後期クイーン的問題とかってくだらない。
第一の問題
「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」
第二の問題
「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」
もっともらしい名前がついてるけど、こんなんの問題でもなんでもないじゃん。
第一の問題は現実でもそうでしょ。作中に限らない。
法廷に出された証拠がすべてで後は存在しないなんて思ってる人いるの?
新情報が出て判決が覆され、冤罪が証明されることもある。
第二問題なんて、問題ですらないじゃん。こんなの問題視するほうがどうかしてるだろ。
ほとんどのミステリーは探偵が指摘した後、ちゃんと司法の裁きを受けてる。
探偵が神だなんて誰も言ってないだろ。
探偵の存在そのものが事件に与える影響というが、そんなの警察でも一緒でしょ。
警察の捜査から逃れるために、証拠を隠滅するために、殺人を起こすことだってある。 いくつか紹介
* 法月綸太郎「初期クイーン論」
一応、後期クイーン問題を提起したとされる文章。
しかし現在「後期クイーン問題」で連想される偽の手がかりの問題は、
この「初期クイーン論」でも、続編に相当する「一九三二年の傑作群をめぐって」でも
中心の問題ではない。
また、クイーンの作家的変遷を数学基礎論の歴史に重ねられていくけど、
実際の数学基礎論の歴史評価とはほとんど関係なくて見立てや暗合に近い。
実際の主題は、レベルの階梯化やレベルの混同によって生じる
探偵小説の不均衡かつ動的な構造の分析をクイーンの実作から読み取ること。
偽の手がかりによる探偵の操りは、
犯人=死体トリックや(作者名=探偵名によって行われる)読者への挑戦
などと並んで、探偵小説構造の不均衡さの事例として扱われるだけで、
偽の手がかりの処理の仕方といった問題を扱うわけではない。 * 巽昌章「法月綸太郎論 「二」の悲劇」
法月の小説作品だけでなく評論も含めて論じた法月論。
法月の後期クイーン論については、偽の手がかり問題としてではなく、
探偵小説に見られる構図や図式の問題としてとらえている。
さらに、法月の評論「浜村龍造を殺そうとかまうものか」に対して
>> ここで法月は、すかさず見る--見られるという無限の循環を示唆する。
>> これは、いわゆる後期クイーン的問題と類似した思考である。
と書くように、法月の他の評論とも連続した問題系として扱っている。 * 法月綸太郎「複雑な殺人芸術」
扱っているのはロス・マクドナルド作品(主に「ウィチャリー家の女」と「さむけ」)
で、いわゆる「後期クイーン問題」(偽の手がかり問題)とはほとんど関係ない文章。
しかし語り手=探偵による主観的一人称と神の視点の緊張関係、
名前や立場の入れ替わり・混同など、
法月のクイーン論自体とは密接に関連した内容になっている。 * 北村薫「ニッポン硬貨の謎」
作中で述べられているクイーン論の原型は北村の学生時代に書かれたものなので、
法月のクイーン論とは直接的には関係しない。
しかも、一見すると「シャム双子の謎」への評価が法月と逆のように見える。
法月が「シャム双子」を本格推理小説のゲーム空間の瓦解を示す作品と述べるのに対し、
北村はもっともクイーンらしさの出た作品として肯定的に評価する。
しかし、二人の論は根底の所で繋がっている。
犯人の指摘がどこで止まるか解らない作品であるがゆえに読者への挑戦が入らず
同じ理由で最後の犯人決定も論理以外によってなされるのだという北村の指摘は、
階梯化による不均衡さや最終的な推理の恣意性といった法月の指摘に共鳴する。
また「もっともクイーンらしさの出た作品」において、
初期クイーンのトレードマークともいえる読者への挑戦を入れられなくなる
(しかも、メタレベルでの偽の手がかりが理由で)という「シャム双子」の構造は、
ゲーム空間の遊技性の追求がスタティックなゲーム空間自体を瓦解させる
という法月の論の実例とみなせる。 このスレにはプロがいるな
クイーン&ロスのスレとレベルが違うわ
だから伸びないね * 笠井潔「探偵小説論II 虚空の螺旋」
8章のタイトルが「後期クイーン的問題」
おそらく後期クイーン的問題という言葉が使われた最初期の文章。
それが法月の「初期クイーン論」によって提出されたとしているけど、
具体的にどういう問題を指しているのかは書いていない。
偽の手がかりよりは犯人による探偵の操りに重点を置いていて、
クイーンの作品だと「十日間の不思議」を重視している。
いつもの笠井の評論と同じく時代的精神だとか現代社会とかに結びつけて論じている。 * 笠井潔「探偵小説と二〇世紀精神」
「シャム双子の謎」と「ギリシア棺の謎」を扱った部分が
法月の「初期クイーン論」と重なる。ただし法月に全面同意ではない。
この二作品には論理的不備があるとして、かなり細かく論じている。
もしかすると後期クイーン問題=偽の手がかりの問題
という印象の普及にかなり貢献した文章かもしれない。 * 飯城勇三「エラリー・クイーン論」
第二部の「ギリシア棺の謎」論は、法月・笠井の主張への反論。
おそらくクイーンが考えていたことを越えた論理を用いて
「ギリシア棺」の推理に不備がないことを論証しようとする。
(飯城の言うような複雑に入り組んだ論理をクイーンが実際に考えていたなら、
そのことを作中に書かず不備と誤解される書き方をするのは不自然だと思う)。
クイーンばりにアクロバティックな論理が楽しめるので
正しいかどうかと関係なしに面白い。
第三部は副題が、<後期クイーン問題>論。こちらは評論としては少し弱い。
法月や笠井の論がクイーンやミステリの歴史的変遷について
(成功しているかはともかく)論じようとしているのに対して、
飯城はクイーン作品を賞揚する姿勢が出すぎている印象を受ける。 * 諸岡卓真「現代本格ミステリの研究」
副題が「「後期クイーン的問題」めぐって」
後期クイーン問題=探偵の唯一最終の真実への到達(不)可能性をめぐる問題
を扱ったとみなせる諸作品をとりあげ、いかに処理されてきたかを論じる。
どの作品の論も同じような読み方をひたすら反芻しているため
文芸評論的な面白さはちょっと乏しいけど、後期クイーン問題受容史研究としては有用。 >探偵の唯一最終の真実への到達(不)可能性をめぐる問題
これってむしろ、作家ではなくて現実の探偵が考えるべきことなんじゃね?
現実の探偵が間違えたら冤罪となってしまうから深刻だが、
小説内の探偵は、作家がそうしようと思えば絶対に間違えずにいられる
小説には、地の文には嘘が含まれていない、という大前提がある
「探偵Aは憂鬱な思いで新幹線に乗った」と地の文にあるのであれば、これは嘘ではあり得ない
同様に「探偵Aの推理通り、あの日犯人Bは被害者Cを刺したナイフを捨てるために川へ行ったのだ」
という文章も嘘ではあり得ない
よって俺の結論は、ミステリー小説固有の問題なんて別に存在しない、
余詰めの可能性は現実では排除出来ないが小説では出来る、だな >>167
余詰めのない推理小説自体は確かに作れるけど
名探偵に余詰めのない快刀乱麻な推理をさせるのが困難だっていうのが
推理小説の技術面での後期クイーン的問題なんじゃないかな。
地の文で描写・説明すれば真相は確定するけど
作中の探偵は地の文を読むことができないから、
作者は地の文の正しさに頼らないで探偵に推理をさせないといけない。
特に犯人が偽の手掛かりや偽の犯人を用意してる設定だと
「だったらそれも偽の真相じゃね?」ってツッコミが入りうるわけで。
でもたぶん本当のところは問題でもなんでもなく、
そういう困難さを題材にすること自体がミステリのネタになる
というマッチポンプだったんじゃないかと思う。
真相にたどり着けるも着けないも結局は作者のさじ加減ひとつ。 まさかの後期クイーン問題ネタ
カオスちゃんねる:ゴロリ「わぁ〜美味しそうなユッケ!」
http://chaos2ch.com/archives/2665670.html とりあえず、読者としてミステリを楽しむ分には、「後期クイーン的問題」は何の問題にもならない。
とは言えるんじゃあないでしょうか。
読者に対してなら、地の文章で書くなり「読者への挑戦」のような手法を使うなりで、
「客観的な事実」を伝えることは可能ですから、読者は正しい答えを知ることも出来ます。
その答えと自分の推理を比べてみたり、その答えがフェアに導き出されているかとかを考えたりして、
普通に楽しめると思います。
たとえ作中の探偵が、自信を持てずに悩んでいようがどうだろうが関係なく。
>1の人も読者にとっては関係ないという意味で、「くだらない」と言ったのではないですかね?
