うちの地元の水はうまいと自慢していた町が、実は上下水道の老朽化のため、
水道水に糞尿の下水が混ざり込んで独特の味がついていたという話を、むかし
伊丹十三の『日本世間噺大系』で読んだことがある。
町の住人は、よそから来た人たちにも自慢の水をすすめていたという。

人間の感覚とはそんなもの。
だから、宇野利泰訳サイコー! という人がいても自分はとくに驚かない。
しかし、汚染水と違い、いくら読んでも健康には害がないからといって、宇野訳を
むやみに持ち上げ人にすすめるのは、どうかと思う。

幸いなことに、彼の翻訳の問題は、今や多くの人たちの知るところとなり、着々と
改訳作業も進行しているし、この流れは止まらないと思う。
(宇野訳を読んできた読者にも、原作の本当の姿を見られるという楽しみがある)

ただし宇野氏の翻訳も、日本誤訳遺産として、残す価値はあるように思う。
これほどの誤訳の宝庫は珍しいし、誤訳という深遠な世界には、斬新かつ意表を
つく面白さがあふれているからだ。
したがって、誤訳遺産のラベル付なら、従来の翻訳を残すことに賛成してもいい。

原書を紐解き、かたわらに誤訳だらけの本を広げてみれば――
そこには、めくるめく驚異に満ちた誤訳ワンダーランドが広がっているはずである。