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倭人の倭が何を意味するのかは判らないのだが、
倭人が自分の出自を倭から来たと言った可能性は高い。
中国人にとって、倭人は東臨大海から来た人であり、
倭人は、古代より、海の神をワダツミ、陸の神をヤマツミと言った。
この倭人の海のワ・ワタが、漢字の倭なのではないかと思うが、どうだろう?
>倭人と云われる人達は自分の事を
「わし・われ・わたし・わたい・わが・あ」とか「わ」をよく使うので
「倭」と付けられたのでは説がある。 >これは、700年前後の記紀より200年程前の目に触れない墓誌からの史実だけど、
三者の記録がピッタリ一致するのは、別に原資料が有ったと思われる。
よって、記紀なども決してデタラメを記録したもので無い事が証明される。
『日本書紀』継体紀 「(継体)十七年(癸卯=五二三)夏五月、百済王武寧薨」
『三国史記』百済本紀「(武寧)二十三年(癸卯=五二三)夏五月、王薨、諡曰武寧」
[武寧王墓誌銘] 「寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戎朔七日壬辰崩」 崇神天皇は長浜説で241年崩御が...古事記だと258年...318年説も根強い
垂仁天皇の崩年干支「辛未」発見で。崇神崩年干支「戊寅」を318年から258年が妥当か
垂仁天皇の崩年干支「辛未」...311年 『住吉大社神代記』崩年干支「辛未」
景行天皇の崩年干支 古事記記載なし だいたい中間とって333年ころか?
成務天皇は長浜説で350年崩御が...古事記だと355年
仲哀天皇は長浜説で355年崩御が...古事記だと362年
神功皇后の崩年干支 住吉大社本では大体370〜380年ごろの崩御だろうと推定
応神天皇は長浜説で410年崩御が...古事記だと394年
仁徳天皇は長浜説で428年崩御が...古事記だと427年 魏志馬韓伝、にある国々で下の8か国はすでに卑弥呼時代(3世紀)には、
邪馬台国の軍事勢力圏に入ってたと考えられる。
これらは邪馬台国時代の軍事的長(卑奴母離)を(卑離)と記録者が簡略化したのだと思う。
卑離(ヒリ)国
占離卑(センリヒ)国 ←(単に写し間違いと思われる)
監奚卑離(カンケイヒリ)国
内卑離(ダイヒリ)国
辟卑離(ヘキヒリ)国
牟盧卑離(ボウロヒリ)国
如来卑離(ジョライヒリ)国
楚山塗卑離(ショサントヒリ)国 ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、
3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国の国境を守備する軍事的長の名称。
後に地名、駅名、神社名等に残る。
またヒナモリの「モリ (守) 肥後守ひごのかみ」などカバネとしても使われた。
邪馬台国時代の軍事的長。
『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、
および不弥国の副官に「卑奴母離」(ヒナモリ)がいたことを伝えている。
これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、
外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えらる。 4世紀は高句麗によって楽浪郡を滅ぼされ(313年)中原の支配から解放され
伯済國は百済へと斯盧國は新羅へと纏まって建国して行ったんだろう。
南部の倭人地域は混乱したが卑奴母離(ヒナモリ)などの
一定の軍事力は保持してただろうが、北部から高句麗勢の軍事力をバックに
南下政策をとった過程で倭国の勢力地域も侵され高句麗、百済、新羅、倭国の
四ツ巴、戦闘状態の天地が引っくり返る様な状態な時 そこで、登場したのが「神功皇后」で息長氏の先祖が新羅王アメノヒボコ。
おいっ、待てよ、新羅は我が先祖の領地だぞよと、
昔の三韓の領地を還せと、返還しないなら征伐だと、その過程が例の下の好太王碑文。
百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。
ところが、倭が辛卯の年(391年)以来、海をこえて襲来し、
百済や新羅などを破り、臣民とした。百済とは七支刀を送り同盟関係が出来てた。
そこで好太王は、396年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。 この過程を表したのが例の、倭王武の上表文。
478年,中国南朝の宋に倭王武(雄略天皇)が送った上表文。
「宋書」倭国伝にみえる。武は上表で、東は毛人(えみし)55国を、
西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一、
さらに海北の朝鮮半島南部95国を平定したと誇示したうえで、
475年に百済(くだら)の21代蓋鹵(がいろ)王を殺した高句麗に対抗するため、
「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、
安東大将軍、倭国王」の称号を求めた。
が、すでに宋に朝貢している百済を除いた称号は認められた。 七支刀。
日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが
記述されているが、この七支刀献上に関して、
日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ
「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。
紀年論によるとこの年が372年にあたり、
年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。
銘文の冒頭には「泰□四年」の文字が確認でき、「泰」は「太」と音通するため。
東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、吉田晶、浜田耕策ら)。 >謎の4世紀とは、こんなもんか??
邪馬台国の女王卑弥呼が(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年)ころ亡くなって
倭国騒動で女王豊トヨが共立され、
時期は10代崇神〜11代垂仁天皇(伊支馬イクメ・イリヒコ)(260年頃から〜)
(310年頃から?)
4世紀、この頃、高句麗と楽浪郡との攻防で半島は大混乱期
倭国は卑弥呼時代からの九州熊襲討伐、12代景行、ヤマトタケルで奮戦中。
西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一を目指し中。
(360年頃かな?)
そして14代天皇仲哀天皇9年2月の崩御、遺志を継ぎ、
女豪族・田油津姫を討ち、熊襲の支援国新羅征伐へと方向転換し、
百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」「七枝刀」372年。
三韓征伐へと向かう辛卯年(391年)の出来事。 邪馬台国女王卑弥呼、(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年)
狗奴国の討伐。 第8代孝元〜9代開化天皇時代と思われる。
ヤマト兵と魏の軍とで狗奴国の討伐しようと画策する。
第12代景行天皇や皇子ヤマトタケルに熊襲討伐。
クマソタケル(熊襲梟帥)とは、大和朝廷に抵抗した熊襲の首長。
熊襲は頭を渠帥者(イサオ)と呼び、2人おり、
その下に多くの小集団の頭たる梟帥(タケル)がいたと記している。
渠帥(きょすい)悪人のかしら。反抗者の頭目。 神功皇后の九州熊襲征伐。
天皇の九州熊襲征伐に随伴する。第14代天皇仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して
遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。
