旅費なんか無い
身辺が瑣末であることについて愛憎を持つ人物が居たとして
幼少期の牧歌的情景が大きく心中にあって
他には、連れが美味そうに煙草を吸う姿が
しみったれていて絵にならないことくらいしか分からない
この世の事はそのくらいしか分からないのに
そういった人物が長々と方々を渡り歩いて
どういうわけか劇を成り立たせる体力は何か 陰陽道で鬼の行く先として四つの地が指定されている
昔五芒星をそういった地点との境界というかワープホールとして扱われているのではと考えた事がある
儀式についてのレクチャーとして「宇宙の果てを意識する事」とある事が多い
だから振動する神名は座標指定としての意味を持っていて退去を受けた諸力は四方それぞれの神名に仕える事になる
つまり小儀礼を行えば行うほど魔術師の力が育つという風に考えた
これが正しいかどうかは未だに分からない
陰陽道と儀式魔術の相似について考えたのはもう一つ
ネフェシュと八将神等の方位神について、色々考えていたような気がする
黄金の夜明け全書ではエドムの八王とかをネフェシュと関連付けていて
ネフェシュは表層意識に対しての自律意識という風に解されていたと思う
木でいえばイエソドで意識の直接の作用を受けない荒野としての自律系、動物的意識の位相とかだったか
但し低次天才をルアクが受け取るならその作用をevil geneusとして発露するとあり
天一神、牛頭天王がこれに当たるのだろうかと そんで金烏玉兎集では竜宮が牛頭天王のまず向かう先として表されていて
それは上述した退去後に諸力の向かう先を示しているようにも思えるし
今昔等の陰陽道説話に追儺の際に鬼の乗り物として船を用意する事は割と有名
あとは序論の晴明説話についても白道仙人を月として晴明を日、道摩法師を閏、空亡として
暦のズレを修正する手続きについて説いていると考えられるのだけれども
同時に全書中の死者の書の扱いに照らしてみると白道仙人がホルス、イシス、ネフテュス、トートで
晴明がオシリス、道摩法師と梨花を日食期のセトとセト統治下での地上と考えるなら
西洋魔術でいうところの深淵での出来事を語るものとなり
例えば白道仙人を月と見るならこの時ギメルに配当される意味での月を示し
月が深淵を越えるという風な含意を見る事になる
考えてみれば日食によるイレギュラーな夜を地上が蒙る最中も月は日光を受けている訳で
夜=ネシャマー=地上に降ろされる諸力の用意される不可視領域とこの時月は接しているという事になる
というより夜、月、日=ネシャマー、ギメル、ルアク(意識)がこの時一続きになっていて
ギメルを介してネシャマーとルアクの連続を得ている時点で、この時地平線下で無く上空にダートが発生している事になる
あとは密教の月輪観というのは梵字や仏の乗り物のような形を取るようなので
そういった、深淵を越えるという働きを意味するのかなとか
まあ色々考えた 同時にこの月をイエソド=全体、枠組みとして
日をティファレト=意識の光と考えると
止観とよく似た構造になるような気もする
セトは異界、結霊の向こう側の神なので本来滅多な事で顕現しないとされている
上の方に三国思想とかについて書いたけれども
そういった事物の顕現までの過程の領域を網羅する形で示される作用の総体か、それらを統べるものとして考える事が出来る
その意味でもヒルコと非常によく似ているように思う
日食に関しては通常不吉とされるけれども
同時に、記紀神話では神々が総出で祭りをする機会としても描かれている
岩戸隠れと金烏玉兎集の説話を関連付けるなら
白道仙人はその際天照を呼び戻す神々の働きを表す事になる
引いてはこの事を神意の顕現として表現する事が可能だとしたら
ネシャマーの顕現、ダートの発現として説明する事が出来る
晴明と道摩法師の占術競争で晴明が箱の中の柑子を鼠に変えるのは
深夜に子の刻を迎えて作用がサイクルの底部に接する事を表すと同時に
この子をいわゆる根の国として、根の国に連絡する時間として考えていたのではないかとも思う
それか、今思いついたけどもっと現実的に、暦のズレを整える際に日干支が子にある時に行ったという事か
夜と柑橘類と鼠についてはアラディアの中にも説かれていて
偶然としても何か読み解く事の出来る共通要素があるのではないかとも思ったけどどうだろう
前者の解釈なら割と綺麗に繋がりそうな気配がある 糞暑く真暗い夜のじめじめと茹だる気色に風が涼しい
花火無しかき氷無し白妙の熱砂に子供の草履が
夜更けてカレンダー見る七月と八月の朱色の日付の列
凡作だなーと思いつつ凡作狙いと弁明する事
こういうのは薄氷を踏み抜かなければ上々と言えなくもない気もしないではない
歌は元々は応酬や呼び掛けが多いように思う
敢て対象を省いたのが近代短歌、なのかどうかは分からないけども
そうだとしたら俳句とかの影響かもしれない
多分和歌のうら若い男女が意思疎通に使ったりしていたという伝統と
一方で俳諧はおっさん方が句会で捻ったりするのを主にしていたという渋い流れから
結構な違いが生じそうな気もする セリーヌによるとアフリカの日没は太陽の殺害そのものなのだそうだ
この人は反ユダヤ主義だったんだよな
爆撃の中で漫談している雰囲気が強烈だけども
理解出来ている自信は無い
虚実の境が曖昧というか、むしろどっちでも良いというような地点
罪と罰のラスコーリニコフ的譫妄状態でトム・ウェイツみたいなダミ声の二メーター超のおっさんががなり散らしているというと
何が脚色で何が事実かは最早どうでも良くなるというか
そういう話者自身の側のリアルが白熱するのを眺めるような譫妄リアリズムの世界
キャッチフレーズ「卑怯者の文学」というのもこの種のリアリズムに由来する属性かもしれない
というので合っているのかはどうかは知らない
読んで大分経つので覚えていないというのもある >>332
良い歌に思えてきた
俺は多分、自己満足出来れば良いのだろうな
そういう作歌態度、というか目的
temple of setに、個人的に懸念してた色々な事がそのものずばりで触れられてた
霊的帰属についてもそうだし、芸術とオカルトの両立可能性についての疑念に対しても
構造分析と解決策が提示されてる、というかそのまま引っ張って解釈出来るようになっている
あとは不眠の徳目 先入観の段階から超単純に歴史について考えると
短歌は言論とか運動と関係が深そうなイメージもある
俳句はもうちょっと脱俗的なイメージがあって、芭蕉の創始からなる成り立ちからの連想かもしれない
詩は運動とかするけど明後日向いてそうというか、直接にコミットする事の少なそうなイメージ
大向うを相手にする感じではなくて、単独で聴き手を取りに行くような感覚
文学運動っていうと大概は作家と評論家を主役にした流れがメインストリームになるイメージで
「文学運動」って聞いて乗り気になる順は詩>>>>>短歌>>>>>俳句で
実際にコミットするのは短歌>俳句>詩の順かな、というニュアンス
詩は脳内地獄、俳句は個と場、短歌は個と個と場と流れを相手にするのが得意というイメージ
短歌のカバー範囲が広いのは、習慣化されてからの歴史が長くて応用例の蓄積があるという事から来る
俳句はそういう短歌の流通性に対する非流通性みたいな要素があるのではという印象
詩は導入時点で内包していた文物の要素から主観的現実の「西洋」的な叙述というのを意図したのではというのと
ただここでいう「詩」はもちろん漢詩ではないというのと
俳句には漢詩の影響があるのではというのがある
漢詩は事物の叙述による結構を可能にするっていう特徴があって
例えば江戸期の漢詩人が詩を説明するのに「詩文は散文の精髄」という風に
簡単に質の疎密で論じてるように、事物の叙述によって成立させる事の出来る形式を持っている 傾向としては俳句に親近性を覚えるのだけど
一方で十七字に作品性を現出させる技巧は自分にはやや足りてないと感じても居る
>>332は和歌だけど>>336でいうところの俳句的技法を応用してる
これまで見た限りで魔力とでもいうような性質を備えた作品は和歌に多い
ただ、それが俳句に発揮されている場合の凄味はひとしおのものだったりする
言い切りに気配や気勢がかえって留められるというか
多分凝縮という意味ではなくて周りが白い分だけ色が凄くなるっていう作用かと思う
「魔力」はまぐれ的ではなくて大体は同一の俳人・歌人がコンスタントに発揮してる事が多いように思う
いや、オカルト的な意味ではなくて、印象として。オカルト的な意味も持たせられるのかもしれないけどそれは今は考えてない オカルティストの芸術利用は
創意と感受性の遊び場としての利用法が最適なんだろうなと思う
文始真経に「神秘を見てると心が疲れる」と書いてあるらしいのだけど
そういうのをほぐすというか、肩慣らしの一種みたいな感じの 完全性とかある種の法規に則った境地をオカルトで目指している場合
世界説明を行う要素と頻繁に関わっている事になるので固定化して、肩が凝るのではと思う
それをほぐす意味で確保する遊び場、という合目的的な芸術
超システマチックなSF世界にレクリエーションの為のレクリエーションが登場するような感じ
ただ、それを芸術と呼べるかどうかは知らないけども
割り切ってる分楽しいだろうとは思う
temple of setの方で読み取ったのはもう少し違っていて
上のはそれ以前に考えていた事を今延長したもの 歌とか句を言うのに特に「魔力」という言葉を使ったけれども
何かそういうものを覚えて惹かれた、という事があって
その時にまず受けた印象が魔力という事だった
そういえばピアノ演奏とか聴いてそういう印象受けた事もある
ただ、そういう魔的な印象のものばかりに惹かれるという訳でもないし
色々ある >>271
エメラルドタブレットとかと照らして考えていくと
三者を主に第一質料との関係から、錬金術の三原素の作用として見ていけるかなと予想
ルシファーは光の及ぼす変容作用として硫黄
ベルゼビュートの分解性質を水銀と見てこれは四元素を発生させる作用
アスタロトも同様に>>271から引いて、貯留と抽出の機能、塩の働き
ルシファーは言うまでもなく後二者の元ネタから来る性質
創造神、造物主としてのベルゼビュートと
都市女神としてのアスタロトの性質にも通じる
