結局全話通してクウガが守り通したのは五代自身の純真さでしかなかった
純真さを失わなかった五代を見て、みんなが勇気づけられて「笑顔」になるっていう
しかもその純真さというのがヌルい
自己愛に陥ってる人間が考えた都合の良い世界でしか通用しないヌルさ

何よりの原因はクウガの物語における悪の絶対的弱さにある
五代の信念を正面から揺るがすような悪が一度も現れなかった

グロンギは「殺すのが好きで人を殺すゲームでのし上がることしか考えない」という「ただのクズ」に仕立て上げ、それを排除する側を正当化

「自分とは違う価値観を持ち理解不能な存在」は悪で「自分と同じ価値観を理解できる存在」だけが善というお花畑

蝶野はクウガに欠けていた人間側からの問題提起になり得たが、耳の痛いことは聞きたくない制作者のヌルさが勝り「人格が未成熟な哀れな奴」として人格否定

意図的に悪に強さを与えない
単なる力の強さではなく価値観や思想に対して反論の余地を与えない構図

悪側が不甲斐ないから五代のヌルさは一度も正面から問い直されることはなかった
五代の周りの連中も彼のヌルさを指摘したりはしない
純真な五代を見ることで自分たちが救われるから、むしろ必死になってかばい倒す
五代の純真さを必死になって死守しようとする

制作者のナルシシズム丸出しの脚本が個々の素材の良さを殺してしまった典型