後期クイーン的問題とかってくだらない。
第一の問題
「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」
第二の問題
「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」
もっともらしい名前がついてるけど、こんなんの問題でもなんでもないじゃん。
第一の問題は現実でもそうでしょ。作中に限らない。
法廷に出された証拠がすべてで後は存在しないなんて思ってる人いるの?
新情報が出て判決が覆され、冤罪が証明されることもある。
第二問題なんて、問題ですらないじゃん。こんなの問題視するほうがどうかしてるだろ。
ほとんどのミステリーは探偵が指摘した後、ちゃんと司法の裁きを受けてる。
探偵が神だなんて誰も言ってないだろ。
探偵の存在そのものが事件に与える影響というが、そんなの警察でも一緒でしょ。
警察の捜査から逃れるために、証拠を隠滅するために、殺人を起こすことだってある。 まあ日本でも自分が神のごとくふるまう変な首長とかいるから
若干問題にした方が良い >>25
だからよ、神のように振舞ってないんだっつーの、探偵は。
神のように振舞った探偵って誰よ?
具体的な名前を挙げてみろよ。
キリスト教が背景ってアホか?
お前、キリスト教の神って理解してるのか?
唯一神にして全知全能だぞ。
そんな探偵がどこにいる?
神を名乗れる人間はイエスだけだ。
自分はイエスだと名乗った探偵がいるのか?
キリスト教も知らんくせにいい加減なこと言うなよ。 つーか、普通に作品の中で犯人を指摘し、真相を証明できてるだろ。ゲーデルとか関係ない
神のように有能な探偵がいたって悪くはないと思う俺からすれば
素人探偵の分際で警察のコネを使って好き放題に振舞うことのほうが、よほど気に喰わない 2011年度版「このミステリーがすごい!」から、法月さんのエッセイ。
『十代の刷り込みのせいか、いまだに名探偵の推理は間違ってるのが当たり前、
というミステリ観に縛られている気がします。』 法月さん関西人だからなぁ
探偵のフリにそれちゃうやろって言わないと気がすまないのは仕方がない 後期クイーン的問題を知るために最適な本を教えてください 後期クイーン的問題など存在しない。
高尚に見せたい奴の戯言に過ぎない。 作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか、頭のわるいミステリ作家には証明できないこと 作中で犯人が示した解決が、本当に真の解決かどうかは、犯人にはわかる つーか、こんなしょうもないことに「○○問題」とかもっともらしいミステリーオタの厨二病さが一番の問題だろw
>>1を叩いてるやつも、結局何が問題なのか答えられないし。 法月がゲーデルやらの権威を持ち出して地位を高めたかっただけだろ
自分とクイーンを同一視するとこうなる
後期クイーン的問題とかいってないで法月問題っていえばいいのにね 法月はパフォーマンスって感じもするがクイーンもそうとう病んでるな クイーンはただ複雑なパズルと面白い小説を作ろうとしただけで、病んでるとまでは思わんな >>36
バーロー、犯人を推理で追い詰めて自殺させちまうのと変わんねーよ。 ミステリ初心者の私に
ここで言われているクイーン信者と森博司の信者と言われる人たちの違いをわかりやすく説明してくれませんか。
同一な部分もできれば >>43
なんか納得いかないんだけどな
自殺するかどうかはやっぱり犯人の問題じゃないの? 基本的には読者からすれば問題そのものは下らないと言って差し支えない
読者には面白いか詰まらないかの一番大事な訳で
フェアアンフェアはある程度重要だけどそれだけが全てじゃないし
問題は作家の視点に立った場合でしょ
作家が本格ミステリー書く場合当然先に真相を用意してるけど
おなじ枠の事件で別の真相が作れるか作れないかを判断するのは存外難しい
で一般の本格ミステリー好きよりも本格ミステリーを愛してやまない一部作家は
その部分に拘り過ぎて筆が進まなくなると >>52
だからそれは現実でも同じなんだって
別の真相、別の犯人が存在する可能性は現実の事件でも常にある
小説だけに固有の問題なんて特にない
後期クイーン的問題なんてものは、くだらないというよりも、存在しないと言ったほうが正確
頭が混乱した作家が、存在しないものを存在すると勘違いしてるだけ 現実の事件は、一作家がどうこうすることなどできないものだけれど、
小説は、一作家がどうこうしなきゃいけないものだろうが。
まあ僕も、後期クイーン問題に拘り過ぎて書けなくなるなんてのは、本末転倒と思うが、
後期クイーン問題に拘る事を、「地位を高めたかっただけ」とやら言って切って捨てている意見には、同意できないよな。 現実の事件となんで同列に語ろうとしてるのかが良くわからんのだが…
手がかりは全て提示されたって言葉で象徴される本格ミステリーの
ルールというか、作者読者の前提がどうなのよって話をしてる時に
全然関係ない現実の事件を持ち出しても何の話にもならんでしょ?
サッカーでバックパスは禁止ってルールがあって、頭でGKに渡すのはありなのかなしなのか
を話してるのに、ラグビーじゃ後ろにパスしても良いんだよ
って言ってるぐらいズレてると思うんだが >>55
スマン、俺勘違いしてたかも
第一の問題について俺は「真犯人を当てることは現実では可能だが小説では不可能」という意味だと解釈した
この解釈に対しては「現実でも小説でも不可能、よって小説固有の問題など存在しない」というのが俺の意見
第二の問題については、まさに何が問題なのか分からん
これが問題だとすると、ミステリーに限らず古代文学から現代の小説まで全否定されちゃう
>>1やウィキを読んで俺は後期クイーン的問題とはこういうことなのだと解釈した
この解釈は間違ってるのかな? 後期クイーン的問題って一体なんなんだ?
法月を読むしかないのか、あるいは>>1が説明不足なら誰か補足してほしい
自分なりの言葉で書こうとして長文になりすぎて諦めたw >>14
でも、実際にそういう批判してる読者なんているの?
アクロイド殺しの別解を書いてる本とかむしろ嬉々としてやってるけど 私も>>1の意見に賛成。
探偵小説において、「神の立場」にいるのは作者であり、作者は当然
真相を知っている。一方、登場人物の一人にすぎない探偵はすべて
の情報を知り得ない存在である。
1 第一の問題
犯人によって「偽の手がかり」がばらまかれた場合に、探偵はどの手掛か
りが真でどの手掛かりが偽か判断できず、論理的に正解にたどり着けなく
なることを問題にしているようだ。探偵は当て推量でしか真相を言い当てる
ことが出来ないというわけである。「偽の手がかり」がばらまかれる可能性を
考慮すると、確かに論理的に推理することは不可能だろう(「偽の手がかり」
をばらまくということは犯人にとって目撃されるなどのリスクを負うことでもある
が)。作者が取るべき道は、当て推量を含む探偵小説を書くか、与えられ
た手がかりはすべて真であると割り切って本格ミステリの探偵小説を書くか、
探偵小説を書くことをあきらめるかのいずれかである。悩んでも無駄である。
2 第二の問題
探偵は一般的に推理を披露するのみで、犯人の処遇は警察や司法
に委ねられるので、「神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決
定する」ことはないと言える。この問題の趣旨は「探偵が捜査に参加する
ことあるいは犯人を指摘することにより、本来起きるべきではなかった犯罪
が起き、犠牲者が増えてしまうことへの責任をどう考えるのか」ということのよ
うだ。しかし、これも「神の立場」にいる作者のさじ加減次第でどうにでも
なることだし、フィクションなのだから犠牲者が増えることに責任を感じる必要
はない。そもそも、探偵が捜査に参加することや犯人を指摘することを否定
したら、探偵小説は成立しない。
つまり、後期クイーン問題というのは、「神の立場」にいる作者がわざわざ登場
人物のレベルまで下がって悩むような問題ではないのである。 >>61
同意
法月の書いたものを読んでも、実態のない問題に汲々としてる印象が強いよ 犯人がばら撒く「偽の手掛かり」を、論理的思考で「これは偽だ」と指摘して、
真の手掛かりのみを掬い上げるようなストーリーに纏め上げれば、溜飲が下がる事この上ないと思う。 『災厄の街』で間違った容疑者を追い詰めようとしていた検事が陪審員に言った
「確実な証拠とは、現行犯逮捕のことに他ならない」というセリフもこの問題を暗示してたのか >>63
でもそれすら真犯人の・・・って疑い始めたらきりがないよね
所詮はその程度の問題でしかないと思う >>65
『名探偵登場』
>>63
『刑事コロンボ』
映像作品だけど実例ではこんな感じ 問題の本質を理解して語れよと言いたくなるレスがちらほら >>67
ゆとりなんで、あなたが理解されてるであろう、問題の本質とやらを
