一羽目「怠け者の天国で焼いたガチョウが口の前まで飛んで来て愚か者は『でか過ぎて口に入らない』と苦情を言った」
二羽目「曾曾祖母は死んで曾祖母は死んで祖母は死んで母は死んだけどもし曾曾祖母は死ななければ今も生きているだろう」
三羽目「一人の女と話すと一度騙され二人では二度三人では三度騙される」
職人は二羽目まで褒めて三羽目に怒ったけれど森の館へ戻ると婚約者が皆老婆になっていて街へ逃げ帰った
鳥の話題は上から順に、地上人に対する永遠の生、生命の継がれ方つまり『輪廻』、いわゆるマーヤー、運命、時間についてというのが自分なりに納得出来る解釈になる
こういう具合に、死生観としては種族的に、或いは家系的に継がれるものという見方が存したのではないかと考える
「生命」というのはそもそも曲者で、恐らく概念としてある場合には使命や役目というような要素を持っていたのではないかと思う
より以前、大昔には単に「生きる事」が生命であったので他の生物と人間は生命観においてさして差別する必要が無く
ある程度の性質や行状や個性によって動物にも人間にも、稀には神にも生まれ変わるし逆も然りという風に見なされた
その内に文明が発達して人間社会以外の場における「生命」と人間の「生命」が皆無では無いにせよ没交渉と見なし得る度合いが強くなり
「輪廻」観が人間社会の内に閉鎖的なものとして捉えられていくようになっていく
さらに、今のようにラディカルな前世、来世が考えられる以前には上の二羽目の例で見られたように
生命は単に「系譜によって継がれるもの」として考えられる形が主流だったのではないかとも思われる