたらしたのは、敵ではなく、朝鮮を独立させ改革しようと戦った人々なのである。 「倭人は朝鮮人を殺さない」ことが徐々に知られるようになり、多くの住民は戻ってきていた。 以下略 そのあとの占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物資に対してはすべて順当な代金が支払われた。 日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるをえず、また、日本軍が引き上げれば、訓練隊がのさばることもよくわかっていた。 訓練隊は日本人から教練と武器を受けた朝鮮人の連隊で、すでに人々に暴力をふるったり物を盗んだりしはじめており、行政当局に公然と反抗していた。 わたしが二度目に訪れた時、目抜き通りはあちこちで建物の解体と建築が行われ、大わらわの様相を呈していた。 日本の商人が商業用の一等地をすべて買い上げ、小さくて暗くて低い朝鮮の店舗を大きくて明るくて広々してこぎれいな日本の建物に改築していたのである。 (P432) 気候は素晴らしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱と盗賊団は少ないとくれば、朝鮮人はかなり裕福でしあわせな国民であってもおかしくない。 もしも「搾取」が、役所の雑卒による強制取立てと官僚の悪弊が強力な手で阻止されたなら、そして地租が公正に課されて徴収され、 法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民はまちがいなく日本の農民に負けず劣らず勤勉でしあわせになれるはずなのである。 しかしこの「もしも」はあまりにも大きい!どんな産業分野にせよ、勤勉に働けば利益の得られることが保証されれば、無気力無関心な人々も変身するはずである。 そのための改革は日本によって行われてきたが、日本も自由裁量権があたえられていたわけではなく、また改革に着手した(とわたしは心から信じる) ものの、役割を果たし調和のとれた改革案を立てるには未経験すぎた。 それに改革案が成立したにせよ、それを実行すべき官僚たちがほとんど例外なく因習と慣例の両方から堕落してしまっている。 改革は断続的断片的で、日本は枝葉末節にこだわって人々をいらだたせ、自国の慣習による干渉ををほのめかしたので、 朝鮮を日本の属国にするのが目的だという印象を、わたしのみるかぎり朝鮮全土にあたえてしまった。 (P435)朝鮮の女性の地位 朝鮮の下級階層の女性は粗野で礼儀知らず、日本のおなじ階層の女性のしとやかさや清国の農婦の節度や親切心からわおよそほど遠い。 着ているものは汚れ放題で、夜遅くまで休みなく洗濯をするのは自分たちでも、きれいな衣服を着るのは男の専売特許と言わんばかりである。 (P441) 郡庁所在地の慈山でわたしたちは徳川へ北上したときの分岐点にもどった。 以下略 町の人々からは、清国兵は情け容赦なくものを盗む、ほしいものは金も払わずに奪い、女性に乱暴を働くという悲痛な被害の話を聞いた。 前に私達は慈山の隣村ウチンガンの渡し場で大同江を渡ったが、この村は朝鮮人が恐怖に駆られて逃げ出してしまい、 53人の清国人が占拠して重要な駐屯地となっていた。 日本の偵察兵ふたりが対岸にあらわれて発泡すると、清国軍派遣隊はばらばらに逃げ出したものである! 慈山でも他と同様、人々は日本人に対してひとり残らず殺してしまいたいというほど激しい反感を示していたが、やはりほかのどこでもそうであるように、 日本兵の品行のよさと兵站部に物資をおさめればきちんと支払いがあることについてはしぶしぶながらも認めていた。 (P453) ダレ神父によれば、朝鮮人は節度の意味を知らず、それでいながら率直さにははなはだしく欠ける。 男たちは仲間とお互いの家を行き来して毎日を暮らす。家庭生活はない。 奥の住まいにいる女たちは同性の客を迎え、また娘たちもそこにいる。 男の子は幼い頃から男の住まいに移され、そこで耳に入る会話から、自尊心ある男は女を蔑視せねばならないと学ぶのである。 (P462) 朝鮮人は正真正銘の愛国心にははなはだしく欠けるとはいえ、愛国的傾向は強い。 慣習であるから、「まげ」の廃止は前にもおもにアメリカ帰りの朝鮮人から提唱され、日本人の支持を得て内閣で討議されたことがあったが、 一般の反発がすさまじく、政府は強要はできなかったのである。 (P469) 王妃のつよい影響力と反逆的将校の粗暴な支配から解放された朝鮮国王がいまにその自由を用いたかは、ここに記すまでもない。 以下略 9月には日本の保護下で組織された内閣にかわり14名のメンバーで構成する議政府が設けられた。 これは旧体制にある程度戻る変化だった。日本がその隆盛時に悪弊を改めるために行った試みは大部分が廃止された。 国内は不穏で東学党に変わり「義兵」が出現した。地方長官職その他の職位を売買する有害きわまりない習慣は多少抑制されていたが、 宮内大臣をはじめ王室の寵臣は破廉恥にもこの習慣を再開した。 また国王自身、潤沢な王室費がありながら、公金を私的な目的に流用し、安全な住まいにおさまってしかも日本人その他の支配から自由になると、 さまざまな面で王朝の因習に引き返してしまった。王権を抑制する試みがあったにもかかわらず、 国王の勅令が法であり国王の意思を絶対とする絶対君主制にもどってしまったのである。 一方、日本は徐々に撤退し、また撤退を余儀なくされ、日本が朝鮮で失った影響力はことごとくロシアの手に渡った。 (P474) 朝鮮国内は全土が官僚主義に色濃く染まっている。 官僚主義の悪弊がおびただしくはびこっているばかりでなく、政府の機構全体が悪習そのもの、 底もなければ汀もない腐敗の海、略奪の機関で、あらゆる勤勉の芽という芽をつぶしてしまう。 職位や賞罰は商品同様に売買され、政府が急速に衰退しても、被支配者を食い物にする権利だけは存続するのである。 日本人が「改革」と呼ぶ新しい秩序は1894年7月23日に日本兵が景福宮を武力で占拠した時点からはじまった。 相ついで発布された(必ずしも施行はされなかったが)改革法令は日本公使が主導したもので、まもなく到着した日本人「顧問」が仔細に調整した。 日本は朝鮮式機構の複雑多岐にわたる悪弊と取り組み、是正しようとした。 現在行われている改革の基本路線は日本が朝鮮にあたえたのである。 日本が朝鮮の政治形態を日本のそれに同化させることを念頭に置いていたのは当然であり、それはとがめられるべきことではない。 以下略 1894年7月、大島氏は官報を鮮明な活版印刷で発行するという有益な刷新を行った。 そして翌年1月には漢字と「無知な者の文字」とされていた{ハングル}の混合体官報に用いられ、一般庶民にも読めるようになった。 (P493) 朝鮮の教育改革計画はもともと日本人による改革時代に発案されたもので、初等学校制度、直接成果の出る師範学校、中等学校の創設がその内容である。 以下略 相当数の初等学校も同様で、1000人を超える男の子が算数、地理、朝鮮史の初歩や他の文明諸国の政治体制のあらましを学んでいる。 77人の青年が官費で日本に留学しており、外国語の習得にはかなりな成果をあげているが、数学の適正と理論力に欠けるといわれている。 全体として、朝鮮の教育の前途は見込みなしというものではない。 (P500) 公金を横領するための技巧や策略にかけては、朝鮮人はことのほか創意と才能を発揮し、朝鮮の官僚の不正行為ほど根絶しにくいものはない。 (P502)朝鮮のシャーマニズム 朝鮮の都市には寺院や聖職者の姿がない。家々には「神棚」がなく、村祭りには神輿もなければ、偶像を運ぶ行列もなく、 婚礼や葬儀では聖職者が祝福をしたり冥福を祈ったりすることがない。 (P538) いずれにしても、ロシア公使館に遷幸して以来、国王が享受した自由は朝鮮にとっては益とならず、 最近の政策は、総じて進歩と正義をめざしていた日本の支配下で取られた政策とは、対照的に好ましくない。 昔ながらの悪弊が毎日のように露見し、大臣その他の寵臣が臆面もなく職位を売る。 以下略 また日本の支配力からも解放され、さし迫った身の危険もなくなると、国王はその王朝の伝統のうち最悪な部分を復活させ、 チェック機関があるにもかかわらずふたたび勅令は法となり、国王の意思は絶対となった。 (P560) 宗主国中国の影響のもとに、朝鮮の両班たちは貴族社会の全体的風潮である搾取と暴政をこれまで事実上欲しいままにしてきた。 この点について日本は新しい理論を導入し、庶民にも権利はあり、 各階級はそれを尊ばなければならないということを一般大衆に理解させ、無料新聞も同じ路線をとった。 朝鮮の農民には日本と西洋の指導手段を通して、食いものにされるばかりが自分たちの運命ではない、 自分達も市民としての権利を持ち、法的見地から見た平等に値し、収入を守られるべき存在なのだということが徐々にわかりはじめてきたのである。 この3年間にあった朝鮮に有益な変化のうち重要性の高いものをまとめると、つぎのようになる。 清との関係が終結し、日清戦争における日本の勝利とともに、中国の軍事力は無敵であるという朝鮮の思いこみが打破され、 本質的に腐敗していたふたつの政治体制の同盟関係が断ち切られた。 貴族と平民との区別が少なくとも書類上は廃止され、奴隷制度や庶子を高官の地位に就けなくしていた差別もなくなった。 残忍な処罰や拷問は廃止され、使いやすい貨幣が穴あき銭にとって代わり、改善を加えた教育制度が開始された。 訓練を受けた軍隊と警察が創設され、済物浦から首都にうたる鉄道敷設が急ピッチで進められており、国家財政は健全な状態に立て直され、 地租をこれまでの物収から土地の評価額に従って金納する方式に変えたことにより、官僚による「搾取」が大幅に減った。 広範かつ入念な費用削減が都市および地方行政府の大半で実施された。 (P563) それでも朝鮮で1年近くをすごし、そこに住む人々をおもな研究対象とした結果、 わたしは1897年の明らかに時代退行的な動きがあったにもかかわらず、 朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには左に掲げたふたつの条件が不可欠である。 Ⅰ 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。 Ⅱ 国王の権威は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない。 以上、わたしはもっぱら朝鮮の国内問題、現状、一般大衆の社会的あるいは商業的な向上の見通しについて書いてきた。 第37章 最後により(P571) ざっとではあるが、以上が1897年末時点での朝鮮における政治情勢である。 朝鮮は長くつづいた中国との緊密な政治的関係を絶ち、日本から独立というプレゼントをもらったものの、その使い方を知らずにいる。 イギリスは見当がつかなくもない理由から、朝鮮情勢には積極的に関わらなくなっている。 他のヨーロッパ列強はこの地域の保護になんら関心を示していない。 そして朝鮮の領土の保全と独立は、極東における利害関係が敵対しているといって語弊があれば、対立している帝国主義列強のなかでも、 最も忍耐強い国と最も野心的な国のなすがままとなっている。 朝鮮の運命をめぐってロシアと日本が対峙したままの状態で本稿を閉じるのはじつに残念な思いである。 ■歴史再検証 日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実■ 崔基鎬著 まえがき 私の結論を一言で述べれば、現在の韓国の教科書が教えていることと、日本統治の実態とは、あまりにもかけ離れているということだ。 つまり韓国側の歴史観は、歪曲がはなはだしい。独りよがりで被害者意識に凝り固まり、事実をとらえようとはしていない。 ご承知の通り、韓国で植民地時代の日本統治について肯定的にとらえようとするのは、相当の覚悟がいる。 極端な話、身の危険も覚悟しなければならない。だが私は、この本でどうしても言わなければならない。 作家・李光洙は、「民族改造論」において、民族最大の欠点は「ウソつきで人をだますこと」だと述べているが、歴史の歪曲、 身勝手な解釈はまさに韓民族の宿痾であり、これがもとで幾度実態を見誤り、国を滅ぼしてきたかしれない。 感情に流されることなく歴史に何があったかを正しく見つめ、そこから教訓をすくい取るということが、この国にはあまりにも欠けている。 簡潔にいえば、李朝に500年にもわたって支配されてきた併合前のチョウセン半島の実態を、私たちは、あまりにも知らなすぎる。 もっとも分かりやすい例でいえば、21世紀のこの時代にあって、大多数の国民が飢餓に苦しむ専制独裁国家を思い起こすとよい。 北チョウセンはまさに李氏チョウセンのクローンである。戦後、日本時代の遺産をすべて壊し、元の姿に戻ったにすぎない。 あの国が自主的に近代化を成し遂げられると考える人が、はたしているだろうか。 