「素敵詩的すくりぷと」の終盤に流れる歌って?
ホンさんのFlash、素敵詩的すくりぷと
ttp://www.geocities.co.jp/Milano-Cat/4036/shiteki_02.html
以前、「win限定、音入りバージョン」というのがあって
ttp://web.archive.org/web/20050125090311/http://www.geocities.co.jp/Milano-Cat/4036/shiteki_02.html
そこには、最後の方で、洋楽(?)の歌が流れていました。ハーイハイとか言ってたかな?
とにかく、幸せを音にするとこんな感じになるのかなぁ、と思うくらいに心温まる歌でした。
今は聞くことが出来ません。
無くなってしまった。
誰か歌名や歌手名を知っている方、どうか教えてください。 >>203 >>204
自己レス。
何か勢いで書いちゃってごめんね。
自分の愛着ある作品をこう言われたら、凄く辛い思いするんじゃないか。そういう想像力を失った暴言でした。
なに、熱血やってんだ。半分ギャグで書いたのが、尚更タチが悪い。冷めたあとで、凄く後悔。
返答にもお困りでしょう。スルーって方向で、よろしくお願いします。 ・俺的[芸術に触れよう] 俳句【小林一茶】
小林一茶の句、ずっとまたーりした俳句だと思っていました。
また見方が深まりました。ありがとうございます。
閃と俳句、確かに。
短い秒だからこそ、少ない言葉だからこそ、見えるものがあるんですよね。 ちなみに、私は人間を動かすものは「理性」と「感性」の両方であると思っています。
願わくば、その両方を大切にしていきたいですね。
で、こちらなんですけれども。
>何か勢いで書いちゃってごめんね。
>自分の愛着ある作品をこう言われたら、凄く辛い思いするんじゃないか。そういう想像力を失った暴言でした。
決して、日刊氏が気になさることはないです。
率直な意見交換をしようと、進んで紹介をしているわけですので。
むしろ真剣に見ていただけたということで、喜ばしいことです。 ただ、ですね。
>返答にもお困りでしょう。スルーって方向で、よろしくお願いします。
ええ、まあ、そうですよね。お気遣いありがとうございます。
でも、なんといいますか。
実は言いたいことを言わずにスルーできるほど、私は人間出来てません。
要するにアレだ。
ワイルドピッチが怖くて渾身のボールを投げられるか?
思いっきり打ち返されるのが怖くて投手やってられるか?
打たれたら打たれた、勝負の世界はそれで結構!
ピッチャーってのはそれを覚悟してマウンドに立つんだよ。
情けなんてかけられるほうがよっぽど腹が立つ。
こっちは本気でやってんだ、そっちも本気でこいと言ってるんだ。
暴走上等、ぶつからずに生まれるものなんかとことん脆い。
いいたいことはとことんいう。2chはそれができる場。
この期に及んで酷い酷くないなど知るか、そこに馴れ合いなど不要。 >プレゼントの分類で言えば、1そのものです。とにかく自分が理想とした彼女に似合うものをと、突っ走っちまった。
>それで自分はそれを窓から見下ろして、幸せを感じる。
たとえ絵描きが女優に3と思ってもらえるように、必死で努力した結果でも1ですか。
1と3の違いって一体何なんでしょう。相手を喜ばせようとしても、結果として喜ばなければ3には成りえないんですかね。
また、絵描きは窓の下で彼女を見上げますが、その時点での気持ちは決して幸せとはいえないはずです。
大方叶わぬものだったとはいえ、大きな喪失感に打ちひしがれていたはずです。
たとえいくら純粋に彼女の喜びを願っていたとしても、彼のプレゼントは何の意味を持たないただの1に過ぎないものですか。どうなんでしょう。
>きっと一束のバラの花束を渡された方が、嬉しくなる。
もし一束にしていたとして、それで本当に女優に絵描きの気持ちを伝えることができますか。
その程度なら他の男性が何もいわずとも渡してきているでしょう。
それに身分違いの想い、一束程度のバラで収まるものとは到底思えません。
そのぐらいの量の愛ならば、高嶺の花として見ているだけに留まると思いますよ。 >それ以上に、彼は絵描きなんだ。
>だから、自分の画の才能と技術を全て使って彼女をモデルにした一枚の絵を描くのが、もっと素晴らしいことだと思う。
>キャンパスを売って、バラの花を買うってのは、悲しい表現に感じる。
彼の才能と技術が彼女の心を動かし得るのならば、もちろんそうしていたはずでしょう。
家を売らずに絵を書いて済むにこしたことはない。それでも、彼は売らずにはいられなかった。
そこでは彼自身が一番、己の無力さに悲しんでいたと思いますけどね。
自分の能力の限界は、自分が痛感するものだと思いませんか?
>報われない? 周りから馬鹿にされる?
>努力の方向を間違ってやったヤツが、語っていいのかよ?
>アイドル像から離れて、ちょっとは人間として相手を見つめてやってくれよ? イデアを投影しすぎだろ?
>それで、てめーの勝手な感情の発露の結果、少しでも相手は幸せになったのかよ?
「絵描きの努力の方向は間違いであった」
「絵描きは人間として女優を見つめられなかったので、幸せにできなかった」
私はこのどちらの主張ともに賛同できません。
要するに「努力の方向が正しいとか間違ってるとか、それ誰が決めるの?」ってことです。
「ああすれば女優は喜んだ、こうすれば女優は喜ばない、ってそれは本当なの?」ってことです。
それがいくらもっともらしい言説だったとしても、少なくとも私にはそれを容易に信じることはできません。
私自身が、それを簡単に断じられないから。 そうですね。心地いい馴れ合いは楽しいものですが、それだけだと倦怠感。
いやぁ、この反応は嬉しい。ベテランさんって強い人ですね。わたしなんて弱い弱い。ゴブリン並。
わたしのは詭弁に為ってなければいいのですが。
いっちょ、逝ってみるかー。
まず、前提としてベテランさんは「愛の純粋さ、豊かさ」を感じていて、わたしは「恋の盲目さ、哀愁」を感じているんだと思うんです。
それで合ってます?
>たとえ絵描きが女優に3と思ってもらえるように、必死で努力した結果でも1ですか。
うー、難しい問いですね。わたしは直感的に1、
女優に恋して「俺のプレゼント見てくれ、あわよくばそんなプレゼントした俺を知ってくれ、ハァハァ」と感じたのですが。
3だったのかも知れないですね。
でもね、どうもアイドルに恋して、その人本人に恋してるって感じがしない。
なんだろね。遠い存在。それをプレゼントの物量に任せて無理に近づけようとしている。そんなのが残ったんです。
バラの海に舞うアイドル。でもバラにはトゲってありますよね。
ここら辺は感覚的に思ったことなので、異論・反論くださいな。
>そのぐらいの量の愛ならば、高嶺の花として見ているだけに留まると思いますよ。
愛に量ってありますか?
愛とは競うものですか?
「わたしの方があいつよりあなたを愛してる」って言って、他よりも膨大な量のプレゼントを贈るのが愛ですか?
輝き続ける女優も花束を貰い慣れたら、どんなに誠意ある言葉を添えていても、そんなに嬉しがらなくなるもんなんですか。
プレゼントに送り手のオリジナリティって必ずしも必要ですか? 真心があれば、十分じゃない? わたしはそう思う。
情熱ならわかる。熱したり、冷めたりする。そんなのがある。でも、愛はわからない。
これは半ばわたし自身への問いです。わたしにはそんなに真面目に愛は語れない。哀。 >そこでは彼自身が一番、己の無力さに悲しんでいたと思いますけどね。
>自分の能力の限界は、自分が痛感するものだと思いませんか?
でもね、描き続けなければと思うんです。
理想が大きいのなら尚更。
たとえ本人に渡せなくても、街行く人に「わー、この人綺麗」って手にとって貰うくらいには。
本当に一部の天才や時流にあった人は、そんな葛藤を感じないかもしれませんが、
多かれ少なかれそういうのを乗り越えた先に、乗り越えられないと知ってため息ついた時に、喜びがあるんじゃないかな?
わたしって青臭すぎるか。
>要するに「努力の方向が正しいとか間違ってるとか、それ誰が決めるの?」ってことです。
>「ああすれば女優は喜んだ、こうすれば女優は喜ばない、ってそれは本当なの?」ってことです。
ああ、断定は出来ない。言葉の勢いだけでやった所なので。
わたしは今から宇宙飛行士を目指します(ハート) 体育は1ばっかだったけど、死ぬほど努力するからベテランさんも応援してね
お腹が空いた、空きすぎ、お腹がグーグーなってるよ
>たまねぎage
たまねぎ厨うぜー。玉ねぎだいっきらいなんだよ。
>ひつまぶしup
多謝。
とか。あー、何やってんだろうな。ピエロ的に語るとこんな感じです。却ってわかりにくくなった気がする。
それでね、それでね。
「色んなものを無くしながらも、街中を回って綺麗な花を集める」という努力。
「自らの才能のなさを痛感しながらも、美しいものを追求し、描き続ける」という努力。
わたしは後者の方が好きです。
わたしの言いたいことは、それで全てだと思う。 っとっと。
わたしはこう言う訳の方が、感性に合ってるかも。
ベテランさんは既に前提知識としておありだったのでしょうが。
ttp://www.youtube.com/watch?v=SzkqhA-K ありゃ、リンク失敗。これなら、大丈夫かな?
ttp://lyric.kget.jp/lyric/wy/zw/u/ 良かった。
強い言葉のときには、本当に送信するべきかいつも迷います。
でもしっかり受けとってくれていると、安堵するんですよね。
>ベテランさんって強い人ですね。
ムキになってるだけ、ともいいます。
本当に強い人は、余裕無く人の意見にあれこれいったりしないんだと思います。
>まず、前提としてベテランさんは「愛の純粋さ、豊かさ」を感じていて、わたしは「恋の盲目さ、哀愁」を感じているんだと思うんです。
>それで合ってます?
はい、そうです。で、もちろん「恋」の歌であることは間違いないです。
ただ、私は「無償の愛」というか、「自己犠牲の愛」というか。
そういうイメージを強く感じたので「愛」のほうを強調しました。
私の中では、無償でないのが「恋」で、無償なのが「愛」かなと。
無償の愛など存在しないとお思いであれば、「無私の愛」と言う感じでしょうか。
>でもね、どうもアイドルに恋して、その人本人に恋してるって感じがしない。
>なんだろね。遠い存在。それをプレゼントの物量に任せて無理に近づけようとしている。そんなのが残ったんです。
>バラの海に舞うアイドル。でもバラにはトゲってありますよね。
>ここら辺は感覚的に思ったことなので、異論・反論くださいな。
そうですね。絵描きがやったことは、常識に照らせば褒められることではない。
近づく努力もしていないのに無理な手段に出るのはまずいというのは理解できます。
ただ、私にはそこで「まずはお近づきになりましょう」って言えそうな、
タイミングよく「プレゼントして欲しいものってありますか?」と聞けそうな日刊氏の柔軟さが羨ましいかなあ。
私には、偶像を越えて「その人本人」にまで迫っていける気がしないんです。 >「わたしの方があいつよりあなたを愛してる」って言って、他よりも膨大な量のプレゼントを贈るのが愛ですか?
>輝き続ける女優も花束を貰い慣れたら、どんなに誠意ある言葉を添えていても、そんなに嬉しがらなくなるもんなんですか。
>プレゼントに送り手のオリジナリティって必ずしも必要ですか? 真心があれば、十分じゃない? わたしはそう思う。
真心のある等身大の言葉を送って、それでいけると成算があれば。
もしくは、自身にその結果を受け止める覚悟があれば別ですが。
そこまで自信が持てず限りなく可能性がゼロパーセントに近いとき。
自分ができる最大限のことをやらなければ、私ならば後悔します。
やろうと思えばもっと出来るのに、人並みのことしかやらずに失敗したら諦めきれないです。
「これでだめなら、諦めがつく」
そういう決意を持って、絵描きはこの行為に臨んだのだと思います。
>でもね、描き続けなければと思うんです。
>理想が大きいのなら尚更。
>たとえ本人に渡せなくても、街行く人に「わー、この人綺麗」って手にとって貰うくらいには。
>本当に一部の天才や時流にあった人は、そんな葛藤を感じないかもしれませんが、
>多かれ少なかれそういうのを乗り越えた先に、乗り越えられないと知ってため息ついた時に、喜びがあるんじゃないかな?
>わたしって青臭すぎるか。
いや、それは私も同意です。
本気で女優に恋をしたなら、まずは自分が同格の画家になるまで死ぬ気で本業を極める。
そういう風に思うことが出来なかった絵描きは、やはり愚かだったのでしょう。
>わたしは今から宇宙飛行士を目指します(ハート) 体育は1ばっかだったけど、死ぬほど努力するからベテランさんも応援してね
>お腹が空いた、空きすぎ、お腹がグーグーなってるよ
>たまねぎage
>たまねぎ厨うぜー。玉ねぎだいっきらいなんだよ。
おなかがすいたってなら、嫌いなものだから食べないなんてふざけてるんじゃないよ。
好きなものだけ食べたいってのは、虫が良すぎる甘ちゃんだ。
死ぬほど努力すればいいってもんじゃない。まず自分を見つめて努力の方向を考えろ。
そういうふうに、私は説教すると思います。
でもこの子ども達が「そういう風に思ってしまった」こと自体は受け止めるとも思います。 >「色んなものを無くしながらも、街中を回って綺麗な花を集める」という努力。
>「自らの才能のなさを痛感しながらも、美しいものを追求し、描き続ける」という努力。
>わたしは後者の方が好きです。
「絵描きがするべきなのは、絵の追究であって、花集めじゃない」
なるほど、その通りです。
ただ、私はその両者であればベクトルが違う等価のものとして見ます。
いや、興味深いなあ。素直にそう思います。
>伊東ゆかり版「百万本のバラ」
いや、この人の訳は知らなかったですねえ。
うん、より具体的な訳だと思います。いい訳ですね。
少しでも感性に合ったものを見つけて頂けたのなら、それに越したことはないです。 本人がどう言おうと、ベテランさんは素敵な人だと思う。
真面目で信念を持ちながら、わたしのいーかげんな暴投を受けても、応えてくれる。
ここまで本気に主義主張したのは、わたしは久しく無かった気がします。
今回はベートーヴェンなアウフヘーベンへと。
>自己犠牲
「無償の愛」「無私の愛」はよくわからんし、言葉遊びになっちまうので避けますが。
「自己犠牲の愛」には、わたし少し疑問があるんです。
例えば「あなたの為に私の全てを捧げる」と言って、夢を諦める人がいるとします。平凡な生活を捨てる人がいるとします。
それは当人にとっては、やっていて気持ちいいし、素晴らしい思い出になるでしょう。
でも、相手にとっては、ちょっとヒクというか重荷になってしまうんじゃないかな。
女優がもしも絵描きの存在を知っていたら、彼の自己犠牲を知っていたら、それを嬉しいと思う前に
ワタシのためにそこまでしなくてもと、悲しい気持ちになるかなと妄想します。
ここでの「自己犠牲の愛」は、理想像の女性と絵描きのハァハァ心から成り立っていて、そこに違和感があるのかも。
バラの花ってきれいだけど、ナルシー。鏡だけを見ていて、相手を見ていない、そんな寂しさ。
それに相手は夢を売る商売、女優の道を選んだ人だから。
「夢を追いかけてるあなたが好きだったの!」「わたし、あなたとの平凡な生活がキボンヌだったの!」
と返事がきたとき、それは本当に自己犠牲の「愛」と言えますか?(ああ、なんて中二っぽさ、最近読んだ小説に毒されすぎ)
>アイドルとその人本人
そうですね。人間って多面性があるし、特に女の子は化粧をしますからね。
こーいってる「わたし」も、実際のところはなんなのか…… それは秘密です。バレテーラな予感もしますが。
「ベテラン」さんも何なのか。わたしの察するところ「お久しぶりです、お元気で何よりです」とつい応えてしまいそうな。
これはかなりわたしの「僕の考えた最強の恋愛像」を投影していて、却って現実的じゃない感じが今更ながらしてきました。 >自分ができる最大限のことをやらなければ、私ならば後悔します。
>やろうと思えばもっと出来るのに、人並みのことしかやらずに失敗したら諦めきれないです。
>「これでだめなら、諦めがつく」
>そういう決意を持って、絵描きはこの行為に臨んだのだと思います。
>でもこの子ども達が「そういう風に思ってしまった」こと自体は受け止めるとも思います。
>>「色んなものを無くしながらも、街中を回って綺麗な花を集める」という努力。
>>「自らの才能のなさを痛感しながらも、美しいものを追求し、描き続ける」という努力。
>ただ、私はその両者であればベクトルが違う等価のものとして見ます。
あー、そこまで深く考えていたなんて。これらと関連して、こいつでわたしの「愛」へのコンプレックスゆえの暴走をゴールさせようと思います。
>伊東ゆかり版「百万本のバラ」
この訳だと、絵描きはキャンバスを売ってないんですね。それどころかもっと凄いことをしようとしてる。
真っ赤な真っ赤なバラの花で
町中探したバラの花で
あんたの窓の下に描こう
百万本のバラの海
絵描きは絵を諦めたんじゃなくて、広場をキャンバスにバラの花を絵の具にして、全力で精一杯の絵を描いた。
心とは裏腹に何時か枯れてしまうバラの花で。
つまり
「家(生活)を無くしながら、街中を回って綺麗な花を集め、今しかないタイミングで彼の考える精一杯の絵を描いて贈った」
となり、すると今まであんなに反抗していたわたしは何だったろう? 的な凹みと嬉しさを感じてしまったんです。
また他の訳に当たってみるというのは、歌シリーズでベテランさんが熱弁していた「訳」によって「解釈や印象がガラリと変わる」
という教えの、影響そのものでした。
原典に忠実な訳なのか、或いは意訳なのか、わたしにはわかりませんが、わたしはこの歌詞に心打たれたのでした。
ベテランさんがこの訳を知らないでよかったー。ご存知だったらそれこそわたしはピエロになってました。 色々ありがとう、気持ちは済みました。
私なりの弁証法的な、止揚へ。
>それは当人にとっては、やっていて気持ちいいし、素晴らしい思い出になるでしょう。
>でも、相手にとっては、ちょっとヒクというか重荷になってしまうんじゃないかな。
>ここでの「自己犠牲の愛」は、理想像の女性と絵描きのハァハァ心から成り立っていて、そこに違和感があるのかも。
>バラの花ってきれいだけど、ナルシー。鏡だけを見ていて、相手を見ていない、そんな寂しさ。
>「夢を追いかけてるあなたが好きだったの!」「わたし、あなたとの平凡な生活がキボンヌだったの!」
>と返事がきたとき、それは本当に自己犠牲の「愛」と言えますか?
色々考えを巡らしましたが、仰るとおりだと思います。
人のことを考えない自己犠牲は、愛という名の偽善。
いや、偽善にも達しないのかもしれません。
結局、私が絵描きを必死で擁護したのは、
「頑張ったならば、その分報われるべき! だから報いない方が悪い!」
そういうエゴから来る、私自身への必死な自己弁護でした。
私の中では、これまで「愛」についてそれなりに考えて来たという多少の自負がありました。
でも、今は「愛」がなんなのか、良く分からなくなった。
ただ、それでいいんだと思います。「分からない」ところから、始まる。
ソクラテスの「無知の知」に、多少なりとも近づけただろうか。
分からないけれど、少なくともスタート地点に戻った事で。
私はまた、歩むことができます。ありがとう。 さて、2年前。
私はテレビで、津波が家をいとも簡単に押し流す映像を見ました。
それは現実なのに、なぜかこの上なく現実に感じられませんでした。
色々考えた末、長田弘が今亡くなろうとする人の気持ちで詠んだ詩をここに刻みます。
「イツカ、向コウデ」(『死者の贈り物』みすず書房)
人生は長いと、ずっと思っていた。
間違っていた。おどろくほど短かった。
きみは、そのことに気づいていたか?
なせばなると、ずっと思ってきた。
間違っていた。なしとげたものなんかない。
きみは、そのことに気づいていたか?
わかってくれるはずと、思っていた。
間違っていた。誰も何も分かってくれない。
きみは、そのことに気づいていたか?
ほんとうは、新しい定義が必要だったのだ。
生きること、楽しむこと、そして歳をとることの。
きみは、そのことに気づいていたか?
まっすぐに生きるべきだと、思っていた。
間違っていた。ひとは曲がった木のように生きる。
きみは、そのことに気づいていたか?
サヨウナラ、友ヨ、イツカ、向コウデ会オウ。 愛はですね。あの、ですね。なんと言えばいいのか。
ベテランさん、私の言ったこと覚えてますか。
>「愛」というものは、寒風にさらされてこそ真実の輝きを示すものではないでしょうか。
強く、勇敢な言葉だと思います。その言葉を大切にしてください。愛も真実もわたしは信じられなくなっちまったんだぜ。ローラ!
わたしの言葉の妙なトリックやレトリックに惑わされないで。どちらかと言うとわたしの方が「愛」を教わる側だったはず。
根拠無い妄想なんかに。ダメですよ。一時的にそんな気分になっただけですよね。ちょっと寄り道したって感じにしてください。
それでも考え方が変わってしまうというなら、わたしがパクった北村薫さんの「ターン」を一読してください。
あー、わたしは相手どころか自分のことも良くわからないやつなんで。
>震災
わたしも、どうも現実感が沸かないです。未だにそうです。
神戸震災の時も似たようなもので、すっかり記憶の中では風化してしまっています。
ただ原発が怖くて、怖くて、傍では「大丈夫」と言いながら、「沖縄にでも逃げようか」と、思っとりました。
だけど、なんとか前を向けたのは、わたしよりずっと近くの最前線で生きている戦っている人たちがいる、ってことでした。
滲みる詩ですね。紹介ありがとうございます。
何というか悲しくも絶望しながらも、共に歯ぎしりをして悔しい思いに打ち震えながら、そうしてこぼれる言葉。
それでも隣を歩いて、最後を見届けてくれる、そしてその先を見つめながら再会を約束してくれる、そんな友の歌。そう思いました。
嬉しいよね。こんな人が近くにいてくれたら。
恥ずかしながら、今日知った歌です。
こういうのを聞くと、何というか、大なり小なり不条理に襲ってくる不幸を、苦しみながらも、それでも受け止め、優しさに心を委ね、
それから同じように苦しむ人にわたしもそうだったよ、一人ぼっちじゃないよ、と伝えれる、そんな気がします。
ttp://www.youtube.com/watch?v=gO3geXZoW00
なんて美談を語れるほど、わたしの心は白くなく。
実際、当時、一番癒されたのはこの動画でした。あう。
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm13877669 >愛
友人に聞いてみたら「いや、そりゃ愛までいってないじゃん。恋に決まってるでしょ」と返ってきました。
「やっぱりそうかー」と、私の中では論争は終わってしまったのです。
そして大震災を思い黙祷すると、平穏の大切さが噛み締められる。
たとえ倦怠感を感じようと、無事なのがすなわち名馬。
そのありがたさを忘れてはいけないと、改めて思います。
『ターン』『スキップ』『リセット』の時の三部作は興味深く読んだのですが、何せ結構前なので詳細な表現は忘却の彼方へ。
ネタが分からなくてすみません。時間があったら読み返してみたい作品群です。
でももちろん、心の中で絵描きを擁護しなくなったわけではないです。
日刊氏は、アウフヘーベンの先にさらなる戦いを望みますか?
それなら、私は受けて立つことにやぶさかではありません。
私の愛の理解は、ある程度カント的な動機説、心情倫理説に依拠しています。
たとえばナルシシズムは「自己愛」と訳す。
すなわち、必ずしも「愛」はもう一人の人間を必要としないのです。
自分を愛する、自然を愛する、平和を愛する。そこにまぎれて「女優を愛する」というだけのこと。
確かに絵描きは一人ひとりの人間として向き合う「愛」には達していない。
でも「何かを好きで大切に思う心」があれば、私は広い意味での「愛」の仲間に入れてもいいのではと思います。
たとえ、それが他人を不幸にしたとしてもです。「愛」はイコール「善」ではない。 ・アン・サリー 満月の夕(ゆうべ)
なんとも、優しい歌ですね。
人の悲しさを見つめ、それを受け止める。
>絶え間なくつき動かされて
>誰もが時代に走らされた
>すべてを失くした人はどこへ
>行けばいいのだろう
>それでも人はまた 汗を流し
>何度でも出会いと別れを繰り返し
>過ぎた日々の痛みを胸に
>いつか見た夢を目指すだろう
心に残った部分は、ここでした。
全てをなくした人ですら、また夢を目指して歩き出す。
全てを無くさなかった人が、現実が辛いとか辛くないとか言っている場合じゃないだろう?
穏やかながら、そういう風に叱咤激励されていると感じられました。うん、頑張ろう。
・危険なポポポポーン
笑いは、沈み行く心を励まして勇気付けてくれます。
当時感情を逆なでして大ブームでしたね、ポポポポーン。
マリオRPGの戦闘曲が、妙にテンポ良く合っている。
そういえばマリオRPGの音楽は、様々な動画に使われていましたね。
かつてのFLASHではマリオトロポリスを思い出します。
とにかくノリと勢いで押し切るFLASH。
ときにはそのエネルギーに、押し切られたいときもありますね。 >愛
あぁ、思いつめてたんじゃなくて、中々オープンな環境に恵まれていて、深い信念を持っているようで、ほっとしました。
「愛」はイコール「善」ではない。心に刺さる言葉だ。また考えさせられる視点。
心配しすぎていました。却って失礼だった。
時の三部作、ご存知でしたかー。わたしゃ泣かされました。
北村薫さんはミステリの大家だけど、ミステリとは離れた作品にケッコウ面白いものが転がってるように思う。
「月の砂漠をさばさばと」とか、ぴろぴとさんに読ませたい。
無事これ名馬。ああフィールオーライ。つの丸さんの一見めちゃくちゃながらもリアリストな視点。みどりのマキバオーのダービーも泣ける。
わたしのアウフヘーベンはバームクーヘンのようなものです。
その心は、「シン」がない。
ちょっと背伸びをしたく使っただけなんで、その、よくわからんです。哲学って。
根っこのない議論になってしまいそうなので、ここらで勘弁してください。
>満月の夕(ゆうべ)
アン・サリーさんの歌声なのかな、歌い方がほんとにじんわりと来る。
挙げてくださった歌詞部分はオリジナルにはないもので、わたしも心が動かされた箇所だったので、嬉しい。
ソウル・フラワー・ユニオンさんのオリジナルは、神戸大震災の夜を力強くパワフルに歌っていて、同じ曲とは思えない後味が残ります。
包み込むのと迫ってくるのの、違いかな。でも、どちらも優しい歌だと思います。
>ぽぽぽぽーん
あのCMは、なんつーか、ヤバカッタですね。
もうトラウマになるくらい聞いていた気がします。ACはケッコウ良い感じのCMを作っていると思うだけに、何故ぽぽぽぽーん。
やっぱ笑い飛ばせるってのが好きなんだと思いますです。もうめっちゃ皮肉入ってるんだけど、あー、何だろう、笑ってしまった。
ちょっとnintendo directで「うごくメモ帳3DS」が発表されました。
絵を描けないわたしは静観ですが、これはニコニコの層やFlash界のアニメ系やラクガキ好きな若年層を取り込んで、ムーブメントになりそうな予感。
こういうのが下地や入口になって、アニメ界や創作界の土台を支えるのかもしれない。
でも、「ものすごく脳を鍛える5分間の鬼トレーニング」のような不発の可能性もある。
さて、どうなるか。興味津々です。 お気遣いありがとうございます。
私は何事も無駄に思い詰めたがるので、そういう心配りがありがたいのです。
うごくメモ帳、サンプルを見ると確かにムーブメントになる可能性はありそう。
やっぱり絵をかけない自分には敷居は高いけれど、少しでも遊びの幅を広げようとする取り組みは評価したいところです。
やっぱり「笑える」っていいですよね、好きです。でも、ツボが人によって全然違う。
私は「笑う哲学者」こと土屋賢二氏を私淑していますが、好き嫌いは、はっきりと分かれます。
折角なので自分はこういう笑いが好きだ、というのを。
「東京イミフハイスクール」
ttp://www.youtube.com/watch?v=_NmDSLmpEDI
要するに真面目にボケるのが好きなんだと思います。
あんまり「ここが笑いどころである」というのも無粋な気がするので内容には深く突っ込みません。
あとこの動画について言えば「真剣に目を見て何かを伝える」って心を動かすのかも、という示唆を私は感じました。
コミュニケーションの心理学において「メラビアンの法則」というものがあります。
声の感じで、「maybe」(かもしれない)といった文がどの程度「そうかもしれない」かを判断する実験で、
力強い口調の場合は、普通の口調よりも、「そうかもしれない」と感じたということが立証できたという実験だと言われています。
感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかというと、
話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合だったのだそうです。
要するに、93%は「話す態度」によって変わってくるわけです。
実生活で、私のためを思ってこのぐらい真剣に語ってくれる人はいないからか。
つい暇じゃないのにチェスをやりたくなってしまうぐらいに魅力を感じました。
日刊氏にも、そういう魅力を感じますよ。 わたしも思い詰めてしまう時もあるようで、無いような。
難しいっすね。ほどほどに行ければ、って感じかなー。
わたしはケッコウ酔ってないのに笑い上戸というか、ギャグが滑ってもその寒さを笑いのサカナにしてしまう性質なので、
わたしの「笑った」は、外部から見ればもうどうしようもなく参考になんないと思います。
でも、わたし自身は、そう思える自分が、ちょっと好きです。笑えるってのは本当に楽しい。
けれど、そのギャグセンスの無さは、このスレの寒さが証明していますが。
>「東京イミフハイスクール」
も頬が緩みました。ニヤリとしました。それで何かスッキリとした爽快感を味わえたり。
予備校は予備校で、癖の強い先生が沢山います。まー、受験に落ちてもそんな出会いを楽しみましょーと、そう思わせる感じでした。
視点は半分皮肉めいたパロディーですが、かなり誠実に茶化しているというか。
熱心に語りかける声は、ほんとからかってるわけでもなく、妙に生々しい迫力。
だから言葉の持つ元CMとのギャップが大きく働くのかもしれません。メイビー。
うう、わたしがメイビーを使うとキムタク並みの軽いものに。
Flashで特に思い出に残ってるのは「ペリー来航」や「はやくも2005年をあきらめたヒト」とか、です。けれど変化球で
・自前着ぐるみで行くご当地キャラ祭り
ttp://portal.nifty.com/kiji/111128151043_1.htm
心地いい笑いがあったものは、これかな。この作者さんの小野法師丸さんの書く明快で人柄が滲んだ文章が、かなり好きなんです。
彼のサイト「テーマパーク4096」は、わたしの糞フラボンジュールの土台となっている。
なんだろうな、鬱屈してるのだけど、後ろ向きじゃないというか。
当然のようにあるささやかな日常に切り込んで、笑いを作り出すというか。
伊達にテキストサイト黎明期から、貪欲に活躍しているわけじゃない! と思わせるエンターテイナー。
好き嫌いはわかれそうですが。わたしはこーゆーのが好きです。名刺がわりに。 ・自前着ぐるみで行くご当地キャラ祭り
なるほど、この方は目の付け所がシャープです。エンターテイナーですね。
どこかシュールな行動のおかしみ、平和な笑いが溢れてきます。
>それでも、こうしたキャラクターたちに常々感じていたことがある。
>写真の通り、彼らはしっかり完成されていたり、手堅くまとまっていたりしているのだ。
>ゆるさを名乗っているというのに、それでいいのだろうか。
>ぶっちゃけお前ら、あんまりゆるくないんだよ。ゆるいってのは、こういうことだ。
ゆるキャラも「ゆるくない」って指摘を受けるとは思わなかったでしょうね。
「いや、ゆるいってそもそも褒め言葉じゃなくね?」
っていうツッコミ待ちのこれは性質としては自虐に近いんですが、卑屈には感じない。
なんというか、開き直ったことでの明るさを感じます。
>たくさんのオフィシャルキャラが集まるイベントに、着ぐるみ一市民として混ざった今回の試み。
>新しい軸でのイベントの楽しみ方だ。
まさしく斬新なのだが、そもそもどうして混ざろうと思ったのか。
まずそこを小一時間問い詰めたい。
>それほど長くはない滞在時間だったが、その間に起きたことは人生の縮図のようにも思える濃密さ。
>着ぐるみは人を笑顔をさせるだけでなく、中の者の心にも光を灯すのだ。
場違い感アリアリで明らかに浮いてしまった悲しみと、そこに人が寄ってくれた喜び。
禍福はあざなえる縄の如し。人生の縮図ですね。
心に光がともるとこの世はまんざらじゃないな、と思えます。
でも人生そんなに濃密でなくてもいいんじゃないか、とツッコミたくなったことは秘密。
うん、こういうツッコミたくなるものは好きですね。 「森内俊之vs森内俊之」
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm13368406
自分がとにかく突っ込みたくなったのはこれです。
将棋はルールぐらいしか知りませんが、それで十分楽しめました。
いや、あまり細かいことは気にしない初心者だからこそツボに入ったのかもしれません。
やっぱり羽生さんが言うんなら仕方がないんだと思います。
淡々と自分と向き合う森内竜王も素敵です。
ちなみに私は囲碁が好きです。だから囲碁のFLASHがあったっていいじゃない。誰得? 俺得です。
そういえばAAでの力作「DQ風2」などを製作したMG氏は「碁は四段です」ってアピールしてましたね。私よりも強い。ぐぬぬ。
それと、個人的にこれをみて思ったのは、ニコニコのコメントの威力です。
コメント抜きのyoutube版もありますが、率直に言えば随分面白さが違うなと感じました。
他人のコメントで笑いどころが分かるし、集団としての盛り上がり感が素晴らしい。
人の「wwwwwww」を見るだけで、自分もつられて笑ってしまうのはなぜだろう。
FLASHブームの後を受けてニコニコが動画文化の担い手となれたのは、
コメントの威力にいち早く気づき、集約の工夫をすることでその力を引き出せたからなのではないでしょうか。
そこでFLASHでは、どのような工夫ができるのか?
それに関しては職人の方々の構想を待ちたいと思います。 >ボケとツッコミ
そうですねー。ボケっぱなしってのは、かなり俯瞰的に計算しないと、笑えないような気がします。
単純そうに見えて、考え抜かれている。
読者をイメージする想像力を必要とする芸風。
ニコニコはコメントでツッコミが入りますよね。だからボケだけの作品でも、輝くんじゃないかと思いました。
>「森内俊之vs森内俊之」
将棋がわからない自分でも、かなりすんなりと笑いに入っていけました。
自力でわかったのは、手駒を増やすと、二度うち辺りだけなんですが。
コメントって力がありますよね。
どうしてもネットの作品だと一対一というか、何処か孤独なところがあるんですが、これだと賑わいがあって雰囲気が楽しい。
漫談でも落語でもお客さんの笑いがあって、一つの文化として完成する、とかなり背伸びして考えてみました。
タブの「羽生さんが言うならしょうがない」もかなり素敵です。
ニコニコには作者と受け手での距離感で勝れないなー。作者から作品が巣立ち、各々の話のネタに語られる。ある日見ていた理想の光景じゃないかと思います。
たとえFlashで作られてもどんどんニコニコに輸出される時期に入ってるのかな。
となると、Flashならではの利点。クリックできる要素、ゲームとの融合、長さがわからない故の二転三転の展開のドキドキ感、とかかなー。
上手く生き残れれれば、と思います。
さわっていて楽しい、2chやアスキーアートの魅力を抽出した、ってのはこの作品かな?
こういう系統は人気商売ゆえに減っていく(というか絶滅した?)のかもしれませんが、これを超える同系統の作品にまだわたしは出会えていなく、一抹の寂しさを感じてしまうのでした。
いや、むしろオンリーワンの魅力なのかな。
SLIDE
ttp://freett.com/counterq/rw03fl/slide.html ついに閃が開催されましたね。
私のほうは閃へのコメントを書き上げてました。
疲れたー やってしまった。
あれだけ楽しみ発言してたのに、開催日がすっぽり抜けてたなんて。
レスされるまで気づかなかった。
ああ、何やってんだろー。
っつーことで、しばらくは他事はしばし中断して、閃をマイペースで楽しもー。 .
.
.
閃2013
ttp://hirameki2013.yukishigure.com/works.html
. ・オープニング
ttp://hirameki2013.yukishigure.com/opening.html
さあ、どう始まるかと思っていたら。
機能的で実用的なオープニング。発生からイベントの経緯が、丁寧に綴られている。
色々、紆余曲折があるけど、「求めれている」っていう強い意思を感じた。
ただ、テンポが急ぎ足だったかな。初見では、読むことができん箇所が。
文字だけを追えばギリギリで読めると言いたかったけど(それでも読めなかった)、全体の映像を観ようとすると完全に振り切られてしまう。
でも、これはこのイベントが長い歴史と広い関連性を持っていて、とても15秒で語りきれないという、良さ故のネックなのかも。
終始、活動映画的で説明調なのも重みと渋みがあっていいけど、
閃を凝縮するには映像と文を混ぜ合わせたり単語とかの乱れ打ちとかすると、メリハリが出るんじゃないかな。チャレンジャーって感じで。
それでも、映画的にこだわるなら、画面と文字の出る幅を合わせたりすると「らしさ」が出るかも。
でもでも、なんか内容を把握して観ているうちに、「ここまでやって来たんだ」、って感慨があった。
子離れを見送る親のような、めでたさと寂しさが混じったそんな感情。微妙な距離感がある。
ちょっと入口は狭いけど、何回か噛むと味が出てくるスルメOPだと思う。
そして15秒って、そういうことするのには丁度いい長さ。 あらら、すっぽり忘れてましたか。
まあ、早めに気づいて良かった、と思えば(汗
私は既に本スレに投下したので、暫くは日刊氏のコメントを見学してますね。
わくわく。 ほんと、開催時期、素で来週かと思ってた。修学旅行で遅刻してしまったかのような、やっちまった感。
時間っていうのは、速いもんですねー。
わたしは長距離と比べて、スプリントは得意じゃないんす。
あんまり期待しないで、「こいつバカやってるよ」って感じで優越感に浸るのが正しい楽しみ方、かな? ・Blue Monday
ttp://www.youtube.com/watch?v=64H9jcZpmWQ
>途中、東新宿から西新宿へと移り変わります。
>彼女はいったい何から逃げているのか、ぜひぜひご意見聞かせてください。
>走れよ乙女。誰もそれからは逃げられない。それは東の果てからやってきて、僕らの頭上をかすめていく。
都会的。それも大人的。清潔で、シック。
そう思えたのはお洒落な画と音楽の為かな。
写真を使うと2Dというか平べったくなりがちだけど、絵の少女の手前にも人物が入れられたことで、立体的な息吹を感じられた。
そして音楽。この何処か陽気でオリエンタル(?)な音楽は本当に洒落ていて、初見での印象を決定づけているように思う。オシャレ。
何気に走る足の動きや背景のスクロールと同期している? 一体感がある。
音楽がプツンと切れるのには初め違和感があったけど、テーマを考えるとこの断絶感は味になっている。突然、断ち切られる理不尽さ。
大人的。清潔でシック。なのは意図された印象だったのだろうか。
表情や動きに、疲労感や焦りが、ノっていない。全力疾走というより、軽やかなランニングのように見えた。
でも、それはそれで何処か遠くから見つめる視点(神の目線というか)のような、そんな立ち位置から見れたので、意外といいかも。
中盤での階段を飛び降りる箇所、メインとなる走りが自然なだけにやや丁寧さに欠ける部分もあったけど、
こういう挑戦心、個人的には大好き。こぢんまりとまとまっていないというか、何だろなー、ダイナミズムがあって好感。
コメントもいいっすね。過度にネタばらししないで、でも推理とワクワクを煽る名コメントだと思う。
余りにもいいのでコピペしてしまいました。
何から逃げてるんだろう? 時間ってのはわかるし、タイトルからある程度は推測できるのだけど。
でも、それ以上に、一生懸命走れなくなること、老いとか青春の終わりかな。もしかしたら死かなとも妄想は膨らむ。
そういう部分も含め、色々と楽しませてくれた作品でした。
15秒作品なのに一晩考えてしまった。それだけわたしが馬鹿だってことだけど。 ・mudai
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm20334449
何だろう。凄く手品っぽくも、「モノを作ってる」喜びや驚きを感じる。
指を折ってカウントダウンする間も素敵。焦ってない。
かなーりワクワクした。余韻もある。
折り鶴は予想できなかったなー。でもこう自然と演出されると、うおーすげーと思う。
非現実を現実と思わせる映像の説得力。ほんと滑らか。
珠が浮き出る不思議な現象も、違和感なく作品内で溶け込んでいる。
アニメの特徴は実写と違って、どこまで単純化やデフォルメが出来るか、って点にあると思ってたけど、
アニメなのに手の動きや折り鶴の折り目など、精緻に描写している。
だからなのか、今までにない密度を感じた。
この短さだから出来たんだろうけど、それでも折れずに貫徹したのに拍手したい心で一杯になった。
これはこのまま突き進んで、例えば折り紙を折る動作をそのまま描写してしまう、
っていう方向もアリかなーと思った。
いや、それは労力的には無茶な欲求なのだけど、他にそういうことをやれる人っていないんじゃないかと思わせるものが。
この拘り方は、病や狂気と紙一重な危うさを感じさせる。なかなか常人では踏み込めない域にいると思ったのは気のせい?
自分で自分を褒めてやってください。ご自愛を。
とにかく今回は無限に広がる可能性の一端を見れた気がする。羽ばたいて欲しい。 ・ひかげのこ
ttp://1st.geocities.jp/xyzipper_szn/hrmk_hikage.html
春の一日が過ぎてしまう、そんな感慨が。
後半の絵柄の大幅な変化、やや理解しにくいブレみたいのを感じるけど。
英字も読むとまた印象が変わりそうだけど、読めないのであまくでも装飾品ということで観た。
受け止めたのはPlease! Please! Please! って所で何処か遠くにある感じがしていたのが、肉薄した内容になるのかな。
何処か遠くに感じる、って点はOPもそうだったように、かなり映画っぽさを感じるから。
ノイズみたいな縦線や背後の音などから。
コメントから「たいようを見たかったの」とあるけど。
ありがとう、は見れたってことかな。
でも「それでもね、おとうさま」からは安易なハッピーエンドだとも思えず。
作品内では「せんせい」と呼びかけているのも、妙な感じ。
きっとこうした断片的な謎は英字部分を丹念に読み解けばわかってくるのだろう? けど。
うーん、ちょっとわたしはそこまでたどり着けなかった。
でも、敢えてイベントでこういう作品を持ってきたのは、かなり面白い試みだと思う。
わたしなりの考え。
どうも、この女の子は太陽を見たかった、でも見ることができない環境にあった。
それは彼女だけではなく、おとうさまもそうだったのかもしれない。
雪女みたいに溶けてしまうとか。
せんせいは、幸か不幸かたいようが見たいという彼女の願いを受け入れ、導いていった。
彼女がたいようの下では生きられない「ひかげのこ」だとは知らず。
だからあの写実的な描写は、悲劇的な終わりを告げるとともに「ありがとう」という彼女なりのハッピーエンドを演出したんじゃないだろうか。
と、他の方の感想を見ると、ほんと切なくなる。
そこまで深かったのか、この作品。そこまで浅かったのか、わたし。滅茶苦茶マトハズレ。
と、まー、浅いなりには浅いなりで使い勝手があるだろうと、晒してみるわけですが。みんな天才だったり理解者だったりしたら、怖いでしょ? ・jump
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm20359899?mypage_nicorepo
うう、何だこれは? フリーダム! とんでもなくフリーダム!
妙に笑えて中毒性がある。
白一色に線画なのと無音なのが、却って印象を深めてていい感じ。
構成って語っていいのか? 殆ど動かない序盤から、動きのピークを徐々に終盤に持ってきていて、かなり好き。
筋肉質な肉体への変化や煙を噴いて突進を一瞬でわからせるように、けっこう絵の力がありそうなのに、
何か炭酸が抜けていて、ぼけーっと見れる。いい意味で。
あのアゴ顔は三日月がモチーフかな。
造形から主人公には感情移入できない(というかする暇がない)けど、それが却ってオチを清々しくしているような。 ・Hatespeech
ttp://blackyfilms.web.fc2.com/flash/flash5hirameki5.html
魂の叫びって感じ。
「おお! 俺の厨二の叫びを聞け」っていう痛さからは、イッポ置いたのは、音の賜物だろう。
とても機械的な音が、微妙に感情の振幅を控えめに味付けしている。
何だろうなー、とても切実な言葉なのに、寂しささえ感じる。独特な味。
メッセージは全て読み取るのは困難だけど、ぜひ読んでみたくなる後味があるし、かなり心に刺さる部分があった。
知らず知らずのうちに、序盤の単純な絵で侮っていた部分があったかもしれない。
何でか知らずか、「売春婦の娘」という単語が全体から浮いている気がする。
妙に具体的で地がつきすぎている感じかな。ってこれも体験から出た言葉なら、ヤヴァイけど。 ・inspiration
ttp://sunsetyuhi.web.fc2.com/work/Inspiration/Hirameki2013.html
顔がほころぶ。
多分、仮面と音楽や効果音に朗らかさがあって、わたしの心を軽くしたんだろう。
かなり実験的な作品だと思うけど、ネルネルネルネを作ってるような楽しさ、甘味があった。
演技、上手いと思う。楽しんでる感が伝わってきた。
やっぱりあっちが笑ってくれると、こっちも自然とニンマリしてしまう。
youtubeと比べてFlashの方が画像が荒く見えてしまうのは、うーん。
単体なら気にならない程度なんだけど。 ・output
ttp://www.geocities.jp/karoeya/movie/output.html
いやー、これは開始直後から、物凄く高揚感があった。
それだけ色彩センス、立体と平面を自由に闊歩する面白み、脳の中でとろけるような心地よさがあった。
好き。初見でもう惚れてしまったが、何度も見返したくなる。
見返してみた。かなりの数。
まず音楽が好き。デジタルな「暖かさ」が春とよく合っていると思う。
同期も無理をしないように、でも一体感を持つように取られていて、気持ちいい。
あと鋭角的な線と丸みを感じさせる動き、とんがり方と緩やかな丸っぽさが、バランスよく配置されていて、飽きが来ない。
それは暫くタメの間を作ったあとの、色鮮やかな円へと画面を集約させる盛り上がりどころで、輝いている。
ここは、ほんと好き。これ観るだけでFlash観ていてよかった、と本気で思える。綺麗。
配色。色の配置の仕方が、かなり丁寧。背景も含め、ケバくなく地味でもなく。心地いいスカッと感。
今回は立体のサイコロ辺りのシーンに、ちょこっと唐突感が。
なんだろうなー、この場面が、しっくりこないというか、何というか。南東か。NATOか。
それと何気なくも序盤にあるムチのようにしなる線の魅せ方。
ごく自然に演出されてるけど、こんな切れ味あるものを見ると「あー、確かな個性がある」って思う。 ・卵焼きにかけるモノ
ttp://www.geocities.jp/densekabox/flash/tamagoyaki.html
滅茶苦茶だ。オリキャラで勝負するかと思ったら、激しく忍者が出てくるし、しかも殺伐として暴力的だし、喋るし。
でも、ここまで徹底してるからこそ、ショックが大きかったのかもしれない。
既成概念や予想を、ことごとく外された時に出てくる、心の底からの開放。そんなのがあった。楽しかった。
卵焼きにはショー油だろ? とわたしは思ったけど、ケチャップってのも意外とぶっとんでますね。
そして忍者のセリフが余りにドラっギー。キマってる。こんなセリフ、思いつかないよ。
演出では、効果音の使い方にかなりビックリした。一瞬の居合劇を見ているかのような緊張感。
何気に最後の方で徐々に調味料がかかっている細部の描写にコダワリを感じる。
またオリキャラの表情がとても漫画チックで、
この点が残酷で攻撃的な印象をもちそうな本作を、ギリギリで笑いへとつなぎとめていると思った。 ・+ R.P.S. +
ttp://www.geocities.jp/m3685jp/flash/hirameki2013/index.html
本日の挑戦。
4/7 6/7 4/6 1/5 2/5 5/6 7/8 5/7 6/7 17/7
ありゃ、バグ?
