閔妃暗殺事件 1895年10月08日、明成皇后が暗殺された事件に関する客観的史実

1.岡本柳之助、安達謙蔵を含む日本軍守備隊、領事館警察官、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、
  朝鮮警務使らが景福宮を襲撃し、クーデターを敢行。(乙未事変)

2.大韓帝國裁判所は、李周会(前軍部協弁)、朴銑(日本公使館通訳)、尹錫禹(朝鮮
  親衛隊副尉)3名を各々の自供により本クーデター事件の実行犯と裁定、同年10月
  19日に処刑。

3.大日本帝國裁判所は、暗殺事件を指揮したとして日本公使の三浦梧楼、実行犯として
  岡本、安達ら約50名を裁判にかけたが、翌年1月、いずれも証拠不十分として全員
  を免訴し、釈放。

出典:世界大百科事典、近世朝鮮史、朝鮮王妃事件関係資料、他(ググってね)

だいたいそもそも、普段から王宮内部にいる明成皇后個人を特定し、ピンポイントで殺害
を実行するには、事前の面識がないと絶望的に無理。即ち、「私がやりました」という、
「尹錫禹」の自供には、一定の合理性が認められると大韓帝國の法廷で判決が出ている。

上記事件に諸説あるのは事実だが、両國の司法の場においてそれぞれ決着がついており、
これ以外の説は信頼性が低いと考えるのが合理的。歴史は観測者の位置により左右される
ものであり、大日本帝國が明成皇后を暗殺したと一方的に主張するのは上記史実によって
否定されることが妥当。(大韓帝國司法当局に対する愛のある結論ニダ)