仮に今、日本が北チョウセンを併合して統治するとなれば、金一族を除く北チョウセン国民は、随喜の涙を流すに違いない。 その北チョウセンに同情を示し、呼応して「反日・反米」を叫んでいるのが韓国であり、近年その傾向は強まる一方だ。 何が本当で何がウソか、誰が味方で誰が敵か、ウソで固めた歴史観では、正当な判断力が養われるわけがない。 これは歴史で何度も繰り返された亡国のパターンであり、私は早くから「このままでは韓国は潰れる」と唱えてきたが、 その危機がいよいよ近づいてきたことを感じずにはおられない。いかにして真実を究明するか、本書を著す理由はここにある。 2008年8月吉日 崔基鎬 崔基鎬 1923年生まれ。明知大学教授、中央大学、東国大学経営大学院教授を経て、現在、伽耶大学客員教授。 民間レベルでの日韓関係改善に努め、サハリン在住韓国人の本国往来問題、原爆被害者の治療援助、在日韓国人の法的地位向上のために尽力。 ■歴史再検証 日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実■ 崔基鎬著 93ページ ★日本人の功労者に対する台湾人の感謝 李登輝前台湾総統は、戦前、台湾の灌漑土木工事で、15万町歩を潤した八田與一の功績に触れ、八田が台湾60万の農民から、 神様のように慕われている事実を紹介している。 八田をはじめ、台湾に尽くした日本人に見られた日本独特の誠の精神として、 率先垂範、実践躬行、言行一致を挙げ、口先ではなく真心をもって必ず実行する行為の尊さを、 「武士道日本よ、立て!」(月刊誌「日本の息吹」日本会議発行、2004年1月号所収)という論文で掲載した。 「台湾人は、今でも日本の方々を非常に尊敬しています。それは日本人が鉄道や電信網を整備し、 銀行、金融制度などを作り上げたということ以上に、日本人の精神にこそ感服しているのです。 私は昨年、日本政府がビザを発給しなかったため幻となった慶応大学での講演の全文を産経新聞に掲載しました。 その中で私は、嘉南大しゅう15万町歩を潤す灌漑土木工事を完成させた八田與一先生について触れ、そこに見られる日本精神について述べました。 八田先生は、今でも台湾の60万の農民から神様のように慕われています。八田先生をはじめ台湾に尽くした日本人の精神の一つは、公に奉ずる精神であり、 二つ目は、仕事に対する熱心さが公義、社会的正義感に基づいている点です。そして三つ目は、誠の精神です。 「誠の精神」とは、率先垂範、実践躬行、言行一致、すなわち、口先だけではなく真心をもって必ず実行することです。 これがほかの国にはない絶対にない日本の精神です」 同じように統治を受けながら、一方はその功績にいまだに感謝を捧げ、 片や「反日」に血道を上げている始末である。このような忘恩の民族に将来はあるのだろうか。 「イザベラ・バードの朝鮮紀行―英国人の見た李朝末期」を読んでみた https://shinnlily.exblog.jp/22057503/ 印象に残った部分を自分の言葉で再現してみる。 まず、朝鮮の社会と民族性について ・朝鮮の国民を分けるとしたら、「盗む人」「盗まれる人」の2つしかない。 ・「搾取する人」は役人 「搾取される人」はそれ以外の国民である。 ・一生懸命努力してほんのわずかな金でも蓄財したことが知られれば、役人が全てを搾取していく。 ・ゆえ、ぎりぎりに暮らしていけるだけの収入を得ればよいので、それ以上働こうとしない。 ・ゆえ、生活の向上がみられず、みんな貧しいままである。 ・ロシア人統治の地域に入植した人々は、搾取されることがなかったので、一生懸命働き蓄財し、明るい表情であった。 ・ゆえ、朝鮮人が本来がなまけ者であるのではなく、政治腐敗に問題がある。 ・朝鮮は自国による改革はもはや不可能であり、他国による改革し方法はなかった。 日清戦争後李朝末期の日本のかかわり ・過去の歴史から(豊臣秀吉の遠征の頃か?)朝鮮人はとことん日本人が嫌いであった。 ・当時日本は朝鮮を植民地化して統治しようとは考えていない。 ・あまりの政治腐敗ぶりに日本の政策を浸透させるのには困難を極めた。 ・ゆえ、微に入り、細に入り指示することになり、一層反感をかったが、日本のやり方は悪くはなかった。 生活の状況について ・1894年当時ソウルは世界一汚い都市である。