三者がそれぞれに第一質量的なものを利用可能な形に変換させる力を表しているのかもしれない 逆さ五芒星については>>319の五芒星の考え方から推していくと
ホロスコープというのは北面して仰向いて天上を見上げる形で頭上に描かれるものなので
上下反転するという事は単に図形の上下をひっくり返すだけではなく
俯いて地面を見下ろして、天上の図形の似姿を地上に捉えるという事になる
これを天上の図形の映しとしての幻影、いわゆるマーヤー的な作用の流れと捉えるか
地上的勢力による天上の似姿、二元論的なネガ側勢力の秩序と取るかは分からないけれども
逆さ五芒星についてはそういったものとして見る事が出来る
どこか「悪魔の偽王国」のコンセプトと似てる あとは単純に、図形を通して天を見るか地を見るかが違うというのと
見上げているか見下ろしているかというのも違う 嫌いな奴はいつも死ぬ程嫌いになるので顔を合わせないという方策を取る事にしている
それで自分の不利益になるようなら自分の性質を嘆き呪いつつも如何とも出来ず歯噛みする
四六時中顔を合わせなければならない相手である場合にはそれこそ地獄の苦しみ 筒井康隆の詩嫌いは有名だけれど
この作家の持つ、いわゆる非石原というかリベラル系のこまっしゃくれた知識人達でさえ
右に倣えする程の影響力についてはあまり取り沙汰される事はない
一例として高橋源一郎の短編に作家が女流詩人と再婚するお話というのがあって
あいいった中に筒井の流れを汲まんとしつつの挙句としての「詩」と聞いて「ああ(あれね)」の目線が見て取れる
筒井自身についてはどこか、例えば日本にボードレールやらランボーやらが登場したらこの人は評価するのだろうと期待させる公平性というのがあって
そういった点で詩人の側から取り立てて異議を覚えるような要素を見出せない一方で詩壇的視点から見てその重圧は否定出来ず
さらに悪いのは上述したようにかの作家が持つ大影響力で、大体が高橋源一郎がそれに倣ってしまっているという時点で
このまま行けば東浩紀もそうなるし安部和重もそうなるし平野啓一郎もそうなるだろう、っていう事だ
という事は、詩壇は放っといても遠からず滅ぶ、或いはやんわりと封殺されるに至るという事になる
まあ、こういうのが「陰謀論」的状況予想の展開になる
人の脳髄から生み出されたこの陰謀論なるものの妥当性や優秀さの如何なるものかは
例えば上記を基に今後を見れば証明される事になるだろう
まあ外れたら外れたで俺の予想の不備に留まってしまうのかもしれないけど 高橋源一郎のお話は婚前はお芸術志向の花嫁をうっとりさせつつ同居初日に作家が牙をむき出しにするという
詩をめぐる鬱陶しささえなければ普通に背徳的で愉快なお話になってる
まあどうでも良いが、詩をめぐって採用されたシンプルで卑俗な形式を説明するのは
かの作家、文学者の持つ国内現代詩なるものへの見解を理解するのに便利が良いだろう
大層繊細なお話だ 陰謀ロマンそのものは東西古くから伝わるもので
太平記や鉄仮面など様々ある訳だけども
一方で陰謀論というのは「大きな流れは全部自分以外の、自分に反する勢力が作っている」
という信念があって、これ要は「世界の悪は全部あいつらが悪いんであって俺のせいじゃない俺は何も悪くない」という
最近の俺と非常によく似た思考形態の持ち主達が支えて来ているのだろうと思わせる理論に拠っている
まあ実際そうだから、と考えるのはとても楽で、今では俺は他の可能性は考慮しない
前は逆だったのに いわゆる「アセンション教」は終末とジ・ハードと二元論と自己弁護の肯定を行う霊知に満ちた正当な教えだよ
少し前に青い炎のようなものを見て、それが情念のようなもの
唖然とするほどヘタレていて情けない心情のようなものを保有しているのを感じた
同時にそれが俺自身の、霊体だか陽神だかである事も理解した
まあ、課題が見えたというのは良い事でもあるのか >>348
要約すると、荒々しい直截的体験としての「ブンガク」の顕揚と
その「ブンガク」は小説であり
そこに詩(及びお芸術)は含まないという作家の意思の表明という事になる
で、高橋源一郎が組織化した小説(=ブンガク)>>>>>詩(=お芸術≠ブンガク)の構造が
>>347で後続すると予想したような人員にある程度の親和性を持っているのは割と確かだと思う
お芸術捕まえて「ブンガクすげぇぜぇ〜ワイルドだろぉ?」とか言ってる奴が
「詩wwwwwwwそれブンガクじゃないwwwwwwwwww」
とか言って国内詩の今後を決定づけようとしていた(している?)訳だよ
で、そういう御仁がニッポンのブンガクの大体中枢辺りらしいので
どーなるかなー、と これ名前ある人が著名入れて言ったら多分死ぬんだろうな。死ぬというか普通に干される
こえー世界ですよ。それに較べて匿名って良いよね平和だよね
そういう意味でも陰謀論と近いなこれ
文学はー好きというほど読んでいないし嫌いというほど読んでいない
綿谷りさのファンでというか文庫本を二冊買ってしまうほどなので
高橋源一郎(以下TG)斎藤美奈子両氏による文庫解説は偉いなー立派だなー面白いと思ったものをそう言えるのはと思った
TGは確か華倫変についても書いてたな。華倫変は仏教の人だったか
確かこの板で面白いと聞いて買ったんだった
光うさぎは読んでいて心地良く、取り立てて痛みを覚えたりはしなかった
しかしそれは読み方として望ましいのかどうだか分からない
カリクラは不気味だった。事件記者的 綿谷りさは登場人物に感情移入する事無しに自然に読める
テキストとこちら側との間に均整の取れた距離を保つ事が出来るという事
厭世的なところもうるささを覚える事が少ないので読みやすい
仙道については伝統流派で煉丹の前段階で準備的に行うとも
最上乗ともされる還虚の行を継続してると言ってしまって良いのかどうか分からない。自己流だから
ただ確かに透明化、気化されているように感じたりするのと
座禅とかと似て一瞬一瞬に焦点が合って主観的時間や身体時間を制覇するような感触があったりする
あと余計な事を考えようとする心の働きが減ったような気がして自分としては好むところだ
上で言った陽神がどうなったかは分からないけどもう無いのかもしれない
それかこのスレに書いた定義的なものの上での悪魔的なものをイメージしていたりしたのでそれだったのかもしれない
まあ死霊術師なので時折現れる思念体的な好意に触れているだけで満足出来たりする GD全書でビナー的作用を用いた隠身を読んだ事や
太虚についてかなり勘違いしていた(ビナー的なものと思っていた)事から
自身を透かして真っ黒な人型が感じられたりする事がある
有用でないのだとしたら残念だけれど質料的に捉えて他の形に転換する事も出来るかもしれない
っていうのはもう普通人というか立証可能な見地に立った感覚での話じゃないな
イメージの世界の話 六甲壇についてよく分からないのと
式神というのがやっぱりとても興味がある
でも六甲六丁の神が本当に式とか識なのかどうか分からないというのはある
あと六丁陰神については書中に姿形が説明されていないような気がする
西洋儀式魔術について時々時間を置いて
二重立方祭壇以外の代用祭壇を用いる可否について占うと
必ず二重立法祭壇を推してくるし代用祭壇は否定されるので
何か余程の意味があるのかもしれないと思ってる
祭壇については確かキリストが、パリサイ人に対して
「祭壇とその上に載せた品のどちらが神聖か
祭壇に決まってる」と言っていたりする
勿論祭壇は持っていないので大儀式も聖別等も行えないし魔術武器も持っていない
よく言われる「安楽椅子のオカルティスト」というやつ frater albertusのalchemist handbookはGD全書の推奨本だった
著者の設立になるparacelsus researchのサイトを見ると
同団体が未知というものを体系立った形で非常に尊重しているという事や
純粋オカルト探究のごく自然な形での実人生との連絡という事が
可能性として鮮やかな形で示されている
多分、従来的なオカルトアーツについての観点が構築を主な側面にしたモデル形態として捉えられるか
または実用性を旨としてやはり構築モデルとしての側面を主要な関心事に当てているように感じられるせいか
それとは別の、純粋探究的な側面に光を当てているように感じられるのが新鮮に思ったし驚きだった
多分、「達人」の捉え方に二通りあって
GD系の教義によればソロモン魔術的な、導者としての達人で
その先にあるのが三首領、霊知の保護者や体現者という事になって
構築的側面が優先するモデルになってくるのに対して
錬金術師の観念に基づく達人というのは教えを満了して自身の探究に入るような段階を指すのかもしれない
クロウリーはGD的な過程を拡張した超越の過程としての、やっぱりモデルを提示していて
未知という事については大事にしていたように思うというか自分が
最初にオカルトにおける未知の捉え方という要素を見出したのはクロウリーについて考えていた時なのだけど
その扱いは探究の要件というよりはサイクル上の必然というのに近くて
構築的に扱われるべきものと見ていたのではないかというような気がする >ソロモン魔術的な、導者としての達人
ソロモン魔術的な、導者、諸力の統御者としての達人
ケイオスは楽しい世界っぽくて
自作儀式案を三つ四つ作ったりした
その気になればレプティリアンを組み込んだ儀式とかも余裕で作れるし
ケイオススピとかも余裕で作れると思う
儀式作製は現世利益的応用可能性と同時に正当な
純粋オカルト的成長訓練法としての使い方のどちらもが可能になるようなのが良いような気がする
フィクションの登場人物の召喚・喚起・人造法は
当該人物のキャラクタの生成過程を占星術や錬金術等の伝統的象徴を使って辿って行って
儀式化したりすれば出来るんじゃないかと思ったりする
「この人物はこの車を好むからこの象徴で示されるこの動物、この象徴属性の力流に乗っていて
この食物を好むからこの象徴属性の界から作用を摂取する」とか
「ここでこの人物のこの事件による影響がこういった作用を及ぼし人格をこのようにしたが
これはヘブル文字で言うならばこれこれこれで総和を数秘で解けばこの象意を持ちこの数をこの人物の主要な働きの場と考える」とか