ぜひ教えてください。 自分はわかってるってアピールするだけで理由を書かなかったら意味がないと思う
>>1含めこの問題を疑問視してる人はそこはちゃんと書いてるわけだから 確かにこれは後期クィーン的問題というよりも、法月厨2病問題と呼んだほうがいいかもしれないな。
不確定性原理と不完全性定理を中二丸出しで、ムリヤリミステリーにこじつけただけ。
クィーンと不確定性原理、不完全性定理3つを自分の説の権威付けに利用してるだけじゃねーか。
これをくだらないと言わずして何をくだらんと言うのだろうか。 後期クイーン問題というより、法月問題ではないか?という意見は、確かに「なるほど」と思った。
ただ、「権威付けだ」とまで言って貶める必要は無いと思う。
ヤツは、法月は、本気だ。 とりあえずもう一回「十日間の不思議」と「九尾の猫」と「第八の日」
読み返そうぜ >作者が取るべき道は、当て推量を含む探偵小説を書くか、与えられ
>た手がかりはすべて真であると割り切って本格ミステリの探偵小説を書くか、
>探偵小説を書くことをあきらめるかのいずれかである。
三人称小説の中で、ナレーターが真相を述べるだけで解決するよ
ナレーターの発言を真実とみなすことによって小説は成り立ってる
「おじいさんは山へ芝刈りに行った」と書いてあれば、これは確実に真実なのだ
これすら認めないのであれば、ミステリーに限らずあらゆるジャンルの小説・ドラマ・映画は崩壊する
探偵の一人称小説であれば、その推理には常に間違いの可能性が残る(これは現実でも同じ)
だが三人称小説でナレーターが探偵の正しさを保証してやれば、間違いの可能性はゼロだ
結論:やはり後期クイーン的問題など存在しない、としか言いようがない
第二の問題の「神であるかのように振る舞い」のところ、
ヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスも、
バーナビー・ロスのドルリー・レーンも、
自らの手で犯人を裁いて、なんの咎めも受けなかったことがある。
これは問題のあることだとは思うけど、
作者と読者の各々の中に答えを求めるべき問題であって、
第一の問題とは性格が全然違う気がする。 上手く言えないが
第一も第二も作中の探偵が作中の人物として、その中で悩む問題、という事なんだろうか
現実なら「そんな事言ってもしょーがねーだろ」って話にはなるんだろうが
この時代の海外のミステリの平均レベルってどんなものなんだろ
日本にくるのは当然傑作ばかりなわけで カーのアンリ・バンコランは、
犯人と分かってる(本人も自白している)のに証拠が無くて捕まえられないヤツがいて、
「うう、くやしいのう、くやしいのう」と嘆いていたら、調子に乗った犯人が二階から足踏み外して首に縄が掛かって首吊り状態になり、
それを見て、ヘイ!ラッキーとばかりに口笛吹いて喜んだ、という描写がある。
シムノンのメグレ警部は、
ある国(まあフランスだろな)で死刑になるような罪を犯したヤツが、死刑の無い国へ行ってもう一度犯罪をし、
その国で逮捕されることによって死刑から免れようと画策したのを、メグレが何とか水際で阻止し、
ラスト犯人の肩をポンと叩きながら、「♪さあw絞首台が君を待っているよww」と話しかける描写がある。
法月倫太郎は、
ラスト犯人の自殺を見逃した後に、実は裏で全てを画策していた存在がいることが分かり(いわゆる“あやつり”だな)、
「ああ僕は今後期クイーン問題に直面しているぅ」と、気持ち良さげにどっぷり浸っている描写があったな。 インテリおよびインテリもどきは、ありもしない問題を自分ででっちあげて、
それに頭を悩ませるという、マッチポンプどころか、マッチガソリンな
人種だからなあ・・・ マッチガソリンwww
確かにそういう人いるよなぁ
哲学者なんて特にそう 後期なんちゃら問題みたいに
火消しの楽しみもあるってもんよw しばしば目にする、不確定性原理どうこうって言い出したの法月さんなの?