(英国では「ソウルは世界一きれいな都市である」という記述のものと、二種類の「朝鮮紀行」が存在するらしい。) ・1897年に訪れた時はソウルの街は見違えるように清潔になっていた。 ・両班と言われる貴族階級は、役人か教師しか職業がなく、ふらふら町ですごす人々が多かった。 ・女性は最下層の人が外で働くことがあっても、ほとんどの夫人は家の奥に蟄居させられていて、女性自身はそうされることは大事にされていると感じていた。 ・ゆえ、外の世界、ソウルの街さえも見たことがない人が多い。 ・当然男尊女卑である。結婚は親が決めた人とし、 息子の嫁の手助けを得るまでは朝から夜遅くまで働き、身なりに気をまわすことなどできなかった。 ・女性で教育を受けることが出来るのはキーセンのみであった。 大事な賓客をもてなすキーセンは客と同じレベルの話題についていけるように、国の運営する養成学校で歌舞などとあわせて教育を受けた。 風土について ・朝鮮の自然、山、川、草木、花など、美しいと感じ、その記述も多い。 ・虎がたくさんいた。人々は恐怖のため、暑くても窓を開けて寝ることはなかった。 遠慮のない好奇の目にさらされ、ゴキブリや虫の多い宿とはいえない場所に寝泊まりし、 ほこりっぽさ、汚れに辟易とし、外国人というだけで阻害されながら旅をした。 にもかかわらず、4度も訪問し、最終的には朝鮮を愛しく思った著者の気持ちを考えると、 多くの利害関係が邪魔をする国と国のつながりはさておき、人と人のつながりというのは案外難しくないのではないかと思った。 あれもこれも、まだたくさん紹介したいと思うのだが、また別の機会にしよう。 読了後、考えた。 ①日韓併合後の日本の統治について。 ②現在もさらに日本を忌み嫌う韓国について。 李朝最後の王に対して個人的には親愛の情を持ちながら、改革の妨げ、国民の幸せを目指すことができなかった愚かな王であると述べている。 このように情と事実をきっちりと分け、淡々と考察していった著者、イザベラ・バードが 今もし生きていたらこの2点についてどのように記すのであろう。 すでに次に 「日本紀行上・下」が手許にある。 明治のはじめの北海道から関西まで、イザベラ・バードと一緒にまた旅に出でようと思っている。 ■日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実■ 崔基鎬著 ○韓国歴史教科書の、目に余るウソ・デタラメ○ 事実を曲げて、歴史を都合よく書き直すことを歪曲というが、韓国・朝鮮が記す歴史は、 まさにそれで、独裁権力者が自分の都合に合わせて故意に改竄しているために、ほとんど信用するに足りない。 真実は闇に葬られ、虚偽のウジが湧くようだ。 その最も顕著な例は、李朝500年末期の政治紊乱に蓋をして、公然たる売官買職が横行し 貧官汚吏が跳梁した事実をまったく教えず、日韓併合がなければ、 李朝は立派な国家として独り立ち出来たかのような書き方をしているところに表れている。 これこそ、実態を知らない歴史観である。 日韓併合を通じて、全国民に教育が徹底され、近代的医療制度が確立し、農漁業と重工業が興り、 社会のインフラ整備によって工業国家としての基礎が築かれたことは、明白な事実である。 ところが終戦後、真の歴史は闇に包まれ、国定教科書の記述は重大な誤りを犯している。 例示すれば、以下のとおりである。 ①「七奪」と称して、日本から奪われた七つの事柄を記しているが、この七つとは、 国王、主権、土地、資源、国語、姓名、生命のことだという。 これについては小著「日韓併合の真実」に明記している。 あったことをなかった、なかったことをあったとする記述は現在も継続しているが、 こうした行為が歴史から処断されるのは目に見えている。 ②「日帝は金・銀・鉛・タングステン・石炭など、産業に必要な地下資源を略奪した」 と被害者意識をふりかざすばかりで、李朝500年余年間、資源開発とは無縁だったことには反省もみられない。 ③「電気と鉄道などの事業は、朝鮮総督府や、日本の大企業がこれを握り、彼らの利益を増大することに利用した」 と記すが、3000万の住民が産業の動脈としてもっとも利用し、現代文明の黎明となった事実には蓋をした。 ④「日帝の狙いは、韓国を日本の経済発展に必要な商品市場と原料供給地にし、彼らの国家利益を増大させるものであった。 日帝の産業侵奪政策で我が民族の経済活動は大幅に萎縮し、民族産業もその発展が抑えられて、沈滞するほかなかった」 などという記述にいたっては、コメントする気も起こらない。 これは李朝500年を知らないか、故意に隠蔽しようとするもので、いずれにせよ反省のみられない記述である。 民族産業の芽を切り捨てたのは、ほかでもない李朝であり、李朝の下では経済発展など夢のまた夢であったこと、 近代化を唱える者や、先進的な思想家は、反逆分子として、その親族までも処断されたという史実を、忘れたとでもいうのだろうか。 ⑤「林業分野でも膨大な山林が、朝鮮総督府と日本人の所有となってしまった」というが、李朝下では「禿山」ばかりであった。 この禿山を緑豊かにしたのは日本人による努力の賜物であったことを歪曲している。 ■歴史再検証 日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実■ 崔基鎬著 172ページ 李光洙は1918(大正7)年、早稲田大学哲学科在学中に、第一次大戦の休戦や、ウイルソン米大統領の民族自決論を聞いて、朝鮮の独立に賭ける決心をし、朝鮮に帰った。 以下略 その後3月下旬、李光洙は上海に赴き、臨時政府の組織運動に参加。上海の大韓民国臨時政府組織に全力投球した。 彼はその間に日本と朝鮮を比較して、前述の「民族改造論」を著わし、「独立の必須条件」を示した。李光洙は、民族の衰退原因として、次の点を挙げた。 ① 虚言と騙し 韓国人の間では、嘘と騙しのために相互に信じられず、「外国人は信用していても、韓国人は信用しない」奇妙な現象がある。 ② 空想と空論 韓国人は美辞麗句を連ねるが、実行が伴わない。他人の行動や話の揚げ足を、問題点を探すだけで空論に陥ることが多い。 ③ 表裏不同 人の前ではへつらい、背後では批判し、悪口を言う。恥知らずの態度だ。 ④ 臆病、卑屈、物事に怖じけ恐れる、臆病である。他人のことを気にし、決断する意志が弱い。 ⑤ 利己主義(非社会的) 社会的公益には無関心だが、自己と家族、私党のためには極端にまでに利己的になる。 ■歴史再検証 日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実■ 崔基鎬著 184ページ●歴史が教える亡国の典型的パターン 韓国・朝鮮の現状は、愛国とか民族という言葉が空しく行きかうばかりだ。 左右の両陣営は、権力闘争に終始するだけで、国民を守るという観念は微塵たりとも見られない。 国民に対する礼儀も義理もない「左翼政権」の金・盧両政府は、拉致被害者家族の実情を、まったく無視している。 朝鮮戦争以降の拉致被害者は14万2953名と公表されているが、身内が拉致されていながらその中に名前が見つからない家族の訴えには、 まったく聞く耳を持たず、調べようともしない。私は以前から、拉致された人数が100万を超すとみられる理由を発表している。 日本が、拉致被害者と、その家族を保護している現実を参考にするでもなく、北朝鮮の指令に同調しながら拉致については黙殺一点張り、 日本に対しては反日一点張り、拉致被害者とその家族を敵と見なしているのが現政権であり、彼らは人民を奴隷にし、餓死させている政権を尊敬する。 そして悪の北朝鮮を守るために民主主義を唱える一方、歴史の歪曲で北朝鮮を擁護し、空想と空理空論で徹底した反日・反米教育に熱中している。 1905年頃の朝鮮は、今の北朝鮮とまったく同じく、枯死状態の餓死国であった。必要なものは衣食住であって、けっして、テロではなかった。 この状況を救済したのは、日本の統監府、総督府であって、両班ではなかった史実を銘記すべきである。 法治国家の主権は国民にあるが、人治国家の主権は統治権者である大統領か元首にある。 韓国では帝王的大統領と称される所以である。この国の歴史上、最大・最高の国難と亡国の運命は、この絶対権力を持った元首が、敵国と内応し、 国民と国家・財産を主敵に提供し、徹底した嘘と騙しで敵の傘下に安住することに始まる。 韓国歴史教育、驚愕の捏造!(日韓併合の真実) http://f17.aaacafe.ne.jp/ ~kasiwa/korea/photo/TextBook01.html 見ろ!実は、日本兵は中国で礼儀正しく、皆から愛されていた。 