そういう風に考えて儀式を組み立てていく事の出来る可能性とか
既存の対象を召喚とか人造とかするとネタ元やらと影響し合っておかしくなるというのを読んだ気がするけれど
↑みたいな形で構築していってもそうなるんだろうか
カート・コバーン崇拝者みたいな人がロッカーの天国みたいなところのグランジの階層というようなところを
カバラや緒の伝統にある天上図の上に割り出してチョーキング等の音色や声質等に感覚的に象徴を配当させ(雷だとか鉄と水と腐食と火、だとか)たり
コード進行やリズム上の特徴に同様の配当を行ってそれを発する神格的な存在としてのカート・コバーンなるものに礼拝しつつ
その音色の種を穀類配当によって混じたパンを拝受する聖餐儀式を作ってみたりとかするケイオスミュージシャンというのは
それ程不思議な話でもないような気はするけど、そうするとややこしくなるのかどうなのか 甲尊三奇六儀については
木は火種になる動き、火は木に発する作用の地上への降下、土は素材、金は変化と生成、抵抗、水は溶媒の流れ
陽をいわゆる顕界的なものを主な対象にした作用とすると陰は幽界的なものを主な対象にしている
甲尊は原動天的な光源、乙奇は日の昇る様、丙奇は月の動く様、丁奇は星に対応する降雨、戊は黄砂や銅鑼の音で己は霧や蜃気楼
庚は天上では黒雲で地上では兵乱、辛は白雲かまたは鳥で陰の勢力による変化か生成、壬は雷雨降雪で地上を覆う流れ、癸は天蓋で、星や天上を覆う流れ
地上を顕れたところ、大きな変化を顕れたところへの作用を主にする変化、陽干の主に作用するところとして
天上を隠れたところ、小さな変化を隠れたところへの作用を主にする変化、陰干の主に作用するところとして見ていける
まだ未整理で不確かな部分が多いけれども奇門遁甲の十干はこんな風だろうと思う。九星はまだ難しいし八門はまだ見てない 丙奇については月は日光を受けて光るという事と
一か月を使って季節を生じる、地上に変化を生じるというような事がある
日光を受けるのが丙で星光を受けるのが丁と考えると
それぞれが通常は水に近い象意を持ちながら火行の干で表される事も理解される
戊の銅鑼は質料の媒介作用を発揚させるような働きの表れと見る事が出来るかもしれない
銅鑼が鳴ると群衆が動くという風に。それか雷声なのか、だとしたら何を表すんだろう
当たり前だけれどもこの十干象意は八字とは違う。五行大義的な定義とも違うみたいだけど、沿わせて解釈する事は十分可能な気もする
遁甲に見られる他の要素の九星と八門については、九星は紫微斗数と同様、各地点に内在する働きとして見る事が出来る
他に、十二支配当別の各星象意を見ていてセフィロト的な、作用の生じる次元としての解釈が出来そうに思えた
タロットでいう各スートを十二支としてその数を九星と見るような感覚になる
九星は九宮、八門は八卦に関連するものとして説明されているけれども
八卦については方位か時刻、どちらにても本来動くような種類のものではないので
この事から考えると編纂時点で遁甲の各象徴は、本来それが観測される地点に実際に生じる流れからの独立というか
定義の抽出による普遍化、象徴化の過程を経過してるという事になる
だから十干にしても天候上の表れを示していても、実際にその内容が表れるという事ではなくて
その内容自体が働きを示す一つの象徴という事になる
十干を顕れ、九星を内在作用、八門を作用の場の象徴化された定義とすると分かりやすい
距離と時間については洛書に対応していたり、>>318に書いたような天の円周や日月星辰の周天に関連してくるのだろうと思う 文学運動と詩歌の関係について補足すると
俳句は脱俗志向を持つと同時にそもそもの成り立ちが文学運動なので
コミット率もそう低くないというか、姿勢としての素地がありそうなように思う
詩は文学運動というより明治政府による西洋知の導入の一環というかその流れに乗じた舶来物の移入、っていう
別の何かの流れに入れ子的に付随したようなというか、文学とそんなに関係ない国策貨物船の船底に紛れ込んでいた品
みたいな雰囲気なのではあるまいかと思ってる。正しいかどうかは分からない
で、まあ小説が本道だろうなと思う 霊能者に以前真面目過ぎるのでどうにかしましょうと言われたけれど
真面目に来られると対応に困るというのと不真面目な方が色々得をするというのと二面を説かれて
俺は「それで得をするなんて何でこの人に分かるのだろう。それに多少不真面目な方が
対応しやすくて便利が良いというのはそちらの都合ではないか。何て不真面目な人なんだ」と思ったけれど
実際、不真面目だから得をするというケースは滅多になくて大抵は蟻とキリギリス的に不真面目さへのペナルティを受ける事になるという事と
その意味では自分は既に十分不真面目だしより一層不真面目になりたい気持ちは人一倍あるつもりだけど
多分この人の言う不真面目さはそういう意味ではないのだろうなきつそうで辛そうなイメージしか浮かばないな嫌だなと思った
あと気が弱いので後々困った事になると言われたけれどこれについては解決策の提示は為されず
どう考えても自分の都合を優先していたので不真面目な人だな来たくない来たくないと思っていたけどやっぱり来るのではなかった
これで金を取るのかと思わざるを得なかったのだけど当たり外れを言うなら完璧に当たっていると思った
ただそれを聞き入れて結果を出すにはこちら側に途方も無い苦労が伴うしその上示されたビジョンはそれ程明るくもないときてる
というかそこに連れてったうちの父親が他人に自分の子供の説教をさせるのを趣味にしているような人なので
誼があるからその意を汲んでいる観が強くて本当もうどうしようもねえなと思った あと弟がカスなので死んで欲しいというのを日々抑え込んだり渦巻かせたりという過程を繰り返している
気が弱くなかったら刺してるかボッコボコにやっつけているのではなかろうかと考えると苦しいながらもそういう種類の行動に出ないで済んでいるのはましなのではと思う
まあ一回殴りましたけど
最近ようやく少しずつどうでも良くなってきたものの
一挙一動が一々挑発的で癇に障るので、ここ数年は毎日がスルー検定みたいになってる
そういう時は本当死んで欲しいという以外に表現が見当たらないような気分になる
関係ないけどこれが始まる直前に外で似たような環境に置かれていたので
家でまで耳障りな声と音に脅かされるようになると、こいつは何だ、夢の中で彼らの仕事を引き継ぎでもしたのかという
うんざりするほど低級な空想でしか結べないほど胸糞悪い流れを生じた 解脱の道は遠いし幸福は多分もっと遠い
ていうか解脱せずに幸福に至るという事は流れを踏まえて常識的に考えるなら
現況下ではあり得ないし
馬鹿馬鹿しくて現実生活に真摯に付き合うなんて無駄な事をする気はしない
これが霊能者のいう不真面目さを用意したのなら代償として末弟は殺意と憎しみの的以外の何物でもない世にも癇に障る大愚物に化した事になる
そういうのが計らいなんだろう。スピリチュアルはそういう世界だと思う 「今の心性では遅かれ早かれこういった事態に必ず直面する事になる」というような状況を
スピリチュアルは用意して霊的成長を促してくれる。表れた障害によってもちろん誰も得しない
サイクルの不備への冷徹で公正な指摘と過酷な直面による克服の促し
預言のメカニズムと同様のもの 人災を天災の内に数えてその克服乃至は回避に当たって合理的である事
冷徹で人間性を廃した判断の対象としての人ならざる災いに、この場合の末弟は数えられる事になる
ドンファンによれば征服の対象、仙道では忘却の対象であり棄却さるべき感官認識の対境でもあり、仏家においては極楽浄土の外なる地獄でしかない
他者を自然の内に数える事はこういう場合に有用になる。要は、人間を相手にするのではなく
統御不能な自然を相手にしているのだという事 神去なあなあ日常は面白かった
主人公は好感の持てるキャラなのだけれどもいわゆる典型的好漢というタイプではなくて
自己供犠によって環境に同期する事で関心とか感情移入を呼び込むキャラというか
山火事で活躍する事で環境に同期してそれまであんまり口利いてくれなかった老人があいさつしてくれるようになったりとか
リスナー的には自爆的に告白して振られたりそこからの過程が自己供犠に当たるけれども
それまでの時点で好感は用意されていたりする
他には浮気性の同僚の気の良い天才振りとかが同期可能性になっていて
一筋縄で行かない事が無理なく自然な好感に繋がるというのはそう易しい事ではないはずで
余程山が好きで山についてよく知っているとかなのかと思わされたというのと
山の様子自体が、原作の人が取材を重ねたりした上に脚本の人とか役者さんが実地に合宿したんじゃないかというくらいだった
あと普通に巧いんだろうなと思った テクスチャ的な様式に力量なり関心を傾注してある場合には
作った人がそれをどう扱っているかというのが結構大事になる、と思ってる
同じように見えてその姿勢がまるで違うといたら
血の色が赤か緑か紫かというくらいに違ってくるし
いわゆる「芸術」で精髄という観念を扱わない、扱おうとしないという事は
その事自体が一つのスタンスと見なされる事になるくらいに特異なものになってくる
だからその意味で小林秀雄の方が澁澤龍彦より遥かに芸術家で美の紹介者で審美家だと思ってる
澁澤龍彦の仕事は職人的な血抜きと標本作りだろうと思うので
いわゆる「美」とは別種の観念で説明される方が分かりやすいだろうと思う
後人への貢献は自由に血というか自身の好奇と欲望を通わせる事の出来る標本を多数拵えたという点になるのではないか
でも澁澤に美を学んだとかいう話は聞くけど
血抜き職人としての澁澤の技巧を学んだとかいう話はあんまり聞かない
例えばレトロなキラキラした玩具を偏愛していてこれにノスタルジーや夢を覚えるという作家が居た場合
ここに作家の執拗なノスタルジーとか夢とかを単に好奇の視線で眺めて片付けながらそのテクスチャーを紹介するというのが澁澤で
美は好奇で片が付いてしまう。そういう奇妙な、除霊された呪物のような対象が澁澤の紹介を得て目にする「美」ではないかと思う
けれど、そんなには読んでない。晩年自身が「職人」を自称していたりするのは文筆の意味での職人として解されている事が多いだろうし実際その側面はあるのだろうけれども
上に挙げた意味での芸術家ならざる血抜き職人としての意味を密かに含んでいるのではと思う
文筆職人としての美意識は確かにあったろうと思うけど、同様のものは著作の持つそれ以外の要素に対しては及んでいない ある条件と制約の下でその人間が一体どのようにすれば満足するか
という事を主題にするというのがオーソドックスな純文学の説明だろうと思う
略せば人生の目的という事になる
仙道小説は多分一番自由を覚えさせる事の多い形式だったんじゃないかと思う
もしかしたら、国内で言えば唯一無二というくらいだったのでは
日本の絵画で宗教的なものというと仏画が浮かぶ
寂滅とそこまでの過程で直面する事になる荘厳とか
そういう事を感じさせる
ノーシスは多分寂滅の別名なのだろうと土曜日くらいに思った
他界が現れて境涯に沿った荘厳を現出しながら焦点に意識が寂滅を得る
しかし上の方に書いたような事もあるし難しい
禅定や三昧が一つでないのと同じなのかもしれないし
どれか間違っているのかもしれない >>362の
>まあ一回殴りましたけど
っていうのは真似しちゃいけないやり方かもしれない
言い訳すると「もしかしたらこいつは殴られたくてこんななのかもしれない他に俺にとって都合の良い要素がこれ程見えないのはおかしい」
という若干ノイローゼ気味の予測があった
当時は「ああ殴りたい殴りたいムカつくあいつやあいつやあいつを跪かせて本気のトゥキックを顔面にぶち込んだ上で靴を舐めさせてやりたいでも実際そうなったら顔面蒼白レベルで本気で引くんだろうな俺はしかし困ったこの鬱積はどうすれば良い」
というような事ばかり考えていた気がする
言い訳すると普通の精神状態ではないのだけれどかといって入院とかもしたくないしというまともな頭を失くした状態での事だったので
実際結果も芳しくなかったし(反撃された・決定打無し・以後も長く尾を引いている)
まあ、真似しない方が良いんじゃないか、と思う 基本的に耽美系には自分が美と強者の側に居る様を簡単に思い描く事が出来て
その立場の時には暴力的な行使を喜びどころかそれを使命とさえ感じている人々のものという偏見があって
これを解決しないと自分的には互換性を見出せないのかもしれないな、と思ってる
>>372みたいなヘタレの感性とは相容れないものを覚える
耽美の人だったらもっとましな形というか、いつでも常に自分が自分に誇れる形にするんだろうなとか
まあ、あんまり読んでないから何とも言えないけども 紫微斗数命盤は見てると星の一つ一つが神聖文字みたいに思えてくる
ただ、全書と現在普及の型では火鈴星の出し方が違うのが謎だったりする 対象を美であると認めるとしても耽る側は美ではないよな
という穿った見方も可能なので
大して美しくないのではという疑いも耽美派には懸けられていたりする
美←→醜の二極化された中を運動する過程というのは
多分途中でゲロ吐く類のものになってくるんじゃなかろうかという気がする
中井秀夫はメフィストフェレスとの同化というか自我なり魂なりが吸収されるまでという感じだろうと思うし
倉橋由美子は運動する者こそ強者というような相対弱者というか潜在的弱者の倫理を言い聞かせつつ
運動に終始するような感じで暗に運動家の舞台に動員を掛ける事によって
非運動家の駆逐を促そうとするような作風だろうなと思ってるけど
どちらも一冊たりとも読んでない。倉橋由美子は面白いらしいとは聞くし
書評をぱら見した限り面白そうではあったけども 書評って本人が書いた他の作家の書評、の方の意味
とりあえず理知的な文章だと思ったけど内容覚えてない
マンディアルグとかは逆で、多分上に挙げたタイプの二極化構造は採用していないと思う
そうではなくて目線と対象という二項とその距離の均整を重視する事で
両者の役割が明確化され、その事が読者の側に虚構性を強く意識させる
のだけどその虚構性によって逆に、作品世界が
浸りきるに値するようなものになる、っていう静的な形式になってるのだろうと思う
有名どころでは、山尾悠子も正直よく分からなかったけど距離が静的って意味でマンディアルグの方に近い気がする
影響が言われてるっぽいゴーメンガーストとかは読んでない 目線と対象の距離と虚構性について雑に説明すると
読んでいて「こうも均一の距離を保って目線と対象が一定であり得るのは虚構らしい」となって
さらにその一定した距離というのは演劇とかで言えば劇場建築とか舞台装置の設計に掛かってくるような
普通に造型構築の領域にあるものなので、鑑賞を支える一大要素という事になってくるという理屈になる
マンディアルグは極端に人見知りだったとからしいので
目線と対象との距離については繊細な鑑賞の要件を多く求めたという事なのかもしれない
山尾悠子というか読んだのはラピスラズリという話だったけれども
確か版画が関係してたなとか映像以上にまずテイストというか質感が前に出てきて
それが他の感官の層を喚起するという順序で表現が構成されているように思ったけど
鑑賞というのを受容者の第一に取る姿勢として浮かばせるところは共通してるのか
ただ子供が絵本を読むのに近い読み進め方を想定してあるのかもしれないとか思った
子供の「それでそれで?」とか「次は?」とかのスタンスで、いわゆる鑑賞とは微妙に異なるし
ただ「表現」を云々するだけで主軸を把握出来る訳ではないんだろうなと思わせる
挿絵込みで話の筋、展開に数える時の話の筋、展開というような事が主軸になってるところがあるような気がした
SFっぽい章が面白かったというか妙に解放感というか新鮮さを覚えた オカルティストと芸術についての懸念を造化元鑰から喩えを取って説明すると
夏月火炎土燥の際の焚木灰と化すという現象
木は火と内容を同じものにしてまたそれ以上伸びる事が無い為に固定され
過程や原基は別にせよ結果として土と同然になるという考え方がある
オカルト世界を完成系として捉えるならばそれをなぞるだけに終始し且つ満足する事になるのではないかという見方
もちろんそんなレベルで終わらないので大概神秘家の著述はそういった過程に終始しないだけのユーモアを含ませている
これは五行で言えば水に当たるのだと思う。これによって火を制するもこの功は既済であって木も水もそこから先
完成系としてのオカルト世界から逸脱した方面へ伸びる事はしない
ここで水行と仮定した要素のより芸術方面にシフトした用法が
上の方に触れた創意や感性の純粋な遊び場としての芸術利用という事になる
これは結構見受けられる用例で、明確に作品の形ばかりでなく
例えば現代のオカルティストにオタクカルチャーに触れている節のある筋が多く見られるのは
比較的童心というか制約の少ない姿勢で玩味する事の容易な文化として
意図してかせずか意識を休ませ遊ばせる態の利便を捉えて選ぶのではと思われる 造化元鑰では春夏に水は金に水源を得てより遠くへ流れるというのが説かれていて
本式に芸術である場合にはそういった事柄が求められる事になるのだろうと思うのだけれど
そこに懸念が絡んでくる事になる。オカルティスト的に、芸術自体に対して源流を求める事を可と捉えるか非と捉えるかという問題
造化元鑰は八字の内の五行を五常に寄せて説いていて、金は義に当たる
果たしてオカルティズムならざるものに自身の能動的因子の源流にして義としてのものを認めるという事を
オカルティストが是とするか否かという事
結論を言うなら上の方でparacelsus researchについて挙げた未知の探究という事と
それに非常によく似た形でtemple of setに、各個人の独自性という事が体系的な考察の対象として大きく取り上げられている事で
完成系としてのオカルティズムという事とまた別種の対世界アプローチの可能性が
オカルティズム自体に含まれているような予感というか手応えというかを覚えたのでした
それで解決した。芸術表現の宗教理念に基づく確定的画一規定はプラトン哲学の評判の悪い部分、とか聞いた事あるので
それと似たような問題だろうと思う。プラトンは読んでない 既成の功については上では悪く取っているように見えるけれども全然そういう事はなくて
むしろ均整とか対称とか落着を同時に得るような意味合いに解してる
ただこの場合に主眼になるのはオカルトであって芸術とか表現とかはあくまで客体に留まるのではというような意味
上で言う「芸術家」って比率というか目的が芸術寄りのイメージで捉えてるので
真なるものを芸術サイドに置いているような表現という意味で書いてる
そのレベルでの表現が可能になるかどうかの手引きというのが>>379の後半の意味 fateシリーズは英雄の神霊が制約の多い従者として化生して人間に協力するっていうのは
西洋系の発想ではなくて封神縁起とか水滸伝とか八犬伝とかの伝奇物の流れだろうなと思う
そういう超常を常とする存在が人間に関わったり協力したりする発想は
西洋フィクションの流れではむしろ神秘の東洋っていう系統になってくると思う
ヴァテックのスルタンのハレムだとかオカルト的には錬金術のインドだとか
より近くは中国のカンフーマスターから日本のニンジャサムライ等々に至るまで
東洋というのは西洋人から見れば夜明け前の太陽が照らしつつ通過する土地というのに当たるので
上に挙げたような種類の「東洋」についてはそういった見方が働いているのではないかと思う
占星術的に見て感受性を刺激し得る太陽の周航という事の重要性から
それは神秘的だし超常を常とする人々の住まう世界という観念を帯びた伝統を生じる
中国で言えば蓬莱はやっぱり東海の果てにあったように思う
まあそんな訳でfateシリーズに対応する西洋系のフィクションを考えるなら
謎めいた東洋の白髪の老人が七人くらい現れて七人の超常能力者をニコニコ笑って死地に赴かしめつつも
自身もそれぞれと雌雄を決せねばならない宿命を負っている事から超絶功夫でキルビル的死闘を展開し
気が付いたら主人公以外誰も残っていなかった、とかそんな話になるのではないかと思ったけど
書いてみてそのまんまだな、と思った あ、でも魔法使いとかの話もあるな。アーサー王物語のマリーンとかがそういうのなのか
書いてすぐであれだけど別に神秘の東洋がfateシリーズと対を為す訳ではないかもしれない
でもfateシリーズ自体の発想は東洋寄りだと思う
