>>169
様々なクリエイターやアーティストがあってDIRがあるのは確かだね。
でも、その人たちもDIRから受け取ったものを形にしてる。
そう言う意味ではDIRの世界観って言うものは、目に見えるもの以外の何かが
確かにあるんだと思うし、
みんなそれを感じているんだと思う。
本当は見えない世界の相似形として目に見える形にしてくれてる人たちの存在も忘れてはいけないね。
でも、たまに個人的に作り出された形の中に違和感を感じる時があるんだよね。
これは本当にDIRの世界観なのかなって、
ま、自分がズレてるのかもしれないけど。
言わば、最終的に世界観を構築してるのはそれらに触れる自分たちなんと思う。
だから見えてる世界観もきっとそれぞれ違うのだろうね。
なのに、京は自分のイメージしたものが答えだと固定化し過ぎているのはある。
例えるなら、腕から先がない石像の腕先に自分と一寸も狂いなく等しいイメージを求めてる見たいなもんだと思う。
日常の単に単純な言葉一つでも、その人の感性・環境・過去の記憶によって微妙なイメージのズレが生じてるんじゃないかって思う。
そんな風に、ただでさえ微妙なズレが積み重りすれ違いを誤魔化して生きる中で、
音楽や芸術という曖昧な表現を受け取る側として、
ズレていれば間違っていて
伝える人間と同一の世界観が正しいのか、って言うとそうでもないと思う。
人が感じる世界観は、結局は自分のイメージしたものでしかないんじゃないかと思うんだよね。