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>>1 富士山で初冠雪を観測 平年より22日遅く NHK ニュース 2019年10月22日 14時05分気象 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191022/k10012143721000.html 富士山で22日午後、初冠雪が観測されました。富士山の初冠雪は、 平年より22日遅く、去年と比べて26日遅い観測となりました。 富士山の初冠雪は、甲府地方気象台の職員が目視で山の積雪を確認して発表します。 山梨県側から見た富士山は、22日朝から雲に覆われていましたが、 午後、雲の隙間で山の中腹から山頂にかけて雪が積もっている様子が確認されたとして、 気象台は初冠雪が観測されたと発表しました。 >>1 >即位礼正殿の儀がはじまったのがPM1:07。 映像は1:08〜1:09。 >天皇陛下と皇后陛下がご準備をされてる最中もカラスがずっと鳴いており、 >天照大神の「神の使者・八咫烏・ヤタガラス」では?と吉兆な事だったんですね! 「即位礼正殿の儀」 NHK・LIVE https://twitter.com/K51worldD/status/1186515964071858177/video/1 >>1 今日のタイムライン上で流れてきた情報を纏めると @天叢雲剣仕様のタイミングで天候は『雨』 A「即位礼正殿の儀」開始のタイミングで天候が『晴れ』 BAの際、神使いである烏(ヤタガラス八咫烏?)の鳴声がしていた ……と共に『皇居周辺に虹』が掛かる 同時刻くらいの奈良橿原市の畝傍山・初代神武天皇を祀った橿原神宮に 雲間から光が漏れる「天使のはしご」が見えた。 NGマルチポスト 偶然だろうか何だろうが、ガチで神話の一節みたいになってるな。 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 今日のタイムライン上で流れてきた情報を纏めると @天叢雲剣仕様のタイミングで天候は『雨』 A「即位礼正殿の儀」開始のタイミングで天候が『晴れ』 BAの際、神使いである烏(ヤタガラス八咫烏?)の鳴声がしていた ……と共に『皇居周辺に虹』が掛かる 同時刻くらいの奈良橿原市の畝傍山 初代神武天皇を祀った橿原神宮に雲間から光が漏れる「天使の階段」が見えた。 h□tps://i.imgur.com/atnmgY4.jpg 偶然だろうと思うが、ガチで神話の一節みたいになってるな。 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が 虹の橋を天降り国土を造られた、 生まれた3貴子の1柱神、天照大神が生まれ、天照の5世孫が初代神武天皇。 『日本書紀』第1巻、第2巻に記された神代(かみよ)の物語、『古事記』中巻の初めと 『日本書紀』第3巻に述べられた神武(じんむ)天皇の建国についての物語であり、 『日本における王権が高天原(たかまがはら)に由来し、 天皇家が日本の国土の正統な支配者であることを基礎づけている。』 新型コロナウイルスも15秒で殺菌する!?次亜塩素酸水とは.... 人の体内でも生産される次亜塩素酸とは 厚生労働省が示す「次亜塩素酸水」について解説します。 厚生労働省は次亜塩素酸水(殺菌力が強い)を「次亜塩素酸ナトリウム(殺菌力はやや弱い) との同義性」を説明すると共に、細菌やウイルスに対して殺菌効果のある 除菌水(食品添加物)として定めています。 漂白剤として有名な「次亜塩素酸ナトリウム(アルカリ性)」とは違い「次亜塩素酸水」は酸性であり、 食品添加物として厚生労働省により認可されておりその安全性が検証されております。 その違いにより強酸性・弱酸性・微酸性の次亜塩素酸水に分けられます。 厚生労働省では、「微酸性次亜塩素酸水」57ppm(PH5.2)を使って以下の 細菌類を用いた殺菌効果(1分以内)を確認しております。 ⇒黄色ブドウ球菌、サルモネラ菌、黒コウジカビ、MRSA、大腸菌、レンサ球菌 インフルエンザウイルス、ノロウイルス また、高い耐性をもつ「有芽胞菌(壁をもった細菌)」に対しても 50ppmの微酸性次亜塩素酸水での有効性が確認されました。 ※次亜塩素酸ナトリウムの半分以下の塩素濃度で高い殺菌効果が確認されています。 中性電解水(AP水)について。 Q:AP水とは なんですか? A:高い除菌・消臭力を持ち、保存性にも 優れた 中性電解水です。 原料は 食塩水と 電気のみ なので、人と動物だけでなく 環境にも 優しいです。 また、除菌・消臭効果は、 一般的な 塩素系消毒剤の 数十〜数百倍であることが わかりました。 Q:使用上の 注意点は ありますか? A:有機物との 接触により 分解されて 食塩水に 戻ってしまうため、対象物の汚れは 自前に 落としておくか、AP水で 洗い流しながら ご使用ください。 原料が 食塩水ですので、金属製品への 長時間の 接触は 避け、接触後は 水道水で 洗浄されることを お勧め致します。 Q:長所は なんですか? A:中性であるため 刺激が少なく、粘膜など デリケートな部分にも お使いいただけます。 Q:短所は なんですか? A:有機物と 接触すると 分解して 食塩水に 戻ってしまうため、残留性は 期待できません。 しかし「残留しない」→「人体・環境への 影響が 少ない」といった 長所にも なっています。 Q:飲んでしまっても 大丈夫ですか? A:少量であれば 害はありませんが、飲み水には 適していませんので、 多量に 飲水しないよう、ご注意ください。 AP水は、人とペットに優しい消毒スプレーです。 ... AP水に含まれる有効塩素成分のほとんどが次亜塩素酸として存在しています。 次亜塩素酸は、塩素系消毒剤のなかでも最も効果のあるもので、 一般に次亜塩素酸イオン(次亜塩素酸ナトリウム水溶液が相当)に対して 菌によっては100倍効果があるとされています。 10万人あたりの死亡率とBCG株種 国・地域毎の2019年コロナウイルス感染症流行状況 世界のBCG接種状況 THE BCG WORLD ATLAS 2nd Edition、 >ナノチップGPSって指紋の隙間に入る大きさなんだって、 バイデンOUT! >日立製作所が開発した0.15X0.15mm( 0.15mm? )のスマートダスト「ミューチップ」 「人類総マイクロチップ接種計画」ナノチップGPSとスマートフォンで ... 2020/04/16 — 人間そのものを小さなチップ化してしまうという計画が、 ナノチップやスマートダストによって実行されよう ... のμチップ)、 2015年にはIBM社がわずか7nm(ナノメートル)の実用ナノチップを開発したと発表しました。 https://note.com/nogi1111/n/n3e7a5a79e80f ナノチップGPSとは? 「ナノ」は「マイクロ」よりも3桁小さい、「10億分の1」という意味の言葉です。 マイクロチップは米粒程度の大きさですが、ナノチップはもはや肉眼では全く見えません。 人間の髪の毛よりもはるかに細いものもあり(例:0.4×0.4mmのμチップ)、 2015年にはIBM社がわずか7nm(ナノメートル)の実用ナノチップを開発したと発表しました。 参照までに、人間のDNAの鎖は約2.5nmで、赤血球1個の直径は約7500nmです。 ナノチップは環境から電力を得ることができるので(電池を必要としない) およそ100年ほどは稼働し続けることができます。 投票用紙にナノチップが仕込まれておりGPS機能によって 捨てられた投票用紙が発見されているとの情報あり。 これを連中が全く知らなかったということは、 トランプ大統領は相当秘密裏に準備を進めていたと想像できる。 GPSの追跡機能はありませんが、数十m範囲内なら位置が分かります。 日本国内でも海自横須賀でイージス艦の資料が持ちだされた事があった。 その後機密資料を持ち出さない様にページ毎にチップが埋められた様です。 添付の書き出し部を参照。 http://kamiura.com/new2_2k8.html パンデミックを2年前に予言した男 ウイルス「機能獲得」研究を2015年、アメリカ国立衛生研究所(NIH)から、 武漢ウイルス研究所に研究資金が提供された。 https://twitter.com/kanaugust/status/1390192430662647814?form=MY01SV& ;OCID=MY01SV パンデミックを2年前に予言した男 ・アメリカが中国の研究所に370万ドルを提供?!DR.BUTTAR ON NNN ((2017年の時点で 2018年-2020年に起こることがなぜわかったのでしょうか)) https://www.bitchute.com/video/7mnKsasBZeEM/ オバマ政権下の2015年、米国内でコロナウイルスが研究されていた。 危険のリスクが高すぎるため当局から研究中止の規制を受けると、 NIHアメリカ国立衛生研究所から 370万ドルの補助金が中国の研究所に送られ、中国で研究が継続された。 この件について現在トランプ政権が調査中、というニュースです。 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) パンデミックを2年前に予言したファウチ博士/オバマ政権が武漢 ... https://sakobiz.com/app/fauci/ 2020/04/29 — こんにちは。新型コロナウイルスに関しての重要な情報です。 オバマ政権の時代に、武漢の研究所に370万ドルもの資金提供がされていたようです。 そして、資金提供に関わっていた人物「ファウチ」が、2年前の2017年に予言。 「これからパンデミックが起こる、トランプ政権は対処に追われる」と。 誰がケネディを殺したのか?銃弾2発目 0001!extend:checked:vvvvv:1000:512 2020/05/28(木) 23:35:25.550 ケネディ大統領暗殺事件 (ケネディだいとうりょうあんさつじけん、英: Assassination of John F. Kennedy)は、 1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中の 第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがダラス市内を パレード中に銃撃され、死亡した事件である。 果たして逮捕されたオズワルドは実行犯だったのか? 暗殺を指揮した黒幕はどこの組織に所属する誰なのか? 前スレでワッチョイを入れて欲しいという要望があったのでワッチョイ有りにしました。 ロバートケネディJrによると、父ロバートは兄の暗殺を知った途端、 「CIAがやりやがった!」と叫んだらしい、 その日にCIA長官を家に呼び付けて詰問したと、しらを切るので司法長官として FBIにCIAを捜査するように命令したが、FBIも言う事聞かないそれで自身が 「真相を究明する」と大統領選挙に出たんだが、暗殺されてしまう、 これを10代の頃に見ていたロバートJrは壮絶にグレたそうだ ケネディ暗殺:「CIAがやった」理論家たちはイスラエルを擁護している、 ローラン・ガイノ• 2023 年 11 月 17 日 https://www.unz.com/article/kennedy-assassination-cia-did-it-theorists-are-covering-for-israel/ ユダヤ人のオリバー・ストーンは、 1980年代にこの映画のキャップを飾る定義映画を製作することになった。 これは 2 つの事実に基づく自然な仮定です。まず、 オズワルドは明らかに親カストロ共産主義者として設定されていた。 第二に、カストロの親ソ連政権を打倒するためのキューバ侵攻が、 50年代後半からのCIAの執念であったことを我々は知っている。 E・ハワード・ハントのような職員の下で、CIAはマイアミにいる数十万人の 反カストロ派キューバ人亡命者の一部を組織し、資金提供し、訓練した。 つまり CIA が設計したパッツィーの親カストロなるプロフィールと CIA の反カストロ戦争計画は、 ダラス銃撃事件の目的はキューバへの報復のための誤った口実を 捏造することであったというあまりにも明白な推論につながる。 この理論はJFK研究において非常に支配的なものとなっているため、 陰謀論を考えるほとんどの人々はそれが疑いの余地なく証明されていると考えています。 しかし、これには大きな欠陥が 1 つあります。 それは、ケネディ暗殺後にキューバへの侵攻がなかったということです。 JFKが正面から撃たれ、右前から2発、後ろから1発撃たれたという決定的な法医学的証明 https://note.com/ftk2221/n/n67cd5aa5d3d0 厄介な大統領がどのように処分されるか ジョン・F・ケネディ大統領は、彼が率いる政府が本当の政府ではないことに気づいた後、 「CIAと米国統合参謀本部によって殺害されました。」 「CIA長官のアレン・ダレスと統合参謀本部議長のライマン・レムニッツァー」 を解雇する以上のことをする前に打ちのめされました。 ケネディ大統領は、NATOの最高連合軍司令官に移行した レムニッツァー将軍を取り除くことができませんでした。 ダレスとレムニッツァーの両方がケネディの人生に対して陰謀を指示した疑いがあります。 ケネディ大統領の暗殺は明らかに社内殺人であり、CIAのメディア売春婦と ウォーレン委員会によって隠蔽されていたので、CIAはあえて第二大統領を殺害しなかった。 代わりに、CIAは、その工作員の1人が、ニクソンが米国史上最大のマージンで 再選されたにもかかわらず、彼をオフィスから追い出すために使用されたニクソン大統領の 「ウォーターゲート」調査を率いるために、新聞ではなく、長年のCIA資産である ワシントンポストのジャーナリストとして配置されたのを見ました。 不動産王であるドナルド・トランプは、 ワシントンについて、あるいは誰が本当にそれを支配しているのか何も知りませんでした。 ロシアとの関係を正常化する意図を宣言することによって、 彼は盲目的にCIAと米国の地下支配者を引き受けました。 そして再びメディア売春婦は彼を追い払うために使われました: 「ロシアゲート」、2回の弾劾の試み、「1月6日の暴動」、そして今は「文書の門」。 【ネオコン(新保守主義)とは】起源からトランプまでわかりやすく ... >政治思想・政治哲学 ネオコンとは、アメリカのユダヤ人知識人層から生まれた保守勢力の一つで、 伝統的なアメリカの保守主義ともリベラルとも異なる立場を持っています。 DSディープステート、CIAユダヤデスク、マフィア・ユダヤグループ ケネディ家はカトリックで親の代からのユダヤ人嫌い 中国とイスラエル・モサドが極秘で核開発してて、そこをケネディが爆撃しようとした。 ビックス湾事件の責任者であり責任を取らせ、CIA副長官のチャールズ・カベルを解任、 元CIA職員だった実弟アール・カベルがダラスの市長で暗殺計画の環境をつくった?? >アメリカ政治に関心ある政党党員たちの多くが「ディープステート」は >存在すると認識してる。共和党員の70%、無党派層の38%、民主党員の13%。 ディープステート(闇の政府)に付いての世論調査。 2017年4月に米国人を対象に行われた世論調査によると、 「政府を密かに操ろうとしている軍・情報機関・政府関係者」と定義される 「ディープステート」について、 約半数(48%)が存在すると考えており、「国家政策を密かに操作したり指示したりする、 . 選挙で選ばれた訳ではない政府や軍関係者のグループ」と表現した場合、過半数の人が 米国にディープステートが存在する可能性が高いと信じていることが判明した。 回答者の4分の3(74%)は、 この種のグループが連邦政府に 恐らく(47%)または間違いなく(27%)存在すると考えていると回答した。 2019年10月、エコノミスト誌とYouGov(英語版)が回答者に 「ディープステート」の定義を示さずに実施した世論調査では、 共和党員の70%、無党派層の38%、民主党員の13%が、 「ディープステートはトランプの失脚を図っている」ことに同意したと。 有能で行動力のある大統領は潰される、操り人形の如く振舞う大統領が好まれる。 DSの手先マスメディア売春婦は陰謀論で誤魔化してるが、 ディープステート(闇の政府)やユダヤ系アメリカ人の「ネオコン」など、 実は存在してる イスラエルの対外諜報機関「モサド」などと一体化された(闇の政府)。 有るんだよ。 国際的シオニスト政府。 ユダヤ人たちは古代より他民族からの差別、迫害、虐殺、などを経験し、 実態を見えにくくする事で生き延びて来た。 ユダヤファーストのアメーバー国家。 時に自己愛性人格障害が強すぎる分、 他民族にたいして猛烈で野蛮な態度を示すことが有る。 広島に原爆を落としたのもトルーマン、オッペンハイマー、などユダヤグループ。 よく、共和党と民主党は政策などが違うといわれていますが、 アメリカの本当の支配層たちからみれば、どちらが政権をとっても問題ありません。 それぞれの陣営にお金を寄付し、大統領になったほうへ息のかかった者たちを送り込めば、 大統領を操れるというわけです。 だから、トランプにしてもすべて思いどおりの政策を、ゴリ押しすることはできません。 絶対不可侵の「虎の尾」があります。 これを不用意に踏むと政治的にも、生物的にも命を ✖✖✖ 失いかねません。 リンカーン、ジョン・F・ケネディ といった実際に暗殺された大統領や、 アンドリュー・ジャクソン、ドナルド・レーガン のように暗殺されかけた歴代大統領たちには、 ある共通点があります。国際金融資本に逆らったからです。 DSの生命線を害する者は突き狙われる――「金融」覇権の侵害者には容赦がない! 歴史に繰り返される悪のパターンは事実上、常に同じである。 ロシア革命、ケネディ大統領暗殺、そして南北戦争、 それに先立つアンドリュー・ジャクソンの暗殺未遂事件を通して 2020年大統領選で起きた出来事の本質と1本の線で結び付いている。 第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは、第二合衆国銀行の運営許可の更新を拒否した。 ロンドン・シティやウォール街の金融資本家が80%を持ち、政府の持ち株は20% であることから、外国の金融資本家に支配される通貨発行銀行であったためだ。 つまり、外国の金融資本家に支配される通貨発行銀行であるため 「アメリカ国民のためにならない」という至極当然の価値観というものは、 1835年、 ジャクソン大統領のアメリカ史上初の大統領暗殺未遂事件を呼び込む。 また、民間が主導権を持つ中央銀行が1913年、第28代大統領ウッドロー・ウィルソンの 政権下で復活し、現在も存続するFRBである。その株の100%を民間の金融資本家(ロン ドン・シティとウオール街)が持つ民間銀行である。 金融資本家たちの支配を受け、アメリカ国民のための銀行であるはずもなく、 政府はFRBに国債をあずけてドルを発行して貰う代わりに利子を払うという仕組みである。 アメリカ国民は手にしているドル札は、 政府が利子を払って入手しているものだという認識に甘い、いや知らない。 その上で、ケネディ大統領が暗殺された最大の理由は、「政府通貨を発行した」 ためであって、 遡ってリンカーン大統領が暗殺されたのも、南北統一をなした事以上に 北軍が戦費を賄うのに「政府通貨を発行した」ことでも共通項がある。 そのことを踏まえ、トランプ大統領がジャクソン大統領の肖像画を執務室に飾り、 アメリカ・ファースト、「アメリカ国民の手にアメリカの政治を取り戻す」 アメリカ国民の為にという価値観がDS側の利害それと相容れない。 アメリカ国民は永遠にDS側の奴隷であってほしいと。同盟国もまた然り。 故に、トランプが2期目になったらFRBは潰される、これは既定路線だった、 だからこそ、今回は絶対に再選させてはならなかった、そんなDS側の危機意識である。 中でも、「事実上」の戒厳令と大統領令8条の発動を「恐れ」、DSの「使い走り」として、 ナンシー・ペロシ(アメリカ合衆国 下院 議長・民主党)が弾劾にやっきになって、 ペンス副大統領に修正25条で罷免しろ、と狂気の沙汰が「品格のなさ」が際だったのは、 その一例である。 だが、トランプ大統領は、ただちにツイッターでナンシー発言の戒厳令は フェイクニュースと否定し、アメリカ国民が長期にわたり暴力の犠牲となる可能性を避け、 今後のアメリカ国民の「覚醒」に賭けた。それはまた、アメリカ国民への「信頼」の なせる業でもある。だからそ、DS側との未決着は「現在進行形」なのである。 だが、アメリカはすでにWASPが指導的地位にいる国ではない。 ポーランド系のユダヤ人であるブレジンスキーは、ユダヤ人の立場からユダヤ社会の 立ち位置を、エスタブリッシュメント(国家を代表する支配階級)とし――、 ネオコン勢力が推進する国際干渉主義外交の一翼を担っている。 そこから導かれるもの――、「金融」だけでなく「MSメディア」を牛耳る黄金律は、 DSの生命線――侵害者には容赦がない。中共とDSはトランプ打倒という点で利害が 一致し、2020年大統領選では共闘に過ぎない。 中共が「フランケンシュタイン」であることは、「アメリカ・ラスト」に導く バイデン民主党を「いかに利用するか」という論点となって、すでに模索されている。 昔も今も、言論の自由の守護神と自他ともに認めてきたメディア売春婦が、 「実は犯罪集団の代理人」となり、「レジーム・チェンジ」という 変異株を巧みに創生し続けているのである。 . 民営化を推進する候補者を選挙で当選させ、その国のイニシアティブを奪い、 「外資」による「現地企業の買収」を可能にし、 グローバル化を達成することに「ブレ」はないのである。 「民主化→民営化→グローバル市場化」のスキームは、東欧で展開されたカラー革命、 中東で展開されたアラブの春、また最近のウクライナ危機となって後進国ではよく機能した。 また、先進国におけるレジーム・チェンジは、 ポリティカル・コレクトネス(少数派優遇政治)によって画策され、 少数者が差別されている前提で政治を行えば、「容易に」分断の社会が築けることでもある。 ディープステイトの影。 普通の日本人には、ユダヤ教徒・キリスト教徒の対立は解りずらい。 ナチのユダヤ人迫害も。「金融」が世界を制するが、その主導権を握っているのは、 米英を拠点とするユダヤ系である。 国際金融資本と呼ばれているものである。 ユダヤ系は、アメリカ総人口の2%であるマイノリティであるが、 金融を握り最高裁判事の三分の一を占めている。ノーベル賞受賞者も飛び抜けている。 表面には出ないが、アメリカの影の支配者といっても過言ではないだろう。 そして、ディープステイトは金融面で [中国を育てた]。 無論、リターン期待である。 今や常識。 ディープステイトというよりロスチャイルド家を初めとする国際金融資本。 マスコミも製薬会社も軍事産業もオーナーは、国際金融資本。 彼らの存在を無視して歴史や今起きてることは、わからないだろう。 コロナ騒動もウクライナ侵攻もだ。 マルクスのスポンサーもロスチャイルド家であり、ロシア革命の影の主役でもある。 これらの事実に対して「陰謀論」とレッテルを貼るのは、 無知なのか自分の常識が否定されるのが恐ろしいのか何か都合が悪くなるのか。 アメリカの支配者層は世界を「ワン・ワールド」にという、グローバリストたちです。 自分たちの野望をこのままあきらめるとは思えません。 この先、どのような謀略を仕掛けてくるのか? そしてトランプが金融秩序を変えようとしたために、 選挙不正で大統領の椅子から追放されました。さて今後どこまで抵抗できるのか? 安倍晋三さんもネオコン最大の敵プーチンと仲良くし過ぎた、少し暴走気味だった。かな? アメリカにとって日本と中国・ロシアが対立し続けることの方が都合がいい、 ウクライナ危機を仕かけたのは誰。かな? FRB創設に関わった人物と経緯 FRB創設のため、1910年11月にジョージア州ジキル島で秘密会談が開かれました。 そのメンバーが以下の7名 エイブラム・アンドリュー事務次官 ネルソン・オルドリッチ院内幹事 ロックフェラー家代理人 フランク・ヴァンダーリップ ロックフェラー家代理人 ヘンリ・デイヴィソン モルガン家代理人 チャールズ・ノートン モルガン家代理人 ベンジャミン・ストロング モルガン家代理人 ポール・ウォーバーグ ロスチャイルド家&シフ家代理人 メンバーを見れば、 上述したロスチャイルド家(シフ家)、ロックフェラー家、モルガン家でFRBは創立され、 米ドルは彼らに掌握されていることがわかります。 利息を払ってペラペラの紙切れ米ドルを額面で買ってるのです。 ちなみに麻生政権時代の財務大臣、故中川昭一さんは アメリカ国債の購入を拒んだことから、罠にはめられて酩酊会見で失脚させられ、 . その隣の篠原尚之財務官がIMF副専務理事に大出世という話はあまりにも有名です。 IMFは彼ら国際金融資本の持ち物なのです。 彼らに財務官とって日本人だから同胞だからとかは一切関係ないんです。 