>>919
人間に憧れを持つ、汚猿からの主観。

コノ立ち位置から、いつも余興が始まる。

何故余興が必要なのか?人間に共感が出来ない

亜種としての孤立感ばかりは堪え難いためだ。

そして足りないなりに皮肉ったりするのは、

人格を獲得出来なかった、敗者ならではの

精一杯の嫌がらせになる。

何につけイジケては歪んだ、このよく分からない行動原理を汚猿の奇行とよんでいる。

コレにいちいち同調している猿並みも、よく分からないで付き合っている為、脳筋猿並み軍団、バカルトとよんでいる。

前頭葉ありきの大脳の発達が、人間社会を
この様に劇的に和平的共感社会を確立して、現代の様な世の中を作ったのは間違い無いが、、
競争の原理はかりは、今尚、現代に生きていて、和平的共感社会よりも競争の原理を信ずる者が圧倒的に多いのが、現実かもしれない。

企業間の競争こそが正にそれだからだ。生き残りをかけ、新しい概念で社会に新概念で、飽くなき挑戦を繰り返し、売り出しながら代謝をしなければ、生きていけない。その姿勢は極めた貪欲だ。

持たざるものより、持つ者。差別されるくらいなら差別する方へ…果たして和平的共感思考は何処へ行ってしまったのか?

和平的共感無しに、現代の様な文明社会は進化し得なかった筈なのに。

何の疑問も持たずに、この矛盾する2点の中で、人類はひったはったを繰り返しながらも、目の前の現象に囚われては、一喜一憂しているだけなのである。コレに違和感を感じれる人が人間の定義に最も近いのだと思う。