http://f17.aaacafe.ne.jp/ ~kasiwa/korea/photo/china.html >>308 んなもん人によるだろ 日本女性に対してだって強姦する日本男おるんやで ■共に日本に統治を受けた韓国と台湾の日本に対する国民感情はなぜ真逆なのか?■ ともに日本の統治を受けた韓国と台湾。 ところが台湾が世界屈指の親日国であるのに対して、韓国は逆に世界一の反日国家である。 なぜ日本に対して両国が真逆の感情をもっているかの最大の理由は、 日本の敗戦後にアメリカの統治と植民地支配を受けたかどうかにある。 日本の敗戦後に台湾はアメリカの支配を受けなかったために、嘘デタラメの戦前の日本悪玉論に洗脳されることがなかった。 それに対して韓国はアメリカの統治を受け、現在も日本と同様にアメリカの実質的な植民地支配を受けている。 日本の敗戦直後からアメリカと、そのスパイである韓国初代大統領の李承晩によって嘘デタラメで偏見に満ちた反日教育を受けてきたのだ。 韓国と同じアメリカの植民地である日本で反日教育が続いていることを考えても、それは明白である。 また終戦後に李承晩による竹島占拠に関しても日韓を支配するアメリカは黙って見ているだけだったように、 アメリカは日韓両国をわざと反目させるような行為を続けてきた。 これは米英植民地支配の常套手段である「分断統治」の手法そのもの。 そもそも大東亜戦争はソ連の南進を阻止してアジアの平和を守っていた日本を叩き潰し、 アジアに共産主義独裁国家を誕生させ各国を反目させて「分断統治」し、アジアの利権を略奪するために、 アメリカを支配する国際金融資本が邪魔者の日本を戦争に追い詰めて叩き潰すために起こした戦争なのだ。 >>309 例外があるのはもちろんだが、 現代の日本人が戦後教育によって愚民化し戦前の日本人とは一転して、 自分の損得勘定しかない利己主義者だらけになったことを私がここで証明してきただろうに。 君たちのように仁義も誠もなく利己主義と反日思想に染まっ共産主義者たちがその象徴的な存在だ。 だからこそ私はこうやって歴史の真実を提示して、 一人でも多くの日本人が目を覚まして戦前までの日本精神を取り戻し、 アメリカから主権を取り戻してまともな国になるように啓蒙活動しているんだ。 このままでは日本は搾取され国力は衰退し続けることは明らかなわけで、 その状況を黙って見ているわけにはいかんからな。 ■李承晩 大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)の経歴 1907年(明治40年) - ジョージ・ワシントン大学で学士号取得。 1908年(明治41年) - ハーバード大学卒で修士号取得 1910年(明治43年) - プリンストン大学で政治学博士号取得。博士論文は「アメリカの影響を受けた永世中立論」。この年、帰国する。 1911年(明治44年) - アメリカに亡命。 1913年(大正2年) - ハワイに定住。 1919年(大正8年) - 中華民国の上海で大韓民国臨時政府樹立。李承晩によってワシントンD.C.に欧米委員部設立。 1933年(昭和8年) - 満州事変を討議する国際連盟総会に大韓民国臨時政府全権代表として出席。 1934年(昭和9年) - オーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚。 1941年 -『日本の内幕記』を著す。日本の対米宣戦を予告。 1945年(昭和20年)10月 - 日本の降伏と朝鮮解放に伴い、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に帰還。 1948年(昭和23年)8月13日 - 朝鮮半島南部単独で大韓民国建国。初代大統領に就任。 1948年(昭和23年)10月 - 連合国軍占領下の日本を非公式訪問(ダグラス・マッカーサーGHQ司令官などとの会談のため) 1956年(昭和31年)5月15日 - 大統領に3選。副大統領には野党の張勉が当選。 1960年(昭和35年) - 3月15日 大統領選挙。不正選挙が問題となり野党や国民の批判が公然化。 1960年(昭和35年)4月19日 - 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命(四月革命) 1965年(昭和40年)7月19日 - 亡命先のハワイにて90歳で客死。 