FRBは、株式を発行している(株式会社である) アメリカ政府は、FRB株を所有していない 個人、非金融機関は、FRB株を保有できない 金融機関(=民間銀行)がFRB株を保有している もう1つ、ここには書かれていませんが、 「株主は非公開である」という事実もあります。 . アメリカは世界通貨の発行権を握っている(いた?) 世界通貨を発行しているのは、FRBである FRB株をアメリカ政府を保有しておらず、100%民間銀行である FRBの株主は非公開である 皆さん、アメリカで数年前、「俺たちは99%だ!」という大規模な運動が 起こったことを覚えておられるでしょう。 意味は、「アメリカ人の1%はますます豊かになり、 99%はますます貧しくなっている」というのです。 私は、この運動の話を聞いて、「うまいキャッチフレーズだな」と思いました。 要するに、「本質はそうかもしれないが、少々大げさだ」と思った。 ところが、最近「それは本当なのだよ」という調査結果を知ったのです。 オックスファムは今週スイスで開かれる世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に向け、 米経済誌フォーブスの長者番付やスイスの金融大手クレディ・スイスの 資産動向データに基づく2015年版の年次報告書を発表した。 . それによると、上位62人と下位半数に当たる36億人の資産は、 どちらも計1兆7,600億ドル(約206兆円)だった。 。ナチスはなぜユダヤ人を殺したのですか? 。反逆者を殺すのは分かるのですがユダヤ人を消したかった理由がわかりません。 . アーリア人種ではないユダヤ人は、ナチスの民族神話では、 アーリア人の生存を妨害する存在であり、経済的にはユダヤ人が中心に築いた 国際金融資本が、ドイツを食いものにしているというナチス流の経済学に基づき、 第三帝国からユダヤ人を排除しようとしたのです。 そのために収容所を作ったり、 特定の場所(ゲットーと言います)に封じ込めて外との交流を禁じたりしました。 戦争の後半期にいたり、これらのユダヤ人を単純労働に使役する考え方とともに、 最終的解決として、労働に適さないユダヤ人は、 殺害により処分するという考え方も出てきたようです。 ドイツという国は昔から反ユダヤ色のきわめて強い国で 十字軍、ペスト禍の時、魔女狩りのたびにゲットー襲撃が起きて ユダヤ人は殺され財産を奪われドイツ人の借金を帳消しにしてきたんです。 この時キリスト教に改宗したユダヤ人も同様に殺された。 ヒトラーは大がかりなエスニッククレンジングをしたんです。 ナチス台頭の蔭にドイツにおけるユダヤ人人口の激増があります。 第一次世界大戦直後ドイツにはおよそ16万人の東方ユダヤ人がいたのですが そのうち7万人は大戦中軍需産業拡大のため人手不足となり人手不足をおぎなう目的で 東ヨーロッパより強制的に連れてこられたユダヤ人だったのです。 第一次大戦後、これらのユダヤ人たちは帰国せずドイツにとどまった。 戦後ロシア革命を逃れてロシアや東欧から大量のドイツ系難民がドイツに 流れ込んできたが、その中には多くの東方ユダヤ人が混じっていた。 この避難民の波はドイツの食糧事情、住宅事情、衛生事情をいちじるしく悪化させた。 ユダヤ人はとても頭が善いと言われています。 ノーベル賞なんか、いつも獲って当たり前、のように。 歴史的な偉人にもユダヤ人は多いです。 そして、当時裏で頭のよさを使って政治を乗っ取ろうとユダヤ人が考えている!! と考えたヒトラーは恐怖し、ユダヤ人を消し去ろうとしたのです。 そして日本もチャッカリ国際金融資本家の仲間入りをしてるので有った。 2022年末時点、対外資産は6・5%増の1338兆2364億円、 対外純資産32年連続で世界一位の418兆6285億円なのだ。 ハードカレンシー 「国際通貨」や「決済通貨」とも呼ばれ、外国為替市場において、 他国通貨と交換可能な通貨のこと(米ドル、ユーロ、日本円、英ポンド、スイスフランなど) 流通量が十分であること、発行国の政治経済が安定的で信用力があること、 国際的な銀行で換金が可能であることなどが条件。なお、ハードカレンシー以外の通貨は、 ソフトカレンシーまたはローカルカレンシーと呼ばれる。 ホロコーストは ヨーロッパ全土で蔓延してた反ユダヤ感情、虐殺、反ユダヤ主義の一部だけど 【Y-DNA】新日本古代氏族とハプログループPart15 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1702075980/1-51 . >D1a 三兄弟、このパターンから行けば、 縄文人祖先の誕生地は東南アジア〜ミャンマー周辺が怪しいな。 そして、チベット・ビルマ語族 D1a1a 日本(大和・アイヌ・琉球) D1a2a インド洋アンダマン諸島(オンゲ族、ジャラワ族)D1a2b 中国南部のチベット・ビルマ語系の少数民族にはY-DNA、D1a系が多い。 >東南アジア周辺にすむ海の遊牧民で水深30mの海中を歩きながら漁をする。 それに脾臓が肥大化し10分近く潜水できると言うから驚く、一般人は2分ほど。 ミャンマーのモーケン族、 フィリピン、マレーシア、インドネシアの島々に暮らす先住民「バジャウ(Bajau)族」 そして沖縄の海人(うみんちゅ) 沖縄の方言で、本来はアマと読みます。 海に潜って貝類や海藻を採集する漁を(専業あるいは兼業で)職業人という意味です。 >この母系 M7aグループは(約2万-1万年前)には沖縄(23%)で発見されており 北海道アイヌ(16%)の主体であるD系縄文人祖先と共に移動した家族と思われ、 日本固有のDNAと云われてる。 ハプログループM7a (mtDNA) 起源 約4万年以上前に誕生したアジア最大の母系グループである「インドM」型から 分岐したM7よりのグループで、約2万5000年前に「スンダランド」で誕生し沿岸部を、 北上して東シナ海平原より日本列島(九州・沖縄2方面)に到達した系統にあたるとする。 なお母系 M7aの姉妹グループは何れも東南アジア方面で 「M7b」は中国南部内陸へ移動し分布を広げ、 「M7c」はフィリピン、インドネシアなど島嶼部に分布を広げた。 >このサイトの写真に有る弓の握りが倭人伝にある「上長下短の木弓」の位置で、 銅鐸の弓絵と同じ弥生人の握り。 現在も和弓では、この握り位置で射る。 4万年前からの縄文人祖先たちと同じ漁をするため海洋民の文化なんだろう。 ジャラワ人(ジャラワ族)とアンダマン人〜 Y染色体ハプログループD1a2bとオンガン語族〜 https://oreranitsuite.com/2023/09/16/jarawa/ 第二次大戦時に英軍を追い出し日本軍に占領されたのも、何かの因縁だろな。 >これらは東南アジア・スンダランドから主食の魚貝類が取れる波打ち際を北上し 東シナ海平原から九州島に上陸した。波打ち際は今では海中で遺跡が残らない残念。 途中途中に丸木舟の刳り抜きよう丸ノミ形石斧の、原形を工夫し完成形へと磨かれた。 東南アジア諸島には丸木舟を作る丸ノミ形に似た円筒型石斧が使われてる。 そして沖縄方面に丸ノミ形石斧を持参し逆南下して行き、 台湾周辺からの北上グループと合流したんだろう3万年前ころに、 縄文人の航海能力には驚かされる。 <彼らはラピタ土器文化を持っていたから入植があれば日本にもラピタ土器が伝わってる <ラピタ土器は台湾あたりの南支那の印文陶と酷似し、彼らのルーツを物語る ラピタ土器ではないが中国南部、百越の土器や縄文土器に似た エクアドルのバルディビア土器そっくりな、土器が宮崎から発見されてる。 太平洋岸に面した宮崎市で、南米エクアドルのバルディビア土器とそっくりの 文様を持つ縄文土器群が発見されていた。 http://www.gondo.com/cnn/news/031005-1.htm 宮崎市跡江貝塚遺跡は、公式には1万2000年前から7000年前の物とされているが、 発見者の日高氏によるとアカホヤ層(喜界島噴火による火山灰層)の直下まで、 土器が埋まっている事から、約6300年前の喜界島大噴火まで続いた土器文明であると言う。 この遺跡からは、なんと24種類もの文様の土器が発見されており、 文様の豊富さでは、九州随一だと言う。 >縄文遺跡人骨からのDNAは男系がD1a2aが圧倒的に多く、女系はM7a、N9bが多い。 鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡からはC1a1が出て現在でも日本人の〜5%はいる、 兄弟関係のC1a2が地中海周辺からインドネシアに、アボリジニはC1b3が多い。 (mt)M7a 6人 N9b 14人 (Y)D1a2a 8人 不明12人(関東の遺跡でD1a2aの可能性大) 縄文時代の人類のゲノム解析まとめ ミトコンドリア編オマケ 極東N9bは日本が元で、アイヌ人からか? しかもロシアのN9b集団(N9b4a)は日本の人の子孫系統では新しかった? らしい! そして、姉妹関係のN9aは東南アジア周辺ラオス・マレーシアとかに多い。 >縄文遺跡人骨からのDNAは男系がD1a2aが圧倒的に多く、女系はM7a、N9bが多い。 鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡からはC1a1が出て現在でも日本人の〜5%はいる、 兄弟関係のC1a2が地中海周辺からインドネシアに、アボリジニにC1b3が多い。 (mt)M7a 6人 N9b 14人 (Y)D1a2a 8人 不明12人(関東の遺跡でD1a2aの可能性大) 縄文時代の人類のゲノム解析まとめ https://sicambre.up.seesaa.net/00682260N000000000/163343134066380552189.jpg ミトコンドリア編オマケ 極東N9bは日本が元で、アイヌ人からか? しかもロシアのN9b集団(N9b4a)は日本人の子孫系統では新しかった? らしい! そして、姉妹関係のN9aは東南アジア周辺ラオス・マレーシアとかに多い。 刃部磨製石斧・局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)とは、 石器全面ではなく刃部(刃先部分)のみに磨き(研磨)をかけた磨製石斧の1種である。 日本列島では約4〜3万年前の後期旧石器時代初頭に登場した。 >この石斧が日本全国から出土して世界最古と云われてる物がオーストラリアからも、 ベトナムハノイ周辺では1.2万年前ころから出現するが全体的に新しく不思議。 中国、朝鮮では新石器時代(1万年前)からしか全面磨製石器が出て来ない。 柳江人 1958年、中国広西チワン族自治区柳州市の石灰岩洞窟で出土した 柳江人(3万5千〜4万年前)の古人骨を復元した結果、 日本固有の縄文人の人骨に近い形状であったことから、 Y染色体ハプログループD1a2(D-M64.1)系統の縄文人祖系に近いのでは、 ハプログループ D1a (D-CTS11577)系統の 今は無きグループであったと推定されている。 DEの子型でD系統にもE系統にも属さないDE*がチベット人でわずかに発見されてる。 またインド北東部(ミャンマー国境地域、ナガランドやインパールが有る)の チベット系民族の一部では、 ハプログループD-M174*(最新の系統図上での位置づけは不明)が0-65%観察される。 旧石器時代から局部磨製石斧とか 東アジアでは日本と時代は少し下るがベトナム周辺から発見さるから ベトナムから香港がある珠江の上流、柳江がベトナム国境付近で この一帯は百越人の活動範囲で縄文土器に似た紋様の土器などがある 前々からこの地域と縄文人、倭人たちと関係があるんではと思ってた地域で納得。 地元にある柳江人や越人像が今の日本人そっくりでビックリする 越人像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A 柳江人 https://k.sina.cn/article_6419461847_17ea136d70010020ys.html それに比べて日本の教科書にある弥生人モデルの朝鮮顔なのにはガッカリするけどな。 >倭人伝に魏の使節が見た、倭人の風貌は直感的に海南島に住む民族と似てると。 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同 「兵は、矛、盾、木弓を用ひる。木弓は下を短かく、上を長くす。 竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所は儋耳珠崖と同じくす。」 「儋耳珠崖」とは黎族・リー族が住む海南島、チベット語系、チワン・トン語派 前漢が南越国を滅ぼし紀元前110年(元封元年)、海南島に珠轟Sと儋耳郡が置かれた。 >中国漢代の史書論衡にあり、周の成王の時代(紀元前1000年頃)に 「越裳(ベトナムあたり)からは白いキジを献じ、 倭人は鬯草(ちょうそう)を献じた」と記されています。鬯草とは神事に使う香草です。 B・C210 史記 秦始皇本紀 始皇帝死亡。 B・C207 史記 秦始皇本紀 秦、滅ぶ。 秦の労役(遼東の長城建設)に苦しんでいた秦人、越人、楚人が遼東から逃亡。 南下したものは箕氏朝鮮へ入る。 史記 東越列伝 越王の後裔、騶無諸と騶揺は越人を率い、諸侯を助けて秦を滅ぼしたが、 楚の項羽に冷遇されたので距離を置いていた。 B・C202 史記 項羽本紀 項羽滅ぶ。漢(劉邦)が中国を支配。 史記 東越列伝 漢の高祖(劉邦)は項羽との戦いで功を上げた騶無諸を閩越王となす。 騶揺は前191年東越王に安堵された。 、 >つまり、高句麗王朱蒙王(鄒牟、仲牟、都慕、須牟祁)『漢書の「騶」』 >高句麗の始祖朱蒙、『廣開土王碑』では鄒牟王とある。 初代王は越王家の鄒一族。 百済本紀の分注に、 朱蒙が卒本扶余に至った際に「越郡」の娘を得て二子をもうけたとする記事がある。 「二子」とは、温祚と沸流のことであり、井上秀雄は「越郡」について、 「中国浙江省紹興地方」と注記している。すなわち、浙江省紹興の娘が、 遼寧省丹東市桓仁県に来て、朱蒙とのあいだに、百済の始祖となる温祚と沸流を生む。 西安出土の在唐百済人墓誌の釈文のなかで、亡命百済貴族に 「楚国琅邪」を籍貫(本籍の事、中国語版)とする人物がいることを指摘している。 山東半島から江南に及ぶ中国沿海部と百済の関係から考えて、 東渡した集団、山東から遼東を経て朝鮮半島に到達したと考えられる集団と 同じ行跡を辿った集団との関連性が指摘されている。 高句麗語の「忽次、古次」・・・口を意味する 古代中国語のxwot(忽)クオトゥ、ku(古)、tshij(次)ツィという語を考えれば、 高句麗語の「忽次、古次」が日本語のkuti(口)に対応する語であることは明らかでしょう。 日本語との比較においては数詞である*mil(三)、*ütu(五)、*nanən(七)、 *tək(十)や、動物名である*usaxam(ウサギ)、地形を表す*tan(谷)など 基本的な語彙に類似した語形のものが数多く見出されている . 韓国数詞 하나(ハナ)1・둘(トゥㇽ)2・셋(セッ)3・넷(ネッ)4・다섯(タソッ)5・ 여섯(ヨソッ)6・일곱(イㇽゴㇷ゚)7・여덟(ヨドㇽ)8・아홉(アホㇷ゚)9・열(ヨㇽ)10 のように日本語と高句麗語・濊貊語は良く似てるが韓国語とはまるで違う。 言語学者さんによると数千年も隣で生活しながら、 これだけの違いは途中から全く別系統の民族が侵入したとしか思えないと言う。 例えばヨーロッパなどでは隣国とは違いはあるが、話は何となく聞き取れるらしい。 そこで心当たるのは1274年の元寇、モンゴル軍の侵入で その時、先兵として連れて来た中国北部の興安嶺一帯、アムール・黒竜江周辺の狩猟民 「索倫族ソロン族」彼らが大部隊で高麗を占領し、遼東北部に強制移住させられた。 当然、殺戮に次ぐ殺戮で男たちは皆殺し、先祖からの繋がりは一度リセットされてしまった。 だから歴史的に繋がる高句麗、濊貊、扶余、の会話言語が殆んど消えてしまった、 日本で朝鮮のことは朝鮮と言うが、モンゴル人は朝鮮のことを「索倫ソロンゴス」と言う。 日本語と高句麗語・濊貊語・扶余語は 高句麗も扶余も故地(出身地)の馬韓へ兵を集めに行くほど、言葉が通じてた。 弁辰(べんしん)の)国に鉄を出し、韓・濊・倭、皆従いて之を取る。 諸市皆鉄を用いて買うこと、中国の銭を用うるが如し。 と言われるほど言葉や慣習が通じ合う関係。 ところが、今の日本語と韓国語では全く会話ができない。 ほとんどの高句麗人・濊貊人・扶余人は今の日本人の祖先にあたる部族集団。 残念ながら朝鮮半島に残った彼らは、ほぼ殺戮されて絶滅したんだろう。 この時、高麗人、僧侶、などは多く日本に亡命してて寺などに逸話が残ってる。 女だけはモンゴル兵の子を産み、民族浄化のために貢献したんだろう。 モンゴル兵と言っても色んな民族の寄せ集めだろうし、 主なのが宋や金の女真族、ソロン族、漢族、蒙古族 それに後の李氏朝鮮時代に明との関係が深く漢族との混血も大きいのか。 チベット・ビルマ系に属する言語は大部分が SOV 型であるが、 東南アジア大陸部で話されている他の系統の言語は一般的に SVO 型である。 例えばミャンマーの隣国で話されているタイ語はSVO 型で違いがある。 主語 (Subject)私は - 目的語 (Object)ご飯を - 動詞 (Verb)食べた、 の語順をとる言語で「私はご飯を食べた」となる。 >中原世界では、黄海、は東海と表現し、楽浪大海中に倭人ありと表現するように、 >つまり「東夷王は大海を渡り」とは倭王を意味し「珍しい品々」も倭国の代名詞。 >それくらい倭王とは「東夷王」と表現されるほど東夷世界で一目置かれた存在。 >だからこの後すぐ 西暦57年「漢委奴国王」の金印を贈られるほどの存在。 王莽(前45〜23)は、前漢の政治家でしたが、権力を握り、漢の高祖の霊より 禅譲を受けたとして、漢に代わり「新」王朝(8〜23)の皇帝に即位しました。 『漢書 王莽伝』 越裳氏重譯獻白雉、 黄支自三萬里貢生犀、 東夷王度大海奉國珍、 匈奴單于順制作、去二名 越裳は重ねて使者を通じ、白雉を献じた。 黄支は三万里を経て、生きたサイを貢いだ。 東夷王は大海を渡り、珍しい品々を奉った。 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾漆 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1685646912/ 九州に決まっとろうが? 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん! 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎! ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。 根拠がなければただの妄想やけんね。 議論百出は大いに歓迎。 レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい! 前スレ 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1667725762/ 魏志鮮卑伝の裴松之注には、魏書曰くとして「鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水まで行った所、 数百里にわたって水が停滞していて、中に魚がいるのに取ることができなかった。 汗人が魚を捕るのがうまい(善捕魚)と聞き、東の汗国を撃って千余家を手に入れ、 烏侯秦水へ移し置いて魚を捕らえさせ、食料の補助とした。 今に至るまで、烏侯秦水のほとりに汗人数百戸がある。」という記述がありますが、 後漢書では「汗人が倭人」に置き換えられています。 北魏、酈道元(れきどうげん)の『水経注』には、 遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、 「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭地。人これに移る。」 . 倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れます。 倭人たちは、どうも朝鮮半島北部にまで広く活動展開していたらしい。 >曹操軍と倭人たちは直接戦った?可能性がある。 北魏、酈道元(れきどうげん)の『水経注』には、 遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、 「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。 蓋し倭地。人これに移る。」 とある 白狼山の戦い(はくろうざんのたたかい)は、中国後漢末期の207年に、 曹操(魏の基礎を作った)と中国北部の異民族烏桓(烏丸)との間で行われた戦い。 白狼山の側を流れるのが白狼水で倭人の居住地や倭城があったと云われる。 曹操軍は、袁尚・袁煕と同盟を結んだ烏桓(烏丸)を打ち破り、 この戦いで烏桓勢力は大幅に弱体化し、後に魏や鮮卑の部族に吸収されることとなる。 京都の烏丸(からすま)通りには烏丸川が流れてたらしいから気になる。 倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れ どうも朝鮮半島北部にまで広く活動展開していたらしい。 呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。 勾踐は北上し、 山東半島の琅邪に都を置いたと言うから海に逃げ、 山東半島から遼東半島へ島伝いに移動した可能性がある。 倭人の倭が何を意味するのかは判らないのだが、 倭人が自分の出自を倭から来たと言った可能性は高い。 中国人にとって、倭人は東臨大海から来た人であり、 倭人は、古代より、海の神をワダツミ、陸の神をヤマツミと言った。 この倭人の海のワ・ワタが、漢字の倭なのではないかと思うが、どうだろう? >倭人と云われる人達は自分の事を 「わし・われ・わたし・わたい・わが・あ」とか「わ」をよく使うので 「倭」と付けられたのでは説がある。 >これは、700年前後の記紀より200年程前の目に触れない墓誌からの史実だけど、 三者の記録がピッタリ一致するのは、別に原資料が有ったと思われる。 よって、記紀なども決してデタラメを記録したもので無い事が証明される。 『日本書紀』継体紀 「(継体)十七年(癸卯=五二三)夏五月、百済王武寧薨」 『三国史記』百済本紀「(武寧)二十三年(癸卯=五二三)夏五月、王薨、諡曰武寧」 [武寧王墓誌銘] 「寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戎朔七日壬辰崩」 崇神天皇は長浜説で241年崩御が...古事記だと258年...318年説も根強い 垂仁天皇の崩年干支「辛未」発見で。崇神崩年干支「戊寅」を318年から258年が妥当か 垂仁天皇の崩年干支「辛未」...311年 『住吉大社神代記』崩年干支「辛未」 景行天皇の崩年干支 古事記記載なし だいたい中間とって333年ころか? 成務天皇は長浜説で350年崩御が...古事記だと355年 仲哀天皇は長浜説で355年崩御が...古事記だと362年 神功皇后の崩年干支 住吉大社本では大体370〜380年ごろの崩御だろうと推定 応神天皇は長浜説で410年崩御が...古事記だと394年 仁徳天皇は長浜説で428年崩御が...古事記だと427年 魏志馬韓伝、にある国々で下の8か国はすでに卑弥呼時代(3世紀)には、 邪馬台国の軍事勢力圏に入ってたと考えられる。 これらは邪馬台国時代の軍事的長(卑奴母離)を(卑離)と記録者が簡略化したのだと思う。 卑離(ヒリ)国 占離卑(センリヒ)国 ←(単に写し間違いと思われる) 監奚卑離(カンケイヒリ)国 内卑離(ダイヒリ)国 辟卑離(ヘキヒリ)国 牟盧卑離(ボウロヒリ)国 如来卑離(ジョライヒリ)国 楚山塗卑離(ショサントヒリ)国 ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、 3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国の国境を守備する軍事的長の名称。 後に地名、駅名、神社名等に残る。 またヒナモリの「モリ (守) 肥後守ひごのかみ」などカバネとしても使われた。 邪馬台国時代の軍事的長。 『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、 および不弥国の副官に「卑奴母離」(ヒナモリ)がいたことを伝えている。 これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、 外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えらる。 4世紀は高句麗によって楽浪郡を滅ぼされ(313年)中原の支配から解放され 伯済國は百済へと斯盧國は新羅へと纏まって建国して行ったんだろう。 南部の倭人地域は混乱したが卑奴母離(ヒナモリ)などの 一定の軍事力は保持してただろうが、北部から高句麗勢の軍事力をバックに 南下政策をとった過程で倭国の勢力地域も侵され高句麗、百済、新羅、倭国の 四ツ巴、戦闘状態の天地が引っくり返る様な状態な時 そこで、登場したのが「神功皇后」で息長氏の先祖が新羅王アメノヒボコ。 おいっ、待てよ、新羅は我が先祖の領地だぞよと、 昔の三韓の領地を還せと、返還しないなら征伐だと、その過程が例の下の好太王碑文。 百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。 ところが、倭が辛卯の年(391年)以来、海をこえて襲来し、 百済や新羅などを破り、臣民とした。百済とは七支刀を送り同盟関係が出来てた。 そこで好太王は、396年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。 この過程を表したのが例の、倭王武の上表文。 478年,中国南朝の宋に倭王武(雄略天皇)が送った上表文。 「宋書」倭国伝にみえる。武は上表で、東は毛人(えみし)55国を、 西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一、 さらに海北の朝鮮半島南部95国を平定したと誇示したうえで、 475年に百済(くだら)の21代蓋鹵(がいろ)王を殺した高句麗に対抗するため、 「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、 安東大将軍、倭国王」の称号を求めた。 が、すでに宋に朝貢している百済を除いた称号は認められた。 七支刀。 日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが 記述されているが、この七支刀献上に関して、 日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ 「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。 紀年論によるとこの年が372年にあたり、 年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。 銘文の冒頭には「泰□四年」の文字が確認でき、「泰」は「太」と音通するため。 東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、吉田晶、浜田耕策ら)。 >謎の4世紀とは、こんなもんか?? 邪馬台国の女王卑弥呼が(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年)ころ亡くなって 倭国騒動で女王豊トヨが共立され、 時期は10代崇神〜11代垂仁天皇(伊支馬イクメ・イリヒコ)(260年頃から〜) (310年頃から?) 4世紀、この頃、高句麗と楽浪郡との攻防で半島は大混乱期 倭国は卑弥呼時代からの九州熊襲討伐、12代景行、ヤマトタケルで奮戦中。 西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一を目指し中。 (360年頃かな?) そして14代天皇仲哀天皇9年2月の崩御、遺志を継ぎ、 女豪族・田油津姫を討ち、熊襲の支援国新羅征伐へと方向転換し、 百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」「七枝刀」372年。 三韓征伐へと向かう辛卯年(391年)の出来事。 邪馬台国女王卑弥呼、(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年) 狗奴国の討伐。 第8代孝元〜9代開化天皇時代と思われる。 ヤマト兵と魏の軍とで狗奴国の討伐しようと画策する。 第12代景行天皇や皇子ヤマトタケルに熊襲討伐。 クマソタケル(熊襲梟帥)とは、大和朝廷に抵抗した熊襲の首長。 熊襲は頭を渠帥者(イサオ)と呼び、2人おり、 その下に多くの小集団の頭たる梟帥(タケル)がいたと記している。 渠帥(きょすい)悪人のかしら。反抗者の頭目。 神功皇后の九州熊襲征伐。 天皇の九州熊襲征伐に随伴する。第14代天皇仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して 遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。 女豪族・田油津姫を討ち、熊襲の支援国新羅を攻め降した。三韓征伐。 第26代継体天皇(当時の呼称は大王)時代の527年6月、筑紫国造磐井の反乱。 新羅と九州北部の豪族・筑紫国造磐井が手を結び、 ヤマト政権の朝鮮への出兵阻止しようとした。 第37代斉明天皇7年7月24日遠征中の九州朝倉宮で死去。68歳。 第35代皇極天皇(在位:642年2月19日重祚し第37代斉明天皇-661年7月24日)。 660年、唐・新羅の連合軍に百済が滅ぼされたことを知り、 百済再興のため、朝鮮半島に援軍派遣を決定。 倭の奴国王が東征し、空白になった実家、奴国に 南九州勢、肥国、熊襲が進出し大和=大倭=邪馬台連合国と対立するようになった これは、けしからんと言う事で討伐の対照に、黒幕がどうも半島勢力がチラホラと。 渠帥者とは中華世界での反抗者の事で どうも高句麗、扶余など半島戦乱時に亡命者やら敗残兵が、長崎島原ルートで 九州南部に逃げ込んだ者たちが、後に熊襲化し何百年もの反骨心が育ったのかも 肥前、肥後、日向、薩摩、と云えば日本史の世界ではいつも反中央勢力。 『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡-297年(陳寿の没年) 魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如……」 国史大辞典万葉仮名 「を」 袁 遠 乎 越 呼 怨 烏 弘 塢 嗚 弁辰亦十二國、弁辰 彌烏邪馬國(みをやま・みわやま)国 三輪山(みわやま)国 其瀆盧国與倭接界 十二國亦有王 其人形皆大 衣服巨エ長髪 「その(弁辰の)瀆盧国は倭と界を接している。十二国には王がいる。 その人はみな大柄である。衣服は清潔で、長髪である。 また広幅の目の細かい布を作る。法俗は特に厳しい。」 馬韓にも辰韓にも王はおらず、臣智という地位が最高だったのに、 弁辰にだけ「城郭」があり、「王」が存在します。辰韓と弁辰の違いはどこからきたのか。 弁辰は倭国王の直轄地だったのでは。 (弁辰の)瀆盧国とは、今の大邱市(テグ)辺りと云われ、 その地が倭と界を接している。 と言う事は、手前の弁辰は倭国、倭国王の支配地と言える。 >良く、邪馬台国は奈良か?九州か?とか古代史ファンの間で議論になるけど 基本的になんか勘違いしてる人多い、学会としてはそれの方が有難いんだろうけど。 『隋書倭国伝』では「倭国は邪靡堆に都す、即ち 『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。」 つまり、倭国=邪馬台連合国の都・首都が奈良ヤマト=邪馬台=邪靡堆だと言い、 当然、都・首都、奈良ヤマトには邪馬台連合国の領土、領海、が有って その中には、九州北部、筑紫平野や瀬戸内周辺、四国いわゆる畿内、などがメンバー国、 ちょうど、卑弥呼時代には九州南部の狗奴国との対立が有って、筑後平野八女辺りに 邪馬台連合国の駐屯地があり、進駐軍の総督として卑弥呼がいたと云う話。 >>184 の『隋書倭国伝』の使者は、 608年裴世清で奈良ヤマトに行ったのは資料から明らか、 「倭国は邪靡堆に都す、即ち 『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。」を確認した。 >まだ邪馬台連合国は30か国程度で出雲など日本海沿いの国々はまだ 連合国には参加せず狗奴国と同じ状態だったのでは、 卑弥呼が共立されて女王連合国に成ったころには関東以西くらいが邪馬台国の範囲かなと。 そうじゃないと、侍女1000人も抱えられないだろう国力的に。 世界一受けたい授業より。 江戸時代、幕府の中に大奥という機関がありました。 将軍一人のために作られた機関で、女性が300人〜1000人在籍していました。 維持費は幕府の予算の10分の1、今の金額で200億円と言われています。 と言うから古代国家にとっては莫大な費用なりと。いつの時代も女は金がかかるな。 >この岡山、香川、徳島、など備讃地域には「ミマ」と付く地名が多い、 美作みまさか、三間川、美馬、御間都比古神社などなど。 ここで気に成るのが、吉備地方関係者に「友トモ」と付く名。 「投馬トモ」「鞆トモ」「玉島タマ」 第4代 懿徳天皇 大倭日子?友命(おおやまとひこすきとものみこと) - 『古事記』 観松(みまつ)彦香殖稲尊(5代孝昭天皇・百襲姫の祖祖父) 御友別(みともわけ、御友別命)(応神時代) または吉備 御友別(きび の みともわけ)は、 『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。吉備臣(吉備氏)の遠祖。 卑弥呼は239年(景初3)に難升米ら (難升米、中臣連の祖。 梨迹臣命(なしとみ) 、梨富命、那志登美、 梨津臣命(なしつおみのみこと)とも表記する。 伊賀津臣命『近江国風土記』逸文では伊香刀美、梨迹臣・伊世理彦、兄弟父。 伊香津臣命とも表記する。 243年(正始4)には伊声耆・掖邪狗ら(伊声耆、梨迹臣命弟、伊世理彦命いせり) 247年、魏に載斯 烏越を派遣し、 指し・差し、越智氏。 天児屋根命(中臣氏祖) → 天押雲命 → 天多禰伎禰命 → 宇佐津臣命 →大御食津臣命 → 伊賀都臣命 → 梨迹臣命(なしとみ) → 神聞勝命 (鹿島神宮、中臣氏の祖) >>188 我家(わぎへ)(wagihe) などは我(waga)の最後の音節の母音と家(ihe)、 我妹(わぎも)(wagimo) などは我(waga)の最後の音節の母音と妹(imo) の語頭の母音が二重母音になることを避けている。日本人は二重母音が大嫌い! だから梨迹臣(なしおみ)(nas io mi)の(i又o)どちらかの音を避けて (なそみ・なしみ)と発音したのだろう。 伊都国の高祖山(たかおや山を taka o ya山のoを外し)も記紀などは 二重母音を外し、高屋山(takayaたかや山)と書いてる。 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡 >これらは伊勢湾沿いの国々。 次有斯馬國(志摩) 次有巳百支國(五百木) 次有伊邪國(伊勢) 次有都支國(土岐) 次有彌奴國(美濃) >次は大阪から四国太平洋側を通って九州へのルート。 次有好古都國(高津の宮、大阪) 次有不呼國(深日フケ港、大阪の西はし岬町、 次有姐奴國(讃岐) 次有對蘇國(土佐) 。。万葉集にあるフコの港) >次は九州南部から東海岸を北上ルート。 次有蘇奴國(鹿児島、曽於そお郡) 次有呼邑國(宮崎、児湯こゆ郡) 次有華奴蘇奴國(かのさの国、宗像大社のある筑前国宗像郡金埼、鐘崎で記紀にも記載) >次は畿内に帰っての瀬戸内ルート。 次有鬼國(木津市、淀川支流木津川沿い) 次有為吾國(伊賀) 次有鬼奴國(紀ノ國) 次有邪馬國(山城、京都) 次有躬臣國(くす久須、枚方市樟葉の宮が有った処) 次有巴利國(播磨)次有支惟國(吉備)次有烏奴國(宇佐・穴戸)次有奴國(博多、奴国) 此女王境界所盡 ここは女王の境界尽きる所なり。 旧唐書 「倭国(わこく)は古(いにしえ)の倭奴国(わのなこく)なり」 宋史 「日本国は本(もと)の倭奴国なり」 元史 「日本国は東海の東にあり、古は倭奴国と称した」 南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸 「南、投馬国に至る。水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ」 ↓ 南至邪馬臺國 女王之所都 水行十日陸行一月 「南、邪馬臺国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。と……… 竹藪だろうと草藪だろうと、卑弥呼時代の人物が都まで陸行一月で行けますとの証言です。 東海道は江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ全長約490kmの街道です。 東海道五十三次『江戸?京都』間を72時間で走る飛脚たち! もちろんリレー方式、宿場事の駅伝です。 さて当時、一般の人は 京都までたどり着くのに、一体どのくらいかかったのか!? 記録に残っているものをみると、 ドイツの医師ケンペルは駕籠や馬も使いつつ12日、オランダ人御一行のシーボルトは17日、 弥次さん喜多さんは途中の四日市までで12日かかっています。 平均すると大体2週間前後。では、490kmを14日で割ると一日の移動距離は35km、 日本橋からだと横浜市の保土ヶ谷の宿場までが32.4kmなので、 江戸時代の旅人は毎日その位の距離を歩けたということ。 平安時代の海路は帆掛け船になるから、少し早く日数が短い 延喜主計式、平安京〜各国国府までの陸行日数。 山陽道、備中 上り9日 下り5日 海路12日 山陽道、安芸 上り14日 下り7日 海路18日 山陽道、長門 上り21日 下り11日 海路23日 平安京(京都府京都市)から太宰府(福岡県太宰府市) まで646キロ、朝廷が認める公定所要日数が陸行30日である。 オーバーしたら自費でねと云う事。 唐の「大唐六典」で陸行1日は28.05キロ、 現代風で言えば7時間×4キロ/時=28キロとなる為、かなり妥当な数字です。 これに当時の日本の道路事情を考慮して1割程差し引くと25.25キロ/日、 2割差し引くと22.44キロ/日程度となります。 邪馬台国は発音通り畿内の大和地方にあったと考え、 奈良県桜井市と福岡県糸島市の距離を30日で割ると凡その数字が出ます。 大和国(奈良県桜井市)〜伊都国(糸島市) =651キロ/30日=21.7キロ/日で妥当な日数と思われる。 大阪、福岡間 JRの営業キロは626.1km。艪を漕げるのは6時間位として 20日で約400km、岡山あたり+水行10日200km=600km つまり、水行30日で600km、、陸行だと平安時代で30日=1か月でピッタリ! 和船の速度は、通常2ノット程度(およそ3.6km/h)らしい、 和船は水を含むと重く成り、水抵抗が多くなる。 手漕ぎ主体の中世「ガレー船」櫂だけで最初の1時間目は時速9kmで行けるが その後の均しでは3kmから4.6kmに落ちるらしい。 つまり、水行すると30日、または陸行で1月=30日、、2か月の意味じゃないよ。! 海路船で行けば30日、または陸歩いて言っても1か月かかりますよて意味。 東南至奴國 百里 官日?馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸 ↓(奴国から) 東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家 ↓(不弥国から)(福岡・宇美川周辺か) ↓ 南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸 「南、投馬国に至る。 水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ」 ↓(投馬国から)(岡山・倉敷) ↓ 南至邪馬臺國 女王之所都 水行十日陸行一月 「南、邪馬臺国に至る。 女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。 到着(奈良・纒向) 生駒山を拠点とする長髄彦と妹婿、饒速日が「日本ひのもと」の命名者か そして故の奴国王、神武が戦闘に勝利をし、「日本」なる国名は頂いたとさ? それで、これらの話は全て納得。 ナニワが奴国の庭からも納得だな。 旧唐書 「倭国(わこく)は古(いにしえ)の倭奴国(わのなこく)なり」 宋史 「日本国は本(もと)の倭奴国なり」「日本国は旧小国なり倭国を合わせて」 元史 「日本国は東海の東にあり、古は倭奴国と称した」 饒速日「後から来て天孫を名乗るお前は何者だ。我こそ天孫ぞ」 神武「(饒速日の弟の)邇邇芸の末裔です。これ(天羽羽矢)が証拠です」 饒速日「おお、それはわしのものと同じだな!確かに同郷(筑紫)の者らしいな」 長髄彦「我々の軍勢にも被害が出ていますし、まさか和解することはないでしょうね」 饒速日「天神の子は人間(の論理)とは違うのだ」 長髄彦「納得いかないので戦闘を継続します!」 饒速日「そんなことは許さん!命令を聞かないなら手打ちにしてくれる!」 神武「ありがとうございます。筑紫は(倭国大乱で)荒れていて暮らせないので、 ここにいさせてください」 饒速日「うむ、大叔父としてお前を迎え入れよう」 饒速日の末裔が物部氏や尾張氏であり、畿内や東海の覇権を掌握した。 物部氏は、「ヤマト王権」において軍事と祭祀(つまりマツリゴトの全て) を司っていたとされる。 そして畿内を中心に分布する前方後円墳も物部氏の墓制である。 日本という国号は、饒速日が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(生駒山)で国見をし、 「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または 「空に光り輝く日本の国」】と賛じたことに因む。 それまでの畿内は日本ではなく長髄彦らが治めるため鳥見と呼ばれていた (長髄彦は出雲の事代主の末裔である登美家の族長)。 神武に続く欠史八代に事績がないのは、饒速日の庇護の下の居候だったからだろう。 物部氏を母に持つ崇神天皇は、物部氏の本拠地である石上神宮の近くに宮を構え、 後にそれが纏向遺跡として発見された。 ニ二ギは北の水門(博多湾)から侵攻し飯盛山の麓、 日向川と室見川との川合いの地に宮を置き三種の神器を納めた地、 宮下文書ではそこを長井の宮と記している。 兄ニギハヤヒは南の水門(有明海)から侵攻し今の吉野ヶ里に城を構えたと思われる。 その遺跡は1981年から2005年まで19次にわたる発掘調査が実施され 吉武高木遺跡群として国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。 これ以降、(河愛)川合いの地は神聖な場所として崇敬され、 京都の賀茂神社などが良い例である。 >唐の魏徴チームが学者を率い、 数年かけて戦乱の間にバラバラになってしまった四部書(経、史、子、集)を校訂し、 魏志は「都を邪馬臺国」と書き、 後漢書は「邪馬台国」と記した記事を調査、 隋代に、日本から遣隋使が派遣され、結果、都の所在地は「奈良ヤマト」だと結論付けた。 僅か、300年後の学者チームの結論だから間違いないだろ。 隋書倭国伝(貞観二年(628年)) 地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 地勢は東高く、西は下。 邪靡堆(日本書記などの資料より奈良ヤマトと確定してる)に都する。 すなわち、魏志いうところの邪馬臺(通称、邪馬台国)なる者なりと。 >ここには、文書や賜遣の送り目録を伝送し、文字を使った外交をしてる事を書いてて ある階級の倭人たちは漢字を理解でき、当然、人物名や地名、出来事も記録してたはず。 『魏志倭人伝』は、西晋の陳寿により三世紀末ころに書かれた物。 王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯 「王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、 皆、津に臨みて捜露す。『文書』や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。」 >ところが7世紀に書かれた隋書には、倭人は文字無く、ただ木を刻みて、と書かれ 侮蔑的に書かれた文章を、真実かの様にマスコミなどが広めてるのは問題だよな。 日没する処の天子と書かれたのが頭に来たんだろな。まるで中国人の様。 『隋書・倭国伝』は、629年唐の魏徴らの撰。 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 知卜筮尤信巫覡 文字無く、ただ木を刻み、縄を結ふ。仏法を敬ひ、百済に仏経を求め得て 、始めて文字有り。卜筮を知る。巫覡を尤も信ず。」 >5世紀後半(雄略天皇)倭王武の長文、上表文や 熊本の江田船山古墳と埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘文に 「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」や「斯鬼(しき)宮」に居た時と、 日本書紀などの記録とほぼ一致する。と言う事は漢字などを可なり使ってた証拠。 卑弥呼時代の記紀などの記録もある程度正確なのでは!! 「百女ももぞ国」の姫こと百襲姫=八女津姫も正確な記録なのではと思う。 殷王朝は、紀元前17世紀〜紀元前1046年まで続いたが遂に滅亡し四散する、 『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は中国の殷王朝28代文丁の子で 朝鮮半島に逃れて箕子朝鮮を1100前ころ開いた伝承があるから それらからの避難民や新天地開拓民が半島南部から九州北部に弥生人として 来た可能性はあるだろな、 でBC1000年ころが丁度弥生開始年代と一致してくる。 殷は太陽崇拝で自然信仰が強く、干支(えと)を使う、 亀卜、卜骨など鬼神に熱心で殉死の風習も持ってて青銅器が大好き、 部族ごとに「邑」制度があって共和制な面があったらしい、 青銅器の文様は「饕餮文」を使い、 まるでアイヌ文様の様な端々がトゲの様な文様を使う。 あれ、どっかで聞いたような部族集団がいたな。 >>「酸素同位体比年輪年代法」 酸素同位体比年輪年代法は2011年頃から名古屋大学の中塚武により実用化され、 その名称は従来法の年輪幅の代わりに年輪毎に含まれる主成分セルロースの 酸素同位体比、O 18/O 16比を測定する手法に由来している。 日本では、弥生時代以降の、3000年間の遺跡や建築物の年代決定に応用され、 急速に発展してきた、日本での、この分野で一人勝ちの状況になった。 1990年代から有るレーザー吸収分光法でO 16とO 18の比をとり、 吸収スペクトルを分析する方法。 放射性炭素14年代法や 年輪年代法と合わせ技で 酸素同位体比年輪年代法使えば、年代特定はほぼ完ぺきだろな 最近の弥生開始年代は歴博のBC1000年が妥当だろうが大勢らしい、 科学的な3種類の分析法だから信頼性は高いだろ。 八女周辺の住民の遠い記憶で女首長(姫)が邪馬台国の女王だったと ヤマトがヤマトゥに八女津と訛ったんだろう 古代音が残ってる奄美、沖縄の人等はトとツの発音が曖昧でトゥと発音する 邪馬台やまとが八女津ヤマトゥと訛ってしまったんでは まあ、八女津(ヤメトゥ)=ヤマト 邪馬台=邪馬臺なのは間違いないだろな。 のちの大和国の地方部隊駐屯地だったんだろう。 >箸墓古墳についての記録。どうも箸墓は周辺にある前方部が低い纒向型古墳のよう。 「令義解」 833年(天長10年)に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」 河村秀根の『書紀集解』(1785年)には、 嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。相伝曰箸墓。 嘗(かつ)テ大和国于(に)至リ、柳本村ヲ経、箸中村ヲ過グ。道ノ右ニ円形之丘有リ。 相ヒ伝ヘテ曰ク箸墓ト。長樹無ク、荊楚(両字ともイバラ)ノ林ヲ成ス耳ノミ) 江戸時代の画・文、いずれにも箸墓が「円形」として描かれている。 http://www.eonet.ne.jp/ ~yamataikoku/3100.html https://ameblo.jp/pelecyphoras/image-12764982058-15176745424.html 寛政3年刊、『大和名所図会』箸墓の図 神武天皇は先高句麗王6代の「宮」。 西暦57年後漢の光武帝に朝貢した奴国王? 宮は西暦53年に即位して121年に亡くなり、7才で即位して、75才で亡くなっています。 一方の神武天皇は、東征開始から8年目に即位し、治世76年に亡くなりました。 先高句麗では7代遂成が即位「後漢書高句麗伝」によれば、 121年の秋に王の宮が死んで、この遂成が即位したと書かれています。 第2代綏靖天皇と遂成は音が似ており、 なお107年に後漢に朝貢した倭国王の帥升(すいしょう・スサノオ)とも音が似ている。 E宮ーーF遂成ーーG伯固ーーH伊夷模 第8代 伯固は博多とか箱崎に音が似てる、 先高句麗のこの系統は倭人集団だったのでは? > 高句麗には、先高句麗と後高句麗(好太王)の2段階が有ったのではと思う。 古事記の出雲建の詩に。 「やつめさす 出雲建が 佩(は)ける大刀 黒葛(つづら)多纏(さはま)き さ身無しにあはれ」 が有って、ヤツメとは「耶頭味県やつめ県」の事。 東濊、嶺東七県の(東濊県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭味県やつめ・前莫県・夫租県) サスとは将棋を指す、差し向けるのサスで 出雲建たちは「耶頭味県やつめ県」に拠点が有って家臣を差し向けたって話。 