超常存在が人間世界を舞台にするのに人間並みに命数尽きたりするのであれば
多分西洋フィクションではバトルロイヤル的なものより善と悪、ライトサイドとダークサイド
みたいなのの方が多そうに思う。それか単一個体か単一集団による冒険とか
封神演技や水滸伝や八犬伝はしっちゃかめっちゃか度合いが楽しくも諸行無常だなぁ、で終わるような感じだと思う
八犬伝は違うのかもしれない。割と仲間同士で明後日見てる態の猥雑さは無さそうだ >>382は色々間違っているかもしれない
考えてみれば西洋には時間軸上で人間より先行している高度に知的な生物という風に
天使、妖精、精霊、宇宙人を説明する考え方があるので
その意味で>>381は結構当たっているかもしれない
だからウルヴァリンは前世でニンジャの教えを受けていたりするし
ミヤギさん天使説、妖精説、宇宙人説なんてのも容易に考え得るような枠組みがあったりする訳だ 少し前のジャンプの読み切りのゴブリンって言われるミュータントが活躍する話には
特撮魂を覚えた。特撮は善悪の相克と割り切れなさを描くのに優れていて>>382を書いたのはそんな風な事を考えていたからだったのだけど
今の特撮は全員集合系がトレンドらしいのでまた少し違うのかもしれない
特撮の怪人、敵役は概して社会に存在する歪みや亀裂の具象化、というのが多くて
その分だけ敵役が非人間的になるのでバトル漫画としてメジャーになりにくい一因であるように思う
ジャンプは北斗、聖矢、ドラゴンボールの肉弾路線が主流で
ギミックが一大要素になる特撮系は比較的マイナーな部類のような気がする
知っている限りで近いのは「みえる人」が特撮的な性質がかなり強いのだけど
これは特撮そのものというよりは先人として特撮的なものを仰いでいる少年漫画という趣がある
他にはシャーマンキングがエヴァンゲリオンやジョジョ等を扱いつつギミックによるバトルとして特撮性を示していた
どちらもいわゆる「マイナー人気」の漫画だと思う
少年漫画における特撮精神というのは実は四大誌では少なくて
その派生誌とかマイナー誌の方に行くほど割合が増すように思う
その意味で特撮こそは少年漫画のマイナー性を支える一大要素といえる
覚悟のススメとか惑星のさみだれとかが好例
惑星のさみだれ面白かったな
話作りとしての特撮系の共通点は
・主人公は天涯孤独
・でも拠点がある
他にも色々思いついた気がするけどとりあえず今はこの二つが二大条件として浮かぶ
上に挙げた特撮に近い作品は大体この条件を満たしていると思う
で、ゴブリンの話に特撮魂を感知して考えを巡らせていたらすぐに
「タカマガハラ」が特撮系だという事が浮かんだ。それも、特撮系の中でもさらにマイナーな「怪奇系特撮」だという事
この作品では主人公は厳密には天涯孤独ではないけれど親が居ない
という事で少年漫画に特撮系の静かな顕揚の気配が予感されるけれども当たるだろうかどうだろう 萌えが漫画のマイナージャンルとか甘過ぎでヲタ的に見て普通に小僧レベルだと思う
特撮こそマイナー地盤を支える真の一大要素に違いない
上では割と時間が経ち過ぎているので表現しきれていないけれども
タカマガハラが怪奇系特撮だという事に気付いたというか気付かされた時はそれは興奮したし
ゴブリンナイトの特撮魂には震えるものを覚えたんだった
少女漫画は分からない。あんまり読んだ事がないので少女漫画のマイナー世界は分からない
ただヘルタースケルターで帯にあった作者解説が一人ぼっちな女の子を描きたかったというもので
一人ぼっちの女の子として表現されているのは人生リセットで周囲とずれまくっているというキャラクターなので
大体、環境が変わる事で人が変わるというのは大なり小なりあるような気がするけれど
それが決定的に表れるのが女性の場合であってしかもそれは周囲とのずれ、断絶として生じるというのは分かる気がするし
それがギャル系だったっていう事は多分そういったキャラクターのモデルになるようなタイプはギャル系に多いという事なんだろうな
人種的にどうこうというかその表れが大きいのがというか
という事は今日の人形のように大人しい女の子が明日のギャル系というのが
割と考えられなくもない流れという事になるのだけど何故かといえば
そういった断絶の可能性というのを大体これまでの非常に乏しい異性観察の経験からは
いわゆる人形のように大人しい女の子に覚える事が多かったような気がするからだ ゲイの系統のウィッカではメンフィスの山羊はドラァグクイーンになるんではと思う
上の方に挙げた二重性の調整者としての角ある神の要素がここでは内向性、感受性を対外的な表現に反転させる神性として考えられる
ただ色々だろうから当たってるかどうかは分からない
腐女子というのは大方のところ、自分の「されたい願望」を縷々綴っているんだろうと読むのがまず読み方の一つ目で
この場合、自身の肉体を離れた形で主体が望みを遂げて終了する訳だけれども
これを肉体を介して男性性との融解、和解を果たしているという風に捉え
そこに彼女らの男性性克服の為の潜在的な手管が示されているとして読むのが第二の読み方で
もし仮にこれを読むのがいわゆる恋愛弱者というよりむしろ社会弱者に属する男性である場合
彼は幼少期からのそれまでの自分史の中で女性性による男性性克服の為の潜在的手管なんていうものは
うんざりする程見せられているというかこれによって虐げられているとさえ思っている事が多く
この場合、当の腐女子である女性が恋愛弱者であろうが社会弱者であろうが全く関係なく
彼は自分がまたもや女性性によって搾取されていると直感し、結果として腐女子を憎悪するという図式が成立する訳だけれども
それは置いておいて女性の潜在的な手管というものが表現されているものとしてその手掛かりを腐女子の著作に求める、というのが考えられる
女性の潜在的な手管とかそういった事は「satanic witch」に、主に女性向けに事細かに書かれているらしいのだけど
もちろん到底読む気がしない 竜騎士08の作品は土俗的な環境と個を立てようとする主人公の関係という構図で
上の方に挙げたラノベの人の中では多分かなり、いわゆる「純文学」に近い傾向の作家なんじゃないかと思う
でもエンタメ要素あってのものなんだろう。そういうのが不思議だし多分新しいだろうと思う
なので以前挙げたギグ的要素としての部分とエンタメ要素の部分を備えてるというのが
「今話題のラノベ」になるのではという気がする
ただ大昔に「スレイヤーズ」を読んだ時の感覚は
読んでない時をケとして読んでる時をハレとするという感じなので
やっぱり基本はエンタメなんだろうとも思う
漫画だと「幽遊白書」とか惑星のさみだれがラノベのこのハレとケの感じに似てる
具体的に言えば両者とも、人と会う時間というのをある種特別な時間として演出している事が多い
だからそういう場合に、作中に描かれているのは祭りの状景で、単に人と会うというのとは大分異なる
読者にとっては読んでる最中が何かしらお祭り状態なんだろう
というかそういう、読んでいる最中に普段を離れてお祭り状態になる
というのを強く意識して作られた作品がこの場合でいうところのラノベ的なもの、という事になる いわゆる葉隠れ的武士道というのは武士というかむしろ乙女というのは分かる気がするし
新渡戸稲造がジャンヌ・ダルクを信奉したというのも無理なく分かるように思う
山中鹿之助が我に七難八苦を云々のたまう姿にジャンヌ・ダルクを見ようとするのは理解しやすいけれど
御家再興、復活に執念を燃やす半分狂人としてジャンヌ亡き後のジル・ド・レに喩えるのはあんまり無い
武家ってジャンヌ・ダルクよりはジル・ド・レの方に近そうに思うのだけれど
フィクションでも武家自身の側による武士道の説明からも圧倒的に見受けられるのはジャンヌ側のイメージだ
赤穂浪士がもてはやされたのは火事と喧嘩が華だった江戸の都で
もう太平で戦なんか起らないという時世に武家が一藩挙げて他藩の藩邸に討ち入ったというので大喜び
しかも死んだ主君の仇打ちで、大晦日の晩というのが芝居がかっているというのでいよいよ皆喜んだ
というのが多分内訳の大部分だろうと思う
武士道は無きゃ無いで芝居にはなるという風情
新撰組については燃えよ剣とか読むと「お前は屑だ」とか言われてるような気がして胸糞悪くなるというか
「お前こそ屑だろ」と言い返したい気持ちが何とも嫌なので
どうせいわゆる「半端者」を読むのであればどちらかというと清河八郎の方が面白いなと思う
時と場を百パー間違えてる革命家、というと西尾維新とかに出てきそうなフレーズだけど
何かもののあはれを誘うような誘わないような気がする
多分新撰組が好きな人はその不器用な生き様が云々と言うだろうし
清河八郎とかは姑息な奸物っていう感覚だろう。まあ俺も本当のとこ言うとどうでも良い >>386に挙げた腐女子「女性性による男性性克服の為の潜在的な手管」という事について
これを荒ぶる自然の神性が持つ男性性として解釈すると、その馴致、同期化を自身の女性性によって行うというのが古代の巫女の能力なり権能として考えられる
それが人に向けられるなら魔女とされただろうし自然の男性性との融和、人の住める位相に近付ける為に発揮されていた時代に母権社会というものが考えられる
この場合には巫女なり女性は過酷な自然を克服する力と術を備えた存在として尊ばれたという事になる
ではキリスト教ではというと、聖母マリアが身籠ったのはヤハウェの子であるからヤハウェの巫女として考えられる
母権社会は西洋では学術的に証明されていないらしいのだけれども日本では卑弥呼等の記録によってそういった社会の存在が確認されてる
ここから>>388に書いたような乙女チックな武士像が派生する
恐らくは以上のような力を持った巫女的なものを尊ぶ気風なり心象が反映して
そういった風な「武士道」、「武士の鑑」なるものを
ジル・ド・レ的でなくジャンヌ・ダルク的なものとして捉えようとする見方を生じたのではなかろうか 高貴、崇高なものを敬慕し、心酔する
それが失われてからは発狂してろくでもない執念の塊になる
というのがジル・ド・レ的
こう書くと案外こっちも武士道っぽい気がしなくもない
ただまあ、倣う気も崇拝する気もまるで起きない
しかしジャンヌ・ダルクにしても倣う気持ちを起こすような人物でもないような気もするけれども
それは俺が武士道ではないからかもしれない
死霊に聞くと、俺は農業向きの人間らしい。分かる気がする
五輪書とか面白いのは、構えは「刀を斬りよいように持つ」事、らしい
他に「観の目つよく、見の目よわく」は打突部位を観る目は肉食獣的に集中して
他の相手の持つ武器とか全体の情報については草食獣的な全体目線で、という風に取れるし
そもそもこれは禅で教える「座りよいように座る」という事と
止は全体、観は一点として作用するというような考えから来ているようにも思える
あと農道、工道、商道等の他道をよく知るべしとかいう事やその解説とかも面白い
実利主義とか言われるけれども哲学と、典拠を探せば得られそうな基礎的背景というのが有るように思う 四柱推命でもやや不順な稼牆格というか稼牆格が崩れたような雰囲気なので
どれが天職って言うと農業とかになるんだろう ジャンプnextは雰囲気がアワーズとかマイナー誌的な感じで驚いた
ああいう雑誌作りって興行師的な面もあるんだろうな
ぬらりひょんの孫が気になるところで三カ月待ちとかなので
三か月かけてちょっとずつ読もうとか考えてる
magicoは異様に寂しそうな雰囲気で
これは前回までは無かった調子だなと思った 上の方でセト神と比較する形でヒルコを幽界、異界の主神として書いたけれども
伝統的に大国主が幽界の主宰として考えられている
まず大国主は大黒天とも同一とされているけれどもこれは名前の読みとかとりあえず偉いという事とかばかりではなくて
スサノオは根の国の主宰として黄泉津大神イザナミとどの程度か習合したと考えられるけれども
そのスサノオの後嗣としての大国主という立場から上の二者と重なる形での作用を備えている事が言えると思う
それから大国主は結霊を地に結実させる神だからその意味で結霊の向こう側、幽界を総括するような存在として考えられたのだろうと思う
要は結果(顕界)の神で、だから見えざる過程(幽界)を主宰しているという事になる
イザナミが夜空、スサノオが天体の運航支配者、オオクニヌシがその観測者または作用の地上への結実を司る神として見る事が出来る
また古代には雲は天体に準ずるもの、星の素材、幼生のようなものかあるいは天の作用が地に結ばれる時の第一質量とか修理固成の素材として考えられている節があって
それで上の方でムーンマトリックスを説明するのに宗像三女神を挙げたのだけれども
出雲には八重雲という八色の雲があるらしく、幽界を総括する結果の神の八色の雲というと
これはそのまま日本版ケイオスという事になるかもしれない この大国主の惣領が事代主で、大国主は国譲りの是非をこの事代主に聞くよう天津神に言っているのだけれども
尋ねに行くと事代主は岸辺に居て天津神の姿を認めると即座に隠れる
国譲りを迫るとすぐに承諾して身を退いたとされている
事代主はヒルコと同じく恵比寿神として見なされるのだけれども
もし以前に触れたようにヒルコが異界、地平線下にある際の太陽を表しているとするなら
常に異界に在る事になるから、天神が現れる際に自身はそこから姿を隠すというのは理に適っているように思う
太陽神が預言と関係するのは(1)地裏の事を知っているから(2)より上空の全ての作用を受け取って中和した後に地上に発しているから
というのが考えられるけれども、この場合は(1)の方になるだろう。アマテラスなら(2)になると思う
もう一人の子息の建御名方は、一度抗って天神方と力比べをするも退散するとされる
これは造化元鑰を見ると夜明けや春分を迎えた後もまだ冬気や寒冷の水気は留まっていて
水行の墓庫になる辰支に至って落着するとされている
もう一つ別の解釈をするなら、法の書にあるsplendrous serpent、太陽の軌道を描く蛇として考える事も出来そうに思う
こっちの解釈に援用出来る要素としては、御神渡りがある
これはむしろ冬から春の過程だったと思う たまにテレビとかで自分と似ている人を発見すると物凄くがっかりする 宗教は囲い込み、結束と構成員の保護を起源として考える事も出来るのだけれど
そもそも終戦による大日本帝国教全壊という決定的な展開があり
そこから焼け跡の中に棄教、背教を余儀なくされる展開というのが生じる
次にいわゆる全共闘世代というのが出て反宗教、主に戦中軍国教育的な信仰に対する主義としての独立を目指す運動が生じる
これが現在時点で日本でいうところの反宗教の最大起源ではと思う
次にバブル世代とかリベラル型の理念というか主義を基にそこからの展開を獲得しようとする運動が生じる
リベラルでありながら穏当な集団行動を第一と捉える考え方
ここにニューエイジとかがうまくかみあったのだろうけれど
日本国内的にはそれは実は戦前戦中のイデオロギーから脱する運動の一段階として機能している
で、オウムもここに入るのだけれど、このリベラルかつ集団主義を穏当なものと捉える思潮
というものを汲んだ形での「宗教」の結実と見なされていた当初はそういう意味で快挙と見なされたのだろう
この時点でオウムを評価する知識人が複数居たという事にはそういった側面がある
インテリ層の信者が多く居たというのも、一般に言われる超能力云々ばかりではなくて、同様の事が言えると思う
その後ああいう事になった訳だけれども、この点で少し辛い事を言ってみるなら
件の知識人等の人々は騙されたというよりは敗北したというか
自身の時代潮流に沿った結実を得ようとして得られなかったのだと言えるかもしれない 村上春樹とか大江健三郎がオウムに特に関心を払った(払っている)のも
事件の悲惨さとか強烈さという事ももちろんあるだろうけれど
一つにはこういう流れを汲む面があるのでは、と思う
まあそういうのが現在一般の宗教嫌いの主流を成す根拠というか必然性みたいな所だと思う
「宗教」の指すものの根底には未だに軍国教育とかそういうのがあるという可能性で
これはここ十年くらいのそういうものに帰りたそうな思潮というものを見ると
割合当たってそうなようにも思う。で、もしそうなったらその時に彼らの負けが本当に確定するって事になる
オウム関連の宗教嫌い、というのはそういうところがあると思う
オウムが宗教、と言うけれどもそうではなくてオウムが彼らに可能な宗教だったという話で
多分、何を建てようとどうしようと大なり小なりオウム的にならざるを得ない社会背景に依拠した時代という事になるんだろう
あと、この世代のリベラル集団主義が後に極端な集団偏重主義と反動的な個性偏重主義とその他諸々に展開されているように思う >>389-390に書いたいわゆる「武士道」と別に武辺者というキャラクターもあるけれども
ギャグの無い男塾というイメージで主役になれそうな印象はあんまり無い
柴田錬三郎の短編に割とあるけど強面でしかもえげつないというか、多少誇張とか強調を含むだろうけど
ハート様最強物語的な無惨な余韻を残す作品世界になっている
他には雨月物語に出てくる修羅道の殺生関白秀次とかの感じが、泣く子も黙る存在感というのがあったりする
戦国時代に武辺者というと、柴田勝家とか太田道灌とかがそれに当たるのかもしれない
武辺者が主役を張れたのは坂上田村麻呂とか源為朝とか頼光四天王とか
そういう時代ではないかと思う。こうして見ると国家がスポンサーとして武家を成り立たせていた時代に限られるというか
武家の台頭が始まった平家物語では既に木曽義仲は困りものとして扱われている
楠正成は武辺者かもしれないけれども武士道が入り込んでいる
バサラが言われるのは楠正成の時代頃かららしいけれども
他に傾奇者とか兵法者とか色々ありつつ、総じて武家のジャンルは世の中に何をもたらしたかとかではなくて
何を使って威力を揮ったか、揮おうとしたかという事で判定されているような気がする
新撰組はある種、この手の「武辺者」のリバイバルになるのだろうけれども
やっぱり沖田宗次とか土方歳造とかになってくるので
扱いもそうなのかは疑問なところだと思う 功罪なんかどの世代にもあるしその一時代で全体としての運動が総括されて
終了するって事はあんまり無いんじゃないかと思う 日本版アーサー王物語っていうと何になってくるんだろう
聖杯伝説のような失われた宝を求めるという要素は埋蔵金伝説くらいしか浮かばないのだけれど
祖型的英雄譚って意味ではヤマトタケルとかがまず浮かぶ
円卓の騎士の要素を求めるなら義経とか真田幸村になるだろうし
義経の生存渡海説にはヤマトタケルの昇天と響き合うものがあるし
そこに生前の活動から相応の来世が定まるっていう輪廻説が絡んでいるようにも思う
日本を逃れてモンゴルの大平原で馬賊になるというのは彼岸というか来世的だ
静御前と弟橘姫の立ち位置というか展開も似ているといえば似ている
頼光四天王は配下の存在感が強いという点で頭領としての側面が強くなる
聖杯伝説はやっぱりロストテクノロジーとかの話になってくるんだろう
うつぼ舟とかニギハヤヒの円盤とかヒヒイロカネとか
でもそういうものを後代の研究者とかではなく英雄や為政者が追い求めるという話は
日本にはあんまり無いような気がする。竹取物語では不老不死の薬を燃やしてしまうくらいだし
いわゆる秘宝は求めずに手に入ってしまう話の方が多い
草薙の剣が海中に没したという話はあるけどそれを探す話は無い
俵藤太や小野篁や、神秘的な行跡が伝えられる人物というのは結構居るけども 竹取物語はどうでも良いけども
アーサー王物語はよくは知らないので
受け取り方も分からないというのがある
そこから様々の説話なり伝承が派生するというものだとしたら
牛頭天王縁起とかの方がむしろ近いのか
牛頭天王は一応人間として生まれたという設定だった気がするけれども
姿形からして人間ではないような気もする ネクロノミコンは正式に使えるやつがあるらしい
洋書だけどアマゾンで千円くらいで買える
内容はシュメールとかの古代オカルトを骨組みにした本格派で
マルドゥークとかイナンナの眷属をクトゥルー神群や崇拝者に凝らしてあるのだそうな
「ネクロマンシーにはまずはこの本」という風に言われる事もあるほどオカルトの信任を得ている著作らしく
まあこれはsummoning spiritsとかネット情報の受け売りで自分では読んでない
ラヴクラフト自体にフリークが多くて彼は本当に太古のオカルト知識を備えていたという主張もあるらしく
ネクロノミコンやクトゥルー体系によるオカルト儀式っていうのは他にも複数ありそうだと思う
ラヴェイのsatanic ritualにもクトゥルー系儀式が収録されているとか
日本で言うなら遠野物語とか水木しげる妖怪世界から儀式を組むようなものか
遠野物語は少なくとも伝承事実はノンフィクションなので
迫力の怪異存在を祭る意味では浮世絵とかの妖怪を題材にするのが近いのか
ああいう存在の強烈さはビジュアルイメージで捉えられている事が多いと思う
どうでも良いけれど寝ていたらクトゥルー的な存在を見た事がある
タコ的なのとかイカ的なのとかを一度に見たのだけど
そういうあからさまにUMA的形状の存在を見た場合によくやるのが
同質化とかをイメージする事で、この場合にもそうやって旧支配者化したりした
敵対的な印象を受けた場合にはその対象と全く同じものを全く同じ力でぶつける事をイメージしたりする
この時のクトゥルー的存在にはそういう印象は無かった
あと遠野でいえばナマハゲっぽい存在を見た事がある
何というか神的な威厳があった。氏神とかに近い雰囲気 「そはとこしえの死者にはあらねど」をマントラに
深海を強く想起してそこからいつか巨石文明の大神殿が浮かび上がる様を思い描く
中は闇だが神殿自体にマントラが照応し、神殿はマントラによって浮上する
残りの文句を忘れたけれどももう一節だけとかだったら浮上を終えたらそれを唱える
残りの句は神殿内部の異神の咆哮に照応し、唱えるごとに闇の中から大気が震え、まばゆい光が海上に走る
もう数節あるのであれば段階的に、それぞれの詩節に対応する過程を設ける
即興だけど俺が思いつくのはこんなくらいか
閉じ込めたものから力を得る、閉じ込めたものを浄化する
またはある種の先祖返り的な作用、文明化以前の世界のイメージの持つ機能を受け取る、とか
考え付くのは色々ある もう秋だ
mp3で「september〜」って歌が聞こえてきて気が付いた 「ポエマー」
謳う事は持たないながら
日々観察し呑み込む事は
飲酒の際には忘れきり
眠りこけるのは定まり切った睡眠欲を満たす為なら
変化はただの繰り返しかと
自分に無いものを外に
自分の属さない際を外に得ようと
窓を見風を浴びて夜灯に臨み
暦の上の季節の流れが
気候の上での秋の空になり
人工を経ずに届く風が季節感となり
繰り返しに変化を与え
束の間の詩人を構成し
月を上げて
紅葉になって散り終えるまで
静止して
時候の風を喫する事を
束の間の詩人に許そうとする 「壷中天」
夜鳴く鳥が
耳快く
虫の音は
已まず涼しく
鳴り渡る
静々と
身守るごとく
夜灯が光を十字に発し
極大の星を幻視させ
浮かべる夜空は足元の
地平を空と見紛わせ
海と見紛わせ
視界を夢と見紛わそうと
瞬きかける
辛うじて逃れ出た秋の夜長に茫然と
夢を思い描く事に傾注するのが
詩の用途の一例となり
より強くより暮らしを忘れて思い描き
その夢のどこかに暮らしを得て夢に暮らす
肉眼で目にする星空と秋の空に至り
夢と夢中に暮らす実体は
鬼火と共に夜を渡り
夢を住処として夢に暮らす
夢は暮らしを追い求め
暮らしは夢に安住し
灯火は皆夢を照らす 勾陣=ニギハヤヒ説というのを思いついたけど
説明が面倒なように思う
古事記と梁塵秘抄と垂加翁神説というのを買ってみた
古事記が偽書っていうのは、序文を見る限りは考えにくいと思う
というのはまあ、奏上する体裁と釣り合った緊張感が堂に入っているからで
っていうと主観的根拠ではあるようだけれどもその緊張感の内実についていうと
易経を読むとまずこの序文で記者が何をしようとしていたのかが分かるし
その目論見と操作が偽書では不相応な種類と程度のものを含んでいるように思われるというのと
書き方が上梓するに際していわゆるやんごとなき身分の人に宛てる事をごく自然なものとしている立場の人物のもののように思われるという事がある
同じ偽書でも単に記録編纂を目的としたものでは記録編纂自体が主眼になるのだけれど
この序文の場合には記者は和漢の学識を傾けつつそれをお上に奉る事に主眼を置いて書かれているように思う
天武天皇は陰陽道家という事で有名なので、誤伝が増えたので編纂を命じたという意味は
易学とか五行学説等に合せた形で神話体系を編成し直させるという意味合いも含んでいたのかもしれない
繋辞伝とよく似ていて、「近くは身に取る」の体を踏襲しているのだけれど
本家の思想と併せて自国独自の古来の習俗を譬えの中に並立させようとしている形跡が見られるのが面白い
どこがどうというのはまだ何ともいえないけども あんまり詳しくないけど六室が金牛宮で星が二つ入って合なので
西洋占星術でも農業向いてそうな雰囲気なんだよな
ただ土地も何も無い 六室ってそれとも職業自体とは関係なくて
就業態度とかの方が関係してくんのかな
だとすると性格に大きく関係するのがいて座と双子座っぽいので
牡牛座の地道さは気分屋と飽き性に左右されずに効能を得られるものだろうか
どうもちぐはぐな構造に思える 勾陣についてまず本国での扱いを確定要素と状況証拠と空想的根拠からいうと
確定要素としては北極星としての勾陣というのがある
この場合に勾は北斗になって、勾を陣べるという意義が出てくる
同時に北辰は全天を陣べているとも取れるし
勾陣天皇大帝は万物万霊を統べるという風に説かれているらしい
次に状況証拠として、十二天将としての勾陣は好戦性とか鈍重さとかを表すようなのだけれども
これは先住民か自身の現文明以前の原初的文化段階での性質を象徴している可能性がある
最後に空想的根拠を説くと、勾陣は土将で四神相応の中心に据えられるので
勾を陣べるという名称を地上に置いて捉えてみると
勾を籬とか区画という風に考えて、人の集まる、人を集める中心地点としての意が考えられる
以上の三つを総合すると現文明以前の文化圏で信仰を集めた神格として考える事が出来る
いわゆる埋没神という事になる
これを日本に移入した際に、勾陣は京都の守護神として考えられる事になるのだけれど
天孫降臨以前に大和の一円を統べていたのがニギハヤヒとされているので
まあこれが勾陣=ニギハヤヒ説になる
他に、勾玉は火を象ったものと考えているのだけれども
これが正しければ移入当時の人はそこから勾陣について
火炎土器文化のあった縄文時代の主宰神を連想していたかもしれないし
穴居人が屋外に火を焚いて集まる様を浮かべる事も出来る
ニギハヤヒは日の出に先立って賑わう早日、と考えるなら
文明の黎明かまたは天孫降臨以前に既に興隆していた文化を表す神名とも取れる
ここから帝が天皇を名乗ったという事について考えると
星々を陣べる天皇大帝の名称を祭祀者として見る事になるけれども
星々というのが記紀神話中でどのような神々を指しているかというのを見てみると
あらゆる神祇を祭るとされる天曹地府祭を天皇が執り行ったという意味も見えるし
そう考えるなら後世の国学者がいうような天皇家の祖神を祭るのが神道
という考え方にはどうも齟齬が生じてくるように思う ニギハヤヒというより物部には他に日本版イルミナティ説が考えられる
この場合はニギハヤヒは祖神というより崇拝対象として
系統上の祖はナガスネヒコに配当される事になる
ナガスネヒコは天孫に弓引く事によって恐らく史上初の純粋な被政略暗殺者になるのだけれど
子孫の物部族は聖徳太子の頃の渡来後間もない仏教家にえげつない弾圧を加えたことでも有名で
史上稀にみる朝敵と仏敵を輩出した系統という事になる
弘法大師がイザナミを脱衣婆の事と説いたりしている辺り
ここで残った禍根というのは相当なものがあったんではないだろうか
イルミナティの要件として太古の秘義の伝承を自称する事
社会の上層に入り込んでいる事、貴人の種である事、暗躍している事、虚実不詳の噂によって語られる事があるとして
物部なら申し分ない。後世仏敵として説かれる事の多い存在として天狗があるけれども
太平記等の天狗評定はイルミナティに相応しいもので
しかもここには皇家や延暦寺の高僧を出自にする大天狗が複数登場するので
これはまさに王家や高位聖職者にイルミナティが潜んでいるという説と重なる
さらにそれが後の国学、廃仏、国家神道の流れに帰着したと考えると中々の陰謀ロマンが展開される
この流れに物部の系譜を主軸に据えるのは荒唐無稽なようだけれども
中世神話にアマテラスが元の国主だった第六天魔王との取引を反故にした事で日本は仏国土になったというのがあって
この説話を日本での仏教家の最初の受難といえる先に挙げた物部の事跡と比較すると
ちょっと信憑性が出てくる上に、まずこの説話で物部の名を出す事なくイザナギを第六天魔王としている事
またこの説話でアマテラスの行為は是とされながらも以来偽証する神として扱われるようになったという事から
自身の正体を明かさせない隠然たる実力を持っている上に皇祖神に対して真を突き付ける恐るべき存在という風にも考える事が出来たりする
ただまあ、こういった仮定を全面的に肯定した上で真面目に色々考えると
闇の血脈としての上記のような性質と同時に
汚れ役を買って出ている側面というのがどうしても出てくるような気がするので
今の生活の肯定的な側面を物部的な存在が担っていたりする事が分かってきたりするのかもしれないとか
そういう事を考える まあそんな事は無いか
そういえば昔水没ピアノっていう小説を読んだのだけど
共感出来るというか感情移入出来るというかそういう意味でいえば
現代的な小説では入り込める割合が圧倒的に高かった作品だった
全然入り込みたい世界では無いんだけども
自分がそういう事になったりしたりする事は無いにしても可能性を延長したら普通に考えられるかもしれない世界というか
半分は他人事なんだけれども何処か他人事では無いような流れというか
大体小説読んで感情移入する事はあってもそういう具合に意識とか行動パターン的な事で入り込む事はほとんどないし
特にラノベや若者主人公のフィクションは自分と別種の生き物が動く世界として割り切らないとやり切れないと思っているので
かなり珍しい読書体験だった 指がなー。でも多分あれも妄想なんだろうな
妄想で始まり妄想で終わる
