1960年前後は農村の人口過剰と首都圏の工業発展により、東京への人口集中が著しかった。東京から首都機能を移転して東京の人口過密を防ぐ計画はあった。
地方農村に首都移転という巨大プロジェクトがスタートすれば、ゼネコン(土木事業会社)に大きな利益が転がり込み。その公共事業そのものが真の目的であった。
いくつもの首都移転計画は提案されたものの、どの計画も我田引水であった。土地の買い上げ経費や、他の候補地との調整の問題が解決できず、すぐに消えてしまった。

計画の具体例
1959年−東京湾新東京造成論(加納久朗住宅公団総裁)/東京湾の一部を埋め立て、そこに官公庁や皇居などを移転する。  
1959年−ネオン東京プラン(産業計画会議)/東京湾の埋め立て地には皇居は移転せず、工場・住宅・官公庁を移転する。
1959年−横浜遷都論(都留重人一橋大教授)/農地・台地の広がっていた横浜(当時)に、首都を移転する。
1960年−中央道遷都論(日本生産性本部郷司浩平)/富士山麓までの中央道e沿線に国会・官公庁を移転する。
1960年−「富士の都」建設案(磯村英一東京都立大教授)/富士山麓に国会を移転する。