女豪族・田油津姫を討ち、熊襲の支援国新羅を攻め降した。三韓征伐。
第26代継体天皇(当時の呼称は大王)時代の527年6月、筑紫国造磐井の反乱。
新羅と九州北部の豪族・筑紫国造磐井が手を結び、
ヤマト政権の朝鮮への出兵阻止しようとした。
第37代斉明天皇7年7月24日遠征中の九州朝倉宮で死去。68歳。
第35代皇極天皇(在位:642年2月19日重祚し第37代斉明天皇-661年7月24日)。
660年、唐・新羅の連合軍に百済が滅ぼされたことを知り、
百済再興のため、朝鮮半島に援軍派遣を決定。 倭の奴国王が東征し、空白になった実家、奴国に
南九州勢、肥国、熊襲が進出し大和=大倭=邪馬台連合国と対立するようになった
これは、けしからんと言う事で討伐の対照に、黒幕がどうも半島勢力がチラホラと。
渠帥者とは中華世界での反抗者の事で
どうも高句麗、扶余など半島戦乱時に亡命者やら敗残兵が、長崎島原ルートで
九州南部に逃げ込んだ者たちが、後に熊襲化し何百年もの反骨心が育ったのかも
肥前、肥後、日向、薩摩、と云えば日本史の世界ではいつも反中央勢力。 『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡-297年(陳寿の没年)
魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如……」
国史大辞典万葉仮名 「を」 袁 遠 乎 越 呼 怨 烏 弘 塢 嗚
弁辰亦十二國、弁辰 彌烏邪馬國(みをやま・みわやま)国 三輪山(みわやま)国 其瀆盧国與倭接界 十二國亦有王 其人形皆大 衣服巨エ長髪
「その(弁辰の)瀆盧国は倭と界を接している。十二国には王がいる。
その人はみな大柄である。衣服は清潔で、長髪である。
また広幅の目の細かい布を作る。法俗は特に厳しい。」
馬韓にも辰韓にも王はおらず、臣智という地位が最高だったのに、
弁辰にだけ「城郭」があり、「王」が存在します。辰韓と弁辰の違いはどこからきたのか。
弁辰は倭国王の直轄地だったのでは。 (弁辰の)瀆盧国とは、今の大邱市(テグ)辺りと云われ、
その地が倭と界を接している。
と言う事は、手前の弁辰は倭国、倭国王の支配地と言える。 >良く、邪馬台国は奈良か?九州か?とか古代史ファンの間で議論になるけど
基本的になんか勘違いしてる人多い、学会としてはそれの方が有難いんだろうけど。
『隋書倭国伝』では「倭国は邪靡堆に都す、即ち 『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。」
つまり、倭国=邪馬台連合国の都・首都が奈良ヤマト=邪馬台=邪靡堆だと言い、
当然、都・首都、奈良ヤマトには邪馬台連合国の領土、領海、が有って
その中には、九州北部、筑紫平野や瀬戸内周辺、四国いわゆる畿内、などがメンバー国、
ちょうど、卑弥呼時代には九州南部の狗奴国との対立が有って、筑後平野八女辺りに
邪馬台連合国の駐屯地があり、進駐軍の総督として卑弥呼がいたと云う話。 >>184
の『隋書倭国伝』の使者は、
608年裴世清で奈良ヤマトに行ったのは資料から明らか、
「倭国は邪靡堆に都す、即ち 『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。」を確認した。 >まだ邪馬台連合国は30か国程度で出雲など日本海沿いの国々はまだ
連合国には参加せず狗奴国と同じ状態だったのでは、
卑弥呼が共立されて女王連合国に成ったころには関東以西くらいが邪馬台国の範囲かなと。
そうじゃないと、侍女1000人も抱えられないだろう国力的に。
世界一受けたい授業より。
江戸時代、幕府の中に大奥という機関がありました。
将軍一人のために作られた機関で、女性が300人〜1000人在籍していました。
維持費は幕府の予算の10分の1、今の金額で200億円と言われています。
と言うから古代国家にとっては莫大な費用なりと。いつの時代も女は金がかかるな。 >この岡山、香川、徳島、など備讃地域には「ミマ」と付く地名が多い、
美作みまさか、三間川、美馬、御間都比古神社などなど。
ここで気に成るのが、吉備地方関係者に「友トモ」と付く名。
「投馬トモ」「鞆トモ」「玉島タマ」
第4代 懿徳天皇
大倭日子?友命(おおやまとひこすきとものみこと) - 『古事記』
観松(みまつ)彦香殖稲尊(5代孝昭天皇・百襲姫の祖祖父)
御友別(みともわけ、御友別命)(応神時代)
または吉備 御友別(きび の みともわけ)は、
『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。吉備臣(吉備氏)の遠祖。 卑弥呼は239年(景初3)に難升米ら
(難升米、中臣連の祖。 梨迹臣命(なしとみ) 、梨富命、那志登美、
梨津臣命(なしつおみのみこと)とも表記する。
伊賀津臣命『近江国風土記』逸文では伊香刀美、梨迹臣・伊世理彦、兄弟父。
伊香津臣命とも表記する。
243年(正始4)には伊声耆・掖邪狗ら(伊声耆、梨迹臣命弟、伊世理彦命いせり)
247年、魏に載斯 烏越を派遣し、
指し・差し、越智氏。 天児屋根命(中臣氏祖) → 天押雲命 → 天多禰伎禰命 → 宇佐津臣命 →大御食津臣命 →
伊賀都臣命 → 梨迹臣命(なしとみ) → 神聞勝命 (鹿島神宮、中臣氏の祖) >>188
我家(わぎへ)(wagihe) などは我(waga)の最後の音節の母音と家(ihe)、
我妹(わぎも)(wagimo) などは我(waga)の最後の音節の母音と妹(imo)
の語頭の母音が二重母音になることを避けている。日本人は二重母音が大嫌い!
だから梨迹臣(なしおみ)(nas io mi)の(i又o)どちらかの音を避けて
(なそみ・なしみ)と発音したのだろう。
伊都国の高祖山(たかおや山を taka o ya山のoを外し)も記紀などは
二重母音を外し、高屋山(takayaたかや山)と書いてる。 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡 >これらは伊勢湾沿いの国々。
次有斯馬國(志摩) 次有巳百支國(五百木) 次有伊邪國(伊勢)
次有都支國(土岐) 次有彌奴國(美濃)
>次は大阪から四国太平洋側を通って九州へのルート。
次有好古都國(高津の宮、大阪) 次有不呼國(深日フケ港、大阪の西はし岬町、
次有姐奴國(讃岐) 次有對蘇國(土佐) 。。万葉集にあるフコの港) >次は九州南部から東海岸を北上ルート。
次有蘇奴國(鹿児島、曽於そお郡) 次有呼邑國(宮崎、児湯こゆ郡)
次有華奴蘇奴國(かのさの国、宗像大社のある筑前国宗像郡金埼、鐘崎で記紀にも記載)
>次は畿内に帰っての瀬戸内ルート。
次有鬼國(木津市、淀川支流木津川沿い) 次有為吾國(伊賀) 次有鬼奴國(紀ノ國)
次有邪馬國(山城、京都) 次有躬臣國(くす久須、枚方市樟葉の宮が有った処)
次有巴利國(播磨)次有支惟國(吉備)次有烏奴國(宇佐・穴戸)次有奴國(博多、奴国)
此女王境界所盡 ここは女王の境界尽きる所なり。 旧唐書 「倭国(わこく)は古(いにしえ)の倭奴国(わのなこく)なり」
宋史 「日本国は本(もと)の倭奴国なり」
元史 「日本国は東海の東にあり、古は倭奴国と称した」
南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「南、投馬国に至る。水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ」
↓
南至邪馬臺國 女王之所都 水行十日陸行一月
「南、邪馬臺国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。と………
竹藪だろうと草藪だろうと、卑弥呼時代の人物が都まで陸行一月で行けますとの証言です。 東海道は江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ全長約490kmの街道です。
東海道五十三次『江戸?京都』間を72時間で走る飛脚たち!
もちろんリレー方式、宿場事の駅伝です。 さて当時、一般の人は
京都までたどり着くのに、一体どのくらいかかったのか!?