個人的には一番大事な点はそこじゃないと思うんだけど この問題はダークナイトディテクティブことバットマンに与えよう まあ結論としては、悩みたいやつは勝手に悩め。
でもそれは自慰だから、公の場で愚図愚図いうな。
というところでしょうか。 後期クイーン問題そのものを、エンタメとして歓迎する勢力があるならば、
これからも公の場で繰り返し語られるであろうよ。 >>27
遅レスだが、麻耶雄嵩の神様ゲームがあるよ クイーンの後期作について、海外ではなにか論じれらてるの?
代筆作があるとか、そういうことじゃなくてw http://umineco.info/?%E5%B0%8F%E5%86%8A%E5%AD%90
後期クィーン的問題って、この竜騎士がアホっぽく語ってること?
真相は次々と上書きされる可能性を否定できないって。
「綿流し編」「目明し編」の例を挙げてるけど、でも、あんなの単純に物証がないのに勝手に
決め付けてるからでしょ。
推理だけだったら、そりゃ、いくらでも真相が上書き可能だよ。
指紋、毛髪、皮膚、衣類の繊維、あらゆる物証を電子顕微鏡レベルで徹底的に調べたら、間違った推理は
かなり排除できる。
双子のすり替えトリックだって、指紋を調べてないから起こるんでしょ。
だいたい推理だけで行き着いた答えなんか真相とは言わないでしょ。
膨大な物証の裏づけがあって、初めて真相と呼ばれるわけだし。
クィーン的問題と言うよりも、単純にミステリー全般が物証を軽視しているだけじゃないの?
目撃証言だって、偽証罪が成立する法廷だからこそ信頼性が保たれるんだし。
推理だけだったら、そりゃ、正解かどうかは決定できんわ。
まあ、警察が本気出して毛髪、皮膚、衣類の繊維レベルで調べ始めたら、もはや名探偵の出番なんかなくなるけど。 そもそもの話として、
竜騎士は「後期クイーン問題」という用語だけ持って来て
「推理しろ!俺に挑戦しろ!
でも出題編の範囲は俺が自分のさじ加減で思い通りに引き延ばすけどさ。
その間どんどん改変してくぜプゲラ」
っていう言い訳の煙幕にしてるだけ
(他にもこの人物の「用語の俺様解釈」は枚挙に暇がない。
「悪魔の証明」然り「ヘンペルのカラス」「ノックスの十戒」然り)。
「後期クイーン問題」を問題化すること自体には賛否あるかもだけど、
挑戦型ミステリを緻密に作ろうとしたがゆえに悩んでる人たちと
整合性も何もとっ散らかし放題で居直ってる人間を一緒にしたらさすがに失礼でしょう。 自分を賢く見せようと思って長々と文章を書いてみたが
かえってアホぶりが露呈してしまった、というのはよくある光景
>>90のリンク先もそう
後期クイーン問題の信者ってあんなのばっかなの? なんか、後期クィーン問題とか言ってる奴は、本格ミステリーを基本的に過大評価しすぎなんだよ。
だから読者に対する挑戦の厳密性だの、本格は必ず合理的に考えたら答えにたどり着かなきゃいけない
だの妙な堅苦しさが生まれる。
フィクションの小説なんだよ。数学の問題でも、詰め将棋の問題でもない。
厳密にルールが決まってるわけじゃないし、しょせん盤上のことしか考えない詰め将棋と違って、
小説は変数が多すぎる。疑おうと思ったらありとあらゆることが疑える。問題として成立しないんだよ。
クローズサークルは本当に閉じられているのか? 抜け道はないのか?
密室に抜け穴はないのか? 証言者に偽証はないのか? 本当に被疑者はこのなかの登場人物だけなのか?
同姓同名の人物なだけではないのか? この人物は本当に男なのか?
