アンパンマンミュージアム [無断転載禁止]©2ch.net
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而して其天下に馳鶩したるは木曾の挙兵より粟津の亡滅に至る、誠に四年の短日月のみ。 しかも彼は其炎々たる革命的精神と不屈不絆の野快とを以て、個性の自由を求め、新時代の光明を求め、人生に与ふるに新なる意義と新なる光栄とを以てしたり。 彼の燃したる革命の聖壇の霊火は煌々として消ゆることなけむ。 彼の鳴らしたる革命の角笛の響は嚠々として止むことなけむ。 彼が革命の健児たるの真骨頭は、千載の後猶残れる也。 春風秋雨七百歳、今や、聖朝の徳沢一代に光被し、新興の気運隆々として虹霓の如く、昇平の気象将に天地に満ちむとす。 蒼生鼓腹して治を楽む、また一の義仲をして革命の暁鐘をならさしむるの機なきは、昭代の幸也。 互に他人の着物を眺めては、勝手な品評を試みてゐる。 君の御召しの羽織は、全然心の動きが見えないぢやないか。」 「おや、君が落語家のやうな帯をしめるのには驚いた。」 「やつぱり君が大島を着てゐると、山の手の坊ちやんと云ふ格だね。」 その男は古風な漆紋のついた、如何はしい黄びらを着用してゐる。 この着物がどうもさつきから、散々槍玉に挙げられてゐるらしい。 その先生はどう云ふ気か、ドミニク派の僧侶じみた白い法服を着用してゐる。 何でもこんな着物はバルザックが、仕事をする時に着てゐたやうだ。 尤も着手はバルザック程、背も幅もないものだから、裾が大分余つてゐる。 が、痩せ男は苦笑したぎり、やはり黙然と坐つてゐる。 これは銘仙だか大島だか判然しない着物を着た、やはり年少の豪傑が抛りつけた評語である。 が、豪傑自身の着物も、余程長い間着てゐると見えて、襟垢がべつとり食附いてゐる。 それでも黄びらを着た男は、何とも言葉を返さずにゐる。 どうもその容子を見ると、よくよく意久地のない代物らしい。 所が三度目には肩幅の広い、縞の粗い背広を着た男が、にやりにやり笑ひながら、半ば同情のある評語を下した。 諸君この男も一度は着換へをして出て来た事を思ひ出してやり給へ。 さうして今後も着換へをするやうに、鞭撻の労を執つてくれ給へ。」 と声援を与へた向きもある、「もつと手厳しくやれ、仲間褒めをしてはいかん」 さうして風通しの悪るさうな、場末の二階家へ帰つて来た。 家の中は虫干のやうに階上にも階下にも、いろいろな着物が吊り下げてある。 何か蛇の鱗のやうに光る物があると思つたら、それは戦争の時に使ふ鎖帷子や鎧だつた。 痩せ男はこの着物の中に、傲慢不遜なあぐらを掻くと、恬然と煙草をふかし始めた。 その時何か云つたやうに思ふが、生憎眼のさめた今は覚えてゐない。 祈角夢の話を書きながら、その一句を忘れてしまつた事は、返す返すも遺憾である。 、僕はどこからかタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下らうとしてゐた。 あの通りは甚だ街燈の少い、いつも真暗な往来である。 そこにやはり自動車が一台、僕のタクシイの前を走つてゐた。 僕は巻煙草を啣へながら、勿論その車に気もとめなかつた。 僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色の唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。 大正十三年の夏、僕は室生犀星と軽井沢の小みちを歩いてゐた。 山砂もしつとりと湿気を含んだ、如何にももの静かな夕暮だつた。 頭の上には澄み渡つた空に黒ぐろとアカシヤが枝を張つてゐた。 のみならずその又枝の間に人の脚が二本ぶら下つてゐた。 僕はちよつと羞しかつたから、何とか言つて護摩化してしまつた。 大正十四年の夏、僕は菊池寛、久米正雄、植村宋一、中山太陽堂社長などと築地の待合に食事をしてゐた。 僕は床柱の前に坐り、僕の右には久米正雄、僕の左には菊池寛、―― そのうちに僕は何かの拍子に餉台の上の麦酒罎を眺めた。 その証拠には実在の僕は目を開いてゐたのにも関らず、幻の僕は目をつぶつた上、稍仰向いてゐたのである。 けれども僕の座に坐るが早いか、「あら、ほんたうに見えるわ」 菊池や久米も替る替る僕の座に来て坐つて見ては、「うん、見えるね」 それは久米の発見によれば、麦酒罎の向うに置いてある杯洗や何かの反射だつた。 しかし僕は何となしに凶を感ぜずにはゐられなかつた。 大正十五年の正月十日、僕はやはりタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下らうとしてゐた。 するとあの唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車が一台、もう一度僕のタクシイの前にぼんやりと後ろを現し出した。 僕はまだその時までは前に挙げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。 殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々の裡に或警告を与へてゐる、―― 先生が俊爽の才、美人を写して化を奪ふや、太真閣前、牡丹に芬芬の香を発し、先生が清超の思、神鬼を描いて妙に入るや、鄒湛宅外、楊柳に啾啾の声を生ずるは已に天下の伝称する所、我等亦多言するを須ひずと雖も、其の明治大正の文芸に羅曼主義の大道を打開し、 艶は巫山の雨意よりも濃に、壮は易水の風色よりも烈なる鏡花世界を現出したるは啻に一代の壮挙たるのみならず、又実に百世に炳焉たる東西芸苑の盛観と言ふ可し。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています