しかし言葉を使った議論などでは往々にしてそういうことが見られる。
それは言葉というものの自由さにあるのだろう。

ある言葉というのはその一言でその意味に具体底あるいは抽象底、前後の文脈、感情の起伏などを内包している
そういうものを用いて生活を豊かにし、それを駆使し俳句などで楽しむことができる
言葉の面白いところである
しかし一方議論や論理の構築の場でその様な用い方をすればどういう事が起きるのか

ストローマン論法などはまさにそうで相手の主張する3という数字を、言葉の持つ多様性を利用し2.7にも3.3にも
恣意的にすり替え間違った答え(自分が望む)に導こうとするものである

論争、議論の場において言葉というのは正しく定義付けられなければならない
その言葉を特別用いるならその場で注釈を付け加え、疑問点があるなら相手に正しく問いたださねばならない。
言葉の重みとはそういう事である。一度口にした言葉の重さという様な
個人の決意を表すという様なものとは本質的に違う。

しかし私は思う。ストローマン氏はストローマン論法の使い手なんかでは無いと。
そういう論法が使えるのは論理というものを理解出来ている者である。
そうではなくただ小学生で覚えるべき算数の仕組みと同様の言葉、論理の構築というものを備えきれなかったのだ。
そういう意味での言葉の重みというものが理解できていないのである。