祝福された罪とは何か、祝福された呪いとは何か。
命をあたえられ生を生きている私は、その激動の中で生じた私にとっての暗黒の半身を抱えているが、悪が心の優勢を占めてしまわぬように、信仰による自己の正当化をではなく、行為による自己の正当化をつづけなければならない。
まさしくそれだ。

世界の現実、この世の悪と不条理に向き合い続ける限り、己自身に打ち克ち続けて動いていなければ、私は悪を糾弾しながらその同族と化しどんな非情なふるまいも恐れぬ悪鬼に堕ちるであろうから、
私にとって行動による「恩寵・愛」の証明は必要に駆られてであって紙の上の道徳論というわけではない。

それは私にすれば自己実現ではない、ただ放っておけば自分が陥ることがわかりきっている破滅的な結果にならないよう動こうとしているに過ぎない。
そのことが、世界の誰も得られなかった果実をもたらすというなら、それこそは祝福された呪いではないか。善悪と禍福は糾える縄の如しだ。

すべての人間が背理に耐えられるわけではない。エピキュリアンの生と理論は、辞書でしか神(とその表れ、世界史の混沌に見えるような怒りの顔)を知らない神学者より人間本性への深い理解と情けに満ちている。

あなたはそのことを理解するだろうか、と尋ねるのは愚問だと思っている。
理解しているから政治的な闘争からは身を引いて日々を送っているのだろう。
だから、できることなら、私が私の決断によって避けようのない傷を負ったとき、どれほど私を助けたいと思っても、あなたはこの渦中に飛び込まないでほしい。