妄想にしても妄想のパターンっていうのがあって
殊に恋愛要素を含むフィクションの場合にはそういう個人的妄想パターンっていうのが強く働くと思うので
妄想で始まって妄想で終わる妄想パターンっていうのが近しいのと
あのオチは三百六十五日考えても確認になるというか
何を確認しているかというと何も無いことを確認しているのだろうけども
そのくらい共通していれば入り込むには十分な訳だった
俺はあの語り手と違って一介の妄想小僧に過ぎないので
「来なかった。見なかった。負けた」という感じだろうな
行動パターンがその程度でも妄想パターンが合致すれば入り込めるというのは小説の不可思議力かもしれない
そんで妄想パターンが合致する小説っていうのは大して無い
別に自虐的なら良いという訳でもないし何も手に入らなければ良いなんていう風に思っている訳でもない
でも何かが手に入りそうなイメージを抱かせる小説というのも大して無いし
その意味で基本的に身を削って読書体験の中に波風を立たせ起伏を生みださせているだけで
全体としての自分というのは空虚そのものであるのかもしれない
映画館で映画を見るのは仕事上がりの死に損なったような生き長らえたような気分の上での鑑賞が最上で
映画自体の出来不出来は正直なところ関係あるのかないのかいまいち分からない
ただ音と映像とで目耳脳を洗いつつ座り心地の良いシートで骨身を休める要素が大きい
出てくる頃には「あと三日生きられればもうどうでも良い」というのに近い満ち足りた気分になっている
芋粥の五位みたいな心境だろうな
でも欲が出てくるとこういう感覚も消えるのかもしれないし
そう考えると人間は中々タフだ 一作でも分かるような話だけれども多分他の作品も読んだ方が良いんだろうな
他の作品を読まずに読んだので探偵が死神にしか見えなかった
ラノベ=キャラクター小説という意味で言われるラノベは
キャラクターは劣情と欲望の受け皿というのを主機能にしているという事だと思うので
その意味ではラノベと一般文系っていう対置の仕方はずれるのではないかという気がする
何か別にそういった技術に特化した先行モデルがあっても良さそうに思うのだけれど
これというのは浮かばない。フランス書院とかかとも思うけどしっくり来ない
それならむしろフィギュア職人とかそういうものの方が近そうに思うけれども
ラノベとフィギュア職人を対置する構図に発展性があるのかどうかというのはある
そういえば戦国武将でいうと豊臣秀吉はドスの利いた老侠客のイメージだな。親分肌だろう
ラノベとかで闘うヒロインが時代劇口調だったり漫画チックな男口調だったりするのは
あれはいわゆる普通の女の子と自分の間にどうあっても平坦な関係性の確立を想像出来ない悲惨な
上の方で腐女子とかにさえ経験的に承知している搾取者としての女の影を見るタイプの読者が安心して読めるようにと
可愛い女の子の造形と彼らでも安心して耳を傾ける事の出来る存在によるアプローチとしての男口調を
苦肉の策として錬金術的に掛け合わせた人造生物という事が出来る
としたらAURAのヒロインは可愛い女の子の造形と五〜七歳程度の知能を錬金術的に掛け合わせる事によって創出された
この型のキャラクターの新機軸として考える事が出来る訳だけれども
知能を考えずに単にフツーとビョーキの対立軸から考えるとしたら
自殺直前日記の山田花子があれのリアル版っていう事になるんだよな
前から思ってるのは、古谷実とかもそうだけど
ああいうフツーとビョーキの対立軸を経験していて且つ普通を力説している人とかは
ガロ系とかはどう考えてるんだろうなっていうのがある。あと夜想とか危ない一号とか何かそういうの
俺は普通=リア充への道とは思っていないので、普通=リア充への道っていう思考が見える事があって
たまにイラッとくる
お前が目指してんのは普通じゃなくてリア充だろと。リア充じゃなきゃ普通じゃないみたいな事ばっか書いてんなよと
別に普通になりたい訳じゃなくてリア充になりたいだけじゃねーのかよと
じゃあそう書けよ普通にかこつけて意味不明な思想並べやがってと
大体普通普通言ってる奴ほど普通じゃないので割り切れないものが残る。普通っていうのは中庸であってリア充とか勝ち負けとかは直接関係ないし
リア充作りたいなら最初からリア充のすすめみたいなの書けば良いのにと思う 多分とにかく自分よりリア充度の高い集団に何とか関わっていくというのがリア充道の基礎にして王道になるんじゃないかなと思うけど
それがフツーだとしたら面倒いし結構きつい目見る事になると思うので
やる気とガッツが無いと難しそうなイメージがあるな
スペックあればそこまできつくもないのか。まあ俺は多分相当きつい そういうのは自分を一端整理してないとこだわりなく目指す事が難しいようなのだけど
目指す段階で整理可能なほど自分が整っているという事はあんまり無さそうに思うので
バースト寸前でごまかしごまかし、っていう成長経路を辿る事になるのかなと思う
リセットが利くタイプと泥臭くもタフなタイプがありそうに思うけれども
どちらだろうと表面的な見え方とか表現の仕方がそうなるというくらいの違いしかなさそうな気もする
しかしリア充道はどれだけ自分が享楽的かつ精力的であり続けられるかという事だろうと思うので
精神的なメンテナンスが必要になるんだろう
俺なんか友達も何も存在しない状態で既に>>414に触れたような映画鑑賞法が必要になったくらいなので
リア充道で求められる体力気力は恐らく桁違いのものであるはずだけど
そういう類の定期メンテナンスを必要としないリア充というのは
やっぱり体力がものをいうって事になるのか サタニスムの儀式理念は大体そういうところにあるらしい
社会生活での甚大なストレスのリリースという事
ケイオスの理論もそういうところがある
禅とか正座もそういう要素からメジャーになってるところがある 喚起魔術がしてみたいんだけども
祭壇も道具もないので当分は難しい
死霊情報では喚起魔術に向いてるらしいとの事だった
易では死霊術に向いているという事だったし
いわゆる黒魔術系を伸ばしていくのが気質に適うって事なのか
護符魔術も覚えとくと良いのだそうな
こんな事をいうと何か霊能者みたいだけれども
俺は霊能者ではないし
霊能者は死霊術師などと自称しないだろうと思う
霊能者には霊の区別がつくけど
俺はよく分からない どんな護符が良いのかと尋ねると
龍が身体を巻いて守っているような映像を見せてくれた
立体だったので図案でないのは分かったけれども
護符の図案自体は不明のままだった
護身用みたいなのが良いんだろうという事は分かった 女神が御幣を振って波を操ったりしていた
元気かと聞いたらあんまりと言っていた
実際元気が無さそうだったので
どうしたものかと思った
天狗が訪ねてきた事もあった
やっぱり威儀があって、三人連れだった
あと時々沢山の行列が訪れる事もある
じっと見ているだけでも結構疲れた
十二神将みたいな恰好の二人連れを見たのが最初頃で
大体は小さい形で現れる事が多い
死霊術とか魔術を始めてからだと思う 遊びに来たついでに皿仕上げwwwwwwwwwwwwwwwwww
自分は恐い人には基本、近寄らないようにしているので
西尾維新を読んでいて水没ピアノ的に自己同一視する事はとても出来ないのだけど
何であのキャラクター達がおっかない人達、哀川潤とか戦場ヶ原ひたぎとかとの関わりを積極的に深めるか
っていうのは読んでいてよく分かるしそれが想像できてしまうという感想を持ってる
そういう風に踏み抜いた世界と読んでいるこちらの側とを地続きにしてしまうという事だけれど
考えてみればアンチミステリっていうのはミステリをナンセンスと捉えてそこに「現実」を突き付ける作法という事みたいだし
もしかしたらミステリていう論理系の整備作法を用いる事でそれだけ巧緻な起爆装置を拵える事が可能になるというのがアンチミステリなのかもしれないけれども
ミステリに詳しくないのでしっかりとは分からない
セカイ系という事についても読み手が拠って立つ意識と現実を近づけるという事でいうなら
異なるものと自分が地続きである事を示唆する形式と取る事が出来る
要はイマジンブレーカーなのだけどそれを端的な現実の直視ではなくて幻想から出発する事でそれを遂げている事になる
そうやってメタフィクション的なものとの近似値をフィクションによって提示していく
単に「現実」というのではなくて多層的な方法論に則ってイマジンブレーカーが手法を希薄化させて
それによってメタ的なものとの近似値が追究されていくという風になっていると思う
オカルトでいえばセトの寺院のblack frameの希薄化と似た流れで、構成要素のあらゆる側面は希薄化が可能だという考え方になる
キャラクターをイマジナリーコンパニオン、想像上の友達とすれば
それがゆっくりと現実に近づいていくという感じ
タイラー・ダーデンが幻想と現実の両方を語るような流れ
端的な現実を突き付けるという仕方がイマジンブレーカーの右ストレートだとすれば
上記の仕方はイマジンブレーカーが悪魔の実の能力者的に自分の能力を発達させるような感じ
イマジンブレーカーは幻想殺しだけれども行動はむしろ他者への想像を促す事を目的にしている事が多そうに思うので
実は単純な現実の突き付けではなさそうなように思う countdown USAを見ていたら番組中の保険のCMで女優さんが物凄く怒っているように見えて
何で怒っているんだろうと一瞬思ってたら女優さんが
「おめー、先週も今週も清盛見てねーべ?
剣客商売も見なかったべ?」
て言っているように思えて、ふと気が付いたら女優さんは普通に笑顔に戻ったように思えた
そういうささやかな妄想、というか幻覚に近い妄想もある
何かもう大紅蓮を身にまとっているかの如くに見えたので驚いた 今日の死霊との対話、一部
―何か知っておくべき事は
「お山が駄目になった」
―「駄目になった」とは
「小さくなった」
場所を聞いて地元の山を特定。古い天狗信仰のあった山で勝軍地蔵が祀られてる
―どうしてそうなったのか教えてくれないか
「天狗が沢山来た」
―それは日本の?
「外国の」
―中国とか?
「違う」
―西洋の?
「そう」
―西洋に天狗が居るのか
「一杯居るよ」
―原因とか聞いても良いか
「知らなくて良い。すぐ直るよ」