>>277
冒頭じゃないが「日本」の章のこの描写のことだろう

 下町のK―病院のまわりには、ここ二週間ばかり、朝六時ごろから、容態を見てもらおうとする人がつめかけていた。
午前十時ともなれば、待合室にはいりきれない人が、外に人垣と行列をつくり、不安な表情でひしめいていた――
小さな石が一つ、そこへ投じられれば、突然パニックがまきおこり、人々は先をあらそって病院の入口に殺到するかと思わせるような、危険な感じだったにもかかわらず、
実際はふだんの時よりも、人々はかえって秩序正しく、その秩序は群衆全体の内面から湧き上ってきているようだった。
小さい子供をつれた母親が後尾につけば、それはたちまち、次から次へと最前列におくられた。ぐったりとなった赤ン坊をかかえて、息をきらしてかけこんでくる若い母があれば、たちまち列がわかれ後の方から声がとんだ。
「前の奴、かわってやれ!――先生にそういえ、赤ン坊だぞ!」
 人々は大てい眼をうるませ、赤い、熱っぽい顔をして、いやな咳をしていた。のどに繃帯を巻いているものもたくさんいたし、マスクをかけているものもいた。
――ふだんの時とちがうのは、このたくさんの群衆が、あまりしゃべらないことだった。
内面的な恐怖――それもどっちつかずの恐怖が、彼等の一人一人を内部できりはなしているようだった――午前から午後へ、と、人々の数はますますふえていった。
一週間前から、病院側では、玄関の前に、仮設のテントを張り、簡単なベンチももうけた。
年寄りと子供が、ほとんどベンチを占領した、それでも大部分の人々は、めっきりあつくなった五月末の太陽をあびながら、じっと待っていた。
日射病にかかったように、突然顔色がまっさおになって、すうっとたおれる人がたくさんいた。――そして肩に手をあててみると、そのまま死んでいる人もいるのだった。