『考へてもみるがよい。一體『日本國民の總意』等といふものが「世襲」され得るだらうか?
『國民の總意』なる物が若し存在するとすれば、其は時々刻々に變化する轉變恆なき物に外ならず、
少なくとも論理上必然的に皇統の持續を保證の持續物では有得ない筈である。
 一方、逆に「世襲」は、『國民の總意』何如に拘りなく、皇統の持續が保證されてゐる處にしか
成立し得無い制度である。從つて、其處に内包される論理に穿ち入つてみれば、
憲法第一絛に所謂『國民の總意』といふ概念と、第二條に所謂『世襲』といふ制度とは、
明かに相互矛楯と云はざるを得ない。其の一方のみを採つて他方を捨てる事は、
現行憲法と雖も容認してゐないのである。
 そして、此の際、皇統の持續といふ側面から、現行憲法の「天皇」條項に光を投射してみれば、
第一絛に所謂『國民の總意』とは、一の歴然たる擬制、詰り看做したといふ事にならざるを得ない。
天皇が現實に在位し、皇位が『世襲』に依つて繼承されるといふ制度的事實を解釋する上で、 
此地位は『國民の總意に基く』と解釋する事にして置く、といふのである。さう解釋する事に依つてしか
第二條に所謂『世襲』といふ制度の意義は理解し難いからである。

 『閉された言語空間』江藤淳著、362頁から363頁迄。