>>366
半島には倭人文化の象徴、前方後円墳がそこかしこに出土(彼の国はなかった事にしている模様)
支那の古典に有る様な倭の武王の「山川巡り平らぐる事56ヵ国・・・(文章には正確性が無い事を了承頂きたく。イメージで)は半島に於ける倭に依る小国併合の過程。大和としては半島は倭人の住地という意識。
その様な状況でも皇子を差し出し恭順してみたり、対大陸橋頭堡として、大和はこれ等を保護する事とした。
この間、国境を気にしないエベンキがドンドン南下。百済・新羅にドンドン入って住み着く訳である。
今の日本人と変わらず異民族の流入には鈍感で、例えは悪いが欧米の様に、異民族が街に入って来ると逃げ出すのは元の住民。
行先は大和。百済・新羅とも流入異民族に手を打たず、新羅は中枢を乗っ取られ百済は国力を落とし大和より領土を拝領し国勢の立て直しを図るも白村江の敗戦で亡国。ここで殆どの倭人が大和に亡命して来た。
大和での行先は、その頃拡大中だった東国へ植民させたのであり、狛江・高麗川などの地名に残っている訳である。
名前は半島ぽいが、半島の倭人=日本人が開いた村でありエベンキとは違うのである。