キリのいいところだし、裏技でも超得点が取れたので、ここまでで。
慎重に進めた積もりなのに、どこかしらが間違っているのが、なんか悔しくもあり楽しくもあり。
反射神経と判断力と遊び心が要求される。妙にハマる。
飼ってください。適度なギャグテイストがメリハリを。
ただ答えの成否が回答直後ではイマイチ分からなかったので、正解・不正解を音でわけると、より親しみ易く達成感が出るかも。
あとはグーが、グッドジョブに見えてしまった。何か子供のジャンケンによくあるグーチョキパーが合わさったムテキっぽい禁じ手な感じにも。
/j^i
./ ;!
/ /__,,..
/ `(_t_,__〕
/ '(_t_,__〕 GoodJob!!!
/ {_i_,__〕
/ ノ {_i__〉
/ _,..-'"
/
これはオーソドックスな記号で十分な気がする。
シンプルなルールだけに混乱は少ないほうがと。でも、わたしだけかなー、そう思うの。 ・15秒で15面
ttp://nrf-flash.sakura.ne.jp/flash/fifteenfifteen.html
本日の挑戦
10、8、8、10、10、11、10、8、10、8、8、6、8、10、6、4、8、8、8、11、8
悔しい、悔しいとついリプレイしてしまった。
何だろうなー。マップ構成を覚える要素と適度にアクションを要求される要素が、上手い具合に融合していると思う。
2面はダッシュで突っ切れる。8面は落下率が高いけど、うまくジャンプが決まれば、行ける。
難度的に10面クリアで満足。11面は時間もステージ構成もムズク、この先は行けない気がした。
こういう一刻を争うゲームって、マウスを使わず、キーボードだけでプレイやリトライが出来るのがとても嬉しい。
余計なストレスが掛からず、凄く手軽にやれる。
キャラも思った通りに動くので、触り心地もいい。
失敗した時に、ステージのせいじゃなく、「ああ、自分が操作ミスしたんだ」っていう心を呼ぶのは、マリオUとかの丁寧なチューニングっぽさが。
ゲームオーバーの時に失敗した面を教えてくれたり、あわよくばクリア面に応じた一枚絵を用意してくれたり、そうすると。
ってちょっと贅沢な欲求か。でも、そう思わせるだけの土台の確かさはあった。
難易度高めだけど。
15面クリアした人の動画とか観たいなー。きっとかなり計算して15秒ギリギリでクリアできると見た。
って自分がゲームを上達すればいいんだろうけど。他力本願。 ・みほのRUN
ttp://lionz.from.tv/flash/mihorun.html
ドット調のデザイン、音楽はファミコンを思い出させるけど、その中でもファミコン後期のようなかなり丁寧で力の入ってるパッケージ。
中身もやってるうちにルールがすんなり入ってきて、初心者なわたしでも十分にクリアできる難易度で、いい感じ。
おまけも含めて一分くらいで楽しめるそのお手軽さが……
きっとコスパ的にはもっと楽しめれるのだろうけど、そう思える手軽さが気持ちいい。
メイドというコアなアイテムを扱ってるのに、ゲームのさわり心地や紙芝居漫画の軽やかさは、じんわりと伝わってくる優しさがある。
ホウキで銃弾とか眼鏡投げとか、一つ一つの発想も自由でそれでいて素直に画面を楽しませ、入ってくる。
3DSの立体視でこんな系統の作品を、作ってくれないかしらと、そんなプロっぽさがある。でもやってることはアマチュアの謳歌。
得点とか付くとやり応えは上がりそうだけど、広い受け皿を目指して敢えて止めたのかもしれない。自分は後者よりに楽しめた。
何だろうな。競ったり挑んだりするんじゃなくて、インタラクティブな小品をのほほんと味わえる感じ。
こーゆーの好きです。 ・Would
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm20361952
ちょっとしたダサさも含めてクール。
渋谷系Flash? なんて詳しくないのに言わせてしまうスタイリッシュさ。
実写系は恥ずかしがり屋が多いのか、人物を出すってのが少ない印象があったけど、かなり効果的に使っていて、自然と好感。
道路を歩くだけ。でも都会では正面しか見ないことが多い。人通りが激しいから。上ばっかり見るときもある。ビルに慣れないから。
そんな見逃しがちなアスファルトを進む足元の道に、敢えてカッコヨサを演出する。
この視点は、表面だけの上澄みをかっさらっただけじゃないモノを備えてるんじゃないだろうか。考えすぎ?
道路と線路、ややどっち付かずか。なんか、この作品は他に見応えのある部分やアイディアをかなり編集して削った作品に思える。
15秒という制限が枷になった気もする。
時間制限のない舞台なら、もっと輝くんじゃないかなと身勝手にも思う。 ・ホールドアップ
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm20319091
初見。
声を出して笑った。
うー、こういう発想はナカナカ出ないよなーと思わせる思考の盲点を突かれた。
最後の余韻がいいなー。無理に15秒に囚われてないようで、いや、観覧者の笑いを待つ間だったのか、そうだとしたらそのセンスに脱帽。
2度目以降。
うん、なんだろう。笑ってしまうのが、失礼なくらい暴力的。
何にせよ撃たれてた。きっと事後報告書にも、「動くなと言ったのに動いたから撃った」って書かれるのだろう。
警官は多分、余り大きな責任を問われない。
影絵にしたことで、何処か漫画的に見れた。けど、もうちょっと手間をかけられていたら、色々と考えさせられたかも。
権力の横暴、暴力の理不尽さなど。
または、いくつかパターンを用意してシリーズ化すれば、ショートギャグ集としてずっと笑えていたかも。
笑いとシリアスと、この中間の立ち位置はちょっとムズガユイ感じがするのだけど、
うん、この作者が持つ奇妙さは巌しくわたしの目の前に立ちふさがった。
どうも、作者として見るのは、見られるのも、個人的に抵抗があるし、極力控えてるんだけど。
この作者が目指す地平には何が待っているのだろうと、それともキマグレ屋さんなのか、とかもうちょい追ってみたい。
そうしてまたこの作品を見直した時に、自分が何を思うのかも知りたい。 ・Heart With Pride
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm20336651
うん、王道アニメ。
モノが動いている画面展開も、楽しめた。簡単なようで難しい。
やや扉がチープか。
うん、観ていて適度に興奮する。一人よがりな感じはせず、色々なカットで適切に情報を伝えている。
カットの使い方も焦らすのではなく、
丁寧に作っただろう画を一秒足らずで魅せるなど、15秒制限ならではの密度の濃い時間を味わえた。
やや、動きがスローで単線的で、その分、迫力は削がれたように思える。けど、それも小手先の問題。
もっと小手先。
扉が木のベニア板みたいなのがちょっと惜しい。
例えば豪華なシャンデリアと、輪になってぶらさがっている蛍光灯。
破壊された時にどっちがカタルシスを受けるか。見栄えがするか。
城という舞台を用意しただけに、絢爛な扉も用意して欲しかった。
(門番がいないのはイベントの性質上省くのは正解だと思う。というかそれだけで一個のショートアニメを作れてしまいそう)
でもね、そういう小手先は、後から身に付けられるもの。
今作を見てしっかりしてるなーという土台は、キャラの造形の安定感、色彩や光と影の演出の確かなセンス、熱血なやる気と冷静なプロットの併存。
元からFlash以外でこういう経験をしていたのだろうか。確かな地力を感じた。 ・エンディング
ttp://hirameki2013.yukishigure.com/ending.html
かなりアクの強い作品だけど、そう思わせなかったのは、大会参加者のみんながとても個性的な光を放っていたから、かな。
アイディアは面白いし、来年も続いてくれるのに、ほっとする。
ただ圧倒的に作品に費やす時間や手間暇が足りないように思えた。
忙しかったんだろうなー、というのがヒシヒシと。
個人的にオープニング、エンディングが気合入ってるとその時、その場の雰囲気的には、いいんだろう。だけど
誰でも気軽に入っていけるよ、こんなんでも大丈夫だよ、来年も気軽に参加してね。
的な雰囲気があって、これは素敵。何だか自然と閃へのハードルを上げてしまっていたのを、最初と最後で緩和してくれた。
このエンディングを見て、「俺ならこう作るぜ、何だこんなんなら俺も参加しても、来年かこの程度の賑やかしならば」と思えた人は、居るだろうか。
きっと一人でもいたとしたら、その時点で報われる作品だと思う。
個人的にはこーゆーのがツボに食い込む。
イベントが紅白と連動したのは、どうでるか? それは今年の終わりまでわからないー。
でも、ちょっと、まぁ、えっと、15秒っていうシンプルな趣旨だけに、余計な複雑性を持つものは省いて、イベント自体よりシンプルにしてもいいかな、とか、思った。
盛り上がる、とか、そういうのも気にせず、なんでもかんでも、15秒だからいいあじゃん、って、思えても、いいんじゃない、か、な。なんて。
なんだろね。この感想。溢れ出すorz感。
わたしも、すごく拙い感想で、後出しのくせにほかの人とモロ被りだったり、浅かったり、その割に独自の視点も鋭さもない、文章も読みにくい。
ほんと自分でも憂鬱になる感想だけど、書き込んじゃいました。そのほうがスッキリ楽しめるんだもん。 閃2013、全作品感想おつかれでした。
こちらは現実世界に忙殺されていました。中々レスできなくて申し訳ない。
エイプリルフールのネタを考える暇もなかった。どうしたものか。
閃は運営を一人でまかなう関係で、2014以後は白紙ということですが。
ひとまず、次回は頑張っていただきたいですね。
その後どうなるかは、神のみぞ知る、です。
・SLIDE
ワクワクさせられるAAの動きと、さわって楽しい感覚。
スライドしながら流れていくおもちゃ箱、というべきでしょうか。
なるほど、確かにこれは独自の魅力といえるでしょうね。
イメージとしては「2ちゃんねる大王」を思い出しました。
人間に作られたものであるAAが、あたかも意志を持っているかのように動き出す面白さ。
それに「さわって楽しい」要素を積極的に加えるとなると労力が凄いのでしょうが、やはりそこにFLASHの可能性を感じずにはいられません。
さて、3月が終わり一区切り。折角なので、ここで一句。
うららかな 家のテラスを 陽が照らす べてらん 不安にさせてしまっただろうか。
あー、巻き込み規制で書き込めんかったんです。ごめん。
無理や融通を利かせばどうにかなったのかもしれないけど、気楽にマイペースって感じでいきたいので、どうか長い目で。
閃の感想は、うーん、ダメポって感じ? >SLIDEと2ch大王の、方向の違いと、共通点
SLIDEはギミック満載な作品ですが、もう一つ見惚れてしまうのが、デザインのAAっぽさ。
AAは「記号の組み合わせ」なんだと、かなり感じさせるところ。
輪郭というか、線の書き方というか、アスキーアートそのものをコピーしてアニメーションさせている。一部の動きはコピペ改造みたいな面白さが。
それも手抜きじゃなくて、敢えてかなり意識的にやっている。
作者さんはAA職人としても活躍できる素地があったんじゃないかな。
似た系統として、CAUTION110%の作者さんが入る?
ttp://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Sunnyvale/1037/
AA足球 、AAまてぃっく AA連盟。
Slideを含め、この4つはAAの形を極限まで保ちつつ、アニメーション風味に目を楽しませることに成功している、そういう感じがする。
うーん、それでこういうのは、10年前の作品なんだけど、今となっては見る機会が少ない。
ちょっとわたしは途中離脱期間が長いし、知見が古いんで、探せばもっとあるのかもしれないけど。
それで2ch大王はご存知のとおり、アニメのOPのパロ系で、AAを絵化、アニメ化して、アニメーションの丁寧さで話題となった。
線の硬さが取れ、ぬいぐるみみたいにモフモフするモナー達。ね? 何か対照的。
こっちの系統は、ナイトメアシティ、救世主猫、アクロストリートと、今でも連綿と続いている。
AAアニメと言えばこっち、みたいな代表格。
けど、2ch大王も先駆者的なFlashならではの仕掛けがある。
ランダム要素。わたしの知る限り、他にもあるかも。
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm4383530 これらの作品は一見目で、ずばんと心を持っていくインパクトがあるんだけど、
何回も観ていると段々と面白さが馴染んでくる懐の深さみたいなのもあると思う。
それもFlashじゃないと出来ない仕掛け。
ナイトメアシティが最初に注目されたのも、隠しオマケが刺激的だったからな気がする。
なつみSTEPも、萌え研でのなつみの表情の動きが可愛いと思いつつ、再生するとあの有名なバールなようなものの面白さが、
人気を不動のものとして決定づけたと思う。
ttp://koshiandoh.com/flash-gallery01/natsumi-step/naki.htm
あー、まー、何かうまく纏まんないけど。
先人も色んなチャレンジをしてきて、そういうのがFlashの楽しみ方の幅を広げていった。人気作の裏にも、カラクリがある。
最近はyoutubeとニコニコと、多方面を向くために、そういう部分が削がれていく傾向がある(ように見える)けど、
FlashがFlashなものとしてやってやるーっていう気概があるのも出てきて欲しい。これは要望というより願い。長い。ここまで読んだあなたは、偉い。 気楽にマイペース、誠に大切なことですね。
無理をしすぎず、長い目で物事をみるというのはやっぱり必要。
私もマイペースでひなたぼっこをしていくつもりです。
>SLIDEと2ch大王の、方向の違いと、共通点
なるほど、私はFLASH史の上で「AAの形を保った作品」の延長線上に「AAアニメ」があると捉えていました。
でも確かに「AAっぽさ」を意識して保った作品というのは、一つの方向性の違いと言ってもいいのでしょうね。
また確かにナイトメアシティにしても、なつみSTEPにしても隠しオマケは衝撃的でした。
世界観をきちんと構築している作品において、世界の謎が解ける瞬間というのはとても魅力的な瞬間に思えるんですよね。
ゲームで言えばFF3の浮遊大陸を出るところや、DQ5の子どもの自分に会いにいくところなど。
当時を振り返ってみると、そういう類の心躍る興奮を感じられたと思います。
FLASHとしての気概、一観客としてはやはりそれが欲しい。
私も、日刊氏と同じようにそれを願っています。 あと、個人的なサブカルチャー分析の視点ですが。
すでにニコニコ動画も衰退期に入ってきたのではないかと思っています。
ニコニコ的コミュニティ構築の原動力となった「御三家」(ボーカロイド、東方、アイドルマスター)
が、もはや新規の広がりを見せなくなったことが要因として大きい。
ボカロはFLASHと同じような感じで、お金がらみのいざこざや「文化を共有しない一般人」からの冷たい目が表に出てきています。
それに、恐らく「千本桜」以降、ミリオン再生レベルの曲がほとんど出てきていない気が。
東方も「紅魔郷・妖々夢・永夜抄」が全盛期で、そして「風神禄・地霊殿・聖蓮船」で人気としては一区切りではないかというところがある。
キャラ飽和によるマンネリ化の波にのまれ、創作の形態も一通り出尽くした感は否めない。
アイドルマスターは良く知らないが、あまり話題を聞かない。
なので、おそらく東方と同じような状態なのではないか。
これらに代われる勢力など、そうそう出てくるものではない。
将棋の電王戦は話題になったが、それだけでは弱い。
2013年はサブカルチャーにおける「動画文化」自体が、一つの転換点を迎えている年のような気がしますね。 またもや、規制がー。ごめんなさい。
イベントの谷間だったのが、救いかあ。
うーん、何つーかこう続いてみると、イベント、特に運営が少ない小規模イベントの開催が、2chから離れるのも何となくわかる。
規制されていたら、置いてきぼり感とモヤモヤが溜まってしまう。イベントそのものの存亡がかかってしまう。
でも、2chから離れたら、個人サイトの定例イベントみたいなもので、ジリ貧になってしまうような。そこらへんがジレンマ。
わたしなりの結論は、ネラーだから何とか2chでも書き込みの場があると嬉しいっていう感じです。
>AAやFlash
あー、何つーか、AAそのもの系はアニメ系と違って、手抜きだの、黒っぽいだの、量産型でマンネリだの、
Flash板内ではけっこう不遇な時を過ごしてきた気がします。(あくまでもFlash板内的に……)
何時の間にか、アニメの格下的な扱いを受けてしまい。でも、わたしは好きです。今も残存してるものはそれなりにあるし。
おまけ系はあると嬉しいっすね。
閃でも、>>27とか>>247とかは印象に残ってる。ありがたやー。正当派テレビアニメでは出来ない、Flashならではの間口の広さや工夫だと思う。
でも、別所は別所で、ニコニコはニコニコなりに、工夫しているのもあるんですよね。
先に挙げた「危険なポポポポーン」の無限ループとか、こういうコメントの演出とか。
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm19687208 >サブカルチャー
うーん、この視点はかなり驚きでした。衰退ですかー。
ボカロ系はメジャーに進出していってイッタイッタと思っていたので、びっくり。
自分は御三家には余り触れてないので、そこらへんは全くの無知。
でもブームだなー、バブルだなーと思わされるのと、その次の崩壊ってのは、表裏一体なんだろうか。Flashでも。
外部って夢見がちだけど、優しくはないっすよね。けっこうキツイ。
仲間内や愛好者での温かさや一体感っていうのは、宗教的なOFF会にも通じる危険性はあると思うんだけど、ありがたい。
一番キツいのが、内部から遠くへ行ってしまったと見送られ、外部からは冷めた視点で見られる。
何かFlashでもそんなことがあったような、そんな人がいたような。うーん。
わたしがニコニコを楽しむのは、歌系と言ってもボカロよりも商用音楽そのもので、MADや、最新曲や歌集みたいなもの、公式・ファンの非公式PVとか。
あとは「みんなで決めるゲーム音楽」系とかゲームの実況とか紹介とかNintendodirectとか。
灰色や黒系が大部分なんすね。
そんなカオスな状態が、Flashがメインだった時のJASRACや一部の黒フラ反対者とかからのビクビクとした感じから解放されていて、凄く好きです。
なので衰退するのはここら辺の間に合わない法整備や黙認やメディアリテラシーの不備が破られる時かなー、と思っていたのですが。
振り返ってみると。
Flashも含め、自分の動画の楽しみ方の多くはサブカルそのものというよりも、
メインカルチャーがサブカルに移植されたり、編集されたり、加工されたり、ってところにあるのかなー。
外部、内部、メインカルチャー、サブカルチャー、ここら辺がごった煮になっていてそこらへんを楽しんでる感じがします。
うーん、でも自分は消費者以外の視点をもてないので、ここらの分析はあー、まー、無理。纏まらない。
サブカルチャーにおける「動画文化」の現状と展望。これは是非、踏み込んだ考察を聞きたいところです。ベテランさん! 規制の間に、いつの間にか夏になってしまったという。
春のひなたぼっこは、もはや終わりというもので。
今は、砂浜に座って海辺を眺めているという感じです。
ぼんやり加減は相変わらずですが。
動画文化については、私も消費者以外の視点で語れるかというとアレですが。
それでも意見を求められるというのは、やはりうれしいことです。
海を見ながら、つれづれなるままにチラシの裏を展開するかもです。
もしよければ、独りごとをお待ちください。
・・・しかし、やはり終戦記念日が来るたびに平和の尊さを噛み締めますね。
これからも平和が続くことを祈ります。黙祷。
季節に合わせて、ここで一句。
潮風が 頬をかすめて 大空へ べてらん おお! お久しぶりです。
なんつーか、かんつーか、こちらも規制の嵐に会いまして、何とかレス出来てる。
猛暑。あつい。でもベテランさんのレスは温かい。進歩のない牛歩の歩みを見限ったり、飽きてしまわれたかと思っとりました。
冬ハワイ 春秋日本 夏スイス
戦争は、あー、もう、国が本気で喧嘩しちゃうと世界が吹っ飛ぶところまで、とっくに人類は到達してしまっていて。
戦争と紛争ばっかの人類の歴史で、まだそれに直接巻き込まれていないこの国と時代に感謝。
うん、何か、溜め込んでますね。ワクワク。
まー、ここはめちゃくちゃ過疎ってるし、落書き帳みたいに使ってくだされば、こちらも嬉しいです。
折角なので、お先にチラシの裏。
端ノ向フ
考えが纏まらないので、断片的に。
・相変わらず魅力的な世界観。それに加えて、雰囲気や空気感がジンジン。
きっと光の使い方、湿度の伝え方、物語に横たわる謎とか、音とか声とか表情とか、そういうさり気ない積み重ねが、濃度を与えてんだと思う。
・一度目は公式、謎が気になったらニコニコ動画のを観たりするのがオススメ。ニコニコでの解釈や台詞の補助が嬉しい。
・ミステリホラー? 昭和ファンタジー? と新境地を観た気分に浸ってたら、何故か巨大戦車! に激しく笑ってしまった。
趣味突っ走ってるなー、と安心してしまうとか。ここで妖怪というか水子というか、モノノケの類を出してたら文句ないのにとか。
ネットのDailymotionに転がってる「プラネテス」でNHKの本気に打ちのめされました。
Flashでは、エンディングソングが「WALKING TOUR」に使われているのでも有名。
アニメで苦しくなるほど感情移入したり、泣きたくなったのは、ホント久しぶり。
無料動画で、こーゆープロの本気が並置されてると、そりゃ趣味でやってる個人製作者さんらは、辛いわなー。 「端ノ向フ」を観てみました。
なるほど、弥栄堂の塚原氏の作品だったんですね。
また新たな作品を知ることが出来てありがたいです。
クオリティ高いCG技術や描写が生み出している重みがある独特の空気感。
「ウシガエル」からの歳月の重みを感じる作品でした。
FLASHの技術と表現方法はここまで進歩したのか、というなんとも感慨深いものがあります。
ストーリーも、作中で一から十まで説明するのではなく、
かつ「主題」に関してであれば、よくよく考えると話がつながってくる塩梅というのは、さすがの一言ですね。
ホラーは苦手ですが、ここまでの描写なら何とか耐えられました。
星新一の「ボッコちゃん」的な、無性に心の奥底がザワザワ、ゾクゾクっと来る感触。
それを久しぶりに感じることが出来ました。舞台設定的にも、暑い夏の夜に合う。
塚原氏の作品は、色々とさすがとしか言いようがないですね。 凄いですよね!
ウシガエルも凄いけど、それから何年も経って、こういう作品を出してくる。
表現はより多彩に、根っこは保ちつつ。
特にネットでは、トップランナーで、い続けるってのは凄く貴重だと思う。
blog、mixi、twitter、lineと、ほんと興滅が激しい中で。
特に人物の描き方が自然で柔らかくなっていて。声優のチョイスもほんと巧み。うん、凄い。 「継続は力なり」といいますが、塚原氏ぐらい継続するとやはり一つの境地に至るのでしょうね。
これからも続けて走り続けて欲しいですね。
さて「動画文化」についてですが。
なんだろう、まず「動画」のメインカルチャーというのを考えたとき、
それは「テレビ」なのだろうと思います。
そして、それでまかないきれない需要が潜在的に多く存在したために、
サブとしてのFLASH文化が、個人にパソコンの普及が進んだ2000年代初頭に花開いた。
自分はそう捉えています。
日刊氏がいう「灰色や黒としての楽しみ方」も、私なりの「一つの世界、コンテンツとしての楽しみ方」も、
おそらくはその範疇に入れることができるのではないかな、と思います。
そこで、情報を次々と消費していく「情報の大量消費社会」の現状において、
「動画文化」は、その役割を終えかけているということが言えるのではないでしょうか。
それは、「動画が面白い」「動画で楽しむ」という「情報」が、既に一般的な人々の中で消費されてしまったからではないかと私は考えます。
テレビを見る人が少なくなっていく。本や新聞を読む人が少なくなっていく。
頻繁に更新するブログやmixiが少なくなっていく。家庭用ゲームが売れなくなっていく。
ここら辺は、そうなっているものもありますし、自分の予想でもあります。
まあ、原因はインターネットの進歩、そして現在は携帯電話の進歩が大きなものであると考えられますね。
要するに、情報に接する手段は動画に限らずいろいろ移り変わっており、その流れの一部分として「動画文化」も流されようとしている。
何となく、ゲーム業界と重ね合わせると今の「PS3」や「Wii U」の現状とかぶる気がします。
「別にそれ、面白そうじゃないじゃん?」と言われたら、返す言葉がないというか。
また、他人にやってもらって(見てもらって)「で、これのどこが面白いの?」と言われると説明に困る部分があったりする。
現在の飽和した作品群は興味を持ってもらえず、たとえその作品に触れても理解してもらえない。
サブカルチャーにおける動画文化は、そういう状況に直面しているといえるのではないでしょうか。 そして2000年代後半にはFLASHは衰退し、ニコニコが流行りました。
しかしそのニコニコですらも、すでに大体の創作形態は出尽くしたといえます。
つまりは強力な推進力を失った船のようなもので、
「動画を見ることが面白い」という文化自体の潮流に抗えるだけの力はもはや失ったとみていいでしょう。
御三家以外も、もはやミリオン再生は相当少なくなったのではないでしょうか。
なんていうのかなあ、結局は、
制作側は「動画作りって別に面白くもない気がしてきた」「労力に合わない」
視聴者側は「別に、動画って生活になくても困らない」「そもそも動画って何か知らない」
という「無関心」層が増えたわけです。
「好きの反対は嫌いではなくて無関心」というのを、地でいく流れですよね。
「動画」は生活必需品でないわけですから、この「無関心」を何とかしなくては「動画文化」そのものの浮上はありえない。
客観的になっているかわかりませんが、なるべく広い視野で「動画文化」について考えるとすれば、そこにたどり着くのだと思います。
ですから「別にこのままでいい」「ひっそり自分がやれればいい」という人が多ければ、ニコニコにしても、このままゆっくりと消滅の流れをたどるでしょうね。
何か新たに「これは面白い!」というコンテンツが生まれ、情報の流れが作り出されば別ですが。
まあ、文化的な消滅が悪いということではありません。
文化としては消滅しても、そのもの自体がなくなるわけではありませんから。
そうしたら、楽しめる人だけが楽しむようになる。それだけのことなのでしょう。 つまり、現時点で視える展望としては楽観でも悲観でもなく。
「そうなっていくんだろうな」というある種の諦念が入った文化的消滅の未来です。
もちろんこの世から完全に消滅するかどうかというと「しないんだろうな」とも思いますが。
しかし、今より縮小することは社会的な現状の流れから言って確実でしょう。
かつていわゆる「文化としてのFLASH」を消滅させないために、
FLASHは「サブカルチャー」から「メインカルチャー」の移行を図りました。
しかし「サブカルチャー」はその性質上「カウンターカルチャー」とも呼ばれるように、
「メインカルチャー」に対抗する性質を根底に持った文化です。
そう簡単に受け入れてもらえるはずはありませんでした。
ニコニコにおいては、初音ミクは「かわいいキャラクター」としてはメインカルチャーと若干馴染んだ感はあります。
「汎用性の高い、かわいいキャラ」という立ち位置で、ファミリーマートとコラボしたのはそこそこうまくいったと思います。
しかし、歌に関しては若い世代でさえ好みが相当分かれますからね。みんなミクの歌が好きかというと、そうでもない。
ただ歌業界も衰退しているので、ある程度カンフル剤的に使われはするでしょうが、ブームの域は出ない気がします。
では、その衰退に面した文化は、この先生きのこるにはどうすればいいのか。
たとえば、もっとメインカルチャーとの親和性を高めたコンテンツが出来れば、それは生きのこれるかもしれません。
FLASHも、たとえば鷹の爪団は、辛うじてメインに食い込んだ・・・いや、まあ見方によりますが・・・気がします。
おそらく「独特の世界観を持った、汎用性を持つ宣伝媒体」として存在意義を得たのでしょう。 要するに「汎用性、一般性を持つ」もしくは「社会に対し有意義な効果が認められる」ものであれば、
場合によってはメインと親和出来るやもしれないということです。
この参考になるのは、「ニンテンドーDS」です。端的に言えば「脳トレ」ブームです。
これは、「脳トレ」の超大ヒットにより「ニンテンドーDSそのものが社会的に認められそうになった」時期が一時期ありました。
具体的には「脳トレ」や「もっと脳トレ」の累計は500万本を越えるという、社会現象として認められるところまでいったのはなぜか。
それは「しょせんゲーム」が「社会的携帯ツール」になりえる条件がそろっていたからです。
「頭が良くなる」というのは「社会の役に立つ」ということですし、
「子ども」だけでなく、「大人」も有用だとする「汎用性」があるということですよね。
「社会から『必要な存在』だと一般人から認められる」ことによってはじめて、
「サブカルチャー」は「メインカルチャー」の一部となりえるのです。
塾などでも英単語練習などに取り入れられ始めるなど、本当に当時はメインカルチャーの一部となりかけていたんですよね。
しかし、任天堂はそのチャンスを生かしきれなかった。
その地位を守るための後続をフォローし切れなかったんです。
「えいご漬け」あたりまではよかったのですが、後は社会的責任を放棄したといってもいい。
「責任」というのは多少言い過ぎかもしれませんが、
ニンテンドーDSを買った「メインカルチャーの担い手」の興味は当然一気に離れていった。
その結果「しょせんゲームはゲーム」というサブカルチャーのレベルに落ち込み、3DSの絶不調に到ります。
そりゃ「メインカルチャー」の人びとは買い換えません。必要性を感じるわけがない。
「ニンテンドーDSは社会的なインフラとして必要だ」という空気が偶然出来ていたのに、それを手放してしまった。
結局「動画文化」がもし「メインカルチャー」と共存する方向に行きたいのならば、
「一般性・汎用性があり、社会貢献になる動画」が何かのきっかけで脚光を浴び、
それに対して十分なフォローが継続的になされる状況」が創り出されなければならないということになります。
頑張ってほしいですね! そこで、「メインカルチャー」との共存をあきらめ、
あくまでもサブカルチャー内部での生き残りを図るならば。
そこには「継続的なコミュニケーションがなされる環境」が保持されなければなりません。
各々が全く個別に行為する状況では、社会の中では文化的に消滅しているということですので。
「動画文化」という視点からは最低二人以上のコミュニティが複数形成されることが必要であるわけです。
そこで、だれとだれがコミュニケーションするのか?
もちろん、それは「観客」と「制作者」です。
そこで観客同士のコミュニケーションでブレイクスルーを成し遂げたのが、FLASHに対するニコニコであるといえます。
しかし、もはやそれすら新鮮味はなくなってきているわけなんですけどね。
まあ、FLASH制作者同士のオフ会は開かれてきているようで、その日記などを見るとこれからに希望が持てます。
どちらにせよ「動画は面白い」という観念を共有できる場が必要になります。
まとまりが小さくなった分、「密度」「質」の面で保てなければ、そのまとまりは容易に飛散しますからね。
改めて書きますが、もちろん飛散したから即ダメということではないのです。
個人レベルになり「文化」を捨てることで、かえって「動画」そのものの存続につながるという、
ある意味逆説的な考え方も、決して捨てたものではない。
ピンチの時は発想を逆転させるのよ、なるほど君。
近代社会に押しつぶされ、現代社会に居心地の悪さを感じるならば。
そもそも「社会」「文化」というしがらみを避けるというのも、一つの道ですからね。
個人的な意見はこれまで紅白スレにも書いてきた通りだけれど、
「文化」の行方は、その直接の担い手こそが決めるもの。
私は、ふと緑が生い茂る山の頂上に登り、そこから見えた景色を呟くのみです。 あああああ! もう、なんつーか、これほど真摯な分析には20%も対応できねーっす。
超過疎スレだけど、誰かフォローして、議論を深めてくれーって切に願います。
頭の悪い半端人は。
先生、そもそも文化ってなんすか? 耕すんっすか?
程度しか。
読み飛ばしても、無問題です。
>そして、それでまかないきれない需要が潜在的に多く存在したために、
>サブとしてのFLASH文化が、個人にパソコンの普及が進んだ2000年代初頭に花開いた。
その前提には、激しく同意します。
NOVAウサギやムネオハウスみたいな、ワイドショーな話題の本気な悪ふざけ。
吉野家コピペのゴルゴやタシロみたいな、2chと一体となった時事ネタ。歌モノや、パロディーアニメ作品。キ8ンデキ8ンディやドラわさび。
風刺や毒や皮肉を、笑いや感動に持っていくみたいな。
Flash全盛期とニコニコへの移行の間にちょっと目を移すと。
実はこれらは「オリジナリティ」が無い「クリエイティブ」が無いと、Flash板内で叩かれまくった気がします。
余りにひどかったため、自分はこれらの言葉に、未だ拒否反応が。
著作権の関係でFlash紅白には参加できず、アンチスレではアウトカーストに位置づけられ。ちょうどJASRAC爆撃も重なり。
何時の間にか、なんでもありなフリーダムな空気が消え、妙な緊張感が生まれて、それで人が離れていったような気もします。 >「無関心」を何とかしなくては
ここは大きな課題ですね。アスキーアートとかテキストサイトも、これが一番問題になっている気がします。
時は経ち、greeや韓流は現時点ですげー嫌われてますが、徐々に無関心になっていくのかな。
表面上のブームを再興するならオグリキャップ以後に対するディープインパクトみたいな劇薬も必要でしょう。
でも、それも一時的なもので。
スターとかメガヒットとかじゃなく、地味でも丁寧なものを作る人を一人でも沢山加えるのが遠回りでも近道な気がします。
スターそのものよりも、そのスターに憧れて入っていった新人、中堅層のような。
>ミクの声
あー、はい、自分は馴染まない方です。
あとですね。ちょっと悩んだんですが。
>「一般性・汎用性があり、社会貢献になる動画」
>FLASH制作者同士のオフ会
>「密度」「質」の面で保てなければ
ってのは自分には馴染まないなー。えー、そんなの文化のために必要なノー?
ノー。 Oh No! って。
何でかはわからないけど。個人的なスタンスですが、自分と作者が共感できたり、刺激を与え合う、それだけでいいなって思ってるからかな? それとゲームの話が出たので。わたしゃ、ゲームには熱くなりますよ。
「ゲームの楽しさ=グラフィックの向上」、みたいな感じがFF7以来あって。(FFシリーズ全般にもそーゆーの有るかも)
そういう進歩は分かりやすく、見栄えがしますよね。
写真撮って、映画みたいなムービーを流して、受け手に伝えれば、すげーって言ってくれるんだから。
ただ、今はそういうのが当たり前になってしまい、ゲームの面白さと直結しないとユーザーも分かり始めてしまったような。
だから大変ですよね。面白さを伝えるってのは。
Flashやニコニコはどうなんだろ?
今のところプロ並みの映像でスゲー、ハイレベルのセンスと技術でスゲー、っていうのは確かに残ってるだろうけど、
それだけじゃイクナイ! っていう分岐点あたりでウロウロしている気がします。
ゲームのプロモーションは任天堂、頑張ってるんじゃないかな。
ピクミン1は「愛の歌」っていうCMソングで一気に認知されましたが。
ttp://www.youtube.com/watch?v=BLO5eN855bE
ピクミン3はゲームの面白さをたくさんの人にどうやって伝えようか? って視線でプロモートをしていると思います。
ttp://www.youtube.com/watch?v=VGFymces-AM
ゲーム天国なSONYは良くわかりませんが。何かGreeは末期っぽい。 >「しょせんゲームはゲーム」。
これは、珍しく、失言だと思う。(ゴメンネ)
ゲームはゲームで、いいんじゃないかな?
少なくとも個人談として、「moon」とか「Tactics ogre」とか「クロノトリガー」とか人生観すら変えてしまうゲームってあります。
どれもゲームだから、印象に残る工夫に富んでます。
ゲームだから出来る驚きのギミック、ゲームだから生まれる重厚な世界観と操作ミスで失われるかもしれない命の尊さの併存、
ゲームだから入っていける中世ファンタジーと、退廃した未来と、空に浮かぶ古代文明、を一つの作品内で繋げる凄じさ。
最近はどうぶつの森が400万以上セールスを記録し、今でも売れ続け、2chの各板で話題になり続けたり。
というかこれ、社会現象として騒がないマスコミの方が不自然。このゲームは書籍というメインカルチャーにもがっちり食い込んでます。
ttp://www.nippan.co.jp/ranking/yearly.html
1位2位があれだけ騒がれたのに、3、8、12、15位は異常なほどに無視されてる。
でも、それで良いんだと思います。こんな分厚い本を買って、活用している人が沢山いる。ゲームはゲーム。
えと、ですね。3DSでの当初の失速、高価格、震災という事件、ソフトが揃わないっていうのを反面教師にするより、
値下げ、カンファレンス、マリオ・マリオカート・モンハンの三本の矢といった怒涛の逆襲劇を参考にしたほうが楽しいと思います。
逆転裁判5、欲しい。値段がお手ごろだったので、レイトンVS逆転裁判を買ってしまった。 これだけの分量をちゃんと読んでくれる日刊氏は偉い。
ちなみに最近のチラシって両面印刷で裏がなかったりするんですよね。
我ながら書けば書くほど凡人さが際立つので自分にうんざりしていますが、
2chという裏紙が残っている内には、私も色々書いておきたいことはあるのです。
>実はこれらは「オリジナリティ」が無い「クリエイティブ」が無いと、Flash板内で叩かれまくった気がします。
>余りにひどかったため、自分はこれらの言葉に、未だ拒否反応が。
なるほど、それは興味深い。
私はそれに関しては中立ですが、気持ちとしては分かります。
>スターとかメガヒットとかじゃなく、地味でも丁寧なものを作る人を一人でも沢山加えるのが遠回りでも近道な気がします。
>スターそのものよりも、そのスターに憧れて入っていった新人、中堅層のような。
その新人や中堅層が、伸び悩んだり評価されなくてがっかりし、撤退するというのが今の状況ではないかと思います。
地味でも丁寧なものをつくり、かつ評価されなくても作り続けられるとなる職人さんはそう簡単には増えないでしょう・・・。
>FLASH制作者同士のオフ会
>「密度」「質」の面で保てなければ
> ってのは自分には馴染まないなー。えー、そんなの文化のために必要なノー?
そうですね。
私はハーバーマスが論じる「コミュニケイション的行為」「対話的理性」や、
それが発揮される「公共圏」的なものに憧れるというか重視するスタンスなので。
「人の集まり」に重きを置いていることは間違いないです。
ただ、それを絶対化まですることはしません。 >「しょせんゲームはゲーム」。
>これは、珍しく、失言だと思う。(ゴメンネ)
>ゲームはゲームで、いいんじゃないかな?
実際、ゲームが好きな人にはそれなりに逆鱗に触れる言葉でしょう。
日刊氏がこの言葉に拒否反応を示すように、私自身が拒否反応を示してきましたから。
これは、率直に言えば私怨に近いのかもしれませんね。
親しい人に名作ゲームの面白さを説いたのはいいが、「あっそう」「しょせん、ゲームでしょ?」
そんなことを言われ続けてきた苦い思い出。
そんな人々が、脳トレのときには「へえ、ゲームって面白いじゃない」と口々に言ったのですよ。
でも、今では元の木阿弥です。私の描いた青写真は、幻影に過ぎなかった。
今さら言っても、せんなきことかもしれませんが。
>値下げ、カンファレンス、マリオ・マリオカート・モンハンの三本の矢といった怒涛の逆襲劇を参考にしたほうが楽しいと思います。
値下げは・・・見てる方は楽しかったかもしれませんが、アンバサダーになった側としては少々複雑といったところなのです。
まあFEとかヨッシーとかは楽しんでますが、もやもやするところもないわけではない。
>逆転裁判5、欲しい。値段がお手ごろだったので、レイトンVS逆転裁判を買ってしまった。
逆転裁判5、この先に希望が持てる出来であったと思います。
散々だった4から、ひとまず立ち直ったかなと。
レイトンシリーズと逆転裁判シリーズの本編は全て購入しているので、
レイトンvs逆転は夢のコラボでした。
レイトン教授のような、切れ者で人格者になってみたいものです。 あー、うー、あんま読めなくて、裏表も使いこなせていない感じですが。
今回もハーバーマスって誰じゃそりゃ、と思いつつ、何も知らない素人の目線(これが自分の一番の武器かな? 卑怯!)を保とうかと。
凡人よりも無知なのが取り柄って我ながら……
>その新人や中堅層が、伸び悩んだり評価されなくてがっかりし
どの分野でもそうですが、高評価で満足してしまう、不評価に悲しむ。一時的な気分のアップダウンならともかく、ずっと気にしている。
その程度の思いなら消えていって当然、だと思うんです。
酷な言い方をしてしまえば、そこまで期待してないし、そんなブームなあやふやなモノのために頑張らなくていい。
自分は感想を書いてますが、それは作品を評価したかったり、作り手さんに成長して欲しい、からではありません。
自分の為。じゃなきゃ、こんなに続いてないでしょう? って自分に問いかけ。
結局はモチベーションは高尚なもので塗り固めたものより、好きだから、ブームに乗っかりたいからとか、エゴむき出しが好きです。
当然、飽きる人も出てくるでしょうが、入っていく人がそれ以上に居れば、って感じです。
num100remix、cat maniaとか、RZ contentsもこしあん堂のファンイベントも、過ぎ去ってしまえば何も残らなかった、
とも言えますが、同じものを堂々と好きって思えたのは、かけ替えのない貴重な体験となってます。
ただFlash板は入口のところで、ちょっとって感じはある。流石に感想0や片手で数えられるほどじゃ、寂しいもんね。 >ゲーム
は大変っすね。
レイトンみたいなカジュアルなゲームで、ベテランさんみたいなロジックでも好きになれない。
こりゃ大変だ……
思うにそういう友人たちは、ゲームを娯楽として楽しむ下地を持っていたのだろか。
小学生くらいの頃、集団でテレビゲームを話題にし遊んだ記憶、ゲームをしに遊びに行き、ソフトを貸し借りし合う。
こういう共通した体験がある自分って、恵まれてんのかな。
ゲームについて長文を書こうとするときは、目を通しているのがこれです。
ファミ通にて、風のように永田(永田泰大)氏が書いたゼルダの伝説レビューとポケモン体験記の保管庫
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-King/4566/etc/gameetc/nagata1.html
ゲーム以外にも通じそうな熱烈なラブレターで、実際そのゲームにふれてみたくなる愛情に溢れてる。
また、こういうのを読んでいると、ゲームって一人で遊ぶものじゃなくて、人と人がふれあう所に面白みがあるって感じが改めてします。
あー、3DS。
こっちは値下げをキッカケに買ったんで、すげーってその後の展開を見てたんですが、発売当日組や初期組はそりゃ思うところがあるんだろうな。
一万円の恨みはデカそう。
レイトンさん、ジェントルマンって感じっすね。自然と背中を預けてしまうような、包容力があり。
えとですね。逆転裁判5。購入の指針として、これだけは聞いときたい。
4で何故か達観してしまったナルホドウは、熱血弁護士として帰ってきましたか? なんだろう、様々な思いが浮かんで書いては消して、書いては消して。
結局文章がまとまらないわけですが。
でも、まとまらないでもいいんだろうと思います。(たぶん)
日刊氏のスタンスが「自分のため」だとすると、自分のスタンスは「人のため」「社会のため」なのかな。
ハーバーマスの考えは、要するに「社会を良くするためにはみんなが理性的に話せる場があるといいよね」って考えです。
でもとことん「自分のため」で行動する職人肌というか、芸術家肌というか。
そういう人が創り出すものに、魅力を感じることは確かです。
クロノトリガーなどは、かつての「ゲームクリエイター」が職人気質だった証だと思います。
「自分のため」じゃなければこれだけ作りこめないよな、と。
私が最近のゲームで最後にそれを感じたのは「ラジアントヒストリア」かな。アトラス・・・。
逆転裁判5は、なるほど君操作時はハッタリ弁護士の面は帰って来ていたと思います。
熱血さは、どちらかといえばオドロキ君とココネちゃんに受け継がれつつありますかね。
なるほど君は師匠キャラとしての成長をみせた感じです。
ただ、まあスタッフが違うので初代から3までとは作風に毛色が違う感じはあります。
4からどう立て直すかに着目し、あまり多くを求めすぎなければ楽しめるのではないでしょうか。 えっと、です。自分の無責任な発言で、悩んでしまったならすいません。スキップした自分の背後には笑顔はなく、血だまりばかりが……
バカな自分は難解な部分は理解できないんですが、何か遠慮してしまっているのなら、もうダイレクトにぶつかってしまってもフィールオーライですよー。
スタンスは、そうです。自分は何処までも自分のためで。
最近は感想の読み手を意識してるのですが、それも想定している第一の読み手は数ヵ月後、数年後の自分だったり。
まー、動機はどうあれ、埋まるのは駄文の山なので、しょーもなく。
場を求める動きはFlash板全盛期にも、こういう場を作ろう、真のアンチスレや馴れ合いスレや感想スレを作ろうっていう議論は沢山あったのですが、
言葉だけで実行力が及ばす。
もちろんベテランさんみたいな言動が一致する人が少しでもいれば、違った未来もありえたのかもしれませんが。
なので、ピークを終え人が減った今、改めてどうやって作るかってのは、難題だと思います。でも、あったら、確かに嬉しいかも。
うう、クロノトリガーは凄いっす。
当時のスクウェア・エニクスの巨塔がコラボしながら、音楽の光田さん、元ラブデリックの西さん、とか新しい人も活躍していて。
黒い風が吹いている。あなた達の誰か…… その後の展開の衝撃は、忘れられないゲームです。(でもうろ覚え)
こーゆーゲームは海外でも魅力が伝わっていて、全力で降り注いだ熱意、ってのは報われることもあるんだな、と勇気づけられる。
逆裁は、4は黒歴史的に取り返しのつかないものとなって、無かったことにされるんじゃ、と思っていただけに、興味が深まりました。
あー、前作では立ち位置が可哀想だったオドロキ君、活かされるのかー。体験してみたい。 ☆第9回ParaFla!感謝祭
ttp://parafes.web.fc2.com/2013/
・ParaFla! 9
ttp://www.geocities.jp/camelimits/works/9thParafes2013.html
冒頭、アイディアは面白いのだけど、演出が控えめで壮大な曲に飲まれてるかも、と思ってた。
でも、空が出てくるあたりから映像全体が曲とシンクロし、胸に響くものが……
劇的な動へと飛翔するための、助走期間としての静。うん、こうした構成には、けっこう惹かれるものがある。
一番のお気に入りは、海を滑るPalaFla!の場面。
疾走感がありながら、なんか曲調の重さにも耐えられるものがあって、素敵だと思う。
語りたかっただろう他の文や文字を使わず、「PalaFla!9」の9文字に全てを込めたのも粋。 ・イシャハドコデスカ?
