1300年前頃、朝鮮半島にいた任那という国が、朝鮮半島の内乱で日本側に排除された。
この国は百済という朝鮮半島の国と同盟であった。そのため、百済も滅ぼされ
百済王は山口県に退去した(後に大内氏と名乗る)。
この任那は、奈良県に本拠を置く倭という弥生人達の国の出張先だったともいわれ、
多勢の百済人が、倭に亡命してきた。そしてこの人達がヤマト(山門、山戸)という奈良県のある場所で、
ヤマト王朝と名乗りだす。
当時、奈良人らは「わ」と自分を呼んでいたようで、遣隋使にいった際、
自ら朝貢に来る態度とこの音から倭という漢字がつけられた。
ヤマトの長と名乗った天皇家の先祖は、遣隋使で中国本土の隋からつけられた倭という漢字に大和という文字をふった。
これが大和郡山という場所で、現在の奈良県にある。この大和王朝の天皇家は、
その後、各地にいた日本人達を侵略し続けていく。各地で平和に暮らしていた先住日本人の王国や、
別の弥生人集落や王朝を、次々悉く破壊した。
その闘争は平安時代にかなり大規模となった。アテルイが率いた先住日本人軍は初戦勝利したが、
天皇軍が再度侵略して何とか虐殺した。
その後も、先住日本系だろう平将門や、弥生系渡来人だろう藤原純友が東西で同時に天皇の侵略を批判し
独立政権を奪還しようとしたが、天皇が虐殺した。
天皇はこの後、先住日本系だろう徳川が日本統治を完成させるまで、
ほとんど各地での日本の多民族独立を妨害しえなかった。