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貴志真由子さんは、和歌山県に生まれ活発で明るい少女だった。彼女が小学校5年生になった頃、彼女の母親は真由子さんが横になる時間が多くなったことに気付き、病院に連れて行った。91年12月のことだった。
病名は「GM1ガングリオシドーシス・タイプ3」といって、世界でも真由子さんを入れて23例しか報告されていない難病だった。大脳からの神経活動が妨げられ、なめらかな運動が出来なくなる病気で、現在の医学では治療は困難だった。
医師から「成人式まで生きられない。」と余命宣告された彼女の心の支えが、X JAPAN、そしてhideだった

障害が進み、言葉さえもうまく発せられないようになった真由子さんを見て、母親の和子さんは居た堪れない気持ちでした。そこで目にした1通の手紙。
「難病に苦しむ子供達の夢を叶えたい」という思いから生まれた支援団体“メイクアウィッシュ”母・和子さんは、この支援団体を通じて「憧れの人、hideに会いたい」という真由子さんの願いを打診したのです。

忙しく、毎日スケジュールが詰まっているhide。そんな中時間を取ることはできない、とスタッフが打診を断ろうとしたところ…
「・・・今、電話あった人にすぐ連絡を取ってくれそいつは、俺のダチだ。」と、言い放ち、自分に会いたい!と望む少女の願いを快諾した!hideは1995年 12月31日、Xの東京ドームライブで少女と会い、とびっきりの笑顔で少女に話しかけた。

hideにプレゼントするためのマフラーを、不自由な指で2ヶ月かかって編んだ。 1995年12月31日真由子さんはとうとう憧れの人、hideと会った。彼は、手編みのマフラーのお返しにと歌を歌い、そして愛用のギターをプレゼントした。
hideは気さくな人柄で真由子さんの家族ともうち解け、コンサートの後の打ち上げにも招待してくれた。打ち上げでは、メンバーに真由子さんを友達だと紹介していたという。

その後、真由子さんの病状が悪化。予断を許さぬ状況となった
1996年3月、とうとう真由子さんに骨髄移植の手術が行われましたが、手術後、最も恐れていた拒絶反応が表れ、真由子さんの心臓と肺には水が溜まってしまいます。危篤状態になった真由子さんのお母さんは、せめて声だけでも聞かせたい、とhideに連絡を入れたのです。
HIDEは声だけどころかそれ以降のスケジュールをすべてキャンセルし、真由子さんのもとへ向かった
HIDEは真由子さんを無菌室から見守りました。その無菌室から、真由子さんを励まし続けました。「がんばれ真由子 これから真由子のために曲をつくるんだぞ がんばれ」死のふちをさまよう真由子さんを、HIDEは励まし続けました。
絶望的と思われた状況から、奇跡としか言いようがない回復をみせ、死のふちから生還したのでした。真由子さんは死のふちをさまよっている中、HIDEが来ていることを感じていたそうです。
そして、真由子さんのために完成したのが『Misery』
真由子さんは、hideの死を知った時は大きなショックを受けた。死んでしまおうと思った時が何度もあったが、hideの悲しむことはしたくない、と考えたというのだ。hideは今もこれからも、真由子さんの心の中に永遠に生きているという。

2009年9月30日、真由子さんが永眠。28歳だった。
ロックバンド「X JAPAN」のギタリスト、故・hideさん(享年33歳)のファンとして知られ、先天性代謝異常の難病と闘ってきた貴志真由子さんが9月30日午後2時ごろ、和歌山市内の病院で肺出血による呼吸困難のため、亡くなった。28歳だった。
hideの死後、真由子さんは家族と共にhideのブランドにちなんで『レモネードカフェ』というカフェを始めた
真由子さんのご両親が今も続けている。
真由子さん母twitter: https://twitter.com/lemocafe

真由子ちゃんの ご冥福を心より お祈り申し上げます。真由子ちゃん 天国でhideちゃんと ゆっくり過ごしてね。