詰め将棋に穴があったら問題だけど、むしろ穴のない本格ミステリーなんかないだろ。
みんなそんなことわかってプロレス的に楽しんでるのに、ミステリー作家が自意識過剰になって
妙なこと気にしすぎなんだよ。
本格ミステリーは人間の遊び心の産物であって、論理主義や合理主義とは何の関係もない。
しょせんプロレスはプロレス。ガチにはなれないんだから。
才能が尽きて行き詰った法月が、自分のスランプをクィーン問題のせいにしてるだけだろ。
ただのいいわけ。それ以上でもそれ以下でもない。 後期クイーン問題はおわコン。
法月もおわコン。
以上 >>93
好意的に考えると、その自作自演のマッチガソリンの中から、
なにか新しい形のミステリーが生まれないかって、もがいてるように
見えなくもないが。
どうせ無駄だろうけど。
それに、法月は本気で悩んでるっぽいが、竜騎士は、
ミステリー初心者を煙にまいて、これまで誰も作ったことのない物語
”っぽい”ものを、俺は作ったぞと、みせかけているだけって気がする。
なんつーか、単なるパッケージングというか、
クィーン問題を、売りのための道具として使ってるよな。 評論って行為自体がある程度プロレス的な面を持ってるから
あんまり厳密に突っ込むのも野暮かなって気がする 適当にWebを漁った上での印象だけど、
"名探偵からの挑戦状、手掛かりは全て示された
論理的に推理すれば真相は自ずと解き明かされる"
みたいな文章で示される形式美が問題の根っこかな
でミステリーを書く作家は当然何らかの真相を前提に話を書いているんだろうけど
自分の想定した以外の真相が存在しないことを証明出来ないから困っちゃうのかな?
毒チョコとかはこれを逆手に取ってる訳だし、後期クイーン問題の解決方法とかで挙げられる
何点かの作品もこういう形式美からはずれちゃうんだよね
この形式美だけがミステリーの全てじゃないのは言うまでもないことだけど
これに魅了される読者も作家も居続けるのは確かだと思うんだよ
でどちらかと言えばこういう形式美も好きな自分からすると
このスレで後期クイーン問題なんて下らないとかそういう意見を見ると
この形式美まで否定しているように思えるんだけどどうなんだろう? いい意見だな。
新本格とかにはまっちゃうとそういうのは理解できなくなるのかも。 後期クイーン問題って、挑戦状がない作品は問題視してないの?
俺法月の論文読んでないんだけど、クイーンのネタバレしてると思うからまだ読めない
先に読んでおくべきクイーンの作品を教えてください 「あしながおじさん」でも、クイーン問題ってあてはまるよ。
作中でヒロイン(ジュディ)とあしながおじさん(ジャービス)が結ばれたことが、
真実かどうか作中では証明できないよな。
この話は全部ヒロインの妄想でした、もしくはおじさんの妄想でした
って一文をつけくわえたら全部ひっくり返るわけだし、書かれてないからって、
そうじゃない保障はない。
・実は2人ともM78星雲からやってきた宇宙人でした。
・ヒロインはおじさんの正体を知っていて、騙されたフリをして逆に操っていた。
などなども、書かれてないからって完全には否定できないし、
そうじゃないとも誰も証明できない。
また、あしながおじさんは、裏から手をのばしてヒロインの運命を、神のごとく扱って、
最後は自分のものにしちゃうけど、倫理的問題はさておき、これが否定されたら
物語として成立しないな。
じゃあ、探偵とあしながおじさんの差ってなによ?って問いかけたら、
法月は答えられるのかねえ?
俺には目的が違うだけで、他人の運命を操るって点では同じにしか見えない。 もっと言えば、普通の日常生活を描いた小説で、
母親が「ハンカチ忘れちゃだめよ」と息子に言ったとする。
そして息子はハンカチをポケットに入れた。そのおかげで、
学校のトイレで手を洗った時に拭けた。
これも立派に他人の運命を操ってるよな。
母親の言葉で、トイレで息子はハンカチで手を拭けた。
探偵の言葉で、事件の真相は暴かれ、犯人が捕まった。
探偵とこの母親の差ってなに?他人の運命を操ったって点で、
まったく同じやん。 勘違いっつうか、何か、後期クイーン問題に一言述べたい一言反論しておきたいという思いが先走りとなって、
とりあえず「おれのかんがえたさいきょうのこうきくいーんもんだいだとうろん」を展開してみたが、
的外れ勘違いの産物でしかなくなってるという…… とりあえず何か言っておかないと気が済まない典型的なゆとり体質ですかね。 「おれのかんがえたあんちこうきくいーんもんだいにはこうかえせ」www
>このスレで後期クイーン問題なんて下らないとかそういう意見を見ると
>この形式美まで否定しているように思えるんだけどどうなんだろう?
逆だよ
後期クイーン問題否定派は「挑戦状を挿入したければご自由に」という意見でしょ このスレで>>103や>>105みたいに、誰かがクイーン問題についてお前のクイーン問題の解釈は
間違ってるだの、的外れだのって言い出す奴が、これまで何度か出ているんだけど、
じゃあ、どう勘違いしてるか具体的に言ってみろって聞くと、
みんな黙っちゃうんだよねw
「おれのかんがえたさいきょうのこうきくいーんもんだいだとうろん」
とやらを出す方が、一応は自分の意見を述べてるわけで、まだマシだな。
>>103や>>105は、ただ勘違いしてるってだけで、なに一つ具体的な理由を
言わないんだから。 「勘違いの理由」って勘違いしてる方にあるんじゃね?普通w 自分に原因を探らないで他人を頼ることしかできない、
他人が自分の満足する回答を与えてくれないとすぐキレる、
それが後期ユトリ問題 追いつめられるとゆとりを連発するのが前期ユトリ問題ですねw 何か言われたら言い返さずにはいられない。
それが真のゆとり魂。
ゆとりナメたらあかんで。 >>110はわざと挑発的に書いて、反応を待ってたんだが、
みなさんの意見はよーくわかりました。
つまり、やっぱり何も説明できないのね。
むしろ、ゆとりがクイーン問題の本当の意味を勘違いしてるのを
具体的に指摘してくれる、ご立派な教育を受けた非ゆとりの賢者が
登場するのを期待してたのに・・・
>>117
まったくだ。
マジックワードを連呼するだけで、一切、議論に踏み込んでこない。
なぜ、ゆとりが勘違いしているか、具体的に説明をまったくしない。
”満足する回答を与えてくれないと切れるのが、後期ゆとり問題”だってw
回答自体してないくせになにを言ってんだか・・・だめだこりゃ。
ま、要するにこいつらは、ゆとり以下のチキンなチンカスってことですな。 で、俺に対するレスが、ゆとり顔真っ赤www・・・とかなんとか書いてくるんでしょ?
別に顔色なんぞ赤でも黒でもいいけど、具体的にどう勘違いしてるかは
今度もまた書いてこねえだろうなw
だって本当は反論するネタなんて最初っから無いんだろうしw
ちなみに俺は>>101-102を書いた者で、もちろん>>1にも>>93にも大賛成だ。
というか、俺の書いた例え話など、所詮>>1のバリエーションに過ぎない。
これらに対して反論があるなら、いつでも聞く耳は持つ。
それがちゃんと納得できるものなら、こちらも意見を改めるよ。 >>109
それはつまり、上で書いた形式に対してどういうスタンスになるんだろ?
名探偵からの挑戦状なんてどうでもいいから好きにすればいい、ということなのか
名探偵からの挑戦状に価値を見出してるからこそとにかく作品を発表してくれということなのか まあまあ、意見があるならちゃんと書き込んで、それをみんなで見れば良いじゃん
ゆとりがどうのこうのマジックワードがどうのこうのみたいな無駄な駆け引きはやめて、中身のあるレスをしようぜ 挑戦状つけたら「後期クイーン問題」と呼ばれるものが一律に発生するのかね?
もしそうならつけないのも手だぜw
挑戦状と関係ないんだったらそれこそご自由にとしか言い様がない。
>>109
うん、逆だと思う
その形式美だか様式美にしてもある程度はお約束として妥協している部分があるわけで
後期クイーン問題にこだわり過ぎること自体がそれを否定してるって気もする