丁度今の北朝鮮、くの字に曲がる日本海側の良港、文川市あたりが「耶頭味県やつめ県」。 >中原世界では、黄海、は東海と表現し、「倭人在り帯方東南大海之中」と表現する、 つまり「東夷王は大海を渡り」とは倭王を意味し「珍しい品々」も倭国の代名詞。 >それくらい倭王とは「東夷王」と表現されるほど東夷の世界で一目置かれた存在。 だからこの後すぐ 西暦57年「漢委奴国王」の金印を贈られるほどの存在。 王莽(前45〜23)は、前漢の政治家でしたが、権力を握り、漢の高祖の霊より 禅譲を受けたとして、漢に代わり「新」王朝(8〜23)の皇帝に即位しました。 『漢書 王莽伝』 越裳氏重譯獻白雉、 黄支自三萬里貢生犀、 東夷王度大海奉國珍、 匈奴單于順制作、去二名 越裳は重ねて使者を通じ、白雉を献じた。 黄支は三万里を経て、生きたサイを貢いだ。 東夷王は大海を渡り、珍しい品々を奉った。 匈奴単于は、(中原に)順じ、二字名を改めた。 >この話題、よくよく考えたら孔子時代に九夷と呼ばれる集団の中に君子の国があり、 君子の国とは従順な民が居る国、つまり「倭とは従順の意を持つ」倭人をイメージしてる、 証拠に後世の「後漢書」のなかに孔子の論語文のあとに続けて 楽浪海中に「倭人」あり、 分かれて百余国をなし、の文言が載せてある。 つまり、紀元前6世紀ころ、九夷の中の倭人と思われる集団には「君子」が居た。 『日本書紀』に記される神武天皇即位から2600年にあたる話と合わせてる。 論語・孔子(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日) 「子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰。君子居之。何陋之有。 論語・孔子(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日) 「子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰。君子居之。何陋之有。 孔子が(道義の廃れた国を厭うて)九夷(国)に住みたいと言った。 ある人が、九夷は陋だがどうでしょうかと言うと、孔子は、君子が居る国なのだから、 君子に対して従順な民を陋(ロウ・いやしい・心がせまい・知識がせまい) として問題視することはできないと応えた。 東夷の気性が従順(倭人に関して言えば、そもそも人偏に委と作る 「倭」自体が従順の意を持つ)であること、 倭人の居住地が東の海上であることから、『論語』の中の二つの話を足し合わせて、 それを続く倭人の話と結び付けているのが見て取れる。 >この一文とも関連し蓋国(現在の北朝鮮地域)の 南には「倭(今の韓国地域)」が有り、倭は燕に属すと。 「倭」が韓国の「松菊里遺跡・三種の神器がある」 辺りを拠点としてた時代で、後の「辰国」とも関わりあるかも?? 衛氏朝鮮の時代(紀元前2世紀)には既に辰国は存在した。 遺跡から明刀銭が出土するので古くは紀元前400年代には存在したか、 明刀銭、中国の戦国時代(紀元前403〜221年)、燕(えん)の国で流通した貨幣。 燕 (春秋)(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年) 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經(前4世紀 - 3世紀頃)) 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。 秦(しん、拼音: Qín、紀元前905年 - 紀元前206年) 殷(箕子朝鮮=番朝鮮)は衛満に伐たれて亡び、殷王は辰へ逃げる。 秦氏(秦人)も随ったといい、秦人も辰国へ逃げてきており、辰人と混血した。 そのために、秦人に似ているとか、秦の言葉に似ているといわれる。 秦語を話し、自分たちの事を「邦」邦人、仲間を「徒」徒党と言ってる。 >これ、秦=辰シンの事だろ、朝鮮南部や九州北部にはインド絡みの伝説や土器がある 秦の始皇帝なども西域人とも云われ、日本の秦氏も中央アジア月氏国と関わりがある。 それと馬韓には蘇塗(そと、ストゥーパ卒塔婆)があり、義は浮屠(仏教)に似る有り。 3世紀末までには仏教がすでに朝鮮南部に入ってて秦氏の八幡神(仏教守護神)も関係ある。 「身毒 しんどく」 古代の中国人がよんだインド地方の名称の一つ。天竺(てんじく)、印度(いんど)と同じく、 語源はサンスクリットのシンドゥーSindhu(インダス川地方)であるとされる。 「シンドバット」 ペルシア語由来のシンド=シンド河(スィンドゥ川)つまりはインダス川のことで バード部分はペルシア語の (ābād)で「長、リーダー、指導者」を意味する。 中国には後漢の永平10年(67年)には入って来てる、 北魏を建てたに鮮卑族には同時代には仏教が入ってたんだろう、 日本の仏教は北魏様式で仏像の額には三つ巴紋が彫られてる 秦王朝でも三つ巴紋が神紋として扱われ、山東龍山文化から BC1900年頃の山東省岳石文化にも土器の摘まみ部分にも三つ巴紋が描かれ、 辰韓新羅の「宝刀」にも三つ巴紋が飾られている。 辰韓から渡来した秦氏の宇佐神宮でも神紋として使われてる。 秦氏は新羅から渡来した新羅の王子「天之日矛」だろな。 秦氏のハタはペルシア語の (ābād)バードで「長、リーダー、指導者」の事だろ、 ハタは海の波旦(ハタ)、八幡(はた)説もある。 パシュトゥーン人、このパターン (Pathan)人が秦氏(ハタ)しだろ。 パキスタンに居住するイラン系民族である。 アフガニスタン内で最大の人口を持つ。 パフトゥーン (Pakhtun)、パターン (Pathan)、アフガン(アフガーン、Afghān)など ... 「百済」パシャ、「波斯」ハシ=ペルシャのこと 百済・辰国はやはりペルシャ系の国だった、で民衆は韓人。 どうりで飛鳥時代に古代ペルシャの品で漆胡瓶(しっこへい)や白瑠璃碗など イラン本国でも周辺国でも決まって古墳から出土するが、王族クラスの人物の持ち物。 大秦国=ローマ、東ローマ(シリア辺り) そして辰韓・秦韓には新羅といえばローマ遺物が?? 『神武天皇』始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』 神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと) - 『日本書紀』 若御毛沼命(わかみけヌノミコト) - 『古事記』 「漢委奴國王」の金印 「漢カン 委ヤマト 奴ヌノ 国王ミコト」の金印 若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』これらは博多・奴国時代の名で 豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』 神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと)邪馬台で即位してから 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)崩御してからの「諡名(おくりな)」だろ 羈縻政策(きびせいさく) とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称。 古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。 中国の王朝は、周辺の異民族・諸国家に対し 政治的・軍事的・文化的な従属関係をつくりあげたが、 これらの具体化は、領域化(内地化)・羈縻・冊封などの形態を取った。 羈縻とは、特に中国に近い友好的な国王・首長を選び、都督・刺史・県令などに任じ、 彼らがもともと有していた統治権を中国の政治構造における 官吏であるという名目で行使させたものである。 このような羈縻政策が適用された地域を羈縻州あるいは羈縻衛所という。 岡山県では神武天皇が、吉備国(黄蕨国)の高嶋宮に3 年間(古事記:8 年間) とどまり東征の軍備を整えたとされています。 福井県敦賀市に氣比神宮と化氣(けぎ)神社があり、氣比はキビと読めます。 氣比神宮の「土公」は「保食神(うけもちのかみ)降臨の地」です。 『岡山県神社誌』には、保食神を祭神とする神社が岡山市 11 社・瀬戸内市 8 社あります。 >神武天皇と「漢委奴國王」 この印は漢王朝の地方官・奴国王を任命したもので、 それと卑弥呼の漢鏡や魏への態度はあきらかに主従の関係で軍派遣の要請までしてる、 中原王朝の羈縻政策(きびせいさく)に従い、地方官・都督として行動してた。 地方官・都督・倭国王としての大義名分で全国を征服統治して行ったんだろう。 いや奴国王、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)が吉備国(黄蕨国)の高嶋宮で 岡山、羈縻州の地方官として任務しながら奈良大和を征服計画を練っていた。 古事記(中巻)に(安岐のタケリノ宮に七年いた後)「吉備の高島宮に八年坐しき」という。 そして大和攻略に進軍したが、ニギハヤヒの家来、長髄彦(ながすねひこ)に 抵抗されて苦労した話が「神武東征神話」。 倭人伝にある「其餘旁國遠絶の次有支惟國(吉備)だけど、 この時代の支惟國(吉備)は東部、備前あたりの小国で 西には大国、投馬国(倉敷あたり)があり、 のち吉備津彦たちの活躍で大国、吉備国に成ったんだと思う。 投馬国(倉敷あたり)と云えば卑弥呼伝説の楯築遺跡や造山古墳・上東遺跡などがあり 全国一の桃の種が万単位で出土する地域、纒向なんか目じゃないよ。 奈文研が所在する奈良県では13,238遺跡が確認されていますが、 最も多い遺跡の種類は9,663遺跡を数える古墳・横穴で、これは県内全遺跡数の実に 7割以上を占めています。県内の集落遺跡は2,028遺跡と古墳に次いで多いのですが、 その4割超は古墳時代の集落(874遺跡)なのです。 奈良磯城郡の中心遺跡。唐古・鍵遺跡周辺2km圏の弥生集落遺跡が12遺跡 https://note.com/jolly_dietes942/n/nf51d0368efbe 県内では御所市や橿原市など12遺跡で弥生時代の水田跡が見つかっている。 御所市の秋津・中西遺跡で確認された水田跡は 4万3千平方メートル以上で、弥生前期では全国最大規模。 一帯の水田の広さは約10万平方メートルを超えていたと推定される。 そして600年ころ聖徳太子の大戦略、隋の皇帝への実質、独立宣言なんだろう 「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。 」 銅鐸、十種の宝は出雲・物部王朝の宝物 邪馬台国の大和王権は奴国時代から銅鏡、銅剣、三種の神器が宝物。 天津神に仕えていることを証明するのが 天羽々矢(あめのはばや)と天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ) >縄文時代には韓国南部でも広範囲に縄文系が生活してた事が判明 そりゃ、1万2千年前に沖縄まで丸ノミ石斧を運ぶ能力があるんだから 半島までなんて楽勝だろ。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14273301069 11月26日読売新聞。国立科博・篠田館長の記事。 釜山・加徳島の狼項遺跡(6300年前)の人骨の核DNA分析を ... 韓国が、釜山・加徳島の狼項遺跡(6,300年前)の人骨2体の核DNA分析を行った結果、 縄文人的と判明した。人骨2体はほぼ現在日本人のDNAと同じだと篠田館長は結論した。 弥生時代の少し前ころ韓国南部、蘆嶺山脈と小白山脈のライン南部、対馬海峡側には 縄文系の人達が広範囲に生活していた事が分かってきている、 最近の大勢は、「縄文人は列島から列島外に拡散していた。」に傾いている。 これで、高句麗の「宮」や「遂成」、 神武や綏靖が縄文系だった可能性が出て来たな。 縄文時代ころには韓国南半分と九州とは同じ縄文人が住んでて、 間に対馬海峡を挟んでてアッチとコッチと呼び合う関係だったんだろう。 この地域は結合式釣針文化圏で漁師たちが行き来してたんだろうな。 HLAハプロタイプ(ヒト白血球型抗原) https://www.med.kindai.ac.jp/transfusion/2019-28%20ketsuekigakuwomanabou.pdf 徳永勝士先生によると、日本⼈には大きく4タイプの流れが認められる 殷人、秦氏など中原系。O2系か。 @ B52 - DR2 中国⼤陸北部から朝鮮半島を経て北九州・近畿へ シベリア系集団か。C2、NO、N系か。 A B44 - DR13・B7 - DR1 満州・朝鮮半島東部から日本海沿岸へ 旧石器・縄文人と一致する。D1a2系か。 B B54 - DR4 中国南部に多いタイプ。中国南部から琉球諸島を経て太平洋側へ 越王鄒一族が高句麗・朱蒙・鄒牟と一致する。O1b2系か。 C B46 - DR8 中国⼤陸南部から直接、あるいは朝鮮半島を経由して北九州へ 国外では満州族と朝鮮⺠族のみにみられる。九州北部から本州中央部にかけて多い。 このタイプの姉妹タイプB46-DR9が東南アジアで最も⾼頻度でみられる ヒト白血球型抗原 神の国・淡路島は「鉄の国」だった−「邪馬台国畿内説」の弱みはね飛ばす鉄器工房跡発掘 https://www.sankei.com/article/20170420-UBDQKZHYGZLWVMKZKOAOV64QWM/ 邪馬台国の時代にも重なる弥生時代後期(2世紀半ば〜3世紀初め)の鉄器工房跡が 見つかったのだ。 同市では10年前に五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(国史跡)で大規模な鉄器工房跡が 発掘され、淡路島が西日本屈指の鉄器生産地だったことが明らかになった。 古事記で、日本列島が造られた「国生み」の地とされる淡路島。 古代から朝廷に海や山の幸を献上し「御食国(みけつくに)」と呼ばれた神話の舞台は、 邪馬台国と深く関わった「鉄の王国」でもあった。(小畑三秋) 舟木遺跡 4棟の竪穴建物跡と刀子(とうす、ナイフ)などの鉄器や鉄片約60点が出土。 そのうち1棟の床面は赤く焼けていた。鉄の素材を木炭で熱しながら、 たたいたり延ばしたりして工具などを作った炉跡だった。 調査はわずか130平方メートルだったが、 周辺の丘陵一帯では同時期の土器が確認され、遺跡は40ヘクタール。 (南北800メートル、東西500メートル)に及ぶと推定。(東京ドーム約8.5個分です) 一方、同遺跡の南西約6キロにある五斗長垣内遺跡では、 鉄器工房とみられる12棟の竪穴建物跡や鉄器など約130点を確認。 約100年間にわたって鉄器作りが行われたことが分かった。 伊藤次長は「建物跡が相当多く眠っているのではないか」とし、 国内最大規模の鉄器工房跡である可能性が高まった。 「淡路は、西からの物資や情報を中継する『玄関口』だった」と話すのは、 奈良県立橿原考古学研究所の森岡秀人共同研究員。 「明石海峡や鳴門海峡という海の難所に挟まれた淡路の勢力は航海術にたけ、 新しい鉄器文化を積極的に取り入れたのだろう」という。 鉄を制するものは国を制す 魏志倭人伝中の「三十国」の一つか または、邪馬台国の直轄地だった?。 兵庫県域西部の瀬戸内海沿岸部は播磨国(倭人伝の巴利國)でした。 そして、淡路島は律令制以前は淡道国造の領域であり、「淡道」の表記であった。 「木工にも使う鉄は、農業や狩猟、建築、戦闘などあらゆる分野で技術革新をもたらした」 森岡さんは鉄が社会に与えた影響の大きさを指摘する。 「鉄を制するものは国を制す」ともいわれた鉄は、 九州北部を中心に大量に出土することから、邪馬台国九州説の大きな根拠となっている。 一方で、畿内では出土量が少なく、邪馬台国論争では弱みとなっていた。 こうした中での今回の発見。兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は 「淡路島に大規模な鉄器工場群があったことが示された」と指摘し、 「纒向遺跡(奈良県桜井市)を中心とする邪馬台国が大和にあり、 淡路は西日本に及ぶ政治連合の一翼を担い、魏志倭人伝に記された『三十国』の 一つだったのではないか」と話す。 一方、こちらも国内最大級の鉄器工房として話題を集めたのが、滋賀県彦根市の稲部遺跡。 淡路の遺跡より少し新しい弥生時代末(3世紀初め)〜古墳時代初め(3世紀中ごろ)の 竪穴建物跡20棟以上から、鉄片や鉄を加工する際に出る不純物など約6キロ分が 見つかった。琵琶湖の東側に位置し、近畿や東海、北陸を結ぶ交通の要衝。 銅鐸の宝庫 やはり淡路は特別な場所 「神の国」淡路島は、鉄だけでなく、弥生時代の祭祀を担った銅鐸の宝庫でもあった。 南あわじ市では27年、弥生時代前期末〜中期(紀元前3〜同2世紀)の銅鐸7個が 見つかった。島内では計20点ほどが確認され、全国有数の出土数を誇る。 島根県出雲市の荒神谷(こうじんだに)遺跡や同県雲南市の加茂岩倉遺跡の銅鐸と 同じ鋳型で作られたものもあり、両地域の結びつきが明らかになった。 出雲は、神話に登場する国造りの神「オオクニヌシノミコト」や 八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したスサノオノミコトの伝説で知られる神話の里。 淡路は、イザナキノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が交わって 次々と島を誕生させた国生みの地と伝わる。 >イザナキノミコト(男神)は大和勢力を表し、 イザナミノミコト(女神)は出雲勢力を表し、 両勢力が連合し国土統一へとばく進したが、イザナミノミコトが黄泉の国へ行き、 結局内部分裂することになり連合関係は壊れた。 イザナギノミコトは命懸けで逃げ出し、 筑紫(つくし)の阿波岐原(あわきはら)で禊を行ったと言う話。 「兵庫」は「武器庫」の意味で、 大化の改新の際、摂津国境の播磨関を守るため、 武器を収める庫として設置された「兵庫(つわものぐら)」に由来すると考えられる。 神功皇后がこの地に武器を埋めた伝承から「武器の倉庫」を由来とする説。 >結局、淡路島で大量の鉄器・武器を作り、兵庫の軍事拠点に武器の貯蔵をしてた そして神の戸(淡路島)の守りとして古代から要勝地だったんだろ。 日本の磁鉄鉱の産地 東山鉱山(徳島), 久宗鉱山(徳島, ひさむね), 川田山鉱山(徳島, 川田鉱山,) 淡路島の銅鐸が埋まっていたと考えられる松帆地区は、 鉄器生産遺跡「五斗長垣内遺跡」と「舟木遺跡」が有名で2.5kmにわたる白い砂浜に 約5万本のクロマツ林が広がる景勝地、慶野松原には砂鉄が堆積して 黒く成ってるのが知られてる。 縄文時代の勾玉や玦状(けつじょう)耳飾りなどには 5mm ほどの円形穴が奇麗に開いてて、じゃ何で開けたのかがなぞ? 石器などじゃ無理で、木の枝で砂粒を付けながら開けたのか? ヒスイのような硬い石には無理があるで、結局、鉄のキリ状の物じゃないと無理だと じゃあ縄文時代に鉄が有ったのか? 製鉄技術が有ったのか? 阿蘇リモナイトなど湖沼鉄・褐鉄鉱などは土器を焼く温度で製鉄出来る事が解った。 5 原始的製鉄法(鍛鉄法) 平成 23 年2月 19 日に大井透氏から、古代朝鮮の原始的製鉄法を教示された。 この製鉄法は、あまりにも簡単である。 @ 『たたら製鉄の復元とそのヒ(けら)について』黒岩俊郎氏(専修大学) 明治の末ごろ、朝鮮での原始的な製鉄の実見記として 河原によく乾いた砂鉄を 60 pほど積み上げ、 その上に大量の薪をのせて火をつけ一夜燃やし続け、翌日になって鉄塊を拾い集めていた。 わりに簡単、かつ原始的な方法によっても製鉄はできるのである。 A 『鉄の考古学』窪田蔵郎氏(日本鉄鋼連盟) 紀元前 1000 年ごろに始まった弥生式文化は、青銅と鉄を使用した金属文化である。 出土品としては、弥生期の半ば迄は鍛造よりも鋳造と見られる物が多い。 中期以降400年ごろは鍛造品が増加してくる。野天における開放窯による製鉄である。 鉄鉱石から鉄をつくるのには、高い技術を必要とすると考えられている。 鉄鉱石を赤く熱して、酸素をとり、砕け散らないように、そっと根気よくたたいて 石の部分をとばして行けば、900 度ぐらいでも鉄はできる。 B 『古代の製鉄』山本博氏(大阪学院大学) 銅の精錬に 1100 度の温度が必要である。製鉄について次のように述べている。 a 鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。 b 鉄鉱石は熔解しなくても、700〜800℃の熱度で可鍛鉄がえられる。 c 鉄の抽出には、特定の送風装置は不要である。 考古学上、我国最初の鉄器は、縄文晩期の土器と弥生前期の土器とが 伴出した遺跡から発見されている。 鉄滓(てつさい)散布地こそは、そのあたりで製鉄が行われたことを暗示している。 たたら炉の遺構が発見されなくても、そのあたりで製鉄を行っていた。 設備のない、たたら以前の製鉄である。 あまり深くない地下に砂鉄の層がある場合、その地表で土器を焼いたとすれば、 土器を焼く温度で、地下の砂鉄は楽に還元できる。 北九州各地に散布する無文赭色の土器の硬度は、この程度の熱度、 または、これよりやや高い熱度で焼いている。 6 備前の鉄滓 製鉄を行っていた事実を証明する鉄滓を岡山市東区草ケ部で採取している。 設備のない、たたら以前の製鉄である。 鉄滓とは製錬鉄を作る際にでる鉄を取り出した後の残りカスである。 「金糞(かなぐそ)」と呼ばれ廃棄される。製鉄関連遺跡調査で大量出土する。 岡山市東区鉄の近くに、西祖山方前遺跡(岡山市東区西祖)がある。 吉備国における初期段階 6 世紀後半頃の鉱石製鉄の製鉄炉が発見されている。 左 草ケ部採取鉄滓(中西厚氏採取) 右 西祖山方前遺跡 鉄滓 http://www.hasukura.com/site/kibikokunokodaisetetu.pdf 7.1.3 「大型水煙土器は製鉄用土器炉である」(百瀬高子氏説) @ 小型炉製鉄実験の普及に長年携わっていた横井時貞氏(愛知工業大学名誉教授)に 「土器炉は可能か」と質問した。「土器でも丈が 60cm 位、壁の厚みが 2〜3cm の 土器を作れば製鉄が可能だ」との回答を得た。 A 縄文中期の諏訪に繁栄した土器模様を水煙土器、新潟の同時代の火炎土器と呼ぶ。 縄文中期の大型水煙土器の厚みは 2〜3cm、丈は大きな物で 40〜70cm である。 土器炉としての条件にぴたりと当てはまる。 B 「戦時中に使われた諏訪鉄山の鉄鉱石は褐鉄鉱(高師小僧)という。 鉄質は悪いが農工具には加工出来、使用が可能だ」という情報を得た。 C 縄文土器の焼成温度は 800 度以上の温度を半日位(最低 3〜4 時間) 以上保つ(焚き続ける)技術があった。 D 褐鉄鉱は 400 度位の低温で溶解する。という自然界の現実がある。 E 大型水煙土器は製鉄用土器炉として、製鉄に必要な諸条件は十分満たしている。 7.1.4 褐鉄鉱使用、土器炉による製鉄実験成功 (百瀬高子氏の実験報告) 褐鉄鉱原料、土器炉による製鉄実験 成功 平成 10 年 10 月末日 @ 弥生土器風甕を製作 器高 45cm 厚み 2.5cm A 胴の中間より少し下に直径 2cm ほど穴を開けて、穴は送風口とした。 B 使用原料 褐鉄鉱の粉末 C 溶融実験 木炭と共に加熱し 6 時間微風を送風した。(縄文時代は息で送風と推定) D 製鉄炉中の推定温度は低温の 400 度前後と記録している。 E 実験結果 6 時間ほどの短時間作業だった。 半熔解の多量の鉄滓の中に大豆大ほどの真黒な鉄粒が出来ていた。 製鉄実験に成功した。 F 百瀬高子氏の所見 3 日 3 晩この作業をすれば、そして溶媒にカルシュウムを使えば、 もっと扱い易い鉄槐が農具や工具わ作るほどの量が出来ただろう。 そしてその鉄塊を熟し、軟らかい内に叩けば鍛造の薙鎌や鉄鐸や斧が出来上がる。 縄文土器を炉として充分製鉄は可能だ。いや縄文中期土器の多くは 小規模製鉄炉として製作され、 土器炉として使用されていた事が実証できた思いだ。 土器炉は乾燥や厚みに少しでもムラがあると長時間の加熱温度には耐えられない。 実験で使用した土器も針金で補強して漸く炉として耐えていたが、 6 時間も内部を加熱しているとあちこちにひび割れが入り、 火を止める頃には崩折れてしまいそうな状態だった。 余熱を冷ましている内に自然に崩れて瓦解したが土器底はしっかり残った。 土器底が残った状況は、松本市近郊などの遺跡で土器底のみ集中出土する 笹賀神戸遺跡などの状況と類似している。 戦前に浜で鉄作ったと爺さん世代の人が言ってたの思い出したが 何言ってるんだこの爺さんはと、 案外鉄って少量なら簡単に作れるんだと最近分かって来た 縄文時代の勾玉や玦状(けつじょう)耳飾りなどには、 5mm ほどの円形穴が奇麗に開いてて この話は納得行くな、 縄文時代に鉄工具は有ったんだよ、 木造建築のホゾ穴が奇麗に彫られてたのも納得。 ●浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安) 1993年に浙江省温州地市30を超える石棚墓が発掘され、春秋時代の器物が多数出土した。 石棚墓とは日本でいう支石墓のことである。これは、紀元前1700年〜紀元前256年頃に かけて江南地方で営まれた墓制で、石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。 その形状や葬送様式などから、 九州北部や朝鮮半島南部に展開する支石墓のルーツかとも考えられる。 紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現するが、これは、 支石を箱形に並べた上に高くびえる形で天井石を載せたもので、テーブル式と呼ばれる。 一方、朝鮮半島南部に支石墓が出現するのは紀元前500年頃からで、 数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、碁盤式と呼ばれている。 韓国では、高くそびえるテーブル式を北方式、低い碁盤式を南方式と分類しており、 両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。」 http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/feb38310affc1341db8f81b06fa43f45 どうやら朝鮮半島北部の支石墓と九州北西部、半島南部の支石墓では、 どうやらその伝播してきた大元が違っていたようである。 九州北西部、半島南部のは江南系、朝鮮北部のは遼東系であるそうだ。 浙江省地方の石棚墓が九州西北部から半島南部へから考察して これは海洋民、越人の東越の話と一致する(秦代の越絶書) 浙江省地方の石棚墓、江蘇省、山東半島、遼東半島、朝鮮半島西部、九州北西部、 何れの石棚墓、支石墓、にも副葬品としては銅剣、石剣、土器、矢じり、などが主で 高価な黒陶、三足土器や鼎など王侯貴族などの墓にあるような一級品は無く、 生前使ってた生活具、狩猟具が多い、船団や村長クラスの海洋民の文化だったのではと。 渤海、黄海、東シナ海、を回遊しながら交易、海運業、をしてた海人たち やはり、稲作のルートは江南からか遼東から朝鮮半島南部へとか?。 近年、韓国嶺南地方北部の達城坪村里では弥生時代早期(夜臼式)の壺棺が出土し(図 13) 交流範囲が以前よりも北上することがわかった。壺棺の周囲に丸い河原石を敷きつめる 事例は、埋設の向きが逆であるが、唐津の大友遺跡でもみられ、類似する。 大友遺跡を営んでいた人々も支石墓の段階では従来の貝輪であるが、 石棺墓の段階では南海産貝輪を着装するようになり、より交流の範囲が広がっている。 西北九州や唐津地域における支石墓の導入こそが新たな交易者としての海民形成の 端緒であると考えられるならば、日本史における意味は決して小さくないだろう。 大友遺跡は東松浦半島北端、玄界灘に面した海岸部に所在する遺跡である。 弥生時代早期にあたる夜臼式期に造られた支石墓の下部構造は石を土坑の壁沿いに めぐらせる「石囲いの土坑」であり、北部九州の支石墓のなかでも朝鮮半島の様相に近い。 そして、これら最初期の支石墓を取り囲むように形成された支石墓の下部構造は 土坑に変化する。弥生時代前期にあたる板付T式併行期になると、 初期に形成された支石墓群とは別の場所に、土坑墓群が認められ、弥生時代前期中葉から 後葉の伯玄式・金海式の段階には単独の甕棺墓が営まれるようになる。 甕棺墓は、下甕に上甕を覆い被せたような埋置形態のものや、 単純に甕を倒置させたものもある。副葬品として、南海産のオオツタノハ製腕輪や、 ゴホウラ製腕輪など多様な貝輪や、玉類などが出土した。 碁盤式支石墓、これが朝鮮半島南部の全域に登場するのは、 紀元前500年頃で、日本ではすでに弥生時代になっている。 確かに世界の支石墓の大半が朝鮮半島に爆発的に生まれて集中した。 しかし九州北部海岸部の支石墓は半島に先立って縄文時代晩期に隆盛を始めているので、 海を西から順にやってきたかと見え、日本への派生は中国遼東半島とほぼ同時期か、 あるいは早かった可能性が非常に高い。その派生地は江南、長江河口部である。 ということは半島の支石墓は逆に、遼東と玄界灘沿岸日本の双方からの伝播だった のかも知れない。どっちにせよ倭人のしたことであろう。 海洋民が先に選んだのは、どうやら半島沿岸ではなかったようだ。 これは水耕稲作の日本への先の伝播を後押しする考古学的発見である。 その後の隆盛はひとえに朝鮮半島が独占している。けれどその分類からは、 北部九州沿岸の支石墓は、中国南部、長江起源であることになる (要今後の発掘待ち)だろうか。 「O1b2」相関図 https://contents.jobcatalog.yahoo.co.jp/qa/list/10271288745/#modal 中国型( 漢民族 )=「O1b2a1a2b(F940)」湖北省 3.7% 湖南省 2.9% 邯鄲市2.05% 韓国型( 韓民族 )=「O1b2a1a2a(L682)」 (旧 xO-47z) 日本型(大和民族) =「O1b2a1a1 (CTS713) (旧 47z) 」 中国型( 漢民族 )=「O1b2a1a2b(F940)」(O2-65.9%) 韓国型:旧47z=4.0%、 xO-47z=33.3%(O2-40.0%) 日本型:旧47z=25.1%、xO-47z=8.4%(O2-16.7%) O1b2a1a2(中国・韓国共通先祖)→O1b2a1a2a(L682)(韓国型)北回りルート満州へ ↑ |--ーーーーーーーーーーーー→O1b2a1a2b(F940)(中国型)湖南省、湖北省、 ↑ ●●● O1b2a1a (F1204,F3356,K10)(三者共通祖先、長江中流域か?) ↓ ↓ 8000年前ころの突然変異。 O1b2a1a1(ほぼ日本人固有)東シナ海直行・南回りルート、朝鮮半島西南部 O1b2a1a1(ほぼ日本人固有)東シナ海直行・南回りルート 韓国型O1b2a1a2a(L682)との混在が少なく、別の場所で住んでたと思われる 最近の言語学からの研究で、韓国型は満州南部、長白山周辺で 日本型は朝鮮半島中西部辺りの無文土器人が弥生人だろうと言われてる。 >彼らがBC1000年頃の九州北西部に南式碁盤型支石墓文化、熊本の断崖洞穴慕、 赤色漆が塗られた舟形木棺、浙江省杭州や武夷山九曲渓が有名で 長江流域の洞庭湖から鄱陽湖の間で百越一派の誕生地だろうといわれてる。 日本国内に於けるハプログループO1b1の頻度、西日本を中心に3%ほどいる。 九州 3.8% (2/53)[16] 金沢市学生 3.7% (11/298)以上4.4% (13/298)以下[24] 東京(JPT) 3.6% (2/56)[43][2] 徳島 2.9% (2/70)[16] 徳島市学生 2.1% (8/388)以上3.6% (14/388)以下[24] 札幌市成人男性 1.9% (4/206)以上4.9% (10/206)以下[24] 中国洞庭湖周辺の湖南、湖北辺りにはかなりO1b2が残ってるし 日本人の中にも台湾O1a1、東南アジアO1b1(旧O-M95)が地域により3%を超える。 Y-DNA O1b2 [87](2023) 17:29. https://doi.org/10.1186/s40246-023-00476-6 北京市 1.4% (2/138)[87]、2.0% (1/51)[2]、4.3% (2/46)[22] 重慶市 1.0% (1/98)[93]、4.3% (1/23)[87] 湖北省 3.7% (1/27)[87] 湖南省 2.9% (4/137)[87]3.8% (2/52) 湖南省及び福建省[22] 中国全国[46]、1.2% (1/83) 寧夏回族自治区[87]、1.3% (1/76) 陝西省[87]、 1.5% (2/130) 山東省[91]、2.0% (1/50) 寧夏回族自治区呉忠市[87]、 2.6% (1/39) 山東省[87] 西安市 2.9% (1/34) 四川省 0% (0/34) 成都市[16]、1.0% (1/100)[97]、3.0% (1/33)[87] 1.7%以下 (≤1/59) ビントゥアン省チャム族[80]、2.9% (2/70)[27]或いは 4.3% (3/70)[82]、8.3% (4/48) ハノイ市[2] インドネシア 0% (0/1917)[82]、0% (0/246)[81]、8.1% (3/37)[2] スサノヲはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。 二神は天の安河を挟んで誓約を行った。 まず、アマテラスがスサノヲの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って 噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。 この三姉妹の女神は、アマテラスの神勅により海北道中(玄界灘)に降臨し、 宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮、それぞれに祀られている。 多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)。沖津宮に祀られる。 多岐都比売命 - 中津宮に祀られる。 市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)。辺津宮に祀られる。 裏天皇=八咫烏=賀茂氏(宗像タゴリヒメの子孫) 裏伊勢=宗像大社 事代主も阿遅志貴高日子根命も、日本神話では大国主命の息子 アジシキタカヒコネは大国主と宗像三女神であるタキリビメとの間の子供であり、 同じ父母から鴨都波神社の祭神でもある下照姫も生まれています。 タキリビメ(タギリヒメとも)は、宗像三女神の一柱である。 古事記では多紀理毘売命、日本書紀では田心姫(タゴリヒメ)と表記される。 >では、どうして2600年もの長きに亘って王族・皇族として君臨できたのか、 時の権力者なら首を刎ねて今日から俺様が王だと宣言すれば万事済む話だが、 それが出来ない仕掛けが日本の歴史の中で構築されて来たのです。 ある氏族にとって天皇に抗する者はこの世から消えて貰うだけ。 彼らは古代版ディープステート「影の政府」なんです。 「大國主神」こと「倭大物主」は「大御和乃~奈備爾坐」 「倭大物主櫛厳玉命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと) 『出雲国造神賀詞』では倭大物主櫛𤭖玉命)。 と御名を称へて大御和の神奈備に坐す」と記載されております。 「大三輪」ではなく「大御和」とあるのです。 ちなみに出雲大社は「スサノオ神」が祀られていることはご存知の通りです。 ここで書いておきたいのは「大国主神」は一代だけの神ではないということです。 「大国主」の系譜を挙げたように「大国主」はいわゆる役職名であり、 「国を司るトップ」のことを神格化してるのです。 では「倭大國魂」は「大物主」の和魂(平和な)とか荒魂(戦闘的な)とか言われており、 つまりは「倭」の代表者であるとの意味だと考えます。 大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。 国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。「偉大な国の主人」の意。 大穴牟遅神(おおあなむぢ-)・大己貴命(おおなむち-)・於褒婀娜武智(おほあなむち-) ・大穴持命(おおあなもち-、『出雲国風土記』、『伊予国風土記』逸文での表記』) ・大汝命(おおなむち-、『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち-) ・国作大己貴命(くにつくりおおなむち-) - 誕生後の名。 葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)は、 京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、 5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭。 >この祭りは賀茂県主氏と朝廷の行事として行っていたのを 貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。 下鴨神社・祭神:賀茂建角身命(かもたてつぬみのみこと)→賀茂別雷神の祖父 上賀茂神社・祭神:賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ) どうして天皇の代理、勅使代と斎王の代理「斎王代」が唯一出向いて、 賀茂建角身命に挨拶回りをするのか、 本来なら賀茂県主氏が天皇に挨拶の行くのが筋のはず。 賀茂建角身命は「神武東征(日本の建国神話)」の際、 天照大神の命で神武天皇を阻む難路を先導した八咫烏(やたがらす)の化身とされます。 ※その功績から金鵄八咫烏(きんしやたからす)とも表されます。 神武天皇の東征に功を成した賀茂建角身命は、賀茂県主の祖となり、 大和国の葛木山から「山代国の岡田の賀茂」の順に遷座したと伝わります。 裏天皇=八咫烏=賀茂氏 東・伊勢=伊勢神宮、西・裏伊勢=宗像大社 宗像の守神として三女神に付けられた別名が「道主貴(みちぬしのむち)」。 この「貴」と言う位が付く神様は天照大神の「大日孁貴(おおひるめのむち)」と 出雲大社の大国主命こと「大己貴命(おおなむち)」しか与えられてないのです。 この事から如何に宗像三女神が位の高い神様だと言う事が分かります。 宗像大社「辺津宮」にある「第二宮」と「第三宮」。 こちらには、長女である「田心姫神」と次女である「湍津姫神」が分祀されてます。 この建物は元々伊勢神宮の別宮であった「伊佐奈岐宮」と「伊佐奈弥宮」であったと 言うことなのです。 この建物は1973年(昭和48年)の第60回の式年遷宮の折に特別に移築され 再建されたものとも言われています。しかし、何故に伊弉諾尊、伊弉冉尊のお社を。 伊弉諾、伊弉冉と天照大神は親子。そして、宗像三女神は天照大神が産んだ御子神。 即ち、伊弉諾、伊弉冉から見て、宗像三女神は孫に当たる訳なので、 それも1つの理由かもしれない。 もしかするともっと深い理由があるのかもしれません。 あるんです。 玄界灘で日が暮れて方位がわからなくなった海人の宗像族は東の空に現れた オリオンの三つ星を目指して船を漕いだhttps://i.imgur.com/IntrZHB.jpeg ピラミッドの並びが三つ星と同じだという話もありますね https://i.imgur.com/oWJVrcJ.jpeg 宗像三女神とはオリオン座の三ツ星の事 ギリシャ神話の海神ポセイドーンの子、暴れん坊のオリオンは腰に剣を刺し。 あれ天照大神は海神・暴れん坊スサノオの剣をかみ砕いて三女神が生まれた。? 天之御中主神は北極星、天ノ原・天空の夜の世界は北極星を中心に回ってて 北方位を指す、夜は北極星に向かって両手を広げれば右手が東、左手が西と方位が分かる。 そして天ノ原の昼の世界は天照大神、太陽が生き物たちを育むために天空を回ってる。 高御産巣日神(たかみむすびのかみ)高木大神(たかぎのおおかみ)とも云われ 諏訪大社の御柱がその神。 昼は太陽と木柱の影(日時計の原理)で季節、冬至、夏至、が分かり 農作物の種まき、収穫時期が分かる。 開けた場所に柱を立てて、柱の影が一番短い所が南を指し 影が北よりか南寄りかで季節が分かる。 昼の影で一番短くなるのが夏、 長いのが冬。 高御産巣日神が 季節と時刻を告げる神に対して。 神産巣日神(かみむすびのかみ) 万物の生成発展に寄与する力であり、神道の根元思想である、 自然崇拝の本質で万物に宿る魂とか精霊を敬い尊ぶ神。 これらが、日本神話の最初に高天原に出現する神々。別天津神・造化三神。 >>277 エジプト神殿などに立てられた記念碑オベリスクが日時計などの役目をしてて 神話の高御産巣日神・高木大神がこれらに相当するんだろな 安倍晋三は阿倍仲麻呂、安倍晴明の親戚やで >そう、この地には安倍の文珠院と言う有名な寺が有って、地名が桜井市十市郡安倍 安倍神社もある。安倍晋三さんも文珠院には内緒でお参りに来てた見たい。 大和国十市郡安倍(現,奈良県桜井市)は 大彦命を祖とする古代豪族阿倍氏の地盤、崇神妃、御間城姫(みまきひめ)の実家 103面の銅鏡が見つかった桜井茶臼山古墳はこの御間城姫の墓と云われてる。 大和朝廷は今でも、ディープステート(影の政府)として生きてる。 国会なんてフロント宴会場、茶番よ。 そりゃ藤原五摂家として今でも残ってるからな 近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家 江戸時代の時点で近衛家48家、九条家20家、二条家4家、一条家37家、 鷹司家8家、ある。これら五摂家こそが実質影の政府。藤原一門の誉よ。 皇別摂家(こうべつせっけ)とは、 日本の五摂家のうち江戸時代に男性皇族が養子に入って相続した、 後の3家(近衛家・一条家・鷹司家)およびその男系子孫を指す。 男系血統としては、伏見宮系旧皇族以上に、現在の皇室と近い血筋にあたる。 鎌倉時代に藤原摂関家が疎ましく思い、 白河天皇は堀河天皇に位をゆずって 白河上皇 となり、 その後も政治の実権を握り続けた。 これが院政の始まり。 天皇は蓄財や屋敷を勝手に建てるような穢れ事は出来ないが、 上皇、法皇、なら勝手にできる。 白河上皇 は蓄財のし放題で財力、権力、を手に入れていった。のが動乱の始まり。 藤原摂関家には国家の安寧と永遠を守る義務がある、 神々の命じるままに職務を遂行するまで。 京都の街自体が朝廷時代からの遺跡のような街で 朝廷政治が深く根付いてて、京都では白足袋には逆らえないが常識だからな。 「京都の裏支配者“白足袋族”の実態」 京都には昔から「白足袋族」という言葉があります。 僧侶や茶人、学者、西陣の織物の老舗(しにせ)など、 政治的な権力者ではないけれど隠然たる影響力を持った裏の権力者たちのことで、 京都の庶民は「白足袋族には逆らうな」といった言い方をします。 京都で有名なお寺を拝観する観光客は表の顔しか知りませんが、 地元の人間は僧侶たちの裏の顔を見ていますからね。 私も十五年ほど前、保険調査員の仕事で祇園のクラブに通いつめたことがあったのですが、 坊さんたちが変装してお店に通うのを何度も目撃しました。みんな変装して 普通の服装で現れるのですが、全員頭が坊主なのですぐわかってしまいます(笑)。 長江・東シナ海ルートについては、日本から向かって行くのは遣唐使船の例を 挙げるまでもなく古代においては相当困難な航路なのですが、 逆に来るのは西風・対馬海流の順風・下流方向でそうでもないという話を聞きました。 現在でも上海辺りから漂流して自然に九州に着く船があるそうです。 そのため長江流域から稲をもたらしたのは、計画された船団ではなく 遭難して漂流してきた小舟だった可能性があるとの話でした。 そして、たまたま縄文人家族に助けられた中に農業に詳しい遭難漂流民がいて 水田稲作の方法を教えた。 >江戸時代の200年間だけでこれだけの遭難者(記録に残る者だけ) 古代中国沿岸から数千年の間に九州・奄美諸島への遭難、漂流者は互いに相当数いたはず。 数千人以上か?。丸木舟、筏での漁民や交易船などは強い西風で直ぐ遭難する、 東シナ海の中央部まで流されると対馬海流に吸い込まれて対馬方面に流される。 江戸時代の漂流者の一覧 長右衛門 - 寛文10年(1670年)、小笠原諸島に漂着。 伝兵衛 - 元禄9年(1696年)、カムチャッカ半島に漂着、ロシア帝国に渡る。 ゴンザとソウザ- 享保13年(1728年)、カムチャツカ半島に漂着、ロシアに渡る。 孫太郎 - 明和元年(1764年)、フィリピンに漂着。 大黒屋光太夫 - 天明2年(1783年)、アリューシャン列島に漂着、ロシア帝国に渡る。 新蔵 - 天明2年(1783年)、アリューシャン列島に漂着、ロシア帝国に渡る。 野村長平 - 天明5年(1785年)、鳥島に漂着。 津太夫 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。 太十郎 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。 儀兵衛 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。 阿部吉郎次 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。 善六 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。 継右衛門 - 享和3年(1803年)、千島列島に漂着。 平原善松 - 文化3年(1806年)、アメリカ船に救助されハワイ諸島に渡る。 久蔵 - 文化7年(1810年)、カムチャツカ半島に漂着、ロシアに渡る。 小栗重吉 - 文化10年(1813年)、イギリスの商船に救助されロシアに渡る。 音吉 - 天保3年(1832年)、アメリカのオリンピック半島に漂着。 庄蔵 - 天保5年(1834年)、スペイン領のルソン島へ漂流する。 寿三郎 - 天保5年(1834年)、スペイン領のルソン島へ漂流する。 ジョン万次郎 - 天保12年(1841年)、アメリカ捕鯨船に救助され渡米。 浜田彦蔵 - 嘉永4年(1851年)、アメリカ商船に救助され渡米。 仙太郎 - 嘉永4年(1851年)、アメリカ商船に救助され渡米。 小林伝吉 - 嘉永4年(1851年)、アメリカ商船に救助され渡米。 勇之助 - 嘉永5年(1852年)、アメリカの商船に救助され渡米。 熊本の縄文時代遺跡からも稲作の痕跡 が、さらに同年7月には熊本市教育委員会が熊本県の指定遺跡になっている 本渡市(現在の天草市本渡町広瀬)の大矢遺跡にある約5000〜4000年前の地層から 十数年前に出土していた土器に、稲もみの圧痕(あっこん、長さ約3o、幅約1o)が ついていたことを発表して、大きな話題となりました。 このような圧痕については、1992(平成4)年に、岡山県総社市(そうじゃし)の 南溝手(みなみみぞて)遺跡(縄文後期、約3500年前)から出土した土器に ついていた圧痕が最も古いとされていましたが、この大矢遺跡の圧痕の発見で、 日本における稲作の起源がさらに500年以上、遡ることになったのです。 編鐘(へんしょう)日本では銅鐸 >この墓には編鐘(銅鐸に似た青銅器)が9個と玉璜、棺は朱色に着色されてる。 洛陽市で春秋後期の戎族王級墓見つかる 河南省春秋時代(紀元前770年〜同476年)後期 https://www.afpbb.com/articles/-/3319690?pno=2&pid=3319690003 >この墓も銅鐸に似た編鐘と棺内には朱色(丹、水銀朱か)が塗られてる。 曾侯乙墓は戦国(紀元前 475〜221 年)早期と鑑定されてる。 曾侯夫人羋加墓中出土的部分青銅器 https://www.bastillepost.com/hongkong/article/4874837- 言語との関連 朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる 日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。 これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は 古代満州南部・長白山周辺から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、 その後この朝鮮語族の集団は北方から中部へ拡大し、 朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。 またこの過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が 弥生人の祖であり倭人達であるとされる。 >つまり、この話へと繋がって行くんだろ。 『山海経』第十二「海内北経」(鉅燕、紀元前1100年頃 ~ 紀元前222年) 紀元前300年頃の様子を記したと思われる。 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」のころの倭集団を「辰国」と中原王朝は呼んでいた。 辰国は『史記』『漢書』によると、衛氏朝鮮の時代(紀元前2世紀)に 朝鮮半島の南部に存在したとされる国である。 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」 蓋國(今の北朝鮮辺り)は鉅燕(巨大なる燕)の南、倭(今の韓国辺り)の北にあり、 倭(今の韓国辺り)は燕に属す。 「辰国」「真国」「真蕃」「シン=月神、月支国」「秦韓=辰韓」「月読=秦氏」 丸木舟を作る道具の丸ノミ形石斧(鹿児島栫ノ原遺跡・世界最古1万2千年前)が、 日本全国からと沖縄本島、奄美群島、種子島からも出土してる。 黒潮本流を横切り伊豆諸島の八丈島まで渡り、縄文人の航海能力には驚かされる。 そもそも朝鮮半島の東海岸沿いには縄文人たちが九州の結合式釣り針を持ち込んでる 約7,300年前に生じた鬼界カルデラの噴火で南九州は住めなくなり 北上した一部が朝鮮半島東岸に移住した、 彼らが半島南岸、金海市周辺にも縄文遺跡を残したんだろう。 対馬海峡を挟んだ日韓新石器時代の交流 https://saikaikouko.jp/No6/hirose2005.pdf 縄文式土器や韓国新石器時代早期から中・後期の土器が,対馬海峡を隔て 朝鮮半島南海岸地域と対馬・九州西北地域から出土している。 これらの土器は,日韓交流の歴史を雄弁に語っている。 江原道高城文若里遺跡(壷5)では縄文早期から前期前半にあたる隆起文土器の段階に 石錯とともに石鋸が出土するなど出現時期が異なるものもあり, 貝輪製作でも両地域で詳細にみると違いが認められる。 慶尚南道巨済島大項浦遺跡(註17)で縄文前期の轟B 2式土器,煙台島貝塚からは 後期の阿高系土器が出土している。 釜山東三滴貝塚からは縄文前期後半の曾畑式土器,中期の船元系土器, 後期の南福寺式土器などがまとまって出土しており,朝鮮半島南海岸地域側の交流の 重要拠点となっていたと考えられる。 新若里遺跡(註20)から後期初頭の阿高系土器,ほぼ同時期と考えられる土製耳飾,土偶 などか出土し,上老犬島貝塚(註21)から中津式系土器(九州の在地型)などが 「直接持ち込まれた」土器の確実な例としてあげられる。 次の時期,縄文時代の中期から後期(韓国新石器時代中期一後期前半)にかけては, 「直接持ち込まれた土器」の量と分布範囲は若干拡大して,遺跡数も増加する 傾向が見られる。口の印で表示された遺跡がこれにあたる。 無文土器(むもんどき)とは、 朝鮮半島における青銅器時代(無文土器時代)の指標となる土器。土器の表面に, 櫛目文土器の幾何学的文様のような施文がほとんど行われなず、無文のものが多いため、 無文土器と呼ぶ。同様の土器の無文化は沿海州でもみられる。無文土器の上限は およそ前1千年紀前半期にあり、下限は北部で前3世紀頃、南部で紀元前後頃と思われる。 日本の弥生文化成立に深く関係し、北部九州、山口では弥生土器に伴い 粘土紐貼付口縁土器が出土している。後期の無文土器は、北部九州地方をはじめとして 日本列島各地の弥生時代の遺跡から出土し、吉野ヶ里遺跡でも朝鮮系無文土器が多く出土。 この朝鮮系無文土器の担い手こそ、つまり日琉語族の集団で弥生人、倭人なのである。 遼東半島、偏堡文化、無文土器は弥生文化と連動してるが 確かに弥生土器は磨製の無文土器とは違う、未熟さがありな粗野な造り、 これは、弥生人が持ち込んだ無文土器を恐らく慣れない土着民たちが造ったからだろう。 偏堡文化、無文土器、弥生人は技術移転として黒色磨研土器(1100BC頃)を制作した 制作技術は明らかにレベルが違う、ロクロを使ってて手が切れそうなほどの鋭さがある。 弥生土器は土着民たちが造ったもので無文土器職人とは、ちと違う。 これで縄文晩期にハイテク品、黒色磨研土器(1100BC頃)が突然現れた謎が解けた。 九州西北部の支石墓も内部には縄文時代後・晩期の土器が多く、細形銅剣なども、 偏堡文化、無文土器、弥生人たちが 半島中部、松菊理遺跡時代(600BC頃)に技術習得し、九州時代でも造り使用した。 この松菊理遺跡には最古の「三種の神器」が登場した遺跡。 偏堡文化は遼東半島の文化で山東半島から来たと思われる日琉祖語族O1b2(47z)か? 遼河周辺から来たと思われる、満州南部方面の朝鮮語族O1b2(L682)とは 余り交流が無かったためかY-DNAの混在が少なく、ほぼ純血を保持してた。 長江辺りから直接九州、半島南部、に来た者たちも少なからず居たはず 長江と五島列島とは渡り鳥のルートで春と秋の渡りの季節には 2か月に渡って数百万羽が移動する、渡り鳥と夕暮れのオリオン座三ツ星さえ 追いかければ方向を間違える事は無い。 中国には後漢の永平10年(67年)には入って来てる、 北魏を建てたに鮮卑族には同時代には仏教が入ってたんだろう、 日本の仏教は北魏様式で仏像の額には三つ巴紋が彫られてる 秦王朝でも三つ巴紋が神紋として扱われ、 BC1900年頃の山東省、岳石文化・龍山文化の土器の摘まみ部分にも三つ巴紋が描かれ、 辰韓新羅の「宝刀」にも三つ巴紋が飾られている。 辰韓から渡来した秦氏の宇佐神宮でも神紋として使われてる。 秦氏は新羅から渡来した新羅の王子「天之日矛」だろな。 韓半島新石器時代集落の展開と生業の変化 林 尙澤 (釜山大學校 考古學科) https://www.meiji.ac.jp/cip/researcher/6t5h7p00000ixpa5-att/material_2019_Kurishima.pdf 韓半島新石器時代集落遺跡(縄文時代に相当)は現在、「100余り」が知られている、 最近、南韓の中西部地域を中心として集落の調査事例が増大している (図1)。 本格的な集落遺跡は新石器時代早期 (6000〜4500BCE)から出現して、 後期まで全国的に分布するが晩期 (2200〜1300 BCE)になると急速に減少する。 ちなみに日本の後期旧石器時代の遺跡数はのべ 1万4千500 以上にのぼり 縄文時代のもので約9万件、弥生時代のもので約3.5万件が登録されている。 日本列島の文明起源と交流 .宮本一夫 Dankook University https://cms.dankook.ac.kr › widget › web › -oriental PDF もちろん石鏟は水田の畦畔を作る際に使うこともできる。このことから見れば、 山東半島の龍山文化・岳石文化には畝立てによる畠が存在していた可能性 ... 山東龍山文化(りゅうざんぶんか、龙山文化、ロンシャン・ウェンフア, 紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)は、中国北部(華北)の黄河中流から下流にかけて 広がる新石器時代後期の文化である。黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう。 山東北部の黄河流域ではアワ·キビが主体であり、 さらに山東南部の黄海沿岸地域ではイネが主体であることが示された。 したがって、山東龍山文化期にはイネが長江下流域から黄海沿岸を北上し、 山東半島のアワ·キビ農耕地帯に伝播しながら、 イネへの生業の依存が高まる形で山東半島先端へと伝播したと考えることができる。 その年代は遅くとも紀元前2500~2000年の時期である。 この時期、朝鮮半島の漢江下流域や·錦紅流域の半島中南部地域では、 低湿地から炭化米が採集されている。またこの地域の新石器時代後期の土器内部からも イネのプラント·オパールが検出されている。さらに忠清北道沃川郡大川里遺跡の 住居址内部からはアワ·キビなどとともにイネが発見されている。 住居址内部の炭化物の年代は3502年calBC~2658年calBCと古いが、 出土している土器は新石器時代後期のものであり、紀元前2500年頃のものである。 ほぼ同じ時期とみてよいものである。 アワ·キビ農耕に山東半島南部にイネが入ってきたのと同じように、 半島南部のアワ·キビ農耕にイネが加わった段階であるということができるであろう。 しかしそれは水田などの灌漑農耕を伴う集約的な農耕段階ではなかった。 自然農法に近いものであったであろう。こうした紀元前2500~2000年頃に、 アワ·キビ農耕にさらに栽培穀物としてイネが加わる段階を、 東北アジア農耕化第2段階と呼ぶことができるだろう。 この段階は、沿海州南部を含む東北アジアでは、穂摘み具である石包丁や、 伐採具である遼東型石斧、木工工具の扁平片刃石斧·柱状片刃石斧が出現する段階である。 このような石器群がまとまってより古い段階から出現しているのは、 東北アジアでは遼東半島ということができる。しかしこれら石器群は この遼東半島で出現し2たというよりは、隣接する山東半島においても認められる。 とりわけ遼東半島の東端部烟台地区である膠東半島こそが、遼東より古い段階に 出現しており、これらの石器群が遼東半島に伝播したと考えるべきであろう。 膠東半島(こうとうはんとう)山東半島の先端部、青島市から東半分を指す。 日本列島の文明起源と交流 .宮本一夫 Dankook University https://cms.dankook.ac.kr › widget › web › -oriental PDF もちろん石鏟は水田の畦畔を作る際に使うこともできる。このことから見れば、 山東半島の龍山文化・岳石文化には畝立てによる畠が存在していた可能性 ... 朝鮮半島無文土器文化の畠遺構や水田遺構の畝立てや畦畔作り あるいは耕起具として石製鍬·鋤が木製素材に転化したものと考えられる。 このように考えていくと、畠·水田とその農耕具(鍬、鋤、石包丁)が複合して 山東半島から遼東半島を経由して朝鮮半島へと技術が広がっていったのであり、 その線上に北部九州の弥生早期が存在することになる (宮本2008c)。 すなわち水田や畠といった灌漑農耕とともに、磨製石器群、さらには石鏟や石包丁 といった農具が山東半島から遼東半島へと広がっていく。これらの広がりは漸次的な ものである可能性があるが、少なくともこれらがすべて揃うのは 山東の岳石文化段階であろう。さらにこうした磨製石器群や石包丁が遼東半島から 朝鮮半島の無文土器文化へと漸移的に広がり、それに応じて石包丁が 形態変化していくことは多くの学者(下條1988、安1998)によって論証されている。 1950年代に遼寧省瀋陽市の偏堡子(へんほし)村の砂丘で発見された 「偏堡文化」の土器が、弥生土器のルーツであることが分かっています。 農耕文化と一緒に南下し、日本列島に上陸しました。 弥生土器のルーツだったことが明らかにされた遼東半島の「偏堡文化」は、 紀元前2400年頃の畑作農耕文化です。宮本一夫氏は、彼らが古日本語を話していたと 考えていて、900年以上かけて朝鮮半島を南下し、紀元前1500年頃、 朝鮮半島南部で稲作農耕文化を始めた人たちだとしてます。 紀元前1500年といえば、中国中原では、殷王朝が成立した時期にあたります。 この殷代前期までの中国中原は、「初期青銅器時代」にあたるとされ、 殷代中期から「初期」の名前が外れた青銅器文化に進化していくとのことです。 同時代の朝鮮半島は、同じ段階では無いですが、歴史の波が動いていました。 研究代表者が提起する東北アジア初期農耕化4段階説の内、 第2段階の山東半島から遼東半島へのイネの伝播仮説を、土器圧痕調査で実証した。 同段階の偏堡文化の朝鮮半島無文土器文化の成立への影響を、 山東半島・遼東半島の土器製作技術の調査によって明らかにした。 また、この段階の山東半島の水田の存在について 楊家圏遺跡のボーリング調査によって示した。 さらに第4段階の北部九州の弥生文化の成立年代を炭化米の年代によって明らかにした。 DNA人類学の研究史−特に日本人とアイヌ ... https://note.com/toy_nupuri/n/ned4bba4c2f16 「支石墓・石棚墓・卓上テーブル型支石墓」 紀元前1700年〜紀元前256年頃ということは殷(商)から春秋・戦国時代 「紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現」 朝鮮半島北部の支石墓は山東半島→遼東半島→遼河→吉林省→朝鮮北部といった流れ。 山東龍山文化時代は紀元前2600~1900年頃、 岳石文化の時代は紀元前1900~1500年頃です。 浙江省温州地市瑞安 (碁盤型石棚墓)紀元前1700年〜紀元前256年頃にかけて 「江南地方で営まれた墓制、石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。 中国南部、長江下流域、江蘇省でも支石墓が見つかった。 山東半島 「紀元前1500年頃 遼東半島 「卓上テーブル型支石墓・北方式支石墓」紀元前1500年頃 朝鮮半島北西部 「卓上テーブル型支石墓・北方式支石墓」 朝鮮半島南西部 (碁盤型支石墓・南方式支石墓)紀元前500年頃(無文土器時代) 朝鮮半島南東部 (蓋石式支石墓) 済州島式支石墓 (囲石式支石墓) 類似する形態のものは中国浙江省地域でも見られる。 西北九州 (蓋石式支石墓・碁盤型支石墓)紀元前1.100年頃(縄文時代晩期 ) 「屈葬や箱式石棺を伴う。縄文時代晩期から弥生時代前期の土器も発掘されている。 >長江流域と九州地域には類似した文化がある。 崖に横穴墓 貴州省都江鎮不巫郷にある横穴墓と極めて似ている。 石棚墓群 (浙江省温州地市瑞安) 長江下流域、江蘇省でも支石墓が見つかった。 土とん墓 墳丘墓の源流、中国江南地方で呉・越の限られた時代の土とん墓の影響か。 舟型木棺 江蘇省の土とん墓群からは船形棺の葬具が出土している 銅鐸祭祀 の源流、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、 「日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。 「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫る。 縄文晩期 長崎県佐世保市大野台・島原市原山に石棚墓群が出現。 浙江省の石棚墓群に類似する。屈葬や箱式石棺,甕棺を伴う。 (支石墓としている記事もあるが、石棚墓に近い。行きに支石墓が皆無であることから 浙江省から直接渡来した人々によるものではないかとの説もあり) 佐世保市鹿町町 大野台支石墓 https://livedoor.blogimg.jp/nandemo_nenpyou/imgs/0/8/08433312.jpg 中国陝西省西安市、約4千年前の太平遺跡、大規模な集落跡が発見された。 客省荘第2期文化に属する灰坑173カ所、灰溝2カ所、家屋跡5カ所、墓7基が見つかり、 大量の土器、石器、骨角器、動物の骨(卜骨)のほか、少量の玉器と玉原石が出土した。 三足土器は出土してない。 >中国人の移民は相当数いるはずが三足土器はない。黒色・紅色磨研土器はある。 台湾史前博物館と卑南文化公園 沖縄写真通信 http://okinawa.ave2.jp/okinawa/masat/1211Taiwan/002Prehistory-Museum/002Prehistory-Museum.html 台湾4千年前の卑南新石器文化時期、円山文化年代は、約四千五百年前から始まり、 約二千年前に消失。 三足土器はなし 中国東南沿岸部の新石器時代 中国東南部は,およそ漸江・湖南・江西・広東という広範囲の地域を指す。 この地域は,漢書によれば「交阯より会稽に至る七,八千里,百越雑処す,各種姓有り」 とあり,いわゆる「印紋陶」が分布する地域に重なって, 「百越」と表現されるさまざまな諸族が居住していたと思われる。 大分県日出町(ひじまち) 当町域の旧石器時代から弥生時代までの遺跡は約一〇〇ヵ所を超える。 川崎地区の早水台そうずだい遺跡は旧石器時代前期から縄文時代早期の遺跡で、 昭和三九年(一九六四)の調査で旧石器が発見されている。 同地区の橋詰はしづめ遺跡では瀬戸内海の福田II式土器が発見され、 縄文時代後期の当地域の特殊性が注目された。 日出地区の薬師やくし遺跡では、 「縄文時代晩期の三万田式土器とともに印文陶の破片が出土している。」 長崎県五島列島福江市戸岐 昭和55〜56年に戸岐集落の裏が崩落。崩落止めの工事中に作業員が発見した折、 取りあえず高台にあった金富(かなとみ)氏が祭祀した祠の中へ入れた。 数年後、水中埋蔵物の調査活動をすすめていた地元潜水士の平山繁一が、 その祠からたまたま発見したもので、昭和59年に九州歴史博物館の鑑定で 中国の春秋時代(前771〜前403)に作られた「印文陶土器」と判明。 沖縄県八重山郡竹富町 宮古・八重山諸島先史時代 波照間島台地緑の下田原地区の黝灰色の印文硬陶の土器が採集されている。 韓国南部固域貝塚から西周時代長江下流の江蘇,浙江地帯で盛行した 印文陶(湖熟文化)がみつかった。 *「印文土器」 朝鮮半島南端近くの海辺の小都市、「固城(こじょう)」という地から 「印文陶器」が発掘されていること。揚子江の下流から広東省まで分布する土器。 「固城貝塚」は「伽耶(かや)」「任那(みまな)」といった、倭人が多く住み、日本に関係の深い地。 また縄文遺跡の多い地域。土器と一緒に、炭化した稲籾と大麦なども発見。 さらに平形銅剣や鉄滓、フイゴロなども出土。揃っています! 他に「全羅南道大黒山島・木浦市の80km西方」でも「印文陶器」が発見されているようです。 イラン南西部銅石器時代の煮炊きに関する研究は驚きの....... >朝鮮半島の無文土器・黒色磨研土器にある角が2つ付いた土器と同じ土器。 イラン南西部銅石器時代の煮炊きに関する研究 方解石、赤色シルト岩粒を混和した薄手の磨研粗製土器が作られるようになる(図 1)。 把手が付いている本発表では東京大学総合研究博物館所蔵のタル・イ・ギャプ遺跡 出土土器 19 点(紀元前 4700-4500 年)、タル・イ・バクーン A 遺跡 出土土器 2 点(紀元前 4500-4300 年)、合計 21 点の胎土を分析試料とした。 ps://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQRF9Ph_92CXT9CMltZ0GczhXiJFEgYySWwHQ&usqp=CAU p://jswaa.org/wp/wp-content/uploads/2022/06/27thJSWAA_abstracts02-1.pdf (P40) >紀元前5500年頃のものや古代南インド、弥生時代の福岡県スダレ遺跡からなど インドや中東辺りの子持壺が日本まで伝えられて来たこと。 古代シリアの子持壺 ps://kiyond.blogspot.com/2010/03/blog-post_28.html >中国「アンダーソン土器」とそっくりなペルシャなど中東の彩文土器。 >このシュメール土器と縄文土器の似すぎる共通点?? なんだかな? ps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11286216476 シュメール人は自らの国を「キエンギ」と呼んでいました。 これは「葦の主の国」という意味になり、 古代日本の呼称である「豊葦原中国」とよく似ているのがわかります。 日本の古語で、天皇や皇族を、「スメ(皇)」や「スメラ(天皇)」と言い、 それは古代バビロニアの「Sumer(スメル)」と似ているだけでなく、 「シュメール」とも発音されていました。 ほとんどの方が「菊花紋」というと、天皇、皇室を連想することでしょう。 実は、シュメールから出土した粘土板にも、菊花紋が描かれています。 当時のイラク大統領サダム・フセインが、バグダッドの官邸で記者会見を開いた時、 十六菊花紋がデザインされた腕輪をしていたのです。シュメールの子孫だと誇示するため。 草薙の剣(くさなぎのつるぎ)(スサノオ) 八咫鏡(やたのかがみ) (天照大神) 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)(勾玉は月像、月読神) (中東では勾玉のデザインが良く使われる) 欧州「ペイズリー」ペルシャ「ボテ(Boteh)」インドでは「ブータ」「カルカ」など。 シュメールや古代バビロニアの三種の神器である 武神のシンボルの剣 日像鏡 月像の首飾り 日本の神話には8つの首を持つヤマタノオロチを退治したときに、 草薙の剣を得たという話があります。 シュメールの神話にも、7つの首を持つ龍を退治して、剣を得たという話があります。 これらを関連付けると、 日本の三種の神器はシュメールの神から授かったものという見方もできます。 じゃあ、日本にシュメール神話を伝えた者たちが居た、中東出身説のある秦氏か??? 古代バビロニアの楔形文字で書かれた粘土板の内容を記憶してた民族て事か??? シュメール人とは?その文明と「日本人のルーツ」の謎に迫る 後世ペルシャ王族の象徴だった「白瑠璃の碗」と同じ意味合いなのかも 3枚目の写真(大分県から出土した黒色磨研土器の形によく似てる) https://newsphere.jp/national/sumerian-japanese/ パンテオン 大部分のシュメールの神々はアヌンナ(Anunnna、アヌの子孫たちの意)に分類される。 一方でエンリル、イナンナを含む7柱の神々はアヌンナキ(アヌの子孫たち+キ)とよばれる 「地上、冥界の審判者」に分類される。アヌンナキは天(アン)から地上(キ)に 降りたものたちを意味する[要出典]。ウル第三王朝の頃、シュメールのパンテオンには 60の60倍、すなわち3600の神々が存在するとされた。 紅陶(鬹 キ・規に鬲レキ )『足が中空なもの』 鼎(かなえ、テイ)『足がつまったもの』 ナンム: 原初の海(Engur)の女神。天(アヌ)と地(キ)を生んだ。最終的女神ティマト。 アヌ: 天の神。 シン: 月の神。ウルの都市神のなかの1柱。 ウトゥ: 太陽の神。シッパルのエババル寺院(E-babbar)に住まう。 イナンナ: 戦いの女神。女性の繁殖力、愛の神。ウルクの都市神。 紅陶・鬹(鬹 キ・規に下が鬲レキ (足が中空なもの)) いわゆる三足土器。三本の袋足を組み合わせて作った器で、 その上の一方に口頸部が付き、その反対側に幅広の把手が縦に付く。 口は円を二方からつまんで作った形を呈している。 胎土は精製された土で、整形した後なめらかに磨かれている。 この種の鬹は、黄河下流域の大汶口文化やその流れをひく山東龍山文化のものが よく知られているが、良渚文化にも出土例がある。 シュメールは人類最古の文明化。 メソポタミアのシュメール文化(紀元前3500年頃)から エジプト文明前3000年頃が生まれ、 さらにインダス文明(紀元前2500年頃から1500年頃)が生まれた。 黄河文明(紀元前2000年頃から甲骨文字)もシュメールが作ったのだという。 象形文字が4大文明で共通している。 彩文土器などは明らかに中央アジアの物である。 日本の古代文明もシュメールの影響があるという、縄文土器のなかに似た物がある。 旧約聖書もシュメールの歴史である。イラクの古遺跡の名も旧約聖書のそれと同じである。 地名が歴史の化石と言われるゆえんである。 『日本書紀』の「斉明天皇紀」の五年(659)七月の条に、つぎのような文がある。 「伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書によると、この天皇(斉明天皇)の御世に、 この記事で注目されるのは、九月十四日の午前四時ごろに大海に乗りだし、 十六日の夜半には、中国の江南の会稽県についていることである。 二日(二昼夜)と八時間ほどで東シナ海を渡っていることになる。 縄文、弥生時代と、七・八世紀ごろとでは、船の構造の違いもあるとみられるが、 参考になると思われるので、以下に紹介してみよう。 原始和弓の起源 2015年『日本考古学』 https://fieldnote.info/page-1424/page-1557/ 原始和弓が属する丸木弓系単一素材弓は,太平洋・インド洋沿岸の湿潤な樹林帯に多い。 とくに,太平洋周辺の長大な弓の分布は,オーストロネシア語族の拡散域と 非常によく重なるので,その拡散には彼らが強く関与していたとみられる。 源郷とされる中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡からは,初期のイネやブタ, 丸木舟とともに,世界最古の漆塗りの丸木弓が出土しており, 原始和弓も含めた太平洋型長大弓の共通の祖形ではないかと考えられる。 東シナ海、杭州湾を臨む浙江省跨湖橋遺跡から,新石器時代(紀元前5000〜6000年頃) のI類漆塗り丸木弓が出土している(図4–26・浙江省文物考古研究所2004)。 一般的な弓のプロポーションから復元すると180cm前後の長大な弓であった可能性がある。 跨湖橋遺跡は稲作開始期の集落で,家畜化初期段階のブタ,丸木舟などが共伴している。 さらにこの地域の先住民例を見ると,台湾のアミ族やタイヤル族,海南島のリ族が, 140〜150cm台の比較的長い丸木ないし竹製のI類弓を使用している。 フィリピン〜南太平洋島嶼群のI類弓 さらに南下すると,フィリピンからタヒチまで, 太平洋の島嶼伝いにはるか東へとのびる,I類弓の広大な分布域を認めることができる。 この地域では,180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達するような, 長大なI類弓が主体である。フィリピンのネグリート族は,原始和弓と同じ弓幹に 樋と巻を施した長弓と,三叉族を付した長大な矢で,漁労に使用する(Krieger1926)。 インド洋沿岸のI類弓 フィリピンから東へ向かっては,分布の希薄なインドシナ半島を跨ぐようにして, インド洋東岸へI類弓の分布が広がる。インドネシアのメンタワイ族, スリランカのヴェッダ族などの弓が代表的なものである。南太平洋の島嶼群と同様, 180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達する長大なI類弓が主体である。 