【俳句】プレバトのお題で一句詠みましょう 10
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
住人同士の批評は名無しである限りアマチュア同士の感想だと思い、感情的にならないようにしましょう
玄人を自負して批評される方はコテ(+トリップ)で特定されない程度で経歴や入賞歴をつける事をオススメします
お題をキャプチャーしてくださる方募集中です。 >>271
期待してないけど、
じゃあ、どういう問題? >>272
鷹俳句会という句会の中では、いい句だったの?
自分は”常に”という言葉は映像化しずらいと思うのだけど。 なんだ、お師匠様に連絡されると困るって程度のなんだ W 俳句で通常使う古語文語はそこまで難しくないのであまり神経質にならずに
楽しんで作っていったほうが良いと思いますよ。
繰り返しますが間違えたら直せば良いだけ。
>>293新緑の此処であなたとシューズ履く
悪くないと思います。
新緑や此処であなたと履くシューズ
と整えたらさらに安定すると思います。
新緑や空を頂く姫路城 >>290
ありがとうございます。
動詞 + けり、という型があるなら、
動詞で終わるのも在りかと思うのですが。
やはり安定の問題何ですかね。 >>291
セオリー(安全策とか基本とか言い換えても可)は名詞止めですが
履くことに焦点を当てたいなら動詞で止めて良いと思います。
十七音しかないので切れ字、名詞止めが良い俳句に有効、という意味での単純な言い換えなのでもっと良い方法があるかと思います。
新緑の此処であなたとシューズ履く (途中切れなし動詞で終わることで散文的)
新緑や此処であなたと履くシューズ(やで切る、名詞止めでシューズが映像)
の違いです。
でも、後者だと此処はどこかという分かりにくさが生まれてくるのでこの句は前者が良いかもしれませんね。
決して悪くないとは思うのですが此処、あなたという言葉は映像が乏しく直せると思います。 >>292
ID変わってますが、191です。
ありがとうございます。
もともと元句作者ではないのですが、
なるべく口語調(普段つかっていることば)で構成したいと思いました。
”新緑や”の口語調の言い換えで”新緑の此処で”を捻りました。
新緑の此処で靴履く私達
ちょっと無理っぽいですかね。w
あるいは、口語調をあきらめて、
新緑の此処で履きけり私達
切れ字って便利ですね。w 色々ありがとうございます
新緑や常にあなたと履くシューズ の作者です
かつて両親が健康のために
ウォーキングシューズをお揃いで買いました
二人でウォーキングに出かける時は
いつもこの靴を履いていました
すでに父は限りとなりましたが
その父の靴はまだ我が家に残っています
この靴を母の気持ちで詠んだ句です
履いたと過去形にしなかった意図は
お分かりいただけると思います
私の句意はまさに
常にあなたと履くシューズ なのですが
なかなか伝わらなかったようです >>294
コメントありがとうございます。
この場合、やはり”常に”は私のような第三者には情景が
よみにくいかなと思いました。
新緑や常に他人と掛ける椅子
が頭にあったのでしょうか?
そうであるなら、やはり”常に”が分かるのかどうかが
ポイントになるのだと思います。
上句は句会で選ばれた句なのですか?
上句の講評も聞きたいところです。
新緑や今もあなたと履くシューズ
ですと、ある一時点を表している
ことになると思います。 >>294コメントありがとうございます。>>297さんの添削良いですね。
過去形を使うなら
新緑やあなたと履いたこのシューズ
なども良いかと思いました。 >>293新緑の此処で靴履く私達 は良いと思います。
下5を手直ししたくなるけれど、この言葉がのびのびしていると思います。
新緑の此処で履きけり私達
「けり」の切れは最強に強いので句の最後が良いです。
靴という言葉がないとズボンや肌着のようにも読めるので上の句が良いと思います。 気持ちはまさに「常にあなたと履くシューズ」だ、って言うんなら、できるだけいじらないほうがいいだろ。
「新緑」って言葉にもそれなりに必然性感じてるみたいだし、それもそのままで。
新緑や いまもあなたと履くシューズ
としたらご不満ですか?あ?
「常に」で引っかかる人の気持ちも分かるし。あと、まだ死んでなかったり、或いは死んだことを全く意識してないなら「常に」を使った元の句でもまぁいいだろうけど、
あくまでそれは重々分かった上で生前の頃のことをありありと思い返してるわけだから、
元の句じゃそれが表現できてないんだよ。
まぁ、「いまも」でも死んでることまでは突き止められないけど、原形を最大限活かすなら、これじゃない? 全く同じ添削でかぶってた。
「今も」より、ひらがなのほうが良いと思うけどね。個人的には。 >>298
む、これいいなぁ
今、おいらが考え中のに似てる
考え中なのは
新緑、陰、光のイメージ
木陰って言葉入れて作ったけど木陰って夏の季語なんで振り出しに戻った >>305
新緑や縊死なる暝き手足あり
”くらい”と読む漢字は結構たくさんある。
304のイメージでもいろいろ表現できると思う。
新緑や彼方に昏き影二人
一人とすると、最初の句よりこわい。 >>307
304が”木陰”が夏の季語と書いたばかりじゃあないか。季重なり。
>>303
相変わらず、おもしろいな。
”ばか”とか”しね”が一文字の”あ?”に変わっただけでも
少しの進歩だ。おい。
俺の添削をなぞれるようになったとは大したもんだ。やい。
自分はシンプル、普通が好きなので”今も”にしたが、
元句作者は”常に”に意味を込めているようなので、
”いまも”もありだと思う。 普通、とは??????
事務仕事の文面じゃねえんだから、普通なんかねえだろ。当たり前のように何口走ってんだ。
この程度のことも分かってないとはね…。身に染みて理解するために性根を入れ替えてから戻ってきなさい。 >>308
あと、やいとかおいとか、なんなの?「俺の添削をやれるようになったとは大したもんだ」??
身の程を。 >>310
よく読め
俺の添削を”なぞれる”ようにだ。
堂々と真似しただろ W
あんまりいじっちゃ可哀そうなので。
この辺で。 こないだの仕返しをしたくてここぞとばかりにやってんのかこれ
この大単芝爺ほんと気狂いだから見つけ次第殺しとかないとな >>314
今回もNGを入れて去っていくのね。w
ご機嫌よう。
また来てね。 自演なのか二重人格なのか
ちょっとおかしいよ。
>>314 >>315 >>317
そのおじいさんを気にしないほうがいいよ。深淵に呑み込まれる。 たわむれに「鴨の子」詠めば時を経ず
十四、五ばかり咲き誇る花
テメエらの駄句なんかを同じ俳句と呼ぶのすら躊躇われる。 意識としてあくまで本業は短歌だから鴨ね。
お前らと違って多才だから。 あ、もしかして、
鴨の子ってお題で俳句作ってみたらあっという間に良いのが十四、五句も出来たことをそのままさらっと軽く詠ってる短歌だ、
ってことがここの人たちには伝わってないのか。
単に「鴨の子」ってお題で短歌を詠んで書き込んでしまった人だと思ってるのかな?w
そりゃあ馬鹿と罵りたくもなるかもね。
ディスコミュニケーション怖いこわいw >>343
それなら、その十四、五の俳句をどうぞ。 滔々と流るる水に足浸す鴨の子一羽こちらを見たり
340ですが初めて短歌作ってみました。 鴨の子を吹く風止まぬ暮るる日の哀しき心哀しきままに >>326
鴨家族、でよくない?ひらがなにした意味がわからない。一字空けすればいいだけなのに。
鼻からふざけて書いたのかもしれないし、おどけ調子の本気で書いたのかもしれないけど、発想は割とまとも。まだもうひと深みほしいけどね。表現か要素に。 >>327
着眼点は73点。調理の仕方がやや凡庸に堕する。もうちょっと、感じたことに没入してみて。水中息止め我慢比べみたいなもんだけど、頑張って。
そうすれば捉えるべき太い筋が見えてくる。
見えないならそれで終わり >>340
まぁ分かるけどね。
平明で簡素な侘びってのもあると言えば言えるだろうけど、まだその真似事に過ぎない感じは否めないかなぁ。出汁が弱い感じ?
それこそ、そういうのやりたいならもっと水鳥のように足掻いてからやるべき。下手したら児戯同然になる。 >>346
340といい、割と悪くないよ。
ただ、やや散文的。まだ57577の切れ味に慣れてないね。
というか、少なくとも340の俳句も、散文的なフレーズ感はあるんだけどね。
自分の頭で用意した言葉をいかに、例えば57577なり575なりに、組み込んでいくかじゃなく、
その定型の流れの中で定型の恵みによっていかに言葉がプロデュースされて行くか(自分で用意した言葉もそうでない珍客な言葉も含めて)、
そういうのを中心に据えて大事にした詠み方を出来るようになれば、
たぶん詩に愛されるようになるね。 >>347
これもそう。まさにそう。いま書いたレスをこれに対してももう一度言いたい。まさにそう。本当に。 >>348
これもだね。
今朝の俺はめちゃくちゃ良いこと言ってんな。 >>338たわむれに「鴨の子」詠めば時を経ず
十四、五ばかり咲き誇る花
まず鴨の子の歌でなくこれは花の歌。
スレの趣旨に反する短歌である上に鴨の子を歌っていない。
作者の本意を読んでさらに減点。自句を賛美したいのなら暗喩するより
そう描いたほうが嫌味がない。自画自賛の歌として詠むならば「時を経ず」「誇る」が
露悪的でマイナスとして働いてしまっている。
>>354
>>340の作者ですがこの句を評価として
「出汁が弱い感じ? それこそ、そういうのやりたいならもっと水鳥のように足掻いてからやるべき。下手したら児戯同然になる。」
では感想以下。日本語として美しくなく意味が茫洋として句評になっていない。
プレバトで東国原の成長が著しいのは的確な句評ができるから。
散文だからいけないのでなく、散文にする必要があったから散文にしていることも考えなくてはいけない。
自分が他者の句としてこの句を評価鑑賞したら全く別のことを書きますね。
句評ができない人は作るほうも伸びません。まずは謙虚に鑑賞の勉強からはじめてください。
>>346〜>>348
初めての短歌です。俳句しか作ったことがないのですが>>342のレスとして即興で作りました。
>>338の短歌を良いと思えなかったからです。
短歌暦1日ですが自分を多才とは露ほども思いません。 あはは…
庶民にとっての芸術品()としてではなく、折にふれて普段づかいの挨拶や問答のように短歌や俳句を用いることができるように、
あなたもなるといいねー。 基礎の学びを怠らない人こそふとした日常の句が洗練されるもの。
観念的抽象的な評価の体の感想をだらだらと述べているだけでは
数を作っても年季を経ても締まりのない句や歌しかできません。
ピカソが一筆で描いた絵が素晴らしいのは気の遠くなるような歳月の基礎があるからこそ。
切れ字や型などの基本を敬意をもって学ばなければ
散文の句は詠めないし読みとれないのです。 ま昼間の俳句談義や鴨のクェ
>>351
自己満足で精いっぱいで、
人様にお見せできるようなものは出来ませんでした。
と、素直に言うこと。
プロなら特にね。w
>>361
”割と悪くないよ”で十分でないの?
初めて作ったんだし。
相手は自分が作るで精いっぱいみたいなので。w そういや、今日のプレバトのお題は「新緑の高尾山」でしたね。
新緑の手を繋ぎたし放れをり たわむれに「鴨の子」詠めば時を経ず
十四、五ばかり咲き誇る花
うまいなあと思ってプロの歌かとおもって
ネット検索していたら何処かの句集の羅列短歌でした。 >>365
ってことは、338のオリジナルではないの? >>365
悔しさに耐えかねてついにテキトーなデマ流して始めたか。
ここ俳句スレだから正岡子規の句のオマージュも重ねてるのは確かだけど、それだけでしょ。 戯れに母を背負いてそのあまり
軽きに泣きて三歩歩まず −−石川啄木
鶏頭の十四五本もありぬべし −−正岡子規
まあ、前半、後半部分ともオマージュやね。w ………ww
正岡子規のその句は基本教養だからわざわざ言及するまでもなく気付いててほしかったけど、まさか誰も知らなかったとはね。さすがだわ、このスレ。
そして石川啄木のその歌までオマージュだとか思うのは、かなり物を知らない証拠だわ。さすがだわ。ラララ〜って歌ってたらヘイジュードのパクリ!って喚きだすビートルズしか知らないニワカ音楽好き()と同じ。そんな奴がいるとすればの話だけど。いないだろうけど。
知識が貧弱だとこういうことよく起きるよね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています