子供のころ、鉄道関係で勘違いしてた事
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寝台特急「あかつき」は「暁」でなく、「赤月」だと思っていた。 >>452
大阪には、鉄道どころか高速軌道なんてのが出来ましたね。 子供の頃、運転席の後ろに張り付いていた時、「チーン」という音(ATSの制限速度変更の合図?)がよく聞こえた。
運転室の中でお線香をあげているのかと不気味に思っていた。 「出発進行」は出発信号機の進行現示の確認じゃなくて発車の合図だと思っていた >>459
(当時近鉄)養老線が常に『出発注意』ということに違和感を持っていた。
そもそも速く走れないという制限が付いていて、
無くなってしまった揖斐線の方が飛ばしていた。 >>390
「複線」でワード検索したら先に書かれてた、これマジで思ってたわ 勘違いというか、時刻表の路線図で東海道本線のとこに京浜東北線と書いてるのが意味が分からなかった 山形新幹線 つばさは、東北新幹線区間内のみでの利用は禁止されていると思い込んでいた。 >>466
禁止ではないが、福島以北ユーザーのためになるべく使わないのがマナーだと俺は思ってる。
こまちも同様。 >>467
車両が小さい上に、わりと混んでいるから
わざわざそっちに行くメリットはないけどね 出発相当進行のソウトウは単なる掛け声だと思っていた。
なんで出発と進行の間に掛け声を入れるのか、不思議だった。 山手線103系の所属表記、「北イケ」は」東武東上線、北池袋駅の真ん前だから、「南シナ」は品川駅の南側なんだろうと思っていた >>474
窓口氏に「篠ノ井線の松本まで」なんて言うとちょっと考え込んでしまうらしい。 松本と言えば…
S60年頃に松本市内に住んでたんだけど、デビュー間もないユーロライナーの臨時列車が来るのを友達から聞いて、
自転車かっ飛ばし、ホームで待ち構えていたら遠目にEF65PFが!なぜなぜ?と大興奮した。
近づいて来たが、やたらブロワー音がうるさいし、色もなんか違うぞ???と思ったら… 沿線である京成しか知らなかったので、
当時の新車である国鉄201系の図面を見て
「ドアが4つあるから間違いだ!」と頑なに信じてた >>478
昔、たまたま総武線に乗ったとき、「この電車は中央線直通、各駅停車、三鷹行きです」というアナウンスを聞いて、中野までが総武線、中野から先が中央線と思い込んでた。 小さい頃、大阪環状線のホームに来る桜島行きは鹿児島まで行くと思っていた
乗ってる人は座席に座ったまま寝るのかなと不思議だった 腕木式信号機は、列車が通り過ぎれば、進行から停止に自動的に戻ると思っていたこと。 運転停車という概念を知らなかったものだから、
駅の構造上どう頑張っても通過できないのに
時刻表に「レ」の記号が付いているのを見て、
何か未知の特殊技術でのおかげで停止せずに走り続けられるのだと思った。
(例えば長岡駅での高崎方面〜富山方面) 窓が少なく、窓に牢屋のような鉄の保護棒が付いた郵便車や荷物車の中で仕事をしている人は囚人だと思っていた。 一両編成の電車は見習いが練習しているのだと思っていた。 ハンドル(マスコン・ブレーキ)で舵取りをしてカーブやポイントを曲がって走るのだと思っていた。 夏の首都圏の国鉄各線で行われていたアイスクリームの販売は鉄道営業に付属した旅客サービスの一環だと思っていた。 常磐線大津港駅は豪華客船とか、長距離のカーフェリーが出るような港の最寄り駅だと思っていた。(実際は漁港です) ブルトレの尾久→上野の推進運転の場合、弱い力ではあるが電源車が牽いていると思っていた。 大阪は新幹線でしか行けないと中学生まで思っていた。 ビュッフェのカウンター下の荷物置き場を子供用のカウンターだと思っていた。 「電気ブレーキ」とは電動でブレーキシューを動かす摩擦ブレーキだと思っていた。 東武野田線の新型車(3000形)は伊勢崎線と比べて線路の手入れが悪いから旧型車のような音がすると思っていた。 >>497
5000系が走り始めたとき見かけ8000系と変わらぬ車体で騒音と振動が激しいので
「故障してるのでは?」という苦情が多数寄せられたそう。 ディーゼル機関車は
凸型が液体式、箱型が電気式だと思っていた。 103系なんてそう簡単になくなりゃしない。どんだけ丈夫に作ってあると思ってんだ。
夜行列車なんかいつだって走ってる。みんな飛行機とバスだけでいいとは思ってない。
地方ローカル線が赤字ったって、そこに住んでる人がいるんだからさ。
俺がバカだったのか...orz 密着式連結器の構造を理解出来なかったオレは「あれは磁石でつながっている」と思っていた。 下関〜門司の海底トンネルって、「海底の下の地中にあるトンネル」ではなく、「海底の地面上にあるトンネル」だと思っていた。 海底トンネルとはそういう構造のもので、壁の外は海水と思っていた
東京モノレールに初めて乗った時、地下区間への入口が運河にあるように感じたので、何故トンネルが水没しないのか不思議に思っていた >>504
そして自分は海底上のガラス張りトンネルになってて列車に乗りながら水族館のように魚が見られると思っていたが初めて関門トンネルを通ってただの真っ暗なトンネルだったのでがっかりした。 綾瀬とか我孫子という所に行ったことがなかった当時、
代々木上原で地下にもぐる千代田線の電車を見て、
終点まで地下を走り続けるのだと思った。 信号機には「おしべ」と「めしべ」があると思っていた 貨物列車の車掌は正直言って"遊び"みたいなもんだと思っていた。 512(σ´∀`)σ ゲッツ!!
512キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
512(・∀・)イイ!! 「機回し」という鉄道用語を覚えたものの、それは、
転車台で車両(特に蒸気機関車)を180度回転させることを
意味するのだと思った。 ラッセル車ってキャブも前照灯もあるから自走出来ると思っていた。 新京成の京成津田沼〜新津田沼間の線形は受狙いで敷設されたのだと思ってた 多少、年齢がいっているとか偉くないと冷房車や新型車に乗務出来ないと思っていた。
年齢がいっている人で古い電車に乗務している人は、罰として乗らされているとも思っていた。 >>510
実際特段トラブルがなければなにもすることがない「遊び」だったらしい。 鳥羽・伏見の戦いの鳥羽を三重県の鳥羽だと思っていた(正解は今の京都市南区) 鹿児島本線と日豊本線の境目は「鹿児島」ではなく「西鹿児島」だと思っていた。 苛性ソーダと書いたタンク車はソーダ水を運ぶ貨車だと思っていた。 東京駅からこだま、または新横浜停車するひかりに乗って新横浜で降りてしまう人は
列車を間違えたのだと思った。 線路内の幅の違いは、車軸にバネをつけて車輪の幅を広げたり狭くしたり自由にできるようにすればいいと思っていた。 東北・高崎線の新宿行きは浦和が「||」なので大宮から埼京線を経由していると思っていた 子供の頃、改札鋏を休まず早く動かせれば鉄道会社に入りやすいと思って家の鋏で練習していた。 架線はパンタが触れる部分以外は普通の電線みたいに被覆してあると思ってた
考えてみたら被覆してあったら吊れないよね・・・ 113系や115系をクモニが牽いたり押したりしているから、新しそうな電車なのに吊掛けの電車みたいな音がすると思っていた。 草津温泉は京都から新快速で行く場所だと中学生の頃まで思っていた。 電車にも男・女といった性別があると思っていた。
走行音で区別できて、低音を出すのが男、高音を出すのが女といった具合。
1970年代の京成電鉄の場合、緑の電車は男で、赤とか銀色の電車は女と認識した。
のちにいろいろなことを学び、
前者は「つりかけ駆動」、後者は「カルダン駆動」であることを知った。 DD13やDE10の運転士は運転するのに外に背を向けて姿勢がだらしないと思っていた。 人身事故は東京以外では起こらないものだと思っていた(小学生の頃東京の新聞では東京以外の人身事故の記事はなかったので)。京阪神や地方の人はメンタル強いと感心した。 パラレルワールドという言葉があるんだから、シリーズワールドや弱め界磁ワールドもあるんだと思っていた。 鉄道が通ると井戸が渇れると聞いてバケツに水を汲み置きした。 昔、山陽本線の153系急行「とも」は友達のとも、と思い475系の「はやとも」は
何で友達が早いのかと思っていた。 昔子供のころ母親と田舎へ行くのに快速姫路行きに乗るために大阪駅5番線でのこと。
当時は快速80系だったが、母親が時刻表を見てつぶやいていた「16時35分か・・・」
俺「母ちゃん今4時だよ・・・」・・子供は24時間表示を知らなかった・・・・。 >>537 とは少し話がずれるが、山陽線に153系「びんご」があった。といってもビンゴ
ゲームと取り違えたのではない。まだビンゴゲームが一般的でなかった頃だ。
大人になってから娯楽でビンゴゲームをするときに、あと一コマに達すると大声で
「ビンゴーッ」と叫ぶのが、今となっても気に入らない。あのゲームもっと他の名称
は無かったのか!! まだ昭和30年代の初め頃、地下鉄があるのは東京・名古屋・大阪だけだった
と思うが、3歳位のときに両親と揃って御堂筋線に乗ったら、2〜3分おきに
車窓の景色が急に昼になったり、夜になったりと変わったのは驚いた。
地下を走る電車というのが理解できたのはその後4年位かかった。 >>541
「あと一コマは「リーチ!」だな。 そうだったナ。ありがトン。 >>537
とも・はやとも
修学旅行列車だと思っていたよ 「参院選の公示」を「山陰線の工事」だと思っていた自分は「ロッキードのお食事券」だと思っていた。 >>543
確かだいぶあとで、修学旅行専用列車「ひので」「きぼう」のような色の167系か
で「友情」が走っていたので、そう思われたと思います。 小学生の時に両親と大阪から京都へお参りに行くのに80系快速(内側線)に
乗っていたら、外側線をEF58+旧客列車が中学・高校生位を満席にして併走
していた。親が「集団就職列車だ!」と言っていた。オレは何の事だか分からな
かった。修学旅行とどうちがうのか? これを知ったのも10年位あとのことだ。 連投スマソ。丁度同じような頃、東海道線上りの80系快速に乗車中、大阪駅進入
時に72系各停が併走して到着しようとした。親が「向こうの電車、速度落とせよ、
速度落とせよ」というので72系の床下から下へ何か落ちるのかと凝視していたが、
結局何も落下しなかった。俺は言った「何も落ちないじゃないか!」 昭和55年に、現天皇陛下のお好みのタイプ歌手「かしわばら よしえ」がデビュー
した。TVの字幕に「柏原よしえ」と表示されていたので、キハ35しか停まらない
「かしわら よしえ」とは何と田舎臭い名前だ!と思ったが実は東海道線関が原の
隣の駅と同じ読みだった。 どうせ、ふりがな付けるなら福知山線の急行停車駅
「かいばら」にすればいいと思った。 車内洗面所にあった痰壺を子供用洗面器だと思っていた。 >>549
痰つぼ、オハ35・スハ32等の旧客には昭和30年代まで、客室内通路に5箇所ほど
銀色金具のものがあったが、よく足を引っ掛けてこけそうになった。「何と意地の悪い
物、穴ぼこが有るのか!」と憤慨した。それが痰つぼとわかったのは、大分あとで、
客車の設計図を見るようになってからだった。 電車の屋根上の話。パンタグラフの横に大きな丸い缶が載っていたのを見て、
これはパイナップルや粉ミルクの空き缶をグレーに塗って置いてあるものと
思っていた。「避雷器のカバー」なるものという理解は微塵も無かった。 >>550
オレの思い違いだといけないので調べてみた。下記のとおり車両内通路に存在した。
長文スマソ・・・
この省令により、駅には痰壺の設置が強制されたのだった。それだけ結核の撲滅は富国強兵の内憂の最重要関心事であった。
現在のノロウイルスの比ではなかったわけだ。この省令は、そののち昭和の戦後になっても、
昭和26年の結核予防法に受け継がれ、平成17年4月1日に結核予防法施行細則第16条が改
正されるまで、たん壷の存在が規定されていた。また肺結核予防規則の第5条にあるように、駅だけでなく客車内にもその設置が義務付けら
れた。 昔、子供の頃はどこの百貨店にも鉄道模型売り場があった。ショーケースに
並んでいるO・HOゲージは他の品物の値段が判らない子供にも高い値段が
付けてあるのが判るのが不思議だった。帰宅途中で阿倍野橋の上からや
天王寺駅で大きな車両実物を見るたびに「鉄道会社はえらいお金持ちなん
だな」と驚嘆・絶句していた。 ステンレスのキハ35を高崎で見て、八高線には地下区間があるのだと思った。 555(σ´∀`)σ ゲッツ!!
555キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
555(・∀・)イイ!! 神奈川県で育ったので、「中の島ブルース」は南武線沿線を背景にした唄かと思っていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています