僕は金木犀の香りを嗅ぐと、ある記憶が蘇ります。
それは遡ること数十年前。

(中略)

その相撲教習所も卒業まで残りあとわずかとなったある日……
両国国技館から最寄り駅に帰ってきて、相撲部屋目指して歩いている時

どこからかピアノの旋律が聞こえてきました
曲目はショパンの「ノクターン」でした。

まだ完全に弾きこなせていなく、だいたい同じところで音が止まります。
そのたびに「だめだ……」とか「う〜ん……」という声が聞こえてきます。

声の感じは同年代の女の子でした。

そしてその家からは、金木犀の甘い香りがしてきます。
僕はその時、生まれて初めて芳香剤ではない金木犀の香りを嗅ぎました。

僕はそれからはそのピアノが聞こえてくる道を通るようになっていました。
そして、そこを通るたびにピアノの音色は着実に弾きこなせていきます音譜

徐々に弾きこなしていくピアノの音色
時折聞こえる女の子の声。
金木犀の香り。

毎年、金木犀の香りを嗅ぐとこの頃のことがセットで思い出します。
1度も顔を見たことの無い「木犀のひと」のことを……