>>918
 立憲主義とは固より『人及び市民の權利宣言(佛蘭西人權宣言)』第十六條に、「權利の保障が確保されず、權力の分立が規定されない凡ての社會は憲法を有つ者では無い」とする規定に依據した者で、
此の定義からしても、當時の憲法學者や帝國議會で帝國憲法が「立憲主義的での憲法」たる縡に意義を唱へる者は誰もゐなかつた。
肆に國體と政體との理念的區別を踏まへて、憲法改正の限界を肯定するのは通説となつてゐて、憲法改正限界説と一體の者と理解されてゐた。
占領憲法有效論に於ても占領憲法の掲げる基本原則(國民主權主義、民主主義、平和主義、權力分立制、基本的人權尊重主義等々)に就いては改正は出來ないとする。
其の根據の一として必ず掲げるのが「占領憲法は立憲主義的意味での憲法である」と云ふ點にある。
占領憲法の解釋に於ても立憲主義と憲法改正限界説とは一體の者として理解されてゐる。
さればこそ立憲主義とは自己拘束する縡が原則であり、國民主權論(他より制限されぬ權力)とは對立し矛楯する縡となる。
立憲主義は國民主權論を否定乃至制約しなければ論理的に成立たぬ。
國民主權論其の者が「力の支配」「人の支配」其の者だからである。
其ゆゑに、占領憲法の有效論の立場から帝國憲法を以て非立憲主義と否を鳴らす縡自體が自家撞着となる。
亦、何時から立憲主義の定義に違憲立法審査が含まれるやうになつたの歟も同時に考へねばならぬ。
 純粹に立憲主義や法の支配の立場からすれば、絶對に占領憲法の有效論を導き出せる訣は無いのである。