カナリアが毛羽立つまで騒ぐのが気に入らないならなぜ閉じ込め連れてきたのか
ならば毒霧に勇ましく突っ込んで行けばいい
みんなから褒めてもらうために

最後に付け加えるつもりだった愚痴を最初に持ってきました。
正直すいません。最後だとオチとして最悪なので。

さて今日のちょっとした報告ですが、イラっとくる言葉を受けてカッとなった瞬間
怒りにとらわれてしまった行動結果について反省していたのですが、
まさか誰かの主張を代行してるのではないかと仮定できたのです。
いままで極悪人のそういう心が乗っ取られた的な言い分を実は信じていませんでしたが、
自分の望みとしては方向性が破綻してるんです。
カッとなってしまったから破綻していて当然とすればそれまでですが、自分としては
悲しい結果でありむしろ遠ざかる。今後についても形以上の自省材料につながりません。

ところで「協調性から共感性の時代」などという謳い文句も最近出てきたようです。
自分などはそのどちらもないと言われがちですが、怒りが誰かから自分に突然
流れ込んだものなら話は別で、共感し過ぎている場合すらあり得る。
そこで行動パターンを順に思い返してみると、対象や位置といったものにちゃんと
理由や目的という方向性が浮かび上がります。
誰かの希望としては正確な再現となっているのではという話になります。

そこまで言うからにはもう一方の可能性も見ておかなくてはいけません。
つまり自分は純粋に社会の敵である可能性もです。だから人として雑魚っぽい情念までも
安易に流れ込ませてしまう。しなくていい悪い共感の素地かも知れないという自覚です。
いずれにしても行動結果は自分がやった事になり、主張は責任転嫁としか取られません。

以上を逆算するような形で、流れ込む前に穴を塞ぐなり怒りそのものを変容させるための
ヒントになればと思います。