なぜ私があなたの行動力に満ちた性質と結び合わされた自己抑制的な努力が素晴らしいと感じ、
反対にその魂の抑制に決定的に欠ける「彼」を男性としても職業人としても欠格者だと判断したか、
少しウェーバーの「職業としての政治」から引用して解説しようか。

(以下引用)

――実際、どんなに純粋に感じられた情熱であっても、単なる情熱だけでは充分でない。情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性の決定的な基準となったときに、初めて政治家をつくり出す。
そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な資質である――が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いてみることが必要である。
「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。
ドイツのインテリの卵たちの間でこうした傾向が育成されれば、彼らの将来は政治的無能力を宣告されたも同然である。実際、燃える情熱と冷静な判断力の二つを、どうしたら一つの魂の中でしっかりと結びつけることができるか、これこそが問題である。
政治は頭脳でおこなうもので、身体や精神のほかの部分でおこなうものではない。ではあるが、もし政治が軽薄な知的遊戯でなく、人間として真剣な行為としてあるべきなら、政治への献身は情熱からのみ生まれ、情熱によってのみ培われる。
しかし、距離への習熟――あらゆる意味での――がなければ、情熱的な政治家を特徴づけ、しかも彼を「不毛な興奮に酔った」政治的ディレッタントから区別する、あの強靭な魂の抑制も不可能となる。
政治的「人格」の「強靭さ」とは、何を措いてもこうした資質を所有することである。
だから政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。
この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離――この場合、自分自身に対する距離――に対する不倶戴天の敵である。

(以上引用終わり)