なお,アンダマン諸島のグレート・アンダマン族は,彼らの身長をはるかに越える, 180cm以上の長大な木製の弓を用いることで知られる(Brown1906)。 後藤守一は、弓幹の長さと形態によって弓を分類した(後藤 1928)。 弓のうち「長さ2m 位のもの」を長弓、「長さ1m 内外のもの」を短弓と称し、 弦をはずした時に弓幹がほぼまっすぐで、弦を張るとほぼ同じ曲率で曲がるものを直弓、 弓幹の中央が弦に向かって逆に反った弓字形になるものを彎弓と称した。 そして、多くの場合に長弓は直弓、彎弓は短弓であるとの見方を示している。 朝鮮半島南部では紀元前1世紀に,跨湖橋遺跡の弓に類似した漆塗り長大弓が出現する。 朝鮮半島南端部では,日本の弥生時代に相当する原三国時代に, 原始和弓に匹敵する長大なI類弓が確認されている。 紀元前1世紀中頃の慶尚南道昌原市茶戸里1号木棺墓(国立中央博物館2012), 2世紀前半頃の金海良洞里21号木槨墓(図4–25・国立金海博物館2012)出土例である。 縄文時代の弓に長弓と短弓があることは、近年の発掘で明らかになってきた。 長弓の例として、莉内遺跡・寿能遺跡などの例があり、 短弓の例として、埼玉県伊奈氏屋敷跡遺跡例などがある。 さらに小型弓と呼んでいる、発火弓、穿孔弓と考えられる 木製品を確認されているが、これは、仕掛け弓としても用いられたのかもしれない。 弓の全体形は上長下短で、握りの部分は弓幹の下よりにくるものが多い。 縄文時代の丸木弓は、長弓が多い。しかし、北海道忍路土場遺跡では、 1m 以下の 短弓が大量に残っており、縄文の弓は時期や地域毎に異なった姿があったらしい。 魏志倭人伝の世界は南方的だ https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/f882ba0e5603b2432e6a63949831e7cc 「倭人は長弓を用いていた」 倭人伝は「木弓は下を短くし上を長くし【これは長弓を表す】、 竹箭は或は鉄鏃、或いは骨鏃なり、有無する所は、儋耳朱崖(海南島)と同じ。」 と記している。つまり海南島は長弓で倭人が用いる長弓と同じであると云っている。 下の写真は、奈良・唐子鍵遺跡(倭人伝と同時代)出土の弥生時代の長弓で、 復元推定長さ2.0〜2.3mと云われている。 このような長弓の分布は江南の呉越からインドシナ半島東部、フィリピン諸島、 インドネシア諸島に分布している。 その一例として浙江省杭州市の跨湖橋遺蹟(新石器時代)の漆塗の丸木弓である。 太平洋諸島の長大弓の祖型と考えられている。 つまり倭人が用いる弓は長弓で、決して朝鮮半島の短弓ではなかった。 >出るわ出るわ縄文時代の漆塗り丸木弓、全国から出土。 重要文化財に指定された、東村山市内の下宅部(しもやけべ)遺跡から出土した 漆塗りの丸木弓から、縄文時代の狩猟儀礼を考える内容。 秋田県立博物館 中山遺跡出土の漆塗り丸木弓(縄文時代晩期) 縄文晩期、青森県是川遺跡・奈良県橿原公苑遺跡に漆塗りの長弓がある。 弥生時代 唐古遺跡、登呂遺跡、の出土例では、長短2種の丸木弓がみられる。 埼玉県大木戸遺跡 縄文時代後期の黒漆塗りと赤漆塗り飾り弓が出土しました。 長弓の中には桜皮を巻いて漆を塗装したものなどの製作技術の違いがわかっている。 (国指定)金沢市中屋サワ遺跡(縄文後・晩期)弓本体の握りの部分に細い糸を丹念に 幾重にも巻き、幾何学模様を編みだして、漆塗りの飾り弓が多数出土しています。 「縄文時代と弥生時代の木製容器」 file:///C:/Users/owner/Downloads/117561_3_%E8%B2%9D%E5%A1%9A%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E7%B4%80%E8%A6%81.pdf 縄文時代の深鉢形土器・弥生時代の甕形土器は、煮炊きする容器であり、 弥生時代の壷形土器は貯蔵する容器となる。それに比べ木製の容器は、軽量であり、 衝撃に対する強さもある。作業皿・浅鉢・椀・掬い具などが中心器種となっている。 縄文時代の木製容器は、鉢・浅鉢・注ぎ具・皿・壷.杓子・椀があり、 時期・地域によって形を変化させている。鉢・浅鉢には、文様を彫刻することがあり、 土器のモチーフと類似したものとなっている。 赤あるいは黒の漆が塗られていることが多い縄文時代の木製容器と違い、 弥生時代のそれは木肌そのままの仕上りが基本形になっている。 縄文時代の木製容器の用途を考えてみるに、 これ迄に発見されていた漆器の多くは調理に関わる道具であった。 福井県鳥浜遺跡や石川県真脇遺跡、山形県押出遺跡例などの大型皿・浅鉢のたぐいは、 •海の幸、山の幸を盛りつける。 •そうした食料資源を調理する(堅果類の粉をねる、イモをすったものを扱う、 獣肉や魚肉を調理する)。などの作業鉢や調理具として用いられたと考えられる。 そう、 アジアにおける漆塗り丸木弓・長弓の起源に関する考察として、 太平洋周辺の長大な弓の分布はオーストロネシア語族の拡散域と重なり、 また中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡から世界最古の漆塗り丸木弓が出土しており、 この浙江省にある良渚・河姆渡遺跡そば跨湖橋遺跡が漆塗り丸木弓の発祥地と云われる。 原始和弓を含めた太平洋型長大弓の共通祖形とも考えられている。 Admixture研究で、古代南朝鮮人は縄文人と遼東人の混血という結果が出ている。 >だから、それは山口県の土井ヶ浜・弥生人限定、他の集団とは類似性はなかった。 そうしたら弥生人は山東省の古集団だった、で決定だ。 弥生人と朝鮮人に遺伝子的な類似性があったという報告はない。 【殷の甲骨文字】 次に殷墟から出土した甲骨文字について見ていきます。 言語学者のガブリエル・マンデル氏は「幻のインダス文明」という書籍の中で、 殷中期の原エラム文字とインダス文字の比較研究を論述しています。 また、オーストリアの考古学者ハイネ・ゲルデルン氏も 殷の原エラム文字がインダス文字の一種であることを考証しています。 甲骨文字とインダス文字に共通する特徴として象形文字と表音文字という 二つのグループから合成されていることを解説しています。 また、インダス文字が原エラム文字と非常によく似ていることは広く識られています。 甲骨文字の他に殷の青銅器銘文の大部分は図象によって占められています。 >結局、殷商王朝はシュメールやペルシャ・インダスの交易商人が集う活動拠点だった。 漢字はいつ生まれたか? 殷王朝の時代(BC1,700〜BC1,100年)、 紀元前1,300年頃に生まれた(漢字のルーツ甲骨文字・インダス文字・原エラム文字) https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/559f6d4bb09441dd49a1c1f2cb125c44 上の写真は漢字の変化を纏めた資料 殷時代 BC1,700〜BC1,100年 甲骨文字 周時代 BC1,100〜BC256年 金文 秦時代 BC221〜BC207年 篆書 漢時代 BC202〜AD220 隷書、楷書、行書、草書 出典:グローバルワイド最新世界史図表 五訂版 第一学習社(2022)Page112 シュメール土器と縄文土偶(▽顔の像や母神像)のなかに ソックリなのが有るので可なり古くからの交流が有ったと思われる。 キプロス島文字にはカタカナ文字と同じ物がある。 黄河文明ともアンダーソン彩文土器や黒陶土器などがあり、 遼東半島の角付き無文土器などもある。 一番驚くのは日本の三種の神器神話とシュメール神話がそっくりで、 この勾玉が月像(シン)を表してることなどが解る。 シン: 月の神。ウルの都市神のなかの1柱。 勾玉が月像(シン)月読神 =(真)辰王。(半島南部地域には勾玉分布圏がある) https://www.yamataikokunokai.com/katudou/kiroku241.htm つまり、シュメール文明が原点で拡大したメソポタミア文明やエジプト文明が起き、 東に移ったインダス文明、それら両者の影響を受けた黄河文明、 長江文明は古さは有るが文字を持たなかった。 タイのバンチェン遺跡(紀元前3000年〜前2000年)発掘により分かったことは バーンチエンでは、そのころ稲作や豚などの家畜が行われ、 ガラスや、青銅器・鉄器などが使われていたということである。 >縄文人にとって土器は煮炊きをする物、食器は木製と決まっとる日本人の伝統椀。 「縄文時代と弥生時代の木製容器」 file:///C:/Users/owner/Downloads/117561_3_%E8%B2%9D%E5%A1%9A%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E7%B4%80%E8%A6%81.pdf 縄文時代の深鉢形土器・弥生時代の甕形土器は、煮炊きする容器であり、 弥生時代の壷形土器は貯蔵する容器となる。それに比べ木製の容器は、軽量であり、 衝撃に対する強さもある。作業皿・浅鉢・椀・掬い具などが中心器種となっている。 縄文時代の木製容器は、鉢・浅鉢・注ぎ具・皿・壷.杓子・椀があり、 時期・地域によって形を変化させている。鉢・浅鉢には、文様を彫刻することがあり、 土器のモチーフと類似したものとなっている。 赤あるいは黒の漆が塗られていることが多い縄文時代の木製容器と違い、 弥生時代のそれは木肌そのままの仕上りが基本形になっている。 「文明の定義」 人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。 特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、 技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす。 「文字」 文字によって人類は、個人が考えたことを多くの人に伝達したり、 個人の記憶を記録として集団に行き渡らせることが可能になりました。 あるいは、高度な統治・食料生産システムを築き上げ、長期的・持続的に発展する、 社会の在り方を作り上げることに成功していた特徴などが文明にはあげられます。 ホモ・サピエンスが地上に現れたのはおよそ20万年前。 以来、長い間原始生活を続けていた人類の祖先に、あるとき劇的な変化が訪れる。 1万2万年前、気候変動によって生活が一変。文明社会への道を歩み始めたのである。 その舞台は、紀元前1万年のメソポタミア。 狩猟を行いながら移動生活を行う人々が、不思議な光景に出会う。 新しく登場した定住民の集落だ。 この出会いをきっかけにホモ・サピエンスは 家畜の飼育、農耕開始、そして、家族の概念が確立し、文明社会の基礎が出来上がる。 やがて人は文字を生み、集落のルールを決め、宗教や芸術を発展させていった。 その一方、文明社会は、権力をめぐる争い、そして富をめぐる戦争をも生みだした。 「文明の夜明け」の舞台はメソポタミア、ホモ・サピエンスが地上に初めて築き上げた。 シュメール人の都市国家では、文字が発達する。知識は蓄積され、 技術が急速な進歩を遂げ始める。 本格的な文明社会が地球上初めて誕生した。 シュメール人の都市文化は周辺地域に広がり、メソポタミア文明と呼ばれるようになる。 この頃にはまだネアンデルタール人たちも生活してて、 彼らの頭蓋骨の特徴から眼窩(がんか)眼球の収まる頭蓋骨のくぼみが異常に大きく ホモ・サピエンス(現生人類)の眼窩の1.5倍もある。 また目の上、眉骨(眼窩上隆起) が張り出して大きく額が突出してるのが特徴とされる。 これまんまシュメール人像の特徴で、ネアンデルタール人との混血種ではと云われてる。 そして、メソポタミア・シュメール文明が周辺河川に広がり、 エジプト文明、インダス文明、また、インダス・シュメール文明が黄河流域や インド方面へと広がって行った。インダス文明を築いたドラヴィダ人たちは 東南アジア・タイ北東部のバン・チェン遺跡(紀元前3000〜前2000年頃)へと そこにはカンボジア系クメール人たちが住んでて彼らにはドラヴィダ人のハプロHが多い、 クメール人はインダス文明を築いたドラヴィダ人との混血の可能性がある。 バン・チェン遺跡には洗練されたバン・チェン土器(彩文土器)がある。 インドシナ半島と云われる由縁かも。 ギリシャ・クレタ島の線文字Aは漢字やカタカナによく似てる。不思議な文字。 漢数字の一二三、ギリシャ数字のTUVなどは同じ思考のように感じる。 クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、 およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ ファイル:0726_La_Canée_musée_linéaire_A.JPG http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%BF%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A 「コロナウイルス」の名称はラテン語のcorona(コロナ)およびギリシャ語の 王冠または光冠(丸い光の輪)、花冠を意味する (コロネ)に由来する。 カタカナの「コロナ」を合体さすと「君」という漢字になり、意味と形が一致してる。 意味は万人の上に立って天下に号令する人、上に立つべき徳のある人。 クレタ島と云えばミノア文明で牡牛信仰、 「牛頭リュトン、紀元前16世紀」のもので、 ミノア文明の牛頭信仰に基づいている、日本の牛頭天王スサノオと関係あるかも。 彼らは甕棺墓、S字形の渦巻紋、埴輪文化もある。 http://yuuhis.travel.coocan.jp/queenelizabeth.hp/queen9cretemuseum.htm おまけに、近畿・中国地方に多く分布している、家形陶棺までミノア文明にはある。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%A3%BA >これらは、シュメール文明が世界中に拡散した事で共通する神話があるんだろう。 〇 漢字には「旧約聖書」の意味合いが含まれた形の文字が多い。 義、我は羊。船、ノアは舟に八人の家族を乗せて助けた。 〇 漢数字、一二三、ギリシャ数字のTUVなどなど 〇 カタカナとヘブライ文字と似た文字、発音、がある。 〇 東欧、ペルシャと日本とで意味、音、が似た物がある。 シオタラン、チャランポラン、雨アメン神、天アテン神、ソル神(太陽神ソーラ、空) 〇 日本神話とシュメール神話の類似、三種の神器、八岐大蛇、など。 〇 中国神話とシュメール神話、中国神話の伏羲と女媧、雲南のワ族には方舟神話 インド神話のナーガとラージャ、シュメール神話のエンキとニンマ、イシスとオシリス。 〇 世界中にある洪水神話、兄妹夫婦、入れ墨、抜歯の風習、 〇 縄文時代の土器や土偶にシュメールとソックリな器形のがある。 淮夷(読み)わいい(英語表記)Huái yí 中国,殷代から春秋時代に淮水流域にいた民族。 〈東夷〉の一つで,水稲農耕を主とした。 西周の初め,周公旦の摂政に反発した管叔鮮・蔡叔度の挙兵に殷民・徐夷と共に加わった。 このため周公は東征を行い,洛邑(のちの洛陽)を新営してこれら東夷のおさえとした。 周から穀物,帛(はく),労役の重い負担を課せられ,その後も反乱をくりかえした。 その地は呉に,ついで楚にあわせられ,戦国期初めには漢民族と混血,融合した。 中国,古代の民族名。殷・周時代には,黄河流域を中心とする 中原の諸族とは文化系統を異にする夷系の諸族が江淮に活躍しており, 東夷,東南夷などと呼ばれた。この淮夷もその一つで, 淮水流域を中心とする族を呼んだものであろう。 勢威強く,殷,周の2王朝にとってその制圧は大きな課題であり, 西周期にもしばしば侵入を受けた。 詩経 しきょう 西周初期(前11世紀)から東周中期(前6世紀)に至る 約500年間の作品群と推測されている。 ○魯頌 泮水 古く淮域にいた沿海族。〔詩、魯頌、水〕憬(はる)かなる彼の淮夷 來(きた)りて其の(ちん)(宝)を獻ず 元龜象齒あり 大いに南金を賂(おく)る。 憬彼淮夷けいかわいい 來獻其琛らいけんきしん 元龜象齒げんきしょうし 大賂南金だいろなんきん 淮水の蛮夷も徳化し、 僖公の元に財宝を献上してきた。 大きな亀や象牙、 南方より産出された黄金などである。 ○魯頌 泮水 魯の旧政を恢復して徳を納めた僖公は淮で諸侯と会して東略を謀ってから、 淮夷を討伐しました。 僖公の淮水域に住まう蛮族掃討を記念する歌であるが、 ((「蛮夷を払う」とはよくも言ったものであるな。いや、いいのだが。)) 「淮」 音読み 呉音 : エ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」ビール→欧米語の/we/音「ウヱ」 漢音 : カイ(クヮイ) 慣用音 : ワイ 淮夷(読み)わいい(英語表記)Huái yí 淮河(Huái Hé、ホワイ川)は、中華人民共和国を流れる川の一つで、 長江・黄河の中間にある第三の大河。 『山海経』は、中国大陸で書かれた地理書。戦国時代から秦朝・漢代にかけて 徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書とされる。 『山海經』によると、夷は胡の東側にある。また中国神話において英雄の一人として 后羿の存在が伝えられているが、『春秋左氏傳』では「后羿」ではなく「夷羿」という 人物が登場する。伝説の美化された后羿とは異なり、『春秋左氏伝』の后羿は王を殺し、 玄妻を奪う罪人である。彼は扶桑で休んでいた太陽の象徴である10羽のカラスのうち 9羽を殺した。また、彼は9つの頭を持つ蛇を殺したとされる。 『礼記』王制篇に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とあり、 その意味は「恵み育て生命を尊重することで、 万物は土地に根ざしてできるものである」となる。 そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められる といい、君子の国や不死の国[13] があるとさえいわれる。 [13]『山海経』に「君子の国は衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、 2つの飾りの虎をいつもそばに置いている。不死の人が交脛(山東地方か?)の東にあり、 その人は色が黒く、長寿でなかなか死なない。君子国も不死国も共に東方にある」とあり、 『外国図』には「君子国は瑯琊(現在の山東省青島市黄島区)から三万里離れた ところにある」とある。 「淮」淮夷(読み)わいい(英語表記)Huái 淮河 音読み 呉音 : エ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」ビール→欧米語の/we/音「ウヱ」 漢音 : カイ(クヮイ) 慣用音 : ワイ >これって、東夷の濊 貊・穢(わいはく、かいはく)と同じだな。 「濊」 音読み 1番カイ・ガイ 2番カツ 3番ワイ 意味 1番水の多いさま。 2番「濊濊(かつかつ)」は、網を打つ音。 3番けがれ。=穢 4番「汪濊(おうわい)」は、水の深く広いさま。 「濊族」 性格 三国志魏書濊伝によれば、濊の人々の性格は慎み深く、素直で欲深いところが少ない。 恥を知る心がある。また、後漢書濊伝によれば濊人の性質は馬鹿正直で、 淡泊で、求めることが少ない。濊人は窃盗をしないため、人々は夜でも門戸を閉めず、 また婦人は貞節である。 服装 言葉や風俗はだいたい夫余と同じであるが、衣服に違いがある。 男女の上衣はともに曲領(まるくび)のものをつけ、 男子は幅数寸の銀製の花文様を結びつけて飾りとする。 行事 10月を天の祭りの月とし、昼夜にわたって酒を飲み歌い舞いを舞う。 この行事を「舞天」と呼んでいる。また「虎」を神として祭る。 刑罰 邑落の間で侵犯があったときには、罰として奴隷や牛馬を取り立てることになっている。 この制度を「責過」と呼ぶ。人を殺した者は死をもって罪を償わされる。 略奪や泥棒は少ない。 『外国図』には「君子国は瑯琊(現在の山東省青島市黄島区) から三万里離れたところにある」とある。 帯方郡から邪馬台國までが、一万二千里あまり。 「君子国」には、2つの飾りの虎をいつもそばに置いている。 狛(こま)(現在の朝鮮半島)から来た犬だと考えたり、 天皇の警固したことにちなむと解釈したりしています。しかしその本当の起源は、 仏像の前に2頭のライオン(獅子)を置いたようで、狛犬の形はそこから来ているのです。 星座占い 『魏志』東夷伝・濊に「曉候星宿,豫知年歳豐約。 (星宿を観察することにすぐれ、その年の豊凶をあらかじめ知ることができる)」とある。 李成市によれば、『淮南子』巻三・天文訓には、歳星(木星)の運行に基づく 歳星紀年(中国語版)と太陰元始による豊凶のタイムテーブルがあり、 濊族はそれを知っていたのではないかとする。 『広開土王碑文』には、広開土王が新たに獲得した「新來の韓穢」に対して、 (きゅう【旧〔舊〕】)舊民もあらわれ、その中には、「東海賈」がみえ、これについて、 武田幸男は「東海の商賈(こ)、つまり日本海沿岸に居住し、活動していた商賈」とする。 穢族には、狩猟漁撈で獲得したものを、広く販売する商賈、(商人)もいたことを示す。 言語 詳細は「扶余語族」および「濊貊語」を参照 中国の史書によると、濊の言語は夫余と同じと記される。 夫余語が現在のどの系統に属すのかについては古くから論争があり、 手掛かりがほとんど無く現在に至ってもよく解っていない。『三国史記』に記された 古代の朝鮮半島の地名の記録から古代の朝鮮半島には日本語と同系統の言語が、 倭人が定住していた朝鮮半島南端に限らず半島の広範囲に分布していたとの見方があり、 高句麗語による地名ではないかとも考えられているが、 その倭語系の地名は高句麗ではなく濊の言語によるものであり、 濊語と倭語は共通祖語を持つ同系統の言語であるとの説も存在する。 歴史 地域によっていくつかの集団に分けられ、臨屯濊と沃沮濊が主であり、 臨屯濊は、衛氏朝鮮に服属していたが、 前漢の元朔元年(前128年)、薉君の南閭らが、衛氏朝鮮の衛右渠に反逆し、 遼東郡に服属した。武帝はこの地を蒼海郡としたが、数年で廃止した。 岡田は中国古代王朝の夏やその後継といわれる河南省の禹県や杞県などを参照しながら、 「夷(い)」とよばれた夏人が長江や淮河流域の東南アジア系の原住民であったこと、 また禹の墓があると伝承される会稽山が越人の聖地でもあり、 福建省、広東省、広西省からベトナムにかけて活動していた越人が夏人の末裔を自称 していること、また周顕王36年(前333年、楚威王7年)越国が楚に滅ぼされ 越人が四散した後秦始皇帝28年(前219年)に琅邪(ろうや)を出発したといわれる 徐福の伝承などを示した上で、後燕人が朝鮮半島に進出する前にこれら越人が 日本列島に到着したのだろうと推定する。 中国北部には黄河が流れ。 南部には長江(揚子江)が流れてる。 その中間には淮河という中規模の川が流れ長江下流へと合流する そこには淮人・淮夷という東夷集団が「夏・殷・周」の春秋時代から居たらしい。 そこで「淮」 音読み 呉音 : エ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」→欧米語の/we/音「ウェ」 漢音 : カイ(クヮイ) 慣用音 : ワイ >これって、東夷の濊貊・穢人(かいはく・わい人)と同じだな。 「濊」けがれの意味。=穢 音読み カイ・カツ・ワイ おまけが、朝鮮半島で多用される蔑称「倭」とウェノム。 ウェノムは「倭 놈(ノム)」でノムは朝鮮語で「人、者、奴」らの意味。 意味は日本の野郎であり、反日的蔑称要素が窺える言葉である。 つまり「倭」とは「ウェ」と発音。呉音の エ(ヱ) ヱ「ゑ」=we/音「ウェ」と同じ。 韓国語で 稲イネ は ピョ。 米コメ は サル だ。 まったく語源が違う。 下にある顔の各部名称がまるで違う。 米コメは南中国語「ミー・マイ」に近い。飯メシ、マンマも同語源と思われる。 よってコメは朝鮮から来ていないし、朝鮮語と日本語は無関係。 これは日本語で、まったく解釈不可能だ。 数千年となりに居た民族とは思えない。 イネが朝鮮から伝来したのなら、名称が似ているはずだ。 ぴょ、ぴょ と言われても、鳥の鳴き声を真似ているとしか日本人は理解しない。 反対に 馬ウマ は古代インド=ヨーロッパ語の馬の名称である マー が入っている。 これは百済語のマールか、中国語のマーから日本語に入ってきたことがわかる。 韓国数詞 하나(ハナ)1・둘(トゥㇽ)2・셋(セッ)3・넷(ネッ)4・다섯(タソッ)5 ・여섯(ヨソッ)6・일곱(イㇽゴㇷ゚)7・여덟(ヨドㇽ)8・아홉(アホㇷ゚)9・열(ヨㇽ)10 身体基礎語 目 눈 ヌン 鼻 코 コ 口 입 イッ 耳 귀 クィ おでこ 이마 イマ アゴ 턱 トッ ほほ 볼 ボル 頭 머리 モリ 肩 어깨 オッケ ひざ 무릎 ムルッ 足 발/다리 パル/タリ 腕 손 / 팔 ソン/パル お腹 배 ペ お尻 엉덩이 オンドンイ ひじ 팔꿈치 パルクムチ >>376 中国北部には黄河が流れ。 南部には長江(揚子江)が流れてる。 その中間には淮河という中規模の川が流れ長江下流へと合流する そこには淮人・淮夷という東夷集団が「夏・殷・周」の春秋時代から居たらしい。 『春秋左氏傳』『山海經』によると。 「O1b1」 O1b2の兄弟関係に当たるオーストロアジア語族、きほん稲作農耕民。 倭人と呼ばれたO1b2a1a1 (47z, K7)は交易漁労民のように感じるな 4~5千年前縄文時代に盛んに東アジア諸国と玦状耳飾り,アクセサリー交易を行った人達。 日本国内に於けるハプログループO1b1の頻度 九州 3.8% (2/53)[16] 金沢市学生 3.7% (11/298)以上4.4% (13/298)以下[24] 東京(JPT) 3.6% (2/56)[43][2] 徳島 2.9% (2/70)[16] 徳島市学生 2.1% (8/388)以上3.6% (14/388)以下 母集団から抽出された標本を用いて、 母集団の性質を推測することを「推測統計学」といいます。 サンプル数の目安として言われているのは、母集団の総数が「10,000」を超える場合、 サンプル数が「400」集まれば、確度の高い結果を得られる目安の数値と言われています。 集団の総数が「1,000」の場合は「300」、 「100」の場合は「100」、「10」の場合は「10」であり、 母集団の数値が小さくなればそれだけ集めるサンプル数を増やす必要があります。 https://mirizerocket.com/2020/03/14/number-sample/ 下記は、母集団10,000とした場合の重視レベルに合わせた参考パターンです。 ・精度重視:許容誤差5%、信頼度95%(サンプル数約400) ・標準調査:許容誤差5%〜10%、信頼度90%〜95%(サンプル数約70〜400) ・ざっくり:許容誤差10%〜20%、信頼度80%〜90%(サンプル数約10〜70) (2020年7月6日追記)選挙で開票がはじまっていない、 もしくははじまって間もないのに「当確」報道が出ることが珍しくありません。 これは、統計学的には方程式・計算式があって「400」のサンプルを取得すれば、 概ね全体像を把握することができるからです。 「16,000」まで集まれば、ほぼほぼ誤差(1%)がなく正解も出せます。 2型アルデヒド脱水素酵素は、エタノールの代謝産物のアセトアルデヒドを 分解する主要な酵素です。ALDH2と略します。アセトアルデヒドを分解する主要な酵素。 日本人には酵素の働きが弱いひとが多く、少量の飲酒で フラッシング反応((顔面紅潮、嘔気、頭痛、眠気))を起こし飲酒量が抑制される。 http://i.imgur.com/3TCgKzC.png http://i.imgur.com/tmrsKS4.jpeg https://i.imgur.com/NYhhRRh.jpeg > つまり下図は東アジアの下戸遺伝子の分布図です 2型アルデヒド脱水素酵素は、エタノールの代謝産物のアセトアルデヒドを 分解する主要な酵素です。ALDH2と略します。アセトアルデヒドを分解する主要な酵素。 日本人には酵素の働きが弱いひとが多く、少量の飲酒で フラッシング反応((顔面紅潮、嘔気、頭痛、眠気))を起こし飲酒量が抑制される。 http://i.imgur.com/3TCgKzC.png http://i.imgur.com/tmrsKS4.jpeg https://i.imgur.com/NYhhRRh.jpeg ALDH2遺伝子とは、人の肝臓を中心にエタノールの代謝産物であるアセトアルデヒドを 含む反応性アルデヒドの酸化及び、無毒化に重要な働きをしている酵素です。 活性しているとお酒に強くなります。 遺伝子型 活性タイプ アルコールの強さ 黒人 白人 日本人 NN型 活性型 __強い_依存症に注意 __100%_100%_56% ND型 NN型の1/16の活性・低活性 ほどほど 0% 0% _40% DD型 非活性型 _弱い _飲めない ____0%___0%___4% 「ちゃんと働く酵素の出現割合」というマップによると 80%以上 北海道 東北 南九州 沖縄 75%~80%関東 四国 北九州 75%以下 北陸 中部 近畿 中国 お酒に強い地域が、縄文人の多い地方と重なることがわかります。 逆に、弥生系ハプロ「O」等が濃い地域は下戸遺伝子が多いことがわかる。 勿吉(もっきつ、拼音:Wùjí)は粛慎・挹婁の末裔で、唐代における靺鞨の前身である。 中国の南北朝時代に、高句麗の北から満洲地域に住んでいた狩猟民族で、 現在の松花江から長白山一帯に居住していたと思われる。 「Mukri(ムクリ)」を「勿吉(Muki)」に比定。 毒矢使用 挹婁人は、弓矢に長けており、必ず人の目を射当てる。矢には毒が塗られており、 人に当たれば死に至る。石製または鉄製の鏃は先端が鋭利で、 血抜き或は毒を塗る為の溝や凹みを設けており精巧な造りをしている。 言語系統 挹婁の言語について、中国の史書は「言語は独異」と記しており[5]、 当時の東北アジアの中でも独特の言語を使用していたことがわかる。 (( 挹婁の言葉は夫余の言葉と違うため、)) 一旦夫余語に通訳してから、漢語に通訳したものと思われる。 挹婁は女真の祖先であり、言語系統もツングース系とされる。ただし、史書において 粛慎系と言語が異なるとされる夫余や高句麗もツングース系とされる [12] 古シベリア(古アジア)系説[9]。その独特の言語、習俗から、勿吉等の粛慎系の言語は ツングース系ではなく、ニヴフ(ギリヤーク)などの古シベリア系ではないかとする説。 セルゲイ・シロコゴロフ(英語版)[13]や三上次男[14]などが提唱した。 挹婁人と同様、「人尿で手や顔を洗う」という風習があり、 中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。 尿に含まれるアンモニアは弱アルカリ性のために皮脂汚れを落とす効果があり、 古代ローマでは回収した尿で洗濯する業者がいたことが現代では知られているが、 当時の中国大陸ではそのような習俗はなく、 『三国志』や『後漢書』では「その人々不潔」、「その人々臭穢不潔」とあらわしている。 イザベラ・バードの「朝鮮紀行」 “私は、なんと、小便で顔を洗うところを目撃したことがある。 その人が言うには、「肌艶がよくなる」と。 さらに、室内に真鍮製の溺壺(しょうべんつぼ)を置き、客を迎える席でも、 これを目につかない場所に移すようなことはしない。 そればかりか、尿意を催すと、すぐにこれをとって用を足し、 また傍らに置く"(「便所」より) 【衝撃!】併合当時、朝鮮人は小便で顔を洗い、小便を飲み、大便を食べていた! 最近朝鮮事情 図書 荒川五郎 著 清水書店, 明39.5 1906年発行の本「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々(上)(中)(下)」より http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=55&ITYPE=0 ・衛生観念は全く無く、獣に近い ・勤勉とか責務という観念は無く、雨が降ったらそこらじゅう水だらけになるので 仕事をしないで呆然としている。雨が降ると動かないので雨具が無い。 日本の傘を入手すると嬉しそうに周囲に自慢している。ようは治水という概念が無い。 ・雨が降って水が濁っても、ろ過して使うという事をしないで濁ったまま水を使う。 とにかく衛生観念が無く、伝染病がはびこっている。 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=56&ITYPE=0 ・濁っている水だろうが、小便や糞が混ざっている水でも平気で飲む。 とにかく不潔で、味噌と糞も朝鮮_人にとっては一緒だ。 ・壁は馬糞を混ぜる。壁が固くなるそうだ。 ・驚くべき事に小便で顔を洗う。肌のきめが細かくなるそうだ。 ・肺結核や解熱として小便を飲む・いよいよ病気が酷くなると、大便を食べる。 ・穴で暮らしているから夏は暑く、家の外で寝るが、顔の近くを大便や小便が流れている が、朝鮮_人にとっては臭くないらしく、平気で寝る。 ・小便壷が家の中にあり、客がいても平気で小便をする。 また、痰を吐くときは口の近くに小便壷を持ってくる。 ・雨が降るとこれらの不潔物と雨水が一緒になりすねの上まで浸かり、 家の中の物が水に浸るが、洗うという事はしないでそのまま使っている。 ・婦人が洗濯をしているので見てみると小便水と見分けの付かない 黒い水に洗濯物を揉んだり打ったりしている。 マジで衝撃です笑。 ていうかやっぱそうなんだなあと思いましたよ… キモチワルイですよね…そんな国があったとは。 いくら劣等種とはいえ… 朝鮮人がアタオカで独特の思考なのは理解できますよこれは。 汚い民族ですね。 >>386 続き 埋葬 人が春夏に死んだら遺体を埋め、その塚の上に屋を作って雨があたらないようにする。 しかし、秋冬に人が死んだらその遺体を貂(テン)狩りの餌として使用するため、 野に遺体を置いて貂に食わせ、そのすきに貂を捕獲する。 この貂は勿吉の特産品であり、上質なので中国に重宝され、 かつては「挹婁の貂(テン)」と称された。 古代楽浪郡とか邪馬台国の倭人時代と違い、 北方野蛮人やモンゴルに侵略され、民族交換が起きたのでしょう。 朝鮮神話は熊を尊重するなど北方蛮族のそれと関係するようです。 補足すると、李朝時代にはすでに侵略は完成していたと思われます。 素人歴史観ですが、中国の出先の土地として中国系の両班や儒者が 野蛮人たちを統治するシステムだったのかもしれません。あの過酷な、庶民を見下した 統治形態も、野蛮人への抑えのためと考えれば変に納得感を覚えます。 両班が酷い圧政を敷いても覆せなかったのは、支配層と庶民の間にものすごい能力差が あったのが理由かもしれません。能力差というか民度、勤勉さの問題だと思いますが、 東南アジアが華僑に結構支配されているのと似ています。 朝鮮半島南部を本拠地にしていたはずの倭人たちが 北方から来る野蛮人たちに追われたと言うより、 余りにもおぞまし過ぎて、この世の地獄を見てるようで 倭人、百済や夫余、高句麗、なども逃げ出して来たと言うのが真実なんだろう。 他の東夷諸国では俎豆と呼ばれる食器(高坏形土器)を常用していたのに対し、 挹婁人は俎豆を使う習慣が無く、鼎や瓶や平皿を用いて炊事や食事をしていた。 『後漢書』『三国志』では「東夷のなかで習俗が最も無規律な者たち」と記している。 今の韓国・朝鮮人たちを見てても、可なり違和感を覚えるのはこれが原因だったんだろう。 上段の文章を読めば、まあおぞましやおぞましやで、拉致事件が解決しないのも納得する。 しかし、古代より高度な文明、文化に触れてないだけでこんなに違う物なのか不思議だ。 朝鮮人たちと思われるグループが必死で荒らし回って隠そう隠そうとする、 原因の一旦が理解出来たような気がする。 そして倭人を必死で沿海州に結び付けようとする工作も、 あまりにも祖先たちのおぞましさに当人たちも、狂わんばかりの苛立ちが感じられる。 日露戦争時、アムール河口で起きた尼港事件、ニコラエフスクで700人の 日本人が虐殺された事件の残虐さはこの世の地獄と云われたのも変に納得する。 言語【ツングース諸語】「ナナイ語」 ナナイ語(ナナイご、ナナイ語:На̄ни хэсэни,ロシア語:Нанайский язык)は ロシアのハバロフスク地方、沿海地方、中国の黒竜江省に居住するナナイ族の言語。 ナナイ族は、クマやトラに対し、これを人びとの保護者として尊敬を捧げてきた。 アムール川流域およびその南方に居住するツングース・満洲語系民族には、 ナナイ族のほかウリチ族、オロチ族、エヴェンキ(ネギダール)族、ウィルタ族がおり、 ナナイ語はウィルタ語、ウリチ語とともに南ツングース語派に属している。 また、語彙や文法の面でエヴェンキの影響を受けている。 ウスリー川流域の住人に対しては、アカニ(Akani)[5]、アチャン(Achan) という名も知られている「アカニ」「アチャン」は、ナナイ語で「奴隷」を意味する akha に起源をもつ言葉で、これについては一部で、実際に満洲民族(女真)が この地域の人びとを奴隷にしたという歴史的事情によるとする見解も示されている。 高句麗語の「忽次、古次」・・・口を意味する 古代中国語のxwot(忽)クオトゥ、ku(古)、tshij(次)ツィという語を考えれば、 高句麗語の「忽次、古次」が日本語のkuti(口)に対応する語であることは明らかでしょう。 日本語との比較においては数詞である*mil(三)、*ütu(五)、*nanən(七)、 *tək(十)や、動物名である*usaxam(ウサギ)、地形を表す*tan(谷)など 基本的な語彙に類似した語形のものが数多く見出されている 韓国数詞 하나(ハナ)1・둘(トゥㇽ)2・셋(セッ)3・넷(ネッ)4・다섯(タソッ)5 ・여섯(ヨソッ)6・일곱(イㇽゴㇷ゚)7・여덟(ヨドㇽ)8・아홉(アホㇷ゚)9・열(ヨㇽ)10 のように日本語と高句麗語・濊貊語は良く似てるが今の韓国語とはまるで違う。 作家の清水義範氏は、『序文』というパロディー小説のなかで、 つぎのような例を多数あげて「英語の起源は日本語」と主張する学者のことを書いている。 name(ネーム) と namae(名前) owe(負う) と ou(負う) kill(殺す) と kiru(斬る) battle(戦い) と batoru(場取る) boy(少年) と boya(坊や) 日本語とトルコ語の同系性について 名古屋大学大学院 国際言語文化研究科 https://www.lang.nagoya-u.ac.jp › research › kotoba PDF https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/0-kyouiku/research/kotoba/19/07kareri19.pdf そして、例えば日本語の. 「味」「意味」「山」と トルコ語の acıアジ im(i)イミ yamaヤマ との間に見られる発音と意味の類似性、は 借用による結果として、あるいは偶然の一致として説明される。 が私目では日本語とトルコ語は同系言語である。 遼西の「紅山文化」の牛河梁遺跡から モンゴロイドにはない「碧眼」を持つ女神像が出土してる。 結構、いわゆる白人トルコ系の人物らが遼東あたりを闊歩してたんだろう 内モンゴル東部から突厥(トルコ)碑文を日本の研究者らが発見してたはず。 ロシア、北コーカサスにトルコ系民族のダゲスタン共和国て国あるけど ダゲスタン=山が有る処、山の国、つまりダゲとは山=岳なんだよ。 九州や沖縄などには「岳ダケ」と付く山岳名が多く、 これらもトルコ語の「ダゲ」ペルシャ語「ダカン」インド「デカン」とある。 蓋国(カイ・ガイ・ケ)で東夷の濊・貊・穢人(かい・はく・わい人)となる 濊貊は濊(カイ・ワイ)・貊(ハク、はトルコ系の民族だと思う) 北朝鮮古墳の壁画には中央アジア人と思われる人物が描かれてる。 日本の埴輪に描かれてるミズラ髪トンガリ帽子のユダヤ人風人物、 彼ら中央アジア系が濊貊の貊(ハク)人なんだろ。後の秦氏か?? 「肅愼氏一名挹婁」 言語は濊貊系とは異なりとあり 代りに高句麗、濊貊系言語は日琉祖語とは良く似てると研究者談。 つまり、モンゴル時代から李氏朝鮮へと民族が総入れ替えが起きたんだよ だから日本語と韓国、朝鮮語、とは数詞から人体基礎語が全く違う原因。 数千年となりに住んでた民族どうしとは思えない違い、 それとモンゴル語で朝鮮の事をソロンゴスと名付けた理由がハッキリした。 なおソロンとは中国北部の興安嶺一帯に住む狩猟民で「索倫」族のこと 北方ツングース語系諸族エベンキ人のグループとされる。ゴスは連隊の事。 そもそもシニガイ、シニガイ文化と騒いでるバカ! パカ言うな!! シニガイ文化の申し子肅愼・挹婁の大事な共通文化「人尿洗顔」 残念だけど倭人には「人尿洗顔」の文化は無いし、基礎言語が違いすぎる。 『三国志』にも「肅愼氏一名挹婁」とある。 深い竪穴を住居として言語は濊貊系とは異なり、養豚・毒矢の使用・人尿による洗顔など 多くの習俗が勿吉・靺鞨と共通している。邑落ごとに分立して沃沮・夫餘などと抗争し、 楛矢を以て漢・魏・晋・前秦などに朝貢したが、政治的に統合される事はなかった。 挹婁 衣食住と人尿洗顔 編集. 挹婁の生活スタイルは、 その ... 女真の祖先であり、言語系統もツングース系とされる。 勿吉 人尿洗顔. 挹婁人と同様、「人尿で手や顔を洗う」という風習があり、 中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。 靺鞨 人尿洗顔. 挹婁人と同様、最大の特徴である「人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおる。 イザベラ・バードの「朝鮮紀行」 “私は、なんと、小便で顔を洗うところを目撃したことがある。 その人が言うには、「肌艶がよくなる」と。 【衝撃!】併合当時、朝鮮人は小便で顔を洗い、小便を飲み、大便を食べていた! 最近朝鮮事情 図書 荒川五郎 著 清水書店, 明39.5 1906年発行の本「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々(上)(中)(下)」より http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=55&ITYPE=0 >結局、李氏朝鮮とは人尿洗顔の文化を共有する「粛慎、勿吉、靺鞨、女真」族だった。 >倭人には人尿洗顔の文化は無いし、となりに居ながら文化風習、言語が違いすぎる。 粛慎の末裔には「勿吉、靺鞨、女真」がいるが、彼らの言葉では粛慎は「ジェション」。 これを「女真」と漢字表記したのが女真(満州)族である。 どこか「ジェション」は朝鮮「チョソン」と似ている。 不咸山とは「長白山」のこと。朝鮮族は「白頭山」と呼び、祖先の聖地としている。 Y染色体はAからTまで大まかに20種類あります。 日本人男性にはY染色体のD系統とO系統が多く見られます。割合はD系統が約40%、 O系統が約50%程度です。Y染色体D系統はYAP(ヤップ)遺伝子とも呼ばれます。 YAP遺伝子を持つ男性は真面目で親切で勤勉であると言われています。 従って別名親切遺伝子とも言われています。 YAPとは略語で多型性Y染色体の事です。YAPを持つ民族は古代イスラエルと日本に多い と言われています。その他ではチベット、ブータンとインド洋のアンダマン諸島に 見られるだけです。 信じがたい事ですが中国、韓国にはほとんど見られません。 大陸のY染色体はO系統が大半です。先に逃げ場のない日本に住みついた人々は お互いに仲良く暮すしか選択肢がなかったのです。 それがYAP遺伝子が定着した原因です。彼らは日本人の先祖でもあるのです。 親切遺伝子。の別名を持つYAPは自分を捨てて、他人に尽くす遺伝子とも言われています。 最も近縁のハプログループO1b1との分岐は約31,108(95% CI 22,844〜34,893)年前。 長江中流域で誕生。中国型O1b2が湖北、湖南、に多い。中国型と兄弟なのが韓国型。 2~3万年前だと黄海は湿地帯平原で陸続きだった、朝鮮半島や九州北部に 簡単な道具で移動出来たと思われる。 日本型47zは中韓型の前世代にあたり、 韓国型L682は後から朝鮮半島に移動したと思われる。日本型47zとの混合が少ない。 O1b2 (P49, M176) - 最近共通祖先 26,638 (99% CI 33,033 <-> 21,148)年前誕生。 O-P49の子孫はこれらの国の出身です。 JP日本 93 日本に於ける全てのO1b2の約3.6% KR大韓民国 56 韓国に於ける全てのO1b2の約3.1% CN中国 14 中国に於ける全てのO1b2の約4% その他の国 3 縄文人のゲノム解析 富山県からの縄文人Y-DNAゲノム解析を実施した小竹貝塚出土人骨の分析結果。 出土状況 遺構/層位 部位 炭素年(calB.P.) 性別 mtDNA Y染色体 6 散乱 145/貝39〜28 右側頭骨 5934-6 女 N9b3 - 181 散乱 143/不明 左側頭骨 5751-5917 男 N9b1 D1b1d1(新D1a2) 274 散乱 338/貝9下A 左側頭骨 6119-6289 男 M7a D1b1d1 282 散乱 338/Ub〜Va 右側頭骨錐体 5737 男 M7a1 D1b1d1 鳥取の出土人骨をDNA解析 日本人は複雑なハイブリッド? ミトコンドリアDNAの解析から母系は渡来系のハプログループが多かったのに対し、 核DNAのY染色体の解析から父系は縄文D系が多いという結果に。 また核DNAの解析結果でも複数のハプロが確認され、遺伝的な多様性が判明した。 飯田さん論文へコメント 日本古代史ネットワーク https://nihonkodaishi.net › pdf › kaimei › 飯田さ... • 船泊遺跡(北海道) : 3800年前 mtDNA N9b1 YDNA D1b2a(新D1a2) • 三貫地貝塚遺跡(福島県):3000年前 M7a2/ N9b • 伊川津遺跡(愛知県) : 2500年前 N9b1 • 東名遺跡(佐賀県) : 7800年前 M7a1a D1b 分析された九州と沖縄のほとんどの縄文人はmtHg-M7a1aでした。 夏王朝で宮廷儀礼に用いられたと考えられる玉璋、玉斧、玉刀、玉戈など 多種多様な大型玉器が出土し、宮廷における「礼制」が整備されたことがわかる。 会稽山の麓、良渚文化期の玉器は明確な等級区別があった。東南アジアの仮面に似た、 「神徽像」を共通の神としたほか、玉j(ぎょくそう)、玉鉞(ぎょくえつ)、 玉璧(ぎょくへき)に代表される神権、軍権、王権が良渚社会特有の玉礼制を形成し、 政教一致を特徴とする国家形態を反映していた。 福建省・広東省・広西省からベトナム北部にかけて活動していた越人は 夏人の末裔を自称していた。また禹の墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。 紀元前333年、越国は楚に滅ぼされ越人は四散した。 粛慎(みしはせ)と石砮(せきど)・楛矢(こし) 武王とは周王朝の祖である。従って、周代から粛慎は楛矢と石砮を 献納していたようだが、それに関して、次のような記録がある。 (紀元前1066年)周の武王が商の紂王を討ち、朝歌(河南省淇県)を陥落させて占領し、 商は滅んだ。奉納を命じる前に(粛慎が)祝賀に来朝し、楛矢と石砮を献納した。 (『尚書』) (紀元前1016年)成王が東夷を討伐。粛慎が来朝の時、成王は大臣の茉伯を派遣して 『粛慎に命じて作る』(と楛矢に刻印させた)。 「楛矢」 楛(こ)は、中国原産の牝荊(にんじんぼく)に似た赤い落葉潅木で、 幹が矢幹(やがら)に適している。それで作った箭杆(矢)を楛矢という (新撰漢和辞典『三省堂』)。 ツングース族の弓の歴史は、この粛慎の楛矢から始まったと言える。 高句麗の始祖は朱蒙とされるが、朱蒙は人名ではなく、弓の名人という尊号で、 弓は神聖な武器だったのかもしれない。濊貊には檀弓、高句麗にも貊弓がある。 石砮は松花江の硬い青石を研磨して作った箭杆(やじり=鏃)をいう。 ちなみに、咫の訓読は「あた」、音読は「し」、周尺の八寸(18p)とされる。 長さを測ることを「寸法を咫(あた)る」というが、これが語源である。 『晋書』粛慎伝 周の武王の時代、楛矢と石砮を献じる。周公が成王の補佐していた時代に 再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。 三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類を もって来貢。魏帝は相府に詔き、帰り際しては、その王に侲鶏、錦罽、綿帛を賜る。 武帝の元康初(291-2年)、再び来貢して献納する。 挹 婁(ゆうろう) 『三国志魏書』挹婁伝 挹婁は扶余の東北千余里に在り、大海に沿い、南は北沃沮と接し、 未だその北の極まる所を知らない。土地には多くの険山がある。 姿形は扶余に似ているが、言葉は扶余や高句麗と同じではない。 (中略) そこの人々は不潔で、中央に便所を作り、人々がそれを囲んで住んでいる。 その国は船で略奪をするので、隣国はこれを患いとしている。 東夷は飲食のときに俎豆(そうず=お膳)を使うが、ただ挹婁だけは用いない。 法俗は最も綱紀が無い (最悪の無法者)なり。 さらに、部屋の中央に置いた尿を溜めた容器を囲んで暮らし、 その人尿で手や顔を洗ったという。 食事をするときに、他の東夷諸国では爼豆(そとう)と呼ばれる食器(高杯形土器) を常用していたのに対し、挹婁人は爼豆を使う習慣が無く、 鼎や瓶や平皿を用いて炊事や食事をし 『後漢書』『三国志』では「東夷のなかで習俗が最も無規律な者たち」と記している。 人が少なく、険しい山に住み、衆は規律に服さず、 船が巧みでしばしば近隣諸国を寇掠したとも記されている。 read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる