その言葉の意味は自身の映画によって、ここまでの人気俳優にしなければ、大杉さんが多忙な撮影スケジュールの中、急死することもなかったのではという独特の思いがあった気がする。
 「HANA―BI」でのベネチア映画祭最高賞・レオーネドール(金獅子賞)受賞時から映画担当記者、特に北野番として密着させてもらった私は、北野監督はそういう考え方をする人だと思う。

 そして気づいた。24日の「ニュースキャスター」での涙が北野監督にとって、公衆の面前で見せる「あの時」以来、2度目の泣き顔だったということに。

 あの時…。99年8月24日の午後7時半、私は喪服に身を包んだ北野監督の右隣にいた。「俺は世界一のマザコンだからよ」と常々口にしてきた最愛の母・さきさん(享年95)の通夜が東京・葛飾区の蓮昌寺で営まれた。
 通夜終了後、憔悴し切った様子の北野監督は激しい雷雨の中、テントの下で待ちかまえた取材陣の質問に答えたのだった。

 それまで淡々と質問に答えていた監督は「俺の見ていた母親はいつも働いていて、いつも泣いていた親だったからさ…。感謝してる」そう絞り出したとたん、「うう〜…」と泣き出すと、雨でぐちゃぐちゃの地面にガックリとヒザをつきそうになった。
 私も手を差し出そうとしたが、監督への敬愛の念が強すぎたのか、一瞬、その体に直接、触れることがためらわれた。

 照れ屋でかっこつけの浅草育ち。人前で涙を流すなんて恥ずかしいこと。
 あくまで「泣いてねえよ」と、ごまかす北野監督が涙を抑えきれなかった場面を大杉さんの死から3日後に放送された「ニュースキャスター」のテレビ画面ごしに19年ぶりに見た。

 「早いよね…。同じような人が世界中にいっぱいいるからしょうがないのだけど、やっぱり人間っていうのは自分の近い人の死とかは堪えるね。父親とか母親とか死ぬのこたえるのと同じように」

 その姿、そして2度目の涙を目にして「ああ、北野監督にとって、大杉さんは家族同然の存在だったんだ」。
 そう気づいた。その後、最高の伴走者を失った「世界のキタノ」の喪失感の深さを思って、さらに悲しくなった。