まあ、個人的には思い悩む探偵も、人間味があって良いのではないかと思います。
それによって作品に深みを持たせ面白くすることも可能でしょうから、くだらないというよりむしろ、
小説を面白くする上で有益な考え方なのではないかと思います。
ただ、作者が思い悩みすぎて作品が書けなくなったりすると、読者としては困ってしまうわけですが。 クイーンの小説でこういう話があった
容疑者Aと容疑者Bがおり、被害者はAの商売道具で殺害されていた
そこで探偵はただちにAを容疑から外した
自分の商売道具を使えば自分がやったとバレバレ、いくらなんでもそこまでアホな犯人はいない、という理屈
実際には、Aの道具で殺されていた場合、真相は以下のケースがあり得ると俺は思う
1、アホ犯人Aは何も考えず自分の道具で殺した
2、犯人Bは自分に疑いが向けられないようにAの道具で殺した
3、知能犯Aは裏の裏をかいて自分の道具で殺した
結局クイーンの小説では2が正解だったんだが、探偵の選択は恣意的で作者の都合次第と俺は感じた
もしBが自分の道具で殺していたら探偵は (続き)
・・・・Bをただちに容疑から外したのだろうか?
偽装なのか偽装ではないのかを探偵が判断する時、合理的な選択理由はあるのだろうか?
法月の論文って読んだことないんだけど、この点にツッコミ入れてるのなら同意する 探偵(=作者)の詰めの甘さを誤魔化しているだけの問題の様な気もしないでもない この問題に囚われすぎて小説が書けなくなるとか馬鹿馬鹿しいね
例えばよくある、犯人しか知らないはずのことをうっかり喋ってしまった人物=犯人、という論理、
ほとんどの読者はこれだけでも十分な証拠として納得する
これでもまだ完全な証明とは言い切れない、なんて思う読者は極めて少数
だから作家は余計なことを考えずに作品を書き続ければいい 警察の捜査だって実際そんなもんだしな。
だから冤罪が無くならないのだが・・・ 一応推理を展開するが、その推理が正しいかどうか検証することなく話が終わる、という形態はダメ?
倉知の猫丸先輩なんて、後輩が遭遇した事件について推理を述べても、後輩が去ってからその推理の不備を自分で指摘して、
「こんな目立つ不備に気づかないなんて後輩はアホだねえw」みたいな話が多い
後期クイーン的問題に頭を悩ませている作家は、「この推理が唯一可能な推理である、他の推理はあり得ない」
という断言が出来なくて困ってるんだろうけど、だったら断言しなきゃいいんじゃね? それじゃミステリとして面白くない、というのが致命的な問題だな。
猫丸先輩シリーズもAともBともCともいえるような話ばっかりで
ミステリとしては、まるでしまりがないし。論理遊戯の短篇として
何本か読むならいいが、あれで長篇は無理。 ふと思ったんだが、
過去の事件に関する推理が、未来に起きることによってある程度答え合わせ出来る、というのはどうだ?
