>>418
 本當に面倒臭い奴だ(嗤)。

 「法律の留保」に因る規制方式に對する批判としては、法律に據つて幾らでも制約出來るから人權保障が弱いとする見解があるが、
さう云ふ法律に對する懷疑は國民主權からすると議會で制定される「法律」も亦國民主權主義に悖る縡はない筈であつて、
其は國民主權への懷疑となつて自らに大きな矛楯となつて返つてくると云つてゐるのさ。

> 〇 「公共の福祉」が憲法中に具体的定義がなくても、事実上司法が判決を累積することでその範囲は確定している。

 確定してゐない。
此の「公共のnΕと云ふ抽象的概念の解釋に就いては公共のnモノ據つて人權が規制されないとする人權絶對説と、
規制しうるとする人權制約説とがあり、亦規制される場合に於ける規制原理にも樣々な見解がある。
「公共のnΕと云ふ規制原理が人權の性質として之に内在する爲であるとしたり、さうではなく「公共のnΕと云ふのは外在的な規制原理であるとして
個々の場面に於て人權が規制される縡があるとしたり、更には人權を精~的自由と經濟的自由の領域に區分して規制態樣に二重基準を認めたり、
規制されるのは「人權と人權の衝突」の場面に限るとしたりする。
斯有る「公共のnΕの解釋に就いて議論百出する縡自體が將に此の概念の危ふさ、如何はしさを示してゐる。
而して最終的に事後的な判斷を作す司法としては争訟解決の一般原理である「利u衡量論」と云ふ一般原理を持ち出さざるを得ない。
詰り「公共のnΕと云ふ一般原理を個別的な事案に具體的に解釋する縡は不可能である縡から、
其を直接に解釋する縡を放棄して「利益衡量論」と云ふ争訟解決の爲の一般原理に逃げ込まざるを得なくなる。
從つて、このことからすれば、占領憲法が憲法として有效であるとする立場であつても、占領憲法は「公共のnΕの概念を明確かつ具體的に定義せず、
其の解釋權を權力側に白紙委任した縡により、帝國憲法の人權保障を空洞化させて仕舞つたとの結論に至らざるを得ない縡になる。
 だからこそ占領憲法の立場から帝國憲法の「法律の留保」に對する批判自體は固より矛楯だと云つてゐるのさ。