そもそも夫余は呉王の弟「夫慨」の子孫。

「史記-呉太伯」闔閭10(505)年、夫概を攻める。夫概は破れて楚に奔走する。
「風俗通義 廣韻〜餘」呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。
(今の百済王夫餘氏)[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]

・「呉王 闔閭」が楚を攻略中に、留守居の弟王「夫概」は楚と通じてクーデターを起こし、呉を実効支配した。
・闔閭は直ちに取って返して呉を奪い返し、夫概は楚に奔走した。呉に残された夫概の子らは呉におられず、
半島北部、さらに西部に逃げて、高句麗や百済の始祖となった。

・呉は元をたどれば(倭国の大夫も名乗った)周の王子「太伯」の末裔で、江南の東夷系の水生種族。
その東夷が北進して、北方ツングース族の地で王家となって国を建てたのが高句麗。

・高句麗王家も百済王家も、もちろん朝鮮人じゃない。
・ちなみに「正統な呉王家」の末裔は、新撰氏姓録によれば、結局日本にやってきている。

そのため高句麗には
1)四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)信仰がある。(玄武すなわち変温動物の蛇や亀が北にある)
2)織媛(七夕)や北斗七星、北辰といった夷族系の星信仰がある
3)江南発祥とされる「支石墓」がある。
4)高床式建築がある。
5)建国の始祖朱蒙(あるいは東明王)は天帝と河神の子であり、追手に攻められたとき魚(トーテム)族に助けられた。
6)朱蒙は弓の善射という意味だが、弓は北方系の短弓ではなく夷族の長弓。
というように高句麗王家は、実は北方騎馬民族要素は少なく(江南の)水生夷族系の文化を多く持つ。