クローズドサークルの連続殺人でフーダニットもの
周囲の人々が次々殺されていき、主人公は自分にも危険が迫っているのを自覚している
生き残っているのは自分とA >>180途中で書き込んでしまった
生き残っているのは四人
自分、A、B、C
主人公は事件を推理し、Bが犯人だという結論に至る
自分の部屋に帰ってベッドでうとうとしていたらBが包丁を持って襲いかかって来て・・・・・
(こういう小説は既にあるはずだが)
Bが襲ってきたという事実が、主人公の推理が正しかったことを保証してくれると思うんだが
これでも作家によっては不満なのかなあ
「過去の殺人はB以外の人によって行われた可能性がある」とか思うんだろうか
(勿論その可能性があるのは俺も認めるけど)
>>177
西澤保彦の短編なんかそんな感じの話が多い
確か後期クイーン問題に挑戦する話が好きとかいってたし
でも長編でやったらブーイングだろうな >>181
『かまいたちの夜』のバッドエンドがそんな感じのストーリーだったはず。
(自分は犯人じゃないから)自分の彼女が犯人で確定。
で、彼女が部屋に来てスキーのエッジで刺される。やっぱり彼女が犯人だったんだ。
でも彼女と一緒にいてアリバイのある殺人があったなぁ?…絶命END 猫丸は後期クイーン的問題をクリアしてると言えるんじゃね?
自分の推理が真相とは限らない、とか、他にも複数の推理があり得る、とか自ら認めることが多いから
真相が判明しないから読者にモヤモヤが残る、という弱点があるのは事実だが >>188が気づいたように、
後期クイーン問題とか言っている奴は、
頭は悪いのに屁理屈は大好きなキモイ奴なんだよ 第1不完全性定理
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。
確かにこれを見る限りだと、
「だったら作家が提示するのは証明ないし反証が可能な命題に限ればいいだけじゃん」で済む事に思える。
人工知能分野のフレーム問題の方が近いのかな >>190が、無い頭を使って、また屁理屈言い始めたぞ。
頭は悪いのに屁理屈大好きな嫌われ者って、こういうやつのことだね >>187の
>推理作家が後付けで『真犯人は実はこっちだ!』って言うのが
>ゲーデルの不完全性 定理 と関係有るって言っていますよ。」
クイーンスレの>>319-320を読んだ後でみると感動もひとしお。
やっと気付いてくれたんだね。 >>191
>>190はお前と同じで「法月の言ってることなんか下らない」という意見だぞw
分かってんのかカスw
更に言えば、>>188が誰のことをキモイと言っているかといえば>>185 >>186 >>187だろw >>196
それは気付いた上でとぼけてるんだろw
最初から全部嫌がらせだからな 自分が言われてるのに話をすり替えられるって便利な性格だな 北村薫
「クイーンの作家活動を区分するには、いろいろな方法があるでしょう。
わたしは前期、後期と二つに分けます。
前期は『十日間の不思議』第一部 九日間の不思議、
第九日最後から二行目≪かくて死の巻を閉じ≫までです。
後期は次の行≪これより生の巻を開く≫から始まり『最後の一撃』までです」 結局後期クイーン問題て、作者が提示した謎を読者が解くことは可能なのに
その謎の媒介である作中人物は解けないって状況は座りが悪いってだけの話だろ?
なんでそれがミステリがミステリ足りえない云々に飛躍するんだろうか
倫太郎の主張はイマイチよくわからん 法月以外でも後期クイーン的問題でぐちゃぐちゃ言ってメシを食ってる奴が多いからな。
読者的にも、そういう問題があるのかーと心に留めておいた方が面白くなる作品は多い。
それくらいの軽い気持ちでいいじゃない。 問題ですらないものを無理やり問題だ!と言われても良い気分しねーけどな 探偵には犯人を断定することが出来ない、と言うのであれば、
古今東西有名作の探偵推理を否定して別の犯人説を示してほしいわ
強引な推理を使ってw
そういう楽しみ方もアリかもしれん 実際後期クイーン問題テーマにする場合て、大抵そういう楽しみの一環としてるのが大半じゃないの?
作品作りにおいて、さも致命的な問題であるかのように錯覚してんのは法月だけ >>212
法月の書いたのはエラリー・クイーン論でしかないから、
クイーン以外のミステリに対する主張なんか初めから何もない。
後期クイーン的問題って言葉を作ってそれが本格にとっての
全般的な問題だって言い出したのは笠井潔。
その後、元の文章を読まずに伝聞が積み重なったのが今の状況 最初期である密閉教室のラストからしてあんな事書いてりゃ
「何言ってるんだこの作家は?」と思われてもしゃーないわな 問題を整理するな。
後期クイーン問題は、バリエーションがあるんで、いくつか書くと、
最後から二番目の真実の問題。
物語の中で、いかに手がかり拾い集めて、それをもっともらしく、
説明できてもそれが唯一の真実と言えるのか?
他にもよくできた推理、解答ありうるのに、
推理小説の解決編って何なのか。
偽の手がかり、操りの問題。
被疑者が他の登場人物の行動や、探偵の推理を予想して行動してる場合、
極端に言えば犯人は、
本当に犯人なのか。
探偵が推理してたまたま解決編で犯人と名指されただけで、
真相は別にいくらでもあるだろう。
犯人とはミステリの中で犯人と推理するよう誘導された存在でしかない。
手がかりが出揃ったのはいつの時点かの問題。
推理説明しながら、反応を見る場合もあるし、探偵が真相推理するのと、
読者が条件同じか否かわからない。
読者への挑戦挟めばそれまでに書かれてることで、
そこからできる推理に限定されてだいぶましだが、
今度は逆に探偵はなぜそれで全て解決可能だとわかるのかと、
ひねくれた問題が生ずる。 >>1の素朴な誤解から始まったスレだけど、
そもそも物語は多様な解釈がありうるのだから、
一意的に定まるはずかないとか、
現実の事件も厳格に犯人が決定するわけじゃないのに、
ミステリーで悩むのはおかしいとか、
その逆に、犯人が唯一に決定するように推理きちんと整理しない、
小説家が悪いとか。
更に、白黒二つに分ける探偵はおかしいとか、反動的とか。
ミステリーは文学としてレベルが低いとか。
そういうのは単純に誤解だから。
後期クイーン問題はあくまでも読者のためのサービスの問題だから。
読者に作者や探偵と同じ条件で物語に参入してもらうために、
そして物語の可能性自分の手で追求して楽しんでもらうための方法論、
突き詰めたら、犯人が不確定になったり、
手がかりがどこまで含まれるのか、決定できなくなること。
それが後期クイーン問題。
だから、読者の立場でケチつけるとか、筋違いの間違い。 読者に情報伏せたり、叙述仕掛けたり。それで驚かせる方が、
楽しんでもらえるかもしれないし、そういうのは否定していない。
あくまでも読者に情報オープンにして、主体的に参加してもらって、
その上で推理楽しんでもらうサービスの問題であって。
唯一無二の真相を作者と探偵が押し付ける二階堂方式なら、
作者のオナニー楽しめるか否かの問題であって後期クイーンは関係ない。
間違いなく、犯人が確定するように手がかり張り巡らしたとして、
読者にもそう思えるなら、それじゃ読者も楽しめない。
逆に多重解決や決定不能な解決編用意したって、
後期クイーン問題の解決でもなんでもない。
あくまでも読者本位の問題であって。
読者に楽しんでもらえるよう、積み上げれば積み上げるほど、
困難な事態に到達するというクイーンが直面したすごい真っ当な話であって。
それは参考になりこそすれ、非難する事態じゃない。
法月の実作がそのレベルに達してるのかとか、
頭の悪い笠井がミステリーの中でも特殊な話を、
大きな問題に間違えたとか問題はあるにせよ。 作者のオナニーを押しいただく、二階堂方式の方が楽しい、
性に合う読者も多いことはわかるが、それはあくまでも、
読者は馬鹿にされてるんであって。その事実は忘れちゃいけない。
読者の立場で後期クイーン問題にケチつけるとか、意味不明。
本当に読者が自由な身で謎解き小説の推理に参加するなら、
読者自身が操りや二番目の真実、手がかりはどこまでなのか、
悩まないといけないわけで。
そして、それで多様な解決作って悩まないといけないわけで。
後期クイーンの実作はまさにそういうものとして解釈できる。
あの執拗な操りの解釈は手がかりの範囲で、操りの範囲で悩む、
読者の動きのシミュレーション。
手がかり、推理で一義的、一意的に真相が絞れて犯人当てられるなら、
それはそれで醍醐味であると同時に物足りないわけで。
飯城は偽の手がかり出すなら、その出せる人間、出さなきゃいけない、
人間が絞られると言ったが、だからといって、
一人に絞れるとは限らない。
だからといって、多重な解決解釈が成り立つことが正しいわけじゃない。
何が正しいのかは実作で一つ一つ出していくしかない。 ごく普通の読解力と推理力がある人間が謎解きミステリー読むたびに、
感じている違和感を言語化しただけだからね。
後期クイーン問題自体は。
普通、解決編読んだら、この手がかりから、こう行動したというが、
別の人間がしたとしてもいいんじゃないかとか、
こんな行動するわけない、矛盾しているとか、
手がかりをここで出しているというが、それをこう解釈して、
正解にたどり着けるわけないだろう?とか、
そういうダメ出しをすることから始めるだろ。
日常的に後期クイーン問題に出くわしてるわけで、
それを明確に言語化しただけなんだよね。 読者が別の解決を思いつくってのは、単に手がかりが不十分なまま、探偵が「真相」を説明してしまうからであって、
現実問題なら、こことここを調べればさらに絞り込めるだろうと指示出来るけど、
小説はその前で終わってしまってるから、中ぶらりんのままなだけ。
だから、後期クイーン問題ってのは、単に出来の悪い推理を糾弾してるだけで、
ミステリの根幹を揺るがすほどの問題なんかじゃない。
作者のオナニーと言えば、某「本質的直感推理」なんて、その最たるものなんだし。 それはないw
探偵に犯人や作者と同じ情報が与えられる完全情報のパズルなら、
最適解もあるけど、いまどき短編ならともかく長編なら、
そんなの聞いたことない。
オランダ靴の昔ならともかく、非対称の複数解答しか有り得ない。
不完全情報の下ではナッシュ均衡で複数の解答しかなくなる。
現実を考えてみ?完全な手がかり与えるとか、不自然きわまりない。
短編ならパズルとしてそれも良いが現実をなぞる小説で、
後期クイーン問題が発生しない方が不自然、不条理。
読者だって完全情報なんか与えられない。それで生きてる。
読者が真面目に推理してるなら自然に思う違和感を説明してるだけだって。
後期クイーン問題は。 犯人は事件についてほぼ※情報集められる。
情報は非対称なんだから非決定性が生ずるのは当然。
後期クイーン問題はそれ自体、法則として客観的に当たり前のもの。
非難するのは筋違い。
※ほぼであって時には犯人自体操られたり、わかってない事情により、
事件起こしてるかもしれない。
よってたかって警察の組織力や周囲の条件が揃って、
神と同じ立場で犯人以上に全てを知りうる場合。
事件について犯人と同じ完全情報持つ場合。
犯人は捕まえられるが謎は謎として残る場合。
犯人はわかるが捕まえられない場合。
まるっきり迷宮入りの場合。
どれもあり得る。
どれにするかは作家のお好み次第。 ミステリーの場合、読者に事件を楽しんでもらうように、
調整したものだから、まるっきり五里霧中とかあり得ず、
わかるよう、解けるようにはできてる。
作るものだ。
現実とは違い、情報集められるようにできてる。甘いものだ。
そうでないと読んで貰えない。
また、探偵に完全情報集まるのが不自然なら、
犯人が全て神のように見通して操れるのも同じように不自然だ。
情報の非対称性もその時その時で温度差がある。
不完全情報や操られて、真相が非決定性孕む場合だけじゃつまらないが、
全てが毎度毎度完全に解けるのもつまらない。
その中間でほどほどにやればいいだけ。
当たり前だし、皆もそうしてる。 「それまでの推理を覆す新たな証拠が存在しない保証」、なんてものを作中探偵に与えてやる必要はない
だって現実探偵でさえ保証なしで推理してるんだから
保証なしでこそリアルな小説
こんなことを問題視する方がどうかしてる
作家は余計な心配せずに今まで通り書き続けろ、と リアリティの伴う推理小説を、理屈でどうにかなるパズルにムリヤリ当てはめようとするからダメ
そもそも前提からしておかしい だから、読者のためだってw
前提が逆だろw
探偵じゃなく、読者が不安になるだろ?手がかり与えられてんのか。 ある程度はパズルにして読者に解けるように楽しませて。
ある程度はリアリティ持たせて不確定な深みに立ち入らせて。
その間に無数にある。
てめぇの好みをおしつけあってんじゃないw パズルとリアリティっていう相容れない物を欲張っていいとこどりしようとするからジレンマが起こるんだろうが
読者はそんなこととっくの昔に判ってるから一々気にしない
結局は作者の一人相撲 だから、パズルが好き、人間ドラマが好きとか、
読者の好みに対して中立な命題なんだって。
単なる事実の命題だから。
きっちり解けないといや。
単純に解けてしまうのは嫌い。
探偵が悩むのはいや。
探偵が悩むくらいがいい。
そういう読者の好みからは中立なの。中立。
それなのに狭い自分の好み押し付けて争ってんじゃないと、
何度言えば(ry ただ単に自分の好み押し付けて仮想敵叩いてもしょうがないんだよ。
事実なんだし、読者の方の問題なんだし。
自分の好みじゃない読み方している読者叩いても不毛なだけだってw >ID:mGf6Qt7l
申し訳ないが、なんの話をしてるのか全然分からん >>238
読者に情報出して、作者や探偵と同じ土俵で自分の力で推理させたら、
後期クイーン問題が発生するのは当たり前だろ?
現実だって情報が不完全なら決定不能性が生ずるのは単なる、
経済学の知識。
後は作者が制限して、解ける単純な形にするか、
決定不能にするかは作者の介入次第で千差万別。
それぞれ好みあり、作者や読者が選べばいいだけ。
なのにそれもわからず好み押し付けあったって意味は全くない。
なんか一意的な解答があってそれに従わなくちゃいけないかの、
勘違いが飛び交ってるから間違いと言ってるだけ。
意味のない議論しているだけだろ?このスレ。 作者の一人相撲とか叩いても、どんな作者だってこの法則は、
逃れられないから、意味がないし。
読者に跳ね返ってくる問題でしかないんだよ。 >>238
わかりやすく説明したけど理解できた?
よくわかるといいね、僕ちゃん。 いやしくも本格ものなら、
読者への挑戦のあるゴリゴリの犯人当てじゃなくたって、
クイーン問題は欠かせない。
騙し上等、物語でねじ伏せるというのじゃない限り、
読み終わって真っ先に思われることは、
手がかりの出し方はフェアだったか、
それで真相を導けるようになっているか。
他の真相があり、こちらの方が正しいのじゃないか。
操られて別の真相があるんじゃないか。
スレで議論されることもそういうことだ。
また、全くそういう余地のない作品は物足りない。底が浅い。
そうするだけの価値のない作品はつまらない。
本格なら、それが傑作なら、後期クイーン問題の影は切り離せない。
後期クイーン問題は本格の基礎で初歩でそのまた、手ほどきだろ。
その基本つきつめて、なぜ掟に従うのか、操りの究極として、
聖書の十戒をなぜ人が従いかつ破るのか問うた、十日間の不思議や、
究極の固有名、生まれざる子供を問うた九尾の猫とかのクイーン、
法月は素敵やん。 > ID:mGf6Qt7l
ほとんどの作家、ほとんどの読者は、余詰めがない作品のほうが好ましいと思ってるよ
余詰めがない作品は物足りないとか、意味わかんねー
なんか、余詰めを排除する努力をしてきた作家を全否定してるように見えるんだけど
中でも後期クイーン的問題をありがたがって論じてるような作家の努力を ん、だからうまく制限して作者の介入が効果発揮してんなら、
それはそれでいいんじゃない?