ttp://www.geocities.jp/rs_life/flash/isya/
アドベンチャーゲームのように見えて、色々な会話や雰囲気を楽しむインタラクティブ系AAものの風味も。
ゲームオーバーが無いので、とても気楽に遊べた。
宇宙船、少し悩んで解決策が見つかった時に、快感が。
AAは記号っぽい輪郭を適度に残していて、自分はこういう感じの加工、好き。荒らさを感じさせず、むしろ丁寧。
モナーのセリフは文字を進める際に、ちょっと一手間かかる。この作品で唯一ストレスを感じた部分。一度に表示してもと。
通してやってみて、いい意味で力が抜けていて、リラックス。緩やかな暇つぶし。 ・第9回ParaFla!感謝祭
ttp://movie.geocities.jp/gonbe_para/130825.html
顔はとても写実的で、でも特徴を掴んでデフォルメしていて、巧みな似顔絵っぽさが。
ボリュームもけっこうあって、出てくる人たちも予想を超えたラインナップで、驚きがあった。
難しいのは間っすね。
題材になった笑点みたいに老若男女に受けるためには、この緩やかなテンポが合ってるのだろうけど、
個人的にゆるくなりすぎてしまい、切れ味を削いでいる印象があった。
緩急もイマイチ機能していないような。
ゆーーーくーり、ゆーーくりーーー、しゃーーべってーーるーーーようなーーーーー。
それでけっこう長く続くので、初見は楽しめたのだけど、それで二度目を見ようとしたんだけど、ちょっとストレスが溜まりそうなテンポだったので止めてしまった。
これはマチャミの手の動きみたいな、動きをもっと全体に散りばめるか、いっそのことクリック式にして、間を読者に委ねたりとか。
内容面じゃなくて演出面で、何かしら飽きさせない工夫があると、抵抗感は薄れるように思う。
ちょっと勿体ないかなぁ。 ・逆転うさげ
ttp://red.ribbon.to/~karaage/flashbox/parafes2013.html
タイムリー。
逆転裁判系は公式体験版Flashを初め、ひとつの系統となるくらいにまで、育ったジャンル。
非公式Tの第一話体験版(1さんと八頭身の)を初め、極東とか、多方面で沢山ある。
個人的には 「MMR VS 逆転裁判 逆転のノストラダムス」 がオススメ。笑いのエッセンスに溢れてる。
ちょっと前提知識がないとこの雰囲気に馴染めないかもしれないけど、5発売直後という旬を狙った感じで、熱を持って観れた。
そして「えーーー!」って為った。
所長とか被告人とか事件とか沢山の伏線にそっぽ向いたまんま、山場を突っ切って、一気に終幕へと。
もう、すごい脱力感。
ただ、この脱力感は、それまで溜めてきた期待感があったからこそ生まれたもの。
なので印象面で、「俺たちの戦いはこれからだ!」な打ち切りテイストを感じつつも、そこで乾いた笑いがやって来た。
糞フラボンジュ? 的な。
中身はアレンジやパロディーをしきれてない感じを受ける。
うさげって誰? 内輪ネタ? のような。
なんというか素直な優等生というか、破壊的なはっちゃけが足りないような。もっと思い切ってもいいのよ。
原作の面影はいい感じで演出されてたので、うん、練っていく過程の時間不足を感じる。
余談だけど、逆転裁判って推理系ノベルゲームを、突っ込んだり、応答を入れたりして、大きく変えてアレンジしたゲームに思える。
それで本作品のテキストは、若干2ch的な笑いを入れつつも、元ネタの展開を忠実になぞっていながらも、どうも文章としての魅力が薄かった。
だからネタ系とAS系と文章系に長けた人が挑んだりコラボしたりすると、まだまだ金脈に当たりそう。そんな可能性を。 ・ParaFla!感謝祭を振り返って
ttp://www.geocities.jp/para_core/parafes_history.html
スローテンポでじっくりと進むダイアリーの連なり。
想いを巡らせ、感慨を味わうのに十分。なんというか、安定した演出を感じた。
無音なのが尚更しんみりとさせる。
毎回大会が記録されていく日記。
それで第九回大会となり、うんうんと思っていたら……
ページ繰り演出のためだろうけど、日記に記録された毎大会が消されつつ(ここは意識して見返して気づいた)
特に第九回大会の文字が、感謝の言葉のために、他にも増して消しゴムにかけられたように印象深く消えていく。
うわー、ちょっと待ってー、これは、ページを繰ってメッセージとか、メッセージそのものを省くとか、何か、別の道を!
と取り乱してしまった。
それだけ第九回大会の文字記録が消えていくのに、ショックを受けてしまった。
でも、ありふれた記録モノよりも、ずっと記憶に残りそうな衝撃だったので、これはこれでアリかも。
途中の文字でPalafla!のP辺りがページからはみ出してるのは、シンプルに的を絞っていただけに、ミスとしてやや目立ったり。
でも、最後は素敵。白紙がペラペラとめくられていく。可能性にあふれる未来の連なりを何気なく意識させる美しい演出だと思う。
これは公式エンディングにしてもいいくらい、表現、テーマ、題材、演出がマッチしたFlashだったと思う。
しんみり。 Parafla!感謝祭ですが、日刊氏の誘導がなければ見逃してました。多謝。
私は第一回の時は観ていて、それ以降はご無沙汰だったので8年ぶりらしいです。
改めて感想投下して、何かしらの恩返しはできたかな。できてなくてもドンマイってことで。
ちなみに第一回の時は、名前ないっす(-∀-)氏の「PokerFaceDown」にえらくハマったことを覚えています。
それをブラッシュアップした「PokerFaceUp」は、私的Flash史の中では名作。
後世に残すためにも、置いておきます。
http://www.geocities.jp/dx_brade/namaenai/swf/pokerfup.html
あれから8年かー。道理で私も年をとったなぁ。。。
もしかすると、今年で500歳ぐらいになったかもしれません。でも永遠の18歳。 parafla!感謝祭は大きく目立つことはないけれど、個性的だったり、面白い作品がかなーりある気がします。
今回はいろいろ悪条件が重なった中で、それでも作品が集まり……気負わずに息長く続いて欲しいイベントの一つ。
感想、読みました。もう、すんごく心血そそいで書いた感じがあって、面白かった。
時間が経つのはあっという間だなー。
時というのは本当に儚い。(8000歳くらいまで年をとって、悟りを開いてくだされば)
最近2chという場も脆いと思える事件があり。巻き込み規制も控えてるし。
自分には何がどうこう出来るものじゃないけど、ただただ今の当たり前に、感謝です。
>PokerFaceUp
とても血が通った温かく熱い作品だなーと思いました。
AIのようなプログラムされた機械な感じを、AAキャラが打ち消してる。
かと言って長い演出でもなく、むしろモーションが独特のテンポを作っていて、ゲームにノルことができる。
中毒になる感じが、ああ、とてもわかります。楽しそう。 メモメモ
・あぐ(略
ttp://www.youtube.com/watch?v=E_EaOef4qFY
うん、可愛い。
途中からの展開は、タイトルから乖離している。たぶん作者の意図や思惑を外れたものだと思う。
でも、そこがいい。
キャラクタは、何を見つめているんだろう、何が起こってるんだろう、作者は何を見つめているんだろう。
そういう想像力を働かせる、微妙な隙間を提供している。と思う。のは自分だけですか。そうですか。
キャラクタが作者の描いた設定、ストーリーから外れて、キャラクタがキャラクタとして動き出す、喋りだす。
それは作者のコントロール不足、という場合もあるけど、
それがずば抜けて高く発揮され、キャラクタとのあいだに強い連帯感を持った時にも起こるんじゃないかな。
こんなのを思い出しました。
「ドラゴンクエスト ダイの大冒険36巻」から引用します。
漫画の原作を書いていて一番驚いてしまう時、感激する時……それはキャラクターが勝手にしゃべりだす瞬間です。
自分が設計図をひいて、稲田先生と組み立てたはずのキャラが計算外の行動をとり、
まるで生きているかのように台詞を口にしはじめるのです。ぼくはそれを書き写すだけ。
そしてこの巻で、このキャラは、このシリーズを強く深く印象づける名セリフを叫びます。
ちょっと大げさかもしれないけれど、途中までで作者は映像を切ろう、恐らくボツにしようと思っていただろう次の瞬間、
この動画でもキャラクタが動いてくれます。
タイトルの対象から離れ、けれども興味津々の眼で世界を見つめてくれます。作者はそれを見守り続けます。
そこにあざとさはなく、ほんわりとした優しさが満ちています。 しかも、この作者さんは過去作も凄いです。
ttp://www.youtube.com/watch?v=zpEMLFcrpUo
なんだ! このシンクロ具合は!
ttp://www.youtube.com/watch?v=FeUSUtVLjAo
奥行きを意識した構図、カメラ。
キャラクタの可愛らしさ、シチュエーションのお膳立ては勿論のこと、緩急が自然と作られていて。
あくびをします。平然と。自然と。
その油断を狙ったかのように、動画は動き出します。
その模様は、台詞が浮かんでくるような、思わず当てたくなるような、そんな妙味が。
ただ本当に台詞を当ててしまうと、多くのテレビ番組がそうであるように、嘘臭さや人間万能な匂いがしてしまい、失敗してしまうと思うのでここは控えます。
この作品は天が与えてくれた偶然の産物なのかもしれませんが、それを産むまでの沢山の時間とチャレンジがあったように思います。
よっぽどの愛好家じゃないと出来ないくらい。
というか運だけでこんな場面をごく自然に演出できたとしたならば、タカラクジ当選者くらい羨ましいです。 なるほど、中々考えさせてくれる動画群でした。
これらの動画の猫は、自分の世界を持っている。それは、飼っている「人」の意図や思惑から自由である「自然」側の存在といえそうです。
ユクスキュルという生物哲学者が、すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考えを展開していて、
これを「環世界」というそうですが、この動画群は「猫の環世界」へと想像力を誘ってくれるものであったと思います。
「人間の環世界」から視点が離れ、一瞬「猫の環世界」との隙間を漂う存在になった。そんな感覚を受けました。
動画においては「人が作ったストーリィの全能性を疑ってみる」というのも、一つの顧みるべき視点なのかも。
そういう主題で作られたFLASHも趣きが深そうです。 そういえば、宮崎駿監督が引退してしまいましたね。ジブリ好きとしては寂しい。
ジブリの作品も、「自然」と「人間」の関わりについて描いたものが多かったように思います。
まあジブリが無くなったわけではないので、今後の展開を見守っていきたい。
せっかくなので、印象に残っている歌詞の鑑賞を書いてみようかな。 「べてらん先生の名文鑑賞教室」みたいな感じのが始まります。
今回のテーマは「千と千尋の神隠し」の「いつも何度でも」である。
歌詞は以下の通り。
>呼んでいる 胸のどこか奥で
>いつも心躍る 夢を見たい
>かなしみは 数えきれないけれど
>その向こうできっと あなたに会える
>繰り返すあやまちの そのたび ひとは
>ただ青い空の 青さを知る
>果てしなく 道は続いて見えるけれど
>この両手は 光を抱ける
>さよならのときの 静かな胸
>ゼロになるからだが 耳をすませる
>生きている不思議 死んでいく不思議
>花も風も街も みんなおなじ (中略)
>呼んでいる 胸のどこか奥で
>いつも何度でも 夢を描こう
>かなしみの数を 言い尽くすより
>同じくちびるで そっとうたおう
>閉じていく思い出の そのなかにいつも
>忘れたくない ささやきを聞く
>こなごなに砕かれた 鏡の上にも
>新しい景色が 映される
>はじまりの朝の 静かな窓
>ゼロになるからだ 充たされてゆけ
>海の彼方には もう探さない
>輝くものは いつもここに
>わたしのなかに みつけられたから
以上となっている。 >呼んでいる 胸のどこか奥で
>いつも心躍る 夢を見たい
さて、まず最初の部分であるが。
「胸の奥で心躍る夢を見たい」というのは、人なら抱くであろう普遍的な気持ち。
「なぜ見たいのか」と問われてもここですぐに解釈することは難しい。
そこで明らかにすべきは「呼んでいる」とは「誰が、誰を呼んでいるのか」であろう。
それに関しては、この部分だけではさすがに情報が足りないので次にいく。
>かなしみは 数えきれないけれど
>その向こうできっと あなたに会える
「かなしみは数えきれない」も人間における普遍的な事象といえる。
では、「その向こうで会えるあなた」とは、果たして誰なのであろうか?
あえてつっこんで推測することもできなくはないが、ここはひとまず、無理をせず読み進めよう。
>繰り返すあやまちの そのたび ひとは
>ただ青い空の 青さを知る
>果てしなく 道は続いて見えるけれど
>この両手は 光を抱ける
前半は、人間において普遍的な事象。「やっちまったなぁ・・・」と思うたび、人は天を仰ぐもの。
そのたびに、空をあらためて「青い」と感じることが出来る。
人間は普段「空」を当たり前のように見ているが、それを「意識」しては見ていないということがポイント。
「失敗してヘコむ」という「なんでもないこと」を上手く膨らませると、こういう文章になるのだ。
後半については、趣深い比喩が多用されている。
人間を扱った文章で「道」とは基本的に「人生」を指すものと思ってよい。
また「光」は「希望」を指すことが多い。「両手で抱く」は比喩における場合、心理的な描写に使われる。
分かりやすく言えば「失敗ばかりの自分にはこの先の人生は長いと思えるけれど、でも希望を持つことは出来るよね」という文である。 >さよならのときの 静かな胸
>ゼロになるからだが 耳をすませる
ここはわかりにくい。
「さよならのとき」とは一体どういうときで、また「静かな胸」とは何を表すのか?
そして「ゼロになるからだ」というのも独自の比喩で判然としない。
そういうときは、他の文脈から判断するのがよい。
>生きている不思議 死んでいく不思議
>花も風も街も みんなおなじ
この部分を読むことで、おぼろげだったこの文章はようやくまとまりを帯びてくる。
はっきりと作者の思いが書かれているここが、この文章の中での「主題」である。
この文章は「生きていく不思議」「死んでいく不思議」に関係し、それは「花・風・街」に共通する。
つまり、評論的にいえば「人間を中心としつつ、生物に限らない広い視野での「生成」と「消滅」への畏敬を描いている」
と解釈することができるのである。
となると、
>呼んでいる 胸のどこか奥で
>いつも心躍る 夢を見たい
>かなしみは 数えきれないけれど
>その向こうできっと あなたに会える
ここの文章の意味が明確に判明することになる。
すなわち「かなしみの向こう」とは「人生の向こう」=「死」であり、
「あなた」とは「死別してしまった人」のことなのだ。
であれば、
「(死別してしまった人が私を)呼んでいる、胸の『どこか奥』で。
(あなたが生きていたときの)心躍る夢を、見(てい)たい。」
と補うことが出来て、これで完璧に意味が通ることになる。 >さよならのときの 静かな胸
>ゼロになるからだが 耳をすませる
ここまで読み取ることによって初めて、この部分の意味が判明する。
「さよならのとき」とは「死にゆくとき、もしくはお葬式」であり、「静かな胸」はまさにその視覚的なイメージである。
「ゼロになるからだ」とは、まさに人が「消滅」していくことであり、
「耳をすませる」とは、死者が、そのような動作をしているように見えることの比喩なのである。
>呼んでいる 胸のどこか奥で
>いつも何度でも 夢を描こう
では、2番を続けて読み解いていく。
「(死別してしまった人が私を呼ぶこともある)、胸の『どこか奥』で。
(私の人生における)『夢』(というべきもの)を、いつも何度でも、描いていこう」
ここら辺は、単語が前と全く同じ意味や文脈で使われているのかどうか、解釈には熟練を要する。
「主題」については既に触れているが、この歌には「副題」といえるべきものがある。
それは、先に解釈した「失敗ばかりの自分にはこの先の人生は長いと思えるけれど、でも希望を持つことは出来るよね」である。
すなわち、
「人生には失敗がつきものであり、そのたびに人は挫折(=生きる気力の「消滅」)を体験する。
しかし、そのたびに人は希望を抱いて立ち直り(=生きる気力の「生成」)生きていくことが出来る」
ということである。
これを踏まえれば、前述のような訳が自然であろうと思われる。 >かなしみの数を 言い尽くすより
>同じくちびるで そっとうたおう
「副題」についての言及が続く。
「あれはかなしい。これは嫌だ。それはどうしようもない」
沢山ある悲しみの原因を、一つ一つ取り上げることはできる。
しかし、それは周りの人間も、自分もより悲しくしてしまう。
それならば、同じ唇でそっと歌い出した方がいい。
少しでも、前向きな気持ちになれるはずだ。
>閉じていく思い出の そのなかにいつも
>忘れたくない ささやきを聞く
>こなごなに砕かれた 鏡の上にも
>新しい景色が 映される
前半の「閉じていく思い出」は「死別した人との思い出」であり、
その中に、「死別していた人」からの「思い出の一言」があるはずということを述べている。
忘れたくないのは、その人物が生きていた「証」だからである。
ちなみに私も、おばあちゃんが私にかけてくれた言葉を今も覚えている。
「お前はね、私の……宝物なんだよ」
……やさしかったなぁ、おばあちゃん。今も、空の向こうで元気にしているだろうか。
後半は、「主題」もしくは「副題」について、今一度「鏡」という形でたとえて述べている。
一般論なので、具体的な場面は自由にイメージすることが出来る文章である。 >はじまりの朝の 静かな窓
>ゼロになるからだ 充たされてゆけ
>海の彼方には もう探さない
>輝くものは いつもここに
>わたしのなかに みつけられたから
この文章の上手いところは、このまとめの文章において、
「主題」と「副題」のどちらでも心に響くように書かれているということである。
すなわち「主題」から解釈するならば、
「はじまりの朝」とは「ゼロになるからだ」が「満たされていく」朝、
つまり人間の「生成」が起こる朝、出産の場面である。
となれば「海の彼方」とは「死者の世界」であり、
もう気持ちの上で「死別した人」に引きずられない(=探しにいかない)
ということであり、精神的にふっきれたことがうかがえる。
なぜか? それは、「輝くもの」を「私の中」に見つけられたから。
すなわち、「これから愛すべき子ども」を「宿すことができた」というわけである。
人間の「消滅」=「死別」から、「生成」=「誕生」へとつながる文章の織りなす感銘は、並大抵のものではない。本当に感動した。私が。
一方「副題」から解釈するならば、「はじまりの朝」とは「挫折(=生きる気力の「消滅」)からの立ち直り(=生きる気力の「生成」)の朝」であり、
「ゼロになるからだが満たされていく」というのは、「生きる気力」が満たされていくと捉えることが出来る。
となれば「海の彼方」は「どこか遠く」である。
気がめいっているときは、「どこか遠く」に漠然とした「幸せ」を求めるもの。
しかし、もうそれは探さない。自分の中に「輝くもの」=「はっきりとした目標、希望」を見つけることができたのだから。
こちらの解釈では、なんとも未来への希望で胸が埋め尽くされ、元気が湧いてくる文章である。
総評としては、
多くの人に訴えかける抽象的な普遍性と、人が自身の経験に思い当たることがある具体的な特殊性。
この二つを兼ね備えている、優れた歌詞といえる。
また「主題」と「副題」が絡み合うようにして書かれている点でやや戸惑う構造かもしれないが、
作者の考える「主題」をはっきり明示してしまってそこを拠点とすることで、
あいまいな点を残さずに解釈が周縁部まで可能になる点も非常に良く考えられている。
やっぱり名曲です。おわり。 あー、この人の猫は、ツボっす。
人と猫の交わりと、その差異の交錯なんて、これなんかもズバッと打たれます。ニヤけてしまう。
入念な下準備と演出とドキュメントと猫の、コブラツイスト。
ttp://www.youtube.com/watch?v=7QdPlSWdLpg
>宮崎駿監督
の引退は寂しいんだけど、残念感は少ないんです。自分の場合。
何でだろ?
って思うと、一個一個の物語を、その時の技術と情熱を振り絞って、完結させているからかな?
トトロやラピュタやルパンとか、まだまだ明日が続きそうな含みを持たせながら、一つの映画としてきちんと幕を閉じている。
そういうのはナウシカとかにもあって、映画のクライマックスで「完結ーっ!」って、満腹感と充実感がある。
漫画の原作は確かもっと続いていたと思うんですが。ナウシカ2を作ってとか思わせないし、匂わせない。これって凄いことだと思う。
ビデオ派の自分は「風立ちぬ」はDVD待ちかな。流石にポニョショックは大きかった。 >いつも何度でも
はメロディが優しいなぁっ、て思っていて。歌詞にまで心が及ばなかった歌です。ランランランってのが一番残っていて。
なるほど、こうして検討していくのを追うと、すげー、いい詩。
何か今までの自分は。
死と生というより、夢(神隠し世界)と日常(引越し先での現実)って感じで、捉えてました。
でも、あの神隠し世界って何だったんだろう。
あの世界で最後の方に列車が出てきて、そういうのは銀河鉄道の夜みたいな生と死の中間点みたいに思えたり。
だめだ、解釈の土台に妄想を使っちゃあ。でもあの神隠し世界は、凄いイマジネーション。近くて遠い世界。その距離感が。
細かいとこだと
>繰り返すあやまちの そのたび ひとは
>ただ青い空の 青さを知る
ここが個人的に大発見でした。なるほど、空を仰ぐ。
もう取り返しのつかない失敗って感じがするんだけど、変わらず青くて広い空って、なんだか一筋の救いというか癒しみたいなのがある。
全体的にかなりシリアスに現実を切り取っているんですが、それ以上の願いや祈り、再生がある感じを受けました。
なんか凹んだ時に聞いてみよう音楽リストに、加えよう。
素敵な歌と、素敵な紹介を、ありがとう! ジブリの歌と言えば、自分は「紅の豚」での歌の使われ方が好き。
あれですよ。最後に成長したフィオの回想って形でたたんで、時間を未来へすっ飛ばして、それまでの物語を想い出にしてしまう。
けれど、次に「時には昔の話をしようか」なんて、飛ばされた過去を手繰り寄せようとする。
なんつーか、昔の話に、「物語内のマルコとジーナの青春」と「終わってしまう物語そのものと、語られないその後」の両方を滲ませていて。
余韻が。余韻がー! ああ、時間の制御がほんと巧み。 誰も見ていないな。お久しぶりの僕です。
しょーもない。いくら立派な講師がいて中身のある講義をしても、生徒がこんなんじゃ、ダメでしょ。って思います僕は。
あきれ果てた顔が浮かぶ。
ということで久しぶりに草葉の陰から、勢いだけでやってみましょう。僕が。
・いつも何度でも
まず、この歌の危ういところは、この部分。
>かなしみの数を 言い尽くすより
>同じくちびるで そっとうたおう
1 悲しみ無責任な口先系応援ソングにも成りそうなところだし、
2 悲しみを強く歌ってる本曲の自己矛盾にもなりうる。
1は、まあ、誤解されそう。悲しみと真正面に向きあわないのか? って。
2は更に深刻。この歌そのものを欺瞞にさせてしまいそうな表現だ。
何せ、ここに至るまで、この人はかなしみや死をたくさん描写している。特に
>生きている不思議 死んでいく不思議
>花も風も街も みんなおなじ
に至っては終わりを、個人ではなく自然、人工物、全てに広げている。
街が死ぬも印象的だし、風が死ぬも印象的。 さて、どう繋げていくか……
>閉じていく思い出の そのなかにいつも
>忘れたくない ささやきを聞く
>こなごなに砕かれた 鏡の上にも
>新しい景色が 映される
>はじまりの朝の 静かな窓
>ゼロになるからだ 充たされてゆけ
ここから見えるのは、破壊の中でも、どうしようもないことでも、それを認めて生きていこうという強い意志だ。
「閉じていく思い出」、「砕かれた鏡」、「ゼロになるからだ」、すべてを認めながら、それでも受け入れて生きていこうと肯定する心だ。
締めの歌詞、そこから続くランランランのハミング(敢えて歌詞を載せない)の何と優しいことか。
忘れがちな不意に訪れる悲しみを気づかせ日常に対置する序盤、
そこからの転換、そして悲しみの受容と明日への希望へと踏み出す心を描ききっている。
歌というのは限られた時間、文字で紡がなければならない。
その中で、この複雑な重奏性を、丁寧に切り取った。並大抵な事じゃない。 FLASH/K
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm2167930
歌系ということで。
Bump of chickenの名曲K。
原曲PVも普及していない頃、物語性の強いこれら初期の曲は、頻繁にAA化、Flash化された。
特にこの曲はバンドの名前を「売る」のに大きく貢献したように思える。
原曲にふれてないとギャップによる面白みがわからないっぽいので、未聴な方はこちらを。
絵描きから逃げ出す「走った」から、恋人の元へと「走った」の転換が、胸を揺さぶる。
ttp://www.youtube.com/watch?v=Ee_QaBjj08c
本編へ。
観ればズバズバ感じるんだけど、笑いどころが沢山ありながら、物語は一本筋が通っている。
てきとーな絵も、幼稚園児的な幼さがありつつ、意味不明っぽさは控えめで、テンポ良く進む。
悪ふざけ、ながらも、センスといってしまっていいのだろうか。何か妙な迫力がある。
下手の一言で切って捨てる人もいるだろうけど、僕は笑った。この系統のFlashでは一番、印象に残った。
ニコニコならではの観客の激しくも温かい目が、それを支える。
そして、鮮烈なオチ。冒頭部分から予告されているのだけど、これは反則スレスレの際どさ。
これは面白い。
でも、真似ようとフォローしても、正に罵声と暴力が返ってきそうな、そんな域にある。
自力のようなものは後半のメグミルクあたりから伺える。でも、ここはカットしてしまったほうが潔くも思える。ここで、頑張ってる感が、出てしまった気がする。
まー、凄いです。洗練された武器はなくとも、ここまで闘えたっていうのは、何か嬉しいです。 昔はFlashがネット上でも夢を見れる時代だった。
gagaシアター(だっけ?)、デジタルジャンプ、ライブドアネットアニメといった、登竜門的な場が多くあった。
今ではもう、どれも無くなってしまった。
その中でも日本でのshockwaveが撤退してしまったのは本当に残念だ。
後に商用で出る「zoo keeper」「或る旅人の日記」「catman」といった人気コンテンツは胸をときめかしたし、
何百とあるジグゾーパズルには文字通り何百時間も暇を潰してもらった。
その中で「或る旅人の日記」を。
・世界観、スケール感
とにかく連作短編アニメーションで、これだけ世界を豊かにイマジネーションさせる作品は稀だ。
独特の色使い、寂しさと朗らかさを持つ音楽、さりげなくも豊かに流れるアニメーション、それと静との対比。
ファンタジーっぽくも、どこか感じさせる身近さ、世界での現実への親和性。
・シリーズとして
連作としても、一話一話がまるで日記の一ページのように完結する心地よさと素晴らしい余韻。
一話一話の連載間隔の驚異的な短さ。
適度な飢餓感を持って終わる、何とも言えない後味。
その飢餓感は、同作者のアカデミー賞作品でも、DVDのボーナストラックでも満たされなかった。
どうしても続きを読みたいのだけど、たぶんもう本人でも作れない、そんな奇跡的な作品にも思える。 ・透明な主人公
この作品は世界のファンタジーを鮮やかに提示する。けれど、この主人公、とても透明感がある。
ずばねけた特技や行動力もなく、旅人ならではの朗らかな陽気さや静かな陰気さもない。さりげない、何だろう、アクが薄い。
一人旅の目的自体、伏せられたままだし、目的地も曖昧だ。個人的には、ずっと旅をし続ける人なのかな、との思いがある。
トルタニアという世界は不意に、大きなファンタジーを旅人に与えるのだけど、旅人はとても受動的。
ファンタジーは世界にあって、主人公にはない。
そしてそれに出会うとき、主人公はさり気ない驚き方をするのだけど、体でジェスチャーしたり、動揺してどなったり等、感情を表に出さない。
能動的に行動したのは、雨の街での悪夢を焼却しようとする部分くらいだ。
だからこそ、感情移入しやすい。
共に一人旅をしているような一体感が気持ちを覆い、着心地のいいセーターのようなナジム感じ、一体感がある。
彼も僕たちもトルタニアの旅人なのだ。
DVDでのエピソードに今ひとつ共感できなかったのは世界観の色合いなどよりも、陽気に踊ってしまった彼に、とても残念な思いをしたからだと思う。
・二話
具体的に最もお気に入りの二話目を見ていこう。
真夜中のコーヒー。喫茶店。ここでもうドラマがある。眠れなくなるコーヒーを深夜に飲む主人公、なぜか営まれるコーヒー店、ほかに客はいない。
これだけでワクワクさせる舞台設定が、溢れている。
きっと、です。目新しさや独特といったような世界観もいいけど、こんな感じに組み合わせの妙な世界の表現の仕方が、僕は好きだった、んだと思う。
さて、この作品。間の使い方が自然で丁寧。
3分にも満たない全体の尺にも関わらず、旅人がコーヒーの砂糖をツボからだし、コーヒーに入れるまで、かなりの時間をとっている。
けれど、この精緻で現実的な描写があるから、その次に起こる日常的なファンタジーにどきりとする。
そして、オチの独白の何ともいない不思議さと寂しさ。それに優しさ。
観る人によって、感じる印象はたくさんあると思う。でも、多くの場合、少しほろ苦く、気持ちいいものになるんじゃないかな。コーヒーのように。
なんだろう。この作品は折に触れて輪廻でまだ何回も触れていくことになると思う。観る栄養剤。