「經驗的自我は絶えず變轉して行くものであつて、其の外面的な現象はもとより、内面的な拐~現象も、すべて其の時代的樣相を帶びる。
その時代的樣相は、時と共に變化することを意味する。
併し其の變化する中に變化しないで、絶えず其の變化を指導して行くところの先驗的な自我が存在して居る。
之を「超時間的な實在我」といひ、自我永遠の理想といふのは此の實在我に即して見出されるのであるが、其の超時間といふのは、決して經驗を離れてといふことではない。
經驗と共に存するので、經驗といふことがなければ、先驗といふことも意味を成さない。
そして此の先驗的な自我は、絶えず經驗的自我として、時の流を通して新な開展を爲しつゝあるのである。
故に此の先驗的な自我は、經驗的自我に即してのみ見出される。
即ち過去に斯くあつたのみならず、現在に斯くあり、將來に斯くあるべき先驗的な自我は、其の經驗の歴史を通してのみ見られる。
自然科學の對象として物の本質を研究するには、其に時間的條件を挾むは無用のことであらう。
數千年前に存した水も、今日の水も其の時間的經過を除外して、單に水として研究が施される。
併し生命主體としての自我の研究は、歴史を離れて施し得ない。
一面からいへば自我が歴史を作るのであるが、他の一面からいへば、其の歴史の鏡に映してのみ、自我を觀ることが出來るのである。」

續く――