象徴的な存在と儀礼が政治に取り込まれてるのは、そこで行われる行為を通じて、見る側にとって共同意識を呼び起こすために行われる。
天皇は憲法によって国民統合の象徴として、また長年に渡り統治の正統性を付与してきことから、
そしてそれを共通認識として知ってる個々の国民に対し、国民主権による統治の正統性が政府にはあることや、
厳粛な儀礼を通じて国民に敬意が払われてことが共同意識として再確認される。
しかし、富士山には、そうした共同意識を呼び起こすような日本人が理解する歴史伝統もなければ、象徴的立場から儀礼を通じて振る舞うこともできない。

反天にとってみれば、政治的な共同意識の所在なんて大した問題ではありませんと言った具合で、
政治的な象徴の立場と、日本の自然における象徴的な存在を混濁し、富士山の方が相応しいと述べる始末。
なぜ、日本のみならず多くの国で象徴的な存在とて儀礼が政治に組み込まれてるか、基本的な事がわかっていないから、
こんな発想も出てくるのだろう。