MOSES LAKE - A C-32A — the military version of the Boeing 757 — with the tail number 80001 taking off from the Grant County International Airport during a series of touch-and-go take-off and landings Monday afternoon. The plane is one of four C-32As used as Air Force Two to transport the Vice President, First Lady and Secretary of State. Officials with the Port of Moses Lake would not comment on the plane’s presence in Moses Lake. 0030名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/17(日) 07:29:20.82ID:5BW1NNLW ところで、安倍元首相は岸信介の孫で、岸信介といえば、いわゆる満州人脈 の代表格だが、奇しくも、中国資本Joyson+米国資本Key Safetyによる タカタ資産の買収劇にも満州人脈が一枚噛んでいる。
>Luo: Taking new job in China for personal reasons.
August 23, 2017 01:00 AM Key Safety CEO resigns as final Takata deal looms
Luo served as a X-factor in the bid to win Takata, according to Crain’s Detroit Business, an affiliate of Automotive News. Luo's family hails from Manchuria, a region in northeast China controlled by the Japanese until the end of World War II. His father spoke Japanese and worked on the Japan-owned South Manchuria Railway. 0031名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/17(日) 11:00:03.64ID:5BW1NNLW 人々は、公共性の維持と支配の関係についてつねに誤った捉え方を する(ように絶えず誘導されている)。だから、共産主義を理念と する支配と市場主義を理念とする支配をあたかも対立するもの であるかのように錯覚してしまうのだ。統治のために掲げられる 理念がどのようなものであれ、支配は、公共性を私物化によって 廃棄することによってではなく、その運用管理において絶えず 有利な立場を保ちつづけることができるように公共性を維持する ことによって成立する。 0032名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/17(日) 11:07:09.09ID:5BW1NNLW 言い換えるなら、自らが有利に運用管理することのできる公共性を維持する ように人々につねに貢献させることができなくなれば、支配は崩壊する。 0033名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/18(月) 07:34:59.21ID:VZhPBz5O モノゴトを原理的に考えようとしないということは、 いつでも目の前に意図的にぶら下げられた餌につられ、 立派な服を着せられただけの案山子に怯えるということだ 0034名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/18(月) 09:32:29.76ID:fBgnzrJB >眠れ早く 誤解してたかもしれない。 これはおまいの切実な願いだともとれる。 誰に向けてか?俺とは限らない。 誰でもいい、聞いてくれ、この願いを・・・・・・ だが、ここでは誰も聞いてくれないだろう。 聞いたふりなら、あるいはするかも知れない。 だが、信用するな。そいつにとって、おまいは何だというのか。 聞いてくださるのは、運命を司る存在に違いない。 そのお方に願うといい。 その願いは聞かれるだろう。だが、そのことを知ることはおまい次第だ。 0035名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/18(月) 13:47:56.26ID:VZhPBz5O 市場主義において維持されるべき公共性の最たるものが市場で一般に通用 する通貨であり、それが通用する市場そのものである。「富の独占」という ことがよく言われるが、自分だけ独占的にいくら金持ちになったところで、 自分がすべての通貨価値(当然、負の通貨価値である負債も含む)を私物化 してしまい、他の誰も通貨を利用しなくなれば、金持ちになることの 意味も消滅することは明らかだろう。そこで、現在、協力に推進されて いる「キャッシュレス社会」となどのようなものなのか、何をどのように 推進しているのかをよく考えてみることだ。 0036名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/18(月) 13:48:29.86ID:VZhPBz5O 協力に推進× 強力に推進〇 0037名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/21(木) 08:19:35.81ID:SF9f8UmP 公共性の維持強化とは、即ち、公共性を通じた支配の維持強化である。 それ故、公共性と支配の関係を原理的に考えるなら、人は他の何人にも 支配されることなく平等であるべきであるとする平等主義の理念と 公共性により大きく貢献することこそが人として正しい、高く評価 されるべき振舞いであるとする道徳/倫理は、本来的に矛盾する。 そして、その矛盾が原理的に生じること自体を各々に否認させる ようにダブルバインドによって、倦むことなく絶えず繰り返し 導こうとするのが支配のイデオロギーとしての思想である。 0038名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/21(木) 09:15:30.09ID:SF9f8UmP 支配関係において人事的に自らを高く評価してもらえるように積極的に ダブルバインドの誘導に協力する、あるいは誘導する役割を自らが 買って出るというのは、ごく普通に見られる一般的な態度だが、 そうではなくただ誘導に従うだけの立場で、わざわざ自分から 誘導してもらいたいと願うのは、かなり狂っている。 0039名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/22(金) 07:39:51.90ID:6yYCJwVX 支配は、公共性を通じて維持強化されるのだから、大半の人々が公共性の 推進に自ら進んで積極的に協力しようとするなら、人々を支配する関係性も 自ずと全体主義的な傾向を強めることになる。これは、たまたま生じる といったような現象ではなく、理の当然である。 0040名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/22(金) 07:41:08.17ID:cyGmwCV8 公共の敵とは誰のことか。 0041名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/22(金) 07:49:46.15ID:cyGmwCV8 漱石の考察は、哲学的に見れば、ようやくその入口に立った程度のもので、 示される認識も極めて浅いものに過ぎないが、少なくともその入口に立つ ことを可能にする初歩的な認識を示してはいる。
例えば、ゲーテの"Dichtung und Wahrheit"からの次の表現を参照してみる といい。 >Seitdem jenes leidenschaftliche Mädchen meine Lippen verwünscht und geheiligt (denn jede Weihe enthält ja beides), hatte ich mich, abergläubisch genug, in acht genommen, irgend ein Mädchen zu küssen, weil ich solches auf eine unerhörte geistige Weise zu beschädigen fürchtete.<
Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden. Band 9, Hamburg 1948 ff, S. 449-503. 0055名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/18(木) 11:34:30.28ID:UwI1KSrF >あの情熱的な少女が私の唇を呪い、聖(きよ)めて(お祓いというものは すべて二つの面をそなえている)以来、私はひどく迷信的になり、重大な 精神的害をあたえることを恐れて、誰であれ少女にキスをするのを 用心してきた。< ゲーテ、『詩と真実 第三部』、p.19
ここで、ドイツ語の原文における"verwünscht und geheiligt"が、 「呪い、聖(きよ)めて」と訳され、それがここでは「お祓い」 と訳される"Weihe"の二面性であるとされるわけだが、この 「お祓い」/"Weihe"(カトリックの用語では「聖別」、英語では、 "consecration")が、日本語の「いは(祝)ひ」/「いは(斎)ひ」に 相当し、"verwünscht und geheiligt"が呪詛を唱えること、 つまり、「のろ(呪)ふ」ことと、祝詞を唱えること、つまり、 「の(祝)る」ことにそのまま対応しているのを見てとることは 容易だろう。 0056名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/18(木) 11:50:39.24ID:UwI1KSrF ここで「二面性」とされている反転可能性/《chiasme》は、二つの方向性を ひとつにまとめて組にしたものなどではなく、「いは(祝)ふ」ことがすなはち、 「いは(斎)ふ」(「忌み慎む」ことを伴う)ことになり、まつ(祭/奉/祀)る ように「の(祝)る」ことがすなはち、「のろ(呪)ふ」ことになることを 示している。
いくら「な(萎)え」から回復するように「まが(禍)」を「なほ(直)」 しても、「まが(禍)」が反転可能性として潜んでいなければ、 「なほ(直)る」こと自体あり得ず、また逆に、「まが(禍)」に、 それが反転して「なほ(直)る」可能性がないのであれば、 「まが(禍)」自体も存在し得ないと言うこともできるだろう。 0069名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/19(金) 22:31:09.35ID:5x8/pwmC >「定かに思ひ弁(わきまへ)ねども、禍福は糾(アザナヘ)る纏(ナワ)の 如し。人の命は天に係れり」※読本・南総里見八犬伝(1814‐42)二 (出典:コトバンク、精選版 日本国語大辞典) という感覚は、ディドロの『運命論者ジャックとその主人』にもとても よく表現されている。「運命論者」と聞くとなにか、物事の成り行きに ついてあらかじめどのようにか決定されていることそ知っていると 確信している「決定論者」を想像するが、「ジャック」はそのような 人物ではない。そうではなく、現状で表れている吉凶禍福がどうであれ、 いつでもつねにそれが反転する可能性がそこに潜んでいることを はっきりと自覚している人物である。 0070名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/20(土) 10:13:56.83ID:vqOYrm8e 運命論者とは、できることをつねに快く受け入れる者(《celui qui accepte tout le temps volontiers ce qui est à venir》)のことである。 0071名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/20(土) 10:35:43.83ID:vqOYrm8e 日本語において「〜ふ」が働かせるような反転作用に対応するような 関係性は、フランス語の表現においてもその例を見ることができる。 例えば、「しの(凌)ぐ」と「しの(忍)ぶ」の関係に関連して考えて みると、《soumettre》と《se soumettre (à 〜)》がちょうど そのような互いに反転する関係にあることが分かる。ところが、 フランス語では、これをただちに、「動詞の作用を自己に働かせる表現」 であるものと解釈して、作用を働かせる自己の存在を前提として しまうのである。しかし、この反転可能性は、自己が現出する ための要件であり、まず自己が存在してそれに対して反転が生じる と考えることは錯誤である。にもかかわらず、西洋の哲学の自己に 関する議論は、そのように自己の存在を前提としたうえで、 どのようにして自己が現出し得るのかをうまく記述しようと もがきつづける傾向が強い。日本語で哲学をしようとする者は、 その枠組みがもたらす困難を理解しようとする必要はあるにしても、 その枠組みにいつまでも囚われてみせる必要はないはずである。 0072名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/22(月) 15:25:05.96ID:5i6SVt+K 次もゲーテの『詩と真実』からの引用である。 >Der Mensch mag seine höhere Bestimmung auf Erden oder im Himmel, in der Gegenwart oder in der Zukunft suchen, so bleibt er deshalb doch innerlich einem ewigen Schwanken, von außen einer immer störenden Einwirkung ausgesetzt, bis er ein für allemal den Entschluß faßt, zu erklären, das Rechte sei das, was ihm gemäß ist.< Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden. Band 9, Hamburg 1948 ff, S. 449-503.
ここにおいてもやはり、西洋の思想や哲学は、自己の存在を前提とした 解釈に囚われてしまう傾向が強い。すると、ここにおける»ein für allemal« ("once and for all")は、運を快く受け入れようとする運命論者としての 決意から、何らかの定めを己にふさはしいものと信じ込み、何があろうと 決してその信念を曲げようとしない妄信的な決定論者の頑なな姿勢に 変わってしまう。 0073名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/22(月) 15:58:19.97ID:5i6SVt+K 「のり」にあ(合)ふことにおいてみづから(身づ柄/自ら)がある、すなはち、 おのれ(己)の具体性(「からだ(躯)」を具えた性質)が現出するのであって、 自律性とは、あらかじめ存在するものとされる自己をどのようにか 律する(《maîtriser》)ことではない。自己の存在を前提として、 「のり」にみづから(身づ柄/自ら)を合はせようとすることに おいて現れる《maîtrise》は、自己の「抑制」であり、みづから (身づ柄/自ら)が「のり」であろうとする(《La loi, c'est moi 》) ことにおいて表れる《maîtrise》は、他者の「支配」である。 いずれの場合にも、キアスムにおいて反転可能であるはずの 「のり」がその一面性に固定されることによって、自律性は 見失われることになる。 0074名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/23(火) 09:13:53.90ID:W8XvBY8R >「人は神の似姿である」と言われるが、日本語において「かみ(神)」は、 「かがみ(鑑)」を意味する(和語の「かがみ」自体は、「光の像を観るもの」 を意味する)「鑒(Middle Chinese:/kˠamH/)」の流用であり<
通貨経済を基盤として成立する社会においては、政府であれ、 企業であれ、統治権力を行使する側は、デフォルトで、 お金に対して自由落下状態にあり、地球を周回するスペース・シャトル のように地表に対して回りつづけることで墜落、つまり、 この場合には、統治の崩壊を回避している。政府や企業には、 金をつかはないという選択肢はないので、地表に対して回り つづけることができなくなれば、金に溺れることになる。 どれほど酔っぱらっても酒をのみつづけるしかなく、さもなければ 酒にのまれてしまうことになるアルコール中毒患者のようなものだ。 0080名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/24(水) 09:38:49.42ID:8Igqiefx 勘違いしてはいけない。そのような通貨を基盤とする統治権力が、 金が自由になる人を優遇するように振る舞ふなどということは、 そのように見せかける演出として以外ではあり得ない。そのような 統治体制にとって、金が自由になる人は、そうであること自体において、 自由落下をつづけながらも墜落しないように周回をつづける運動の 波に便乗するフリー・ライダーである。人以外の動植物などの、 そもそも金から自由な存在は、利用できる限りにおいて、実力行使 による支配の対象であるが、金が自由になる存在は、波にのみ込まれて 金に溺れ、自由落下に巻き込まれるようにする必要のあるターゲットである。 0081名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/24(水) 11:51:06.42ID:P5ZJR0au 8月にコオロギが鳴いていた。 秋というにはまだ早いというのに。 イガイガ栗の実も落ちていた。 クラゲがゆらゆら泳いでもいた。 あの栗、バフンウニににてんなぁ、バフンウニを 吊るしておいても見分けつかんだろう。 犬の散歩の独り言。 0082名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/25(木) 08:56:25.29ID:PqoCXlXO 自由に考えようとする者にとって教養と経験はつねに不足している。 しかし、そのことは、自由に考えることの妨げとはならない。 なぜなら、その不足を感じていないならば、自由に考えることはできないからである。 0083名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/25(木) 10:38:31.94ID:PqoCXlXO >Die Hoffnung, immer vernünftiger zu werden, uns von den äußeren Dingen, ja von uns selbst immer unabhängiger zu machen, konnten wir nicht aufgeben. Das Wort Freiheit klingt so schön, daß man es nicht entbehren könnte, und wenn es einen Irrtum bezeichnete.<
「おつか(仕/使)へさせて『いただく』ことができる」ことに関係なく、 「自らの意志によって善いことをした/しようとしている」なら、むしろ、 組織的に嫌がらせされ、妨害され、不利益を被り、嫌な思いをしなければ ならないことになるのは当然である。それは、直接に善いことをして あげた相手にはとても感謝されたとしてもである。なぜなら、 その善行はそのまま、それが明示されたものであれ、暗黙のものであれ、 組織的な「慈善事業(善を恩恵として施す事業)」の運営に対する妨害活動と なるからだ。したがって、「余計なことばかりしやがって」という反応 を引き起こし、それに応じた対処が行われるだけでなく、今後そのような ことをする気が起きなくなるようにするために未然の対策も講じられる。 0090名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/26(金) 10:21:11.53ID:77aAPRJa "do-good‧er"という表現がある。 ロングマン現代英英辞典では、次のように説明されている。 >someone who helps people who are in bad situations, but who is annoying because their help is not needed – used to show disapproval<
「ノモス」は、「牧草地」という意味で用いられるのだから、それを 日本語として「まき(任/牧)ば(場)」(英語では、"concession")と 言い換えたとしても、何の異論もないだろう。では、「まき・ば(場)」 の「まき」とは、どのようなことだろうか。 0098名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/28(日) 09:30:21.59ID:3nVHs9Bj 万葉集の歌を詠んでいると、「まけのまにまに」という表現によく出会う。 「まけのまにまに」とは、無論、「ま(任)けのまにまに」であり、 現代の日本語にすれば、「任(まか)せられるままに」ということになる。 このことから、馬などの家畜を放牧する場曾である「まきば」の 「まき」も、「牧」という漢字が当て字として用いられているものの、 「ま(任)き」であることが分かり、このことは、「ま(任)きば(場)」が、 英語の"a concession"に対応することからも確認できる。 >a grant of land or property especially by a government in return for services or for a particular use >a right to undertake and profit by a specified activity >a lease of a portion of premises for a particular purpose also : the portion leased or the activities carried on (出典:MERRIAM-WEBSTER DICTIONARY) 0099名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/28(日) 09:55:04.56ID:3nVHs9Bj したがって、「ま(任/牧)きば(場)」としての「ノモス」は、家畜が 自由に移動すること、つまり、家畜を放牧することができる場所/ "a place at liberty"であると言うことができる。では、「配分する」 を意味する用法に由来するとされる、「『法』という意味での 『ノモス』」の方はどうだろうか。こちらの方も、馴染みのない 古典ギリシア語ではなく、母語とする日本語や、より慣れ親しんだ 英語をメタ言語として用いて考えてみるなら、それがどのような 表現として用いられたのか、容易に類推することができる。
>concession noun (SOMETHING ALLOWED) something that is allowed or given up, often in order to end a disagreement, or the act of allowing or giving this< (出典:Cambridge Dictionary)