記録に残っているものをみると、
ドイツの医師ケンペルは駕籠や馬も使いつつ12日、オランダ人御一行のシーボルトは17日、
弥次さん喜多さんは途中の四日市までで12日かかっています。
平均すると大体2週間前後。では、490kmを14日で割ると一日の移動距離は35km、
日本橋からだと横浜市の保土ヶ谷の宿場までが32.4kmなので、
江戸時代の旅人は毎日その位の距離を歩けたということ。 平安時代の海路は帆掛け船になるから、少し早く日数が短い
延喜主計式、平安京〜各国国府までの陸行日数。
山陽道、備中 上り9日 下り5日 海路12日
山陽道、安芸 上り14日 下り7日 海路18日
山陽道、長門 上り21日 下り11日 海路23日
平安京(京都府京都市)から太宰府(福岡県太宰府市)
まで646キロ、朝廷が認める公定所要日数が陸行30日である。
オーバーしたら自費でねと云う事。 唐の「大唐六典」で陸行1日は28.05キロ、
現代風で言えば7時間×4キロ/時=28キロとなる為、かなり妥当な数字です。
これに当時の日本の道路事情を考慮して1割程差し引くと25.25キロ/日、
2割差し引くと22.44キロ/日程度となります。
邪馬台国は発音通り畿内の大和地方にあったと考え、
奈良県桜井市と福岡県糸島市の距離を30日で割ると凡その数字が出ます。
大和国(奈良県桜井市)〜伊都国(糸島市)
=651キロ/30日=21.7キロ/日で妥当な日数と思われる。 大阪、福岡間 JRの営業キロは626.1km。艪を漕げるのは6時間位として
20日で約400km、岡山あたり+水行10日200km=600km
つまり、水行30日で600km、、陸行だと平安時代で30日=1か月でピッタリ!
和船の速度は、通常2ノット程度(およそ3.6km/h)らしい、
和船は水を含むと重く成り、水抵抗が多くなる。
手漕ぎ主体の中世「ガレー船」櫂だけで最初の1時間目は時速9kmで行けるが
その後の均しでは3kmから4.6kmに落ちるらしい。 つまり、水行すると30日、または陸行で1月=30日、、2か月の意味じゃないよ。!
海路船で行けば30日、または陸歩いて言っても1か月かかりますよて意味。 東南至奴國 百里 官日?馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
↓(奴国から)
東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
↓(不弥国から)(福岡・宇美川周辺か)
↓
南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「南、投馬国に至る。 水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ」
↓(投馬国から)(岡山・倉敷)
↓
南至邪馬臺國 女王之所都 水行十日陸行一月
「南、邪馬臺国に至る。 女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。
到着(奈良・纒向) 生駒山を拠点とする長髄彦と妹婿、饒速日が「日本ひのもと」の命名者か
そして故の奴国王、神武が戦闘に勝利をし、「日本」なる国名は頂いたとさ?
それで、これらの話は全て納得。 ナニワが奴国の庭からも納得だな。
旧唐書 「倭国(わこく)は古(いにしえ)の倭奴国(わのなこく)なり」
宋史 「日本国は本(もと)の倭奴国なり」「日本国は旧小国なり倭国を合わせて」
元史 「日本国は東海の東にあり、古は倭奴国と称した」 饒速日「後から来て天孫を名乗るお前は何者だ。我こそ天孫ぞ」
神武「(饒速日の弟の)邇邇芸の末裔です。これ(天羽羽矢)が証拠です」
饒速日「おお、それはわしのものと同じだな!確かに同郷(筑紫)の者らしいな」
長髄彦「我々の軍勢にも被害が出ていますし、まさか和解することはないでしょうね」
饒速日「天神の子は人間(の論理)とは違うのだ」
長髄彦「納得いかないので戦闘を継続します!」
饒速日「そんなことは許さん!命令を聞かないなら手打ちにしてくれる!」
神武「ありがとうございます。筑紫は(倭国大乱で)荒れていて暮らせないので、
ここにいさせてください」
饒速日「うむ、大叔父としてお前を迎え入れよう」 饒速日の末裔が物部氏や尾張氏であり、畿内や東海の覇権を掌握した。
物部氏は、「ヤマト王権」において軍事と祭祀(つまりマツリゴトの全て)
を司っていたとされる。
そして畿内を中心に分布する前方後円墳も物部氏の墓制である。
日本という国号は、饒速日が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(生駒山)で国見をし、
「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または
「空に光り輝く日本の国」】と賛じたことに因む。
それまでの畿内は日本ではなく長髄彦らが治めるため鳥見と呼ばれていた
(長髄彦は出雲の事代主の末裔である登美家の族長)。
神武に続く欠史八代に事績がないのは、饒速日の庇護の下の居候だったからだろう。
物部氏を母に持つ崇神天皇は、物部氏の本拠地である石上神宮の近くに宮を構え、
後にそれが纏向遺跡として発見された。 ニ二ギは北の水門(博多湾)から侵攻し飯盛山の麓、
日向川と室見川との川合いの地に宮を置き三種の神器を納めた地、
宮下文書ではそこを長井の宮と記している。
兄ニギハヤヒは南の水門(有明海)から侵攻し今の吉野ヶ里に城を構えたと思われる。
その遺跡は1981年から2005年まで19次にわたる発掘調査が実施され
吉武高木遺跡群として国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。
これ以降、(河愛)川合いの地は神聖な場所として崇敬され、
京都の賀茂神社などが良い例である。 >唐の魏徴チームが学者を率い、
数年かけて戦乱の間にバラバラになってしまった四部書(経、史、子、集)を校訂し、
魏志は「都を邪馬臺国」と書き、 後漢書は「邪馬台国」と記した記事を調査、
隋代に、日本から遣隋使が派遣され、結果、都の所在地は「奈良ヤマト」だと結論付けた。
僅か、300年後の学者チームの結論だから間違いないだろ。
隋書倭国伝(貞観二年(628年))
地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
地勢は東高く、西は下。
邪靡堆(日本書記などの資料より奈良ヤマトと確定してる)に都する。
すなわち、魏志いうところの邪馬臺(通称、邪馬台国)なる者なりと。 >ここには、文書や賜遣の送り目録を伝送し、文字を使った外交をしてる事を書いてて
ある階級の倭人たちは漢字を理解でき、当然、人物名や地名、出来事も記録してたはず。
『魏志倭人伝』は、西晋の陳寿により三世紀末ころに書かれた物。
王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国
皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
「王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、
皆、津に臨みて捜露す。『文書』や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。」 >ところが7世紀に書かれた隋書には、倭人は文字無く、ただ木を刻みて、と書かれ
侮蔑的に書かれた文章を、真実かの様にマスコミなどが広めてるのは問題だよな。
日没する処の天子と書かれたのが頭に来たんだろな。まるで中国人の様。
『隋書・倭国伝』は、629年唐の魏徴らの撰。
無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 知卜筮尤信巫覡
文字無く、ただ木を刻み、縄を結ふ。仏法を敬ひ、百済に仏経を求め得て
、始めて文字有り。卜筮を知る。巫覡を尤も信ず。」 >5世紀後半(雄略天皇)倭王武の長文、上表文や
熊本の江田船山古墳と埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘文に
「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」や「斯鬼(しき)宮」に居た時と、
日本書紀などの記録とほぼ一致する。と言う事は漢字などを可なり使ってた証拠。
卑弥呼時代の記紀などの記録もある程度正確なのでは!!
「百女ももぞ国」の姫こと百襲姫=八女津姫も正確な記録なのではと思う。 殷王朝は、紀元前17世紀〜紀元前1046年まで続いたが遂に滅亡し四散する、
『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は中国の殷王朝28代文丁の子で
朝鮮半島に逃れて箕子朝鮮を1100前ころ開いた伝承があるから
それらからの避難民や新天地開拓民が半島南部から九州北部に弥生人として
来た可能性はあるだろな、
でBC1000年ころが丁度弥生開始年代と一致してくる。 殷は太陽崇拝で自然信仰が強く、干支(えと)を使う、
亀卜、卜骨など鬼神に熱心で殉死の風習も持ってて青銅器が大好き、
部族ごとに「邑」制度があって共和制な面があったらしい、
青銅器の文様は「饕餮文」を使い、
まるでアイヌ文様の様な端々がトゲの様な文様を使う。
あれ、どっかで聞いたような部族集団がいたな。 >>「酸素同位体比年輪年代法」
酸素同位体比年輪年代法は2011年頃から名古屋大学の中塚武により実用化され、
その名称は従来法の年輪幅の代わりに年輪毎に含まれる主成分セルロースの
酸素同位体比、O 18/O 16比を測定する手法に由来している。
日本では、弥生時代以降の、3000年間の遺跡や建築物の年代決定に応用され、
急速に発展してきた、日本での、この分野で一人勝ちの状況になった。
1990年代から有るレーザー吸収分光法でO 16とO 18の比をとり、
吸収スペクトルを分析する方法。 放射性炭素14年代法や 年輪年代法と合わせ技で
酸素同位体比年輪年代法使えば、年代特定はほぼ完ぺきだろな
最近の弥生開始年代は歴博のBC1000年が妥当だろうが大勢らしい、
科学的な3種類の分析法だから信頼性は高いだろ。 八女周辺の住民の遠い記憶で女首長(姫)が邪馬台国の女王だったと
ヤマトがヤマトゥに八女津と訛ったんだろう
古代音が残ってる奄美、沖縄の人等はトとツの発音が曖昧でトゥと発音する
邪馬台やまとが八女津ヤマトゥと訛ってしまったんでは
まあ、八女津(ヤメトゥ)=ヤマト
邪馬台=邪馬臺なのは間違いないだろな。
のちの大和国の地方部隊駐屯地だったんだろう。 >箸墓古墳についての記録。どうも箸墓は周辺にある前方部が低い纒向型古墳のよう。
「令義解」 833年(天長10年)に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」
河村秀根の『書紀集解』(1785年)には、
嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。相伝曰箸墓。
嘗(かつ)テ大和国于(に)至リ、柳本村ヲ経、箸中村ヲ過グ。道ノ右ニ円形之丘有リ。
相ヒ伝ヘテ曰ク箸墓ト。長樹無ク、荊楚(両字ともイバラ)ノ林ヲ成ス耳ノミ)
江戸時代の画・文、いずれにも箸墓が「円形」として描かれている。
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/3100.html
https://ameblo.jp/pelecyphoras/image-12764982058-15176745424.html
寛政3年刊、『大和名所図会』箸墓の図 神武天皇は先高句麗王6代の「宮」。
西暦57年後漢の光武帝に朝貢した奴国王?
宮は西暦53年に即位して121年に亡くなり、7才で即位して、75才で亡くなっています。
一方の神武天皇は、東征開始から8年目に即位し、治世76年に亡くなりました。
先高句麗では7代遂成が即位「後漢書高句麗伝」によれば、
121年の秋に王の宮が死んで、この遂成が即位したと書かれています。
第2代綏靖天皇と遂成は音が似ており、
なお107年に後漢に朝貢した倭国王の帥升(すいしょう・スサノオ)とも音が似ている。
E宮ーーF遂成ーーG伯固ーーH伊夷模
第8代 伯固は博多とか箱崎に音が似てる、
先高句麗のこの系統は倭人集団だったのでは?
> 高句麗には、先高句麗と後高句麗(好太王)の2段階が有ったのではと思う。 古事記の出雲建の詩に。
「やつめさす 出雲建が 佩(は)ける大刀 黒葛(つづら)多纏(さはま)き
さ身無しにあはれ」
が有って、ヤツメとは「耶頭味県やつめ県」の事。
東濊、嶺東七県の(東濊県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭味県やつめ・前莫県・夫租県)
サスとは将棋を指す、差し向けるのサスで
出雲建たちは「耶頭味県やつめ県」に拠点が有って家臣を差し向けたって話。
丁度今の北朝鮮、くの字に曲がる日本海側の良港、文川市あたりが「耶頭味県やつめ県」。 >中原世界では、黄海、は東海と表現し、「倭人在り帯方東南大海之中」と表現する、
つまり「東夷王は大海を渡り」とは倭王を意味し「珍しい品々」も倭国の代名詞。
>それくらい倭王とは「東夷王」と表現されるほど東夷の世界で一目置かれた存在。
だからこの後すぐ 西暦57年「漢委奴国王」の金印を贈られるほどの存在。
王莽(前45〜23)は、前漢の政治家でしたが、権力を握り、漢の高祖の霊より
禅譲を受けたとして、漢に代わり「新」王朝(8〜23)の皇帝に即位しました。 『漢書 王莽伝』
越裳氏重譯獻白雉、
黄支自三萬里貢生犀、
東夷王度大海奉國珍、
匈奴單于順制作、去二名
越裳は重ねて使者を通じ、白雉を献じた。
黄支は三万里を経て、生きたサイを貢いだ。
東夷王は大海を渡り、珍しい品々を奉った。
匈奴単于は、(中原に)順じ、二字名を改めた。 >この話題、よくよく考えたら孔子時代に九夷と呼ばれる集団の中に君子の国があり、
君子の国とは従順な民が居る国、つまり「倭とは従順の意を持つ」倭人をイメージしてる、
証拠に後世の「後漢書」のなかに孔子の論語文のあとに続けて
楽浪海中に「倭人」あり、 分かれて百余国をなし、の文言が載せてある。
つまり、紀元前6世紀ころ、九夷の中の倭人と思われる集団には「君子」が居た。
『日本書紀』に記される神武天皇即位から2600年にあたる話と合わせてる。
論語・孔子(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日)
「子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰。君子居之。何陋之有。 論語・孔子(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日)
「子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰。君子居之。何陋之有。
孔子が(道義の廃れた国を厭うて)九夷(国)に住みたいと言った。
ある人が、九夷は陋だがどうでしょうかと言うと、孔子は、君子が居る国なのだから、
君子に対して従順な民を陋(ロウ・いやしい・心がせまい・知識がせまい)
として問題視することはできないと応えた。
東夷の気性が従順(倭人に関して言えば、そもそも人偏に委と作る
「倭」自体が従順の意を持つ)であること、
倭人の居住地が東の海上であることから、『論語』の中の二つの話を足し合わせて、
それを続く倭人の話と結び付けているのが見て取れる。 >この一文とも関連し蓋国(現在の北朝鮮地域)の
南には「倭(今の韓国地域)」が有り、倭は燕に属すと。
「倭」が韓国の「松菊里遺跡・三種の神器がある」
辺りを拠点としてた時代で、後の「辰国」とも関わりあるかも??
衛氏朝鮮の時代(紀元前2世紀)には既に辰国は存在した。
遺跡から明刀銭が出土するので古くは紀元前400年代には存在したか、
明刀銭、中国の戦国時代(紀元前403〜221年)、燕(えん)の国で流通した貨幣。
燕 (春秋)(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年)
「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經(前4世紀 - 3世紀頃))
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。 秦(しん、拼音: Qín、紀元前905年 - 紀元前206年)
殷(箕子朝鮮=番朝鮮)は衛満に伐たれて亡び、殷王は辰へ逃げる。
秦氏(秦人)も随ったといい、秦人も辰国へ逃げてきており、辰人と混血した。
そのために、秦人に似ているとか、秦の言葉に似ているといわれる。
秦語を話し、自分たちの事を「邦」邦人、仲間を「徒」徒党と言ってる。 >これ、秦=辰シンの事だろ、朝鮮南部や九州北部にはインド絡みの伝説や土器がある
秦の始皇帝なども西域人とも云われ、日本の秦氏も中央アジア月氏国と関わりがある。
それと馬韓には蘇塗(そと、ストゥーパ卒塔婆)があり、義は浮屠(仏教)に似る有り。
3世紀末までには仏教がすでに朝鮮南部に入ってて秦氏の八幡神(仏教守護神)も関係ある。
「身毒 しんどく」
古代の中国人がよんだインド地方の名称の一つ。天竺(てんじく)、印度(いんど)と同じく、
語源はサンスクリットのシンドゥーSindhu(インダス川地方)であるとされる。
「シンドバット」
ペルシア語由来のシンド=シンド河(スィンドゥ川)つまりはインダス川のことで
バード部分はペルシア語の (ābād)で「長、リーダー、指導者」を意味する。 中国には後漢の永平10年(67年)には入って来てる、
北魏を建てたに鮮卑族には同時代には仏教が入ってたんだろう、
日本の仏教は北魏様式で仏像の額には三つ巴紋が彫られてる
秦王朝でも三つ巴紋が神紋として扱われ、山東龍山文化から
BC1900年頃の山東省岳石文化にも土器の摘まみ部分にも三つ巴紋が描かれ、
辰韓新羅の「宝刀」にも三つ巴紋が飾られている。
辰韓から渡来した秦氏の宇佐神宮でも神紋として使われてる。
秦氏は新羅から渡来した新羅の王子「天之日矛」だろな。 秦氏のハタはペルシア語の (ābād)バードで「長、リーダー、指導者」の事だろ、
ハタは海の波旦(ハタ)、八幡(はた)説もある。
パシュトゥーン人、このパターン (Pathan)人が秦氏(ハタ)しだろ。
パキスタンに居住するイラン系民族である。
アフガニスタン内で最大の人口を持つ。
パフトゥーン (Pakhtun)、パターン (Pathan)、アフガン(アフガーン、Afghān)など ... 「百済」パシャ、「波斯」ハシ=ペルシャのこと
百済・辰国はやはりペルシャ系の国だった、で民衆は韓人。
どうりで飛鳥時代に古代ペルシャの品で漆胡瓶(しっこへい)や白瑠璃碗など
イラン本国でも周辺国でも決まって古墳から出土するが、王族クラスの人物の持ち物。
大秦国=ローマ、東ローマ(シリア辺り)
そして辰韓・秦韓には新羅といえばローマ遺物が?? 『神武天皇』始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと) - 『日本書紀』
若御毛沼命(わかみけヌノミコト) - 『古事記』
「漢委奴國王」の金印
「漢カン 委ヤマト 奴ヌノ 国王ミコト」の金印
若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』これらは博多・奴国時代の名で
豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』
神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと)邪馬台で即位してから
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)崩御してからの「諡名(おくりな)」だろ 羈縻政策(きびせいさく)
とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称。
古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。
中国の王朝は、周辺の異民族・諸国家に対し
政治的・軍事的・文化的な従属関係をつくりあげたが、
これらの具体化は、領域化(内地化)・羈縻・冊封などの形態を取った。
羈縻とは、特に中国に近い友好的な国王・首長を選び、都督・刺史・県令などに任じ、
彼らがもともと有していた統治権を中国の政治構造における
官吏であるという名目で行使させたものである。
このような羈縻政策が適用された地域を羈縻州あるいは羈縻衛所という。 岡山県では神武天皇が、吉備国(黄蕨国)の高嶋宮に3 年間(古事記:8 年間)
とどまり東征の軍備を整えたとされています。
福井県敦賀市に氣比神宮と化氣(けぎ)神社があり、氣比はキビと読めます。
氣比神宮の「土公」は「保食神(うけもちのかみ)降臨の地」です。
『岡山県神社誌』には、保食神を祭神とする神社が岡山市 11 社・瀬戸内市 8 社あります。
>神武天皇と「漢委奴國王」
この印は漢王朝の地方官・奴国王を任命したもので、
それと卑弥呼の漢鏡や魏への態度はあきらかに主従の関係で軍派遣の要請までしてる、
中原王朝の羈縻政策(きびせいさく)に従い、地方官・都督として行動してた。
地方官・都督・倭国王としての大義名分で全国を征服統治して行ったんだろう。 いや奴国王、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)が吉備国(黄蕨国)の高嶋宮で
岡山、羈縻州の地方官として任務しながら奈良大和を征服計画を練っていた。
古事記(中巻)に(安岐のタケリノ宮に七年いた後)「吉備の高島宮に八年坐しき」という。
そして大和攻略に進軍したが、ニギハヤヒの家来、長髄彦(ながすねひこ)に
抵抗されて苦労した話が「神武東征神話」。 倭人伝にある「其餘旁國遠絶の次有支惟國(吉備)だけど、
この時代の支惟國(吉備)は東部、備前あたりの小国で
西には大国、投馬国(倉敷あたり)があり、
のち吉備津彦たちの活躍で大国、吉備国に成ったんだと思う。
投馬国(倉敷あたり)と云えば卑弥呼伝説の楯築遺跡や造山古墳・上東遺跡などがあり
全国一の桃の種が万単位で出土する地域、纒向なんか目じゃないよ。 奈文研が所在する奈良県では13,238遺跡が確認されていますが、
最も多い遺跡の種類は9,663遺跡を数える古墳・横穴で、これは県内全遺跡数の実に
7割以上を占めています。県内の集落遺跡は2,028遺跡と古墳に次いで多いのですが、
その4割超は古墳時代の集落(874遺跡)なのです。
奈良磯城郡の中心遺跡。唐古・鍵遺跡周辺2km圏の弥生集落遺跡が12遺跡
https://note.com/jolly_dietes942/n/nf51d0368efbe
県内では御所市や橿原市など12遺跡で弥生時代の水田跡が見つかっている。
御所市の秋津・中西遺跡で確認された水田跡は
4万3千平方メートル以上で、弥生前期では全国最大規模。
一帯の水田の広さは約10万平方メートルを超えていたと推定される。 そして600年ころ聖徳太子の大戦略、隋の皇帝への実質、独立宣言なんだろう
「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。 」
銅鐸、十種の宝は出雲・物部王朝の宝物
邪馬台国の大和王権は奴国時代から銅鏡、銅剣、三種の神器が宝物。
天津神に仕えていることを証明するのが
天羽々矢(あめのはばや)と天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ) >縄文時代には韓国南部でも広範囲に縄文系が生活してた事が判明
そりゃ、1万2千年前に沖縄まで丸ノミ石斧を運ぶ能力があるんだから
半島までなんて楽勝だろ。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14273301069
11月26日読売新聞。国立科博・篠田館長の記事。
釜山・加徳島の狼項遺跡(6300年前)の人骨の核DNA分析を ...
韓国が、釜山・加徳島の狼項遺跡(6,300年前)の人骨2体の核DNA分析を行った結果、
縄文人的と判明した。人骨2体はほぼ現在日本人のDNAと同じだと篠田館長は結論した。
弥生時代の少し前ころ韓国南部、蘆嶺山脈と小白山脈のライン南部、対馬海峡側には
縄文系の人達が広範囲に生活していた事が分かってきている、
最近の大勢は、「縄文人は列島から列島外に拡散していた。」に傾いている。 これで、高句麗の「宮」や「遂成」、
神武や綏靖が縄文系だった可能性が出て来たな。
縄文時代ころには韓国南半分と九州とは同じ縄文人が住んでて、
間に対馬海峡を挟んでてアッチとコッチと呼び合う関係だったんだろう。
この地域は結合式釣針文化圏で漁師たちが行き来してたんだろうな。 HLAハプロタイプ(ヒト白血球型抗原)
https://www.med.kindai.ac.jp/transfusion/2019-28%20ketsuekigakuwomanabou.pdf
徳永勝士先生によると、日本⼈には大きく4タイプの流れが認められる
殷人、秦氏など中原系。O2系か。
@ B52 - DR2 中国⼤陸北部から朝鮮半島を経て北九州・近畿へ
シベリア系集団か。C2、NO、N系か。
A B44 - DR13・B7 - DR1 満州・朝鮮半島東部から日本海沿岸へ
旧石器・縄文人と一致する。D1a2系か。
B B54 - DR4 中国南部に多いタイプ。中国南部から琉球諸島を経て太平洋側へ
越王鄒一族が高句麗・朱蒙・鄒牟と一致する。O1b2系か。
C B46 - DR8 中国⼤陸南部から直接、あるいは朝鮮半島を経由して北九州へ
国外では満州族と朝鮮⺠族のみにみられる。九州北部から本州中央部にかけて多い。
このタイプの姉妹タイプB46-DR9が東南アジアで最も⾼頻度でみられる
ヒト白血球型抗原 神の国・淡路島は「鉄の国」だった−「邪馬台国畿内説」の弱みはね飛ばす鉄器工房跡発掘
https://www.sankei.com/article/20170420-UBDQKZHYGZLWVMKZKOAOV64QWM/
邪馬台国の時代にも重なる弥生時代後期(2世紀半ば〜3世紀初め)の鉄器工房跡が
見つかったのだ。
同市では10年前に五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(国史跡)で大規模な鉄器工房跡が
発掘され、淡路島が西日本屈指の鉄器生産地だったことが明らかになった。
古事記で、日本列島が造られた「国生み」の地とされる淡路島。
古代から朝廷に海や山の幸を献上し「御食国(みけつくに)」と呼ばれた神話の舞台は、
邪馬台国と深く関わった「鉄の王国」でもあった。(小畑三秋) 舟木遺跡
4棟の竪穴建物跡と刀子(とうす、ナイフ)などの鉄器や鉄片約60点が出土。
そのうち1棟の床面は赤く焼けていた。鉄の素材を木炭で熱しながら、
たたいたり延ばしたりして工具などを作った炉跡だった。
調査はわずか130平方メートルだったが、
周辺の丘陵一帯では同時期の土器が確認され、遺跡は40ヘクタール。
(南北800メートル、東西500メートル)に及ぶと推定。(東京ドーム約8.5個分です)
一方、同遺跡の南西約6キロにある五斗長垣内遺跡では、
鉄器工房とみられる12棟の竪穴建物跡や鉄器など約130点を確認。
約100年間にわたって鉄器作りが行われたことが分かった。
伊藤次長は「建物跡が相当多く眠っているのではないか」とし、
国内最大規模の鉄器工房跡である可能性が高まった。 「淡路は、西からの物資や情報を中継する『玄関口』だった」と話すのは、
奈良県立橿原考古学研究所の森岡秀人共同研究員。
「明石海峡や鳴門海峡という海の難所に挟まれた淡路の勢力は航海術にたけ、
新しい鉄器文化を積極的に取り入れたのだろう」という。
鉄を制するものは国を制す 魏志倭人伝中の「三十国」の一つか
または、邪馬台国の直轄地だった?。
兵庫県域西部の瀬戸内海沿岸部は播磨国(倭人伝の巴利國)でした。
そして、淡路島は律令制以前は淡道国造の領域であり、「淡道」の表記であった。
「木工にも使う鉄は、農業や狩猟、建築、戦闘などあらゆる分野で技術革新をもたらした」
森岡さんは鉄が社会に与えた影響の大きさを指摘する。 「鉄を制するものは国を制す」ともいわれた鉄は、
九州北部を中心に大量に出土することから、邪馬台国九州説の大きな根拠となっている。
一方で、畿内では出土量が少なく、邪馬台国論争では弱みとなっていた。
こうした中での今回の発見。兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は
「淡路島に大規模な鉄器工場群があったことが示された」と指摘し、
「纒向遺跡(奈良県桜井市)を中心とする邪馬台国が大和にあり、
淡路は西日本に及ぶ政治連合の一翼を担い、魏志倭人伝に記された『三十国』の
一つだったのではないか」と話す。 一方、こちらも国内最大級の鉄器工房として話題を集めたのが、滋賀県彦根市の稲部遺跡。
淡路の遺跡より少し新しい弥生時代末(3世紀初め)〜古墳時代初め(3世紀中ごろ)の
竪穴建物跡20棟以上から、鉄片や鉄を加工する際に出る不純物など約6キロ分が
見つかった。琵琶湖の東側に位置し、近畿や東海、北陸を結ぶ交通の要衝。
銅鐸の宝庫 やはり淡路は特別な場所
「神の国」淡路島は、鉄だけでなく、弥生時代の祭祀を担った銅鐸の宝庫でもあった。
南あわじ市では27年、弥生時代前期末〜中期(紀元前3〜同2世紀)の銅鐸7個が
見つかった。島内では計20点ほどが確認され、全国有数の出土数を誇る。
島根県出雲市の荒神谷(こうじんだに)遺跡や同県雲南市の加茂岩倉遺跡の銅鐸と
同じ鋳型で作られたものもあり、両地域の結びつきが明らかになった。 出雲は、神話に登場する国造りの神「オオクニヌシノミコト」や
八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したスサノオノミコトの伝説で知られる神話の里。
淡路は、イザナキノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が交わって
次々と島を誕生させた国生みの地と伝わる。
>イザナキノミコト(男神)は大和勢力を表し、
イザナミノミコト(女神)は出雲勢力を表し、
両勢力が連合し国土統一へとばく進したが、イザナミノミコトが黄泉の国へ行き、
結局内部分裂することになり連合関係は壊れた。
イザナギノミコトは命懸けで逃げ出し、
筑紫(つくし)の阿波岐原(あわきはら)で禊を行ったと言う話。 「兵庫」は「武器庫」の意味で、
大化の改新の際、摂津国境の播磨関を守るため、
武器を収める庫として設置された「兵庫(つわものぐら)」に由来すると考えられる。
神功皇后がこの地に武器を埋めた伝承から「武器の倉庫」を由来とする説。
>結局、淡路島で大量の鉄器・武器を作り、兵庫の軍事拠点に武器の貯蔵をしてた
そして神の戸(淡路島)の守りとして古代から要勝地だったんだろ。 日本の磁鉄鉱の産地
東山鉱山(徳島), 久宗鉱山(徳島, ひさむね), 川田山鉱山(徳島, 川田鉱山,)
淡路島の銅鐸が埋まっていたと考えられる松帆地区は、
鉄器生産遺跡「五斗長垣内遺跡」と「舟木遺跡」が有名で2.5kmにわたる白い砂浜に
約5万本のクロマツ林が広がる景勝地、慶野松原には砂鉄が堆積して
黒く成ってるのが知られてる。 縄文時代の勾玉や玦状(けつじょう)耳飾りなどには
5mm ほどの円形穴が奇麗に開いてて、じゃ何で開けたのかがなぞ?
石器などじゃ無理で、木の枝で砂粒を付けながら開けたのか?
ヒスイのような硬い石には無理があるで、結局、鉄のキリ状の物じゃないと無理だと
じゃあ縄文時代に鉄が有ったのか? 製鉄技術が有ったのか?
阿蘇リモナイトなど湖沼鉄・褐鉄鉱などは土器を焼く温度で製鉄出来る事が解った。 5 原始的製鉄法(鍛鉄法)
平成 23 年2月 19 日に大井透氏から、古代朝鮮の原始的製鉄法を教示された。
この製鉄法は、あまりにも簡単である。
@ 『たたら製鉄の復元とそのヒ(けら)について』黒岩俊郎氏(専修大学)
明治の末ごろ、朝鮮での原始的な製鉄の実見記として
河原によく乾いた砂鉄を 60 pほど積み上げ、
その上に大量の薪をのせて火をつけ一夜燃やし続け、翌日になって鉄塊を拾い集めていた。
わりに簡単、かつ原始的な方法によっても製鉄はできるのである。 A 『鉄の考古学』窪田蔵郎氏(日本鉄鋼連盟)
紀元前 1000 年ごろに始まった弥生式文化は、青銅と鉄を使用した金属文化である。
出土品としては、弥生期の半ば迄は鍛造よりも鋳造と見られる物が多い。
中期以降400年ごろは鍛造品が増加してくる。野天における開放窯による製鉄である。
鉄鉱石から鉄をつくるのには、高い技術を必要とすると考えられている。
鉄鉱石を赤く熱して、酸素をとり、砕け散らないように、そっと根気よくたたいて
石の部分をとばして行けば、900 度ぐらいでも鉄はできる。 B 『古代の製鉄』山本博氏(大阪学院大学)
銅の精錬に 1100 度の温度が必要である。製鉄について次のように述べている。
a 鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。
b 鉄鉱石は熔解しなくても、700〜800℃の熱度で可鍛鉄がえられる。
c 鉄の抽出には、特定の送風装置は不要である。 考古学上、我国最初の鉄器は、縄文晩期の土器と弥生前期の土器とが
伴出した遺跡から発見されている。
鉄滓(てつさい)散布地こそは、そのあたりで製鉄が行われたことを暗示している。
たたら炉の遺構が発見されなくても、そのあたりで製鉄を行っていた。
設備のない、たたら以前の製鉄である。
あまり深くない地下に砂鉄の層がある場合、その地表で土器を焼いたとすれば、
土器を焼く温度で、地下の砂鉄は楽に還元できる。
北九州各地に散布する無文赭色の土器の硬度は、この程度の熱度、
または、これよりやや高い熱度で焼いている。 6 備前の鉄滓
製鉄を行っていた事実を証明する鉄滓を岡山市東区草ケ部で採取している。
設備のない、たたら以前の製鉄である。
鉄滓とは製錬鉄を作る際にでる鉄を取り出した後の残りカスである。
「金糞(かなぐそ)」と呼ばれ廃棄される。製鉄関連遺跡調査で大量出土する。
岡山市東区鉄の近くに、西祖山方前遺跡(岡山市東区西祖)がある。
吉備国における初期段階 6 世紀後半頃の鉱石製鉄の製鉄炉が発見されている。
左 草ケ部採取鉄滓(中西厚氏採取) 右 西祖山方前遺跡 鉄滓
http://www.hasukura.com/site/kibikokunokodaisetetu.pdf 7.1.3 「大型水煙土器は製鉄用土器炉である」(百瀬高子氏説)
@ 小型炉製鉄実験の普及に長年携わっていた横井時貞氏(愛知工業大学名誉教授)に
「土器炉は可能か」と質問した。「土器でも丈が 60cm 位、壁の厚みが 2〜3cm の
土器を作れば製鉄が可能だ」との回答を得た。
A 縄文中期の諏訪に繁栄した土器模様を水煙土器、新潟の同時代の火炎土器と呼ぶ。
縄文中期の大型水煙土器の厚みは 2〜3cm、丈は大きな物で 40〜70cm である。
土器炉としての条件にぴたりと当てはまる。
B 「戦時中に使われた諏訪鉄山の鉄鉱石は褐鉄鉱(高師小僧)という。
鉄質は悪いが農工具には加工出来、使用が可能だ」という情報を得た。
C 縄文土器の焼成温度は 800 度以上の温度を半日位(最低 3〜4 時間)
以上保つ(焚き続ける)技術があった。
D 褐鉄鉱は 400 度位の低温で溶解する。という自然界の現実がある。
E 大型水煙土器は製鉄用土器炉として、製鉄に必要な諸条件は十分満たしている。 7.1.4 褐鉄鉱使用、土器炉による製鉄実験成功 (百瀬高子氏の実験報告)
褐鉄鉱原料、土器炉による製鉄実験 成功 平成 10 年 10 月末日
@ 弥生土器風甕を製作 器高 45cm 厚み 2.5cm
A 胴の中間より少し下に直径 2cm ほど穴を開けて、穴は送風口とした。
B 使用原料 褐鉄鉱の粉末
C 溶融実験 木炭と共に加熱し 6 時間微風を送風した。(縄文時代は息で送風と推定)
D 製鉄炉中の推定温度は低温の 400 度前後と記録している。
E 実験結果 6 時間ほどの短時間作業だった。
半熔解の多量の鉄滓の中に大豆大ほどの真黒な鉄粒が出来ていた。
製鉄実験に成功した。 F 百瀬高子氏の所見
3 日 3 晩この作業をすれば、そして溶媒にカルシュウムを使えば、
もっと扱い易い鉄槐が農具や工具わ作るほどの量が出来ただろう。
そしてその鉄塊を熟し、軟らかい内に叩けば鍛造の薙鎌や鉄鐸や斧が出来上がる。
縄文土器を炉として充分製鉄は可能だ。いや縄文中期土器の多くは
小規模製鉄炉として製作され、 土器炉として使用されていた事が実証できた思いだ。
土器炉は乾燥や厚みに少しでもムラがあると長時間の加熱温度には耐えられない。
実験で使用した土器も針金で補強して漸く炉として耐えていたが、
6 時間も内部を加熱しているとあちこちにひび割れが入り、
火を止める頃には崩折れてしまいそうな状態だった。
余熱を冷ましている内に自然に崩れて瓦解したが土器底はしっかり残った。
土器底が残った状況は、松本市近郊などの遺跡で土器底のみ集中出土する
笹賀神戸遺跡などの状況と類似している。 戦前に浜で鉄作ったと爺さん世代の人が言ってたの思い出したが
何言ってるんだこの爺さんはと、
案外鉄って少量なら簡単に作れるんだと最近分かって来た
縄文時代の勾玉や玦状(けつじょう)耳飾りなどには、
5mm ほどの円形穴が奇麗に開いてて
この話は納得行くな、
縄文時代に鉄工具は有ったんだよ、
木造建築のホゾ穴が奇麗に彫られてたのも納得。 ●浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)
1993年に浙江省温州地市30を超える石棚墓が発掘され、春秋時代の器物が多数出土した。
石棚墓とは日本でいう支石墓のことである。これは、紀元前1700年〜紀元前256年頃に
かけて江南地方で営まれた墓制で、石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。
その形状や葬送様式などから、
九州北部や朝鮮半島南部に展開する支石墓のルーツかとも考えられる。
紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現するが、これは、
支石を箱形に並べた上に高くびえる形で天井石を載せたもので、テーブル式と呼ばれる。
一方、朝鮮半島南部に支石墓が出現するのは紀元前500年頃からで、
数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、碁盤式と呼ばれている。
韓国では、高くそびえるテーブル式を北方式、低い碁盤式を南方式と分類しており、
両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。」
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/feb38310affc1341db8f81b06fa43f45
どうやら朝鮮半島北部の支石墓と九州北西部、半島南部の支石墓では、
どうやらその伝播してきた大元が違っていたようである。
九州北西部、半島南部のは江南系、朝鮮北部のは遼東系であるそうだ。 浙江省地方の石棚墓が九州西北部から半島南部へから考察して
これは海洋民、越人の東越の話と一致する(秦代の越絶書)
浙江省地方の石棚墓、江蘇省、山東半島、遼東半島、朝鮮半島西部、九州北西部、
何れの石棚墓、支石墓、にも副葬品としては銅剣、石剣、土器、矢じり、などが主で
高価な黒陶、三足土器や鼎など王侯貴族などの墓にあるような一級品は無く、
生前使ってた生活具、狩猟具が多い、船団や村長クラスの海洋民の文化だったのではと。
渤海、黄海、東シナ海、を回遊しながら交易、海運業、をしてた海人たち
やはり、稲作のルートは江南からか遼東から朝鮮半島南部へとか?。 近年、韓国嶺南地方北部の達城坪村里では弥生時代早期(夜臼式)の壺棺が出土し(図 13)
交流範囲が以前よりも北上することがわかった。壺棺の周囲に丸い河原石を敷きつめる
事例は、埋設の向きが逆であるが、唐津の大友遺跡でもみられ、類似する。
大友遺跡を営んでいた人々も支石墓の段階では従来の貝輪であるが、
石棺墓の段階では南海産貝輪を着装するようになり、より交流の範囲が広がっている。
西北九州や唐津地域における支石墓の導入こそが新たな交易者としての海民形成の
端緒であると考えられるならば、日本史における意味は決して小さくないだろう。 大友遺跡は東松浦半島北端、玄界灘に面した海岸部に所在する遺跡である。
弥生時代早期にあたる夜臼式期に造られた支石墓の下部構造は石を土坑の壁沿いに
めぐらせる「石囲いの土坑」であり、北部九州の支石墓のなかでも朝鮮半島の様相に近い。
そして、これら最初期の支石墓を取り囲むように形成された支石墓の下部構造は
土坑に変化する。弥生時代前期にあたる板付T式併行期になると、
初期に形成された支石墓群とは別の場所に、土坑墓群が認められ、弥生時代前期中葉から
後葉の伯玄式・金海式の段階には単独の甕棺墓が営まれるようになる。
甕棺墓は、下甕に上甕を覆い被せたような埋置形態のものや、
単純に甕を倒置させたものもある。副葬品として、南海産のオオツタノハ製腕輪や、
ゴホウラ製腕輪など多様な貝輪や、玉類などが出土した。 碁盤式支石墓、これが朝鮮半島南部の全域に登場するのは、
紀元前500年頃で、日本ではすでに弥生時代になっている。
確かに世界の支石墓の大半が朝鮮半島に爆発的に生まれて集中した。
しかし九州北部海岸部の支石墓は半島に先立って縄文時代晩期に隆盛を始めているので、
海を西から順にやってきたかと見え、日本への派生は中国遼東半島とほぼ同時期か、
あるいは早かった可能性が非常に高い。その派生地は江南、長江河口部である。
ということは半島の支石墓は逆に、遼東と玄界灘沿岸日本の双方からの伝播だった
のかも知れない。どっちにせよ倭人のしたことであろう。
海洋民が先に選んだのは、どうやら半島沿岸ではなかったようだ。
これは水耕稲作の日本への先の伝播を後押しする考古学的発見である。
その後の隆盛はひとえに朝鮮半島が独占している。けれどその分類からは、
北部九州沿岸の支石墓は、中国南部、長江起源であることになる
(要今後の発掘待ち)だろうか。 「O1b2」相関図
https://contents.jobcatalog.yahoo.co.jp/qa/list/10271288745/#modal
中国型( 漢民族 )=「O1b2a1a2b(F940)」湖北省 3.7% 湖南省 2.9% 邯鄲市2.05%
韓国型( 韓民族 )=「O1b2a1a2a(L682)」 (旧 xO-47z)
日本型(大和民族) =「O1b2a1a1 (CTS713) (旧 47z) 」
中国型( 漢民族 )=「O1b2a1a2b(F940)」(O2-65.9%)
韓国型:旧47z=4.0%、 xO-47z=33.3%(O2-40.0%)
日本型:旧47z=25.1%、xO-47z=8.4%(O2-16.7%) O1b2a1a2(中国・韓国共通先祖)→O1b2a1a2a(L682)(韓国型)北回りルート満州へ
↑ |--ーーーーーーーーーーーー→O1b2a1a2b(F940)(中国型)湖南省、湖北省、
↑
●●● O1b2a1a (F1204,F3356,K10)(三者共通祖先、長江中流域か?)
↓
↓ 8000年前ころの突然変異。
O1b2a1a1(ほぼ日本人固有)東シナ海直行・南回りルート、朝鮮半島西南部 O1b2a1a1(ほぼ日本人固有)東シナ海直行・南回りルート
韓国型O1b2a1a2a(L682)との混在が少なく、別の場所で住んでたと思われる
最近の言語学からの研究で、韓国型は満州南部、長白山周辺で
日本型は朝鮮半島中西部辺りの無文土器人が弥生人だろうと言われてる。
>彼らがBC1000年頃の九州北西部に南式碁盤型支石墓文化、熊本の断崖洞穴慕、
赤色漆が塗られた舟形木棺、浙江省杭州や武夷山九曲渓が有名で
長江流域の洞庭湖から鄱陽湖の間で百越一派の誕生地だろうといわれてる。 日本国内に於けるハプログループO1b1の頻度、西日本を中心に3%ほどいる。
九州 3.8% (2/53)[16]
金沢市学生 3.7% (11/298)以上4.4% (13/298)以下[24]
東京(JPT) 3.6% (2/56)[43][2]
徳島 2.9% (2/70)[16]
徳島市学生 2.1% (8/388)以上3.6% (14/388)以下[24]
札幌市成人男性 1.9% (4/206)以上4.9% (10/206)以下[24] 中国洞庭湖周辺の湖南、湖北辺りにはかなりO1b2が残ってるし
日本人の中にも台湾O1a1、東南アジアO1b1(旧O-M95)が地域により3%を超える。
Y-DNA O1b2
[87](2023) 17:29. https://doi.org/10.1186/s40246-023-00476-6
北京市 1.4% (2/138)[87]、2.0% (1/51)[2]、4.3% (2/46)[22]
重慶市 1.0% (1/98)[93]、4.3% (1/23)[87]
湖北省 3.7% (1/27)[87]
湖南省 2.9% (4/137)[87]3.8% (2/52) 湖南省及び福建省[22]
中国全国[46]、1.2% (1/83) 寧夏回族自治区[87]、1.3% (1/76) 陝西省[87]、
1.5% (2/130) 山東省[91]、2.0% (1/50) 寧夏回族自治区呉忠市[87]、
2.6% (1/39) 山東省[87] 西安市 2.9% (1/34)
四川省 0% (0/34) 成都市[16]、1.0% (1/100)[97]、3.0% (1/33)[87]
1.7%以下 (≤1/59) ビントゥアン省チャム族[80]、2.9% (2/70)[27]或いは
4.3% (3/70)[82]、8.3% (4/48) ハノイ市[2]
インドネシア 0% (0/1917)[82]、0% (0/246)[81]、8.1% (3/37)[2] スサノヲはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。
二神は天の安河を挟んで誓約を行った。
まず、アマテラスがスサノヲの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って
噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。
この三姉妹の女神は、アマテラスの神勅により海北道中(玄界灘)に降臨し、
宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮、それぞれに祀られている。
多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)。沖津宮に祀られる。
多岐都比売命 - 中津宮に祀られる。
市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)。辺津宮に祀られる。 裏天皇=八咫烏=賀茂氏(宗像タゴリヒメの子孫)
裏伊勢=宗像大社
事代主も阿遅志貴高日子根命も、日本神話では大国主命の息子
アジシキタカヒコネは大国主と宗像三女神であるタキリビメとの間の子供であり、
同じ父母から鴨都波神社の祭神でもある下照姫も生まれています。
タキリビメ(タギリヒメとも)は、宗像三女神の一柱である。
古事記では多紀理毘売命、日本書紀では田心姫(タゴリヒメ)と表記される。