米英を支配する国際金融資本の植民地支配の常套手段である「分断統治」の手法の一例。 戦争で叩き潰した国やクーデターを起こして乗っ取った国に自らの傀儡を置いて支配する。 大東亜戦争では戦争で叩き潰した日本に自らのスパイ政党の自民党をつくり、韓国では自らが育てあげた工作員である李承晩を初代大統領に。 その他にもロシア革命のボルシェビキや47の国民党や共産党、第二次世界大戦後のドイツやイタリア、イラクなどの中東各国や中南米や現在のウクライナなど、 その実例は数多く世界中に広がっている。 洞口朋子 中核派内部連続性暴力事件 無回答無反応 2.15三里塚決戦 逃亡 3.11福島行動 逃亡 3.26芝山闘争 逃亡 女性運動 「展望です」 トランスジェンダー 極悪差別主義攻撃 「チューカク派三大ビ女」 女性差別を笑って容認 世界を支配している国際金融資本利権共同体一味が頻繁に口にする「グレートリセット」の正体が、 国際金融資本が人類を支配し搾取する完全管理社会であることに関して多くの人が認識し始めています。 ダボス会議のクラウス・シュワブも公言しているように、その完全管理社会の理想が47である。 共産主義の本質は支配する者とされる者からなる2極化社会であり、 人間(戦前の日本精神をもった人間以外)が独裁権力をもてば必ず腐敗する。 独裁者は必ず自らの利権を守り維持拡大することに執着するのだから。 表向きの労働者の救済などデタラメであり、逆に独裁者は労働者を搾取し私腹を肥やす。 ソ連や47などの実際の共産主義国家のいずれもがそうなったことも、それを証明している。 だから国際金融資本は共産主義を生み育て、安定的に大衆を支配し搾取する手段として共産主義に希望を託したし、 大衆を支配するためのノウハウを得る社会実験としても必要だったんです。 自分のように保守愛国者であれば必然的に、アメポチ国賊政党で宗主国アメリカ(DS)の利益のために政治をしている 自民党は最大の敵になるものだが、自称保守愛国者がその国賊である自民党を支持する矛盾w 目先のカネ欲しさに利権繋がりで自民を支持している連中も、 長期的に見れば自分が苦しむことも自覚できない馬鹿ばかり。 とにかく自民信者に共通しているのは物事の理解力の欠如。 >>317 左翼愛国者からみてもアメポチ自公は論外だよ だからウヨサヨ共通の敵である自公を選挙で倒そうぜ 自民党なんて危険なカルトの寄せ集めじゃん >>319 矢嶋「入学おめでとう」 KSB「おめでとう」 吉田「卒業できるかな?」 KSB「大学10年生!」 吉田「卒業できるかな?みんな」 吉田「楽しいですよ」 矢嶋「今年で6年目です」 吉田「おれも」 KSB「おれも、大学10年目です!」 石田「17年目!」 KSB「まだまだ始まったばっかりだぞお!」 吉田「これ絶対使わない」 ↓ 前進チャンネル編集者であり、中核派馬鹿路線首謀者であり、中核派「同志」「関係者」の顔写真を次から次へとネットに公開してばらまくスパイであり、25年目42歳である内海、やはりこの会話もネットでばらまき、石田、KSB、吉田、矢嶋のしょーもない経歴をバクロ。 なおポンタは、23年目41歳でポンコロリ。 大学は卒業しようと思えばできたが、「仲間が闘争で卒業できない中、自分だけが卒業するわけにはいかない」と、卒業しなかった。 「6年目!」 「10年目!」 「17年目!」 などとヘラヘラ笑いながら親の脛をかじって得た学費をドブに捨てて前進なんとかで遊び呆けているコイツら、それをカンパで運用されている前進なんとかで茶化すコイツらと、ポンタとでは、歩んでいる人生が全く異なる。 ポンタは中核派構成員としての人生を真剣に歩み、コイツらはチューカク派構成員として生ぬるいオママゴトに浸っているままである。 洞口朋子 中核派内部連続性暴力事件 無回答無反応 2.15三里塚決戦 逃亡 3.11福島行動 逃亡 3.26芝山闘争 逃亡 女性運動 「展望です」 トランスジェンダー 極悪差別主義攻撃 「チューカク派三大ビ女」 女性差別を笑って容認 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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