あんな旧人類の人間ごっこ…猿芝居に違和感を感じないなんてね…。

人間には良性の縁と悪性の縁があります。ソレを見極めるには、実は平均的な客観性は身につけていなければ、人間などいくらでも陥ります。その違和感に気付ける様にする為に信仰は神という概念を生み出したのではないでしょうか?

とすら思う事があります。

彼らバカルトの面々に、信仰による手ほどきという免疫があったならば、彼らは果たしてあんな常軌を逸した猿並みになったでしょうか?

彼らはやり場の無い、不遇な立ち位置という何かしらのコンプレックスを持ち、それを解消する為だけに、我が身をサイコに依存し、担保として預ける生き方を選びああなりました。

サイコ無しには生きていけなくなっているのは、サイコが一種の原始性を引き出す麻薬となり、サイコから離れても、その疼きは止まない脳に変化されているからであり、それを所謂洗脳と言っています。

今更人間らしく人間としてなんて生きれやしないからです。疼きは疼きとして、興奮を求めます。更なるドーパミンによる脳内の興奮を求めています。

…ちとしのウホゴリラ化ばかりは、チョット見ていられませんでしたね。あの退行現象も酷いもんだ。
同時に人間は確かに猿から進化したのだろうと認識させられる瞬間でもあった訳だが。