余詰めが成り立つか成り立たないかのせめぎ合いが、魅力なわけで。
後期クイーン問題は世詰め排除する作者の努力を称えてる。
本質的に他に解答がありうる不完全情報の決定不能だからこそ、
決定可能を導き出せるのが価値があるわけで。
余詰めのない魅力も、余詰めの可能性あってこそでしょ?
余詰めのない魅力も、余詰めの可能性あってこそでしょ? 後期クイーン命題自体はゲーム理論とかの応用の一種で、
単なる法則、単なる事実だから。
否定したってしようがない。
不完全情報下で多人数の駆け引きあるなら、
唯一の答えを導き出せることは保証されない。
これは単なる事実だから。
答えが一意的にしかありえない、
数学や論理パズルのような問題にするのもありだけど、
そればかりじゃあじけない。
単なるなぞなぞじゃつまらない。
不完全な情報下、小説なんだから、他にも様々な解釈あるけども、
物語として、人間的事実として、そういう所に落ち着くのが納得できる。
そういうのが求められてるわけで。
実際、謎があって何故こうなったかわからないが、
なるほど、こういうわけがあるからこうしたのか。
この人物ならこうするわ。
あるいは、こういう特殊な状況だったからこうせざるを得なかったのか。
そういう鍵穴と鍵がはまる快感がある時、評判もいいので。
それには不完全情報下での決定不能性が重要な要素だし。
たまには論理パズルも読みたいけれどw >>247
根本的に勘違いしてるようだ
極端な話、手掛かり不足により犯人が特定出来ないまま終わる小説だって存在しても構わないと思うよ
ただしそういう小説はこのスレとは関係がない >>248
ごめんなさい。馬鹿にかんでふくめるように説明するんで、
本当にくどくなってくどくなって。
本当なら本格読むなら毎度毎度体験してることだから、
説明しなくてもわかることなんだけどね。思い返してもらえれば
馬鹿に説明してるとこちらも馬鹿っぽくなる。 法月と笠井の高等数学教室
法月「半径7cmの円の面積は?」
笠井「簡単だよ。49π平方センチメートル!」
法月「実は、この7は7に見えるけど実は1と書いて有ったんだよ!だから答はπ平方センチメートル! これこそゲーデル不完全性定理!!」
笠井「おーー!これはすごいだがやー!一本取られたぜ!」
法月「 では、この たて2cm、よこ4cmの
ちょう ほうけいに
ひも をまくと何cm?」
笠井「 わかったぜ!
ちょうひも理論!」
法月「くそぉーーー!解かれてしまったぜ!じゃあ俺は、ひもを観測するから観測問題だ!」
笠井「やるな!じゃあ、おれはチューリングテスト!!!!」
法月・笠井「俺たち、賢いだろう!インテリだろう!!!!すごいだろう!!!!」
まわりの人たち「プっ」(失笑)
>>252
何か荒らしがわいてきてるな。
馬鹿はしょうがない。
意味もわからずにw
後期クイーン問題とか小学生にもわかる当たり前なことなのに。
それだけの頭もないんだろうwww 同じ手数で何通りもの余詰めがある詰め将棋を意図的に作っのだとしたら、
それはそれで評価されるだろう。
ある特定の駒で合い駒された場面のみ詰まない局面を想定して、
(積め方が使用しないにもかかわらず)その駒を持ち駒にしておくという手法もミステリなら可能。
最悪なのは、余詰めありどころか、全く詰まない不完全な作品であるにもかかわらず、作者が自覚していない場合。