トホホのWindows 第8節
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テーノーな井の蛙、涙拭くにもドライアイ
σ < おいらの朝鮮語録集www
(V)
|| 七誌?もしかして気取って名無しなんてんじゃねーよなw >>98
マイクロソフトがピンポイントで
コード送ってきた証拠は全くないけど事実
>>65は状況証拠でしかなく信用に値しないと言う
トンチンカンなヘル朝鮮マニア(76歳、朝鮮人気質)w ネット上に想像以上に己の馬鹿が蓄積してる事実に
気付いてない木下(76歳、元警備員)であったwww ロシア・ウラジオストック発ソウル行き大韓航空982便が
トラブルでも起きたのか、新潟に向けて飛行中 大韓航空機は佐渡上空で大きく向きを変え、輪島―米子から、
朝鮮半島に向かう動きをしている。
北朝鮮周辺空域は危険なために大きく迂回しているのだろう。 σ < ほほほほほほっほほほほほ
〈V〉 涙拭けよ、マイクロソフト工作員
〈〉 ____
____(^o^)ノ__ < 朝ダ、起キタォ
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|\⌒⌒⌒ \
\| ⌒⌒⌒⌒|
 ̄ ̄ ̄ ̄ 韓国を罵るためベトナム戦争まで引っ張り出してくるいやらしさ
Kの法則 たぶん例のサイトなどで見て影響されてるんだろう ____
__ (^o^)__ < タッハッハ
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\| ⌒⌒⌒⌒|
 ̄ ̄ ̄ ̄ σ < ヘル朝鮮(キリッ!!
(V)
||
↑
76歳、チョン以下w σ < MS工作員、供養トッホホホ
(∧)
00 |||~~ >>125
大韓航空機は佐渡上空で大きく向きを変え、輪島―米子から、
朝鮮半島に向かう動きをしている。
北朝鮮周辺空域は危険なために大きく迂回しているのだろう。 MS工作員などという、本当に実在してんのか良く分からない影と戦う
反韓喧伝工作員 σ とほほのシンジケート σ < トッホッホ
{V} 否定するのはMS工作員だけじゃないの、知らんけどwww
U σ < よって、狂っても介護するものなしとか、わわわわわ
(V)
|| MS工作員とやらじゃねーし、リンゴPCから打ち込んでるワケだし
架空の存在で自分を納得させられるお得な脳
一人暮らしなんだから、要介護にならんようにな〜 爺、おさきゃスレ荒らしにいこうぜ
って思ったら、滅茶苦茶AA荒らしされてたワロタwww σ < ワロタ
(V) 半島工作員なのかwww
|| σ < アキバに出かければよかったな
(V) でも、今日のうち洗っとかないと
|| 2台使うことになって不経済、トッホッホ
観光客も多くて様変わりし過ぎだ アキバ?メモリ買いに行くのか?
C2Dはもう古いから、i3やi5の中古PC買えよ σ < カメラとアイロンが壊れたまま買い換えていない
(V) 一寸工作するのに電動工具も必要だ
|| ま、最初はドライバーだな
それが済んでからPC関係かな
カメラの機種選定が定まらない
野外活動向けのを買うか、1型センサー付のを買うか
大きいのは持ち運びが大変だし 【高見の見物】
秀丸メールの公式サポート掲示板で知ったが、Win10が
またデタラメをやらかしたみたい。今度はUSBキーボードが操作できない
という致命的障害。 Win7で更新を切っている自分はセーフ
KB4074588
KB4087256 σ < ワロタ
(V) キーボードとマウスはどんな条件のときにも確保できないとどうしょうもない
|| 最近は、USBキーボードのみを手元においているユーザーも多いだろうから
USBは下位互換ではないのかwww 修正用の KB4090913 を公開しても、キーボードやマウスが操作できないのだから
どうやってダウンロードするんだろうね。
Win10使いはご苦労様ね。 【高みの見物】
個人が遊びでWin10を使っているぶんには社会に実害は無いけど、
仕事でWin10を使っている人たちは2月中旬から災難続きでしたね。
マイクロソフトを信じているのがそもそもの間違い。 Win10は2025年まで持たないね。廃盤決定
Win7は販売再度延長確定だな。 392 :名無し~3.EXE [↓] :2018/03/06(火) 19:15:04.29 ID:uiYIFYfB
σ < この体たらくだと、Windows機、しかも、10だけで業務運用するとなると
(V) 一斉に業務ストップと言うことになりかねないな
||
7があると、幾分、危険分担が出来る訳だ
マイクロソフトが強引に10に絞ってしまうと
ユーザーは危険分散のためにMacとかLinux機を用意するしかなくなる
構造的に、Windowsのシェアは落ちるしかない
マイクロソフトはその辺をどう考えているんでしょうかねwww σ < ワロタ
(V) マイクロソフトが雁字搦めにユーザーの利用形態を拘束してしまうと
|| リスク分散のために、他にMacとかLinux機を準備してなくては
業務とか日常利用が困難な状況に陥る可能性が高くなる
Windows寡占状態から二頭、三頭のシェアが成立しないと
ユーザー利益が確保できなくなるwww
マイクロソフトはその辺をどう考えているんでしょうかねwww σ < フィジカルな産品に当てはめて考えると
(V) 毎月リコールが起きているような体たらくだwww
|| 運送外車で一社のみのトラックで運用していたら
リコール発生したらお手上げだわな
同様のスペックの数社のトラックを同時運用しておかないとやばいかも
マイクロソフトがコストが掛かって大変だからと
ごり押しして一つのバージョンのWindowsに絞って提供するとなると
それと同様な事態が発生する可能性は高い
とても危険なことが起こりうる
どういうつもりかしら、わわわわわ σ < テーノーモンスターはワロタワロタですねぇwww
(V)
|| 7の更新切ってるとかバカがいたもんだと思ったら
アプデカタログも知らないテレキチ君か 爺はカタログではなくテレメごとブッ込んで10に化ける寸前にまで
もって行かれたんだっけかwww q6ByJgWs0 で検索してみた
https://www.google.co.jp/search?q=q6ByJgWs0&source=lnt&tbs=li:1&sa=X&ved=0ahUKEwjAqvHpx9fZAhUEpZQKHf5qCpkQpwUIHw&biw=1598&bih=898
> 15. 軍事速報の中将 2018年03月05日 09:31 ID:q6ByJgWs0
> ※13
> 確定までは行かないだろうけど、ここから先は脅しじゃないことは確か。
http://blog.livedoor.jp/corez18c24-mili777/archives/51636126.html
※Powered by ライブドアブログ
> 24. 2018年03月05日 21:15 ID:q6ByJgWs0
> 亡命ってwww
> 南北ともにドイツと国交あるじゃねえかw
>
> お前の国籍はどこなんだよw
http://www.wara2ch.com/archives/9068831.html
※Powered by ライブドアブログ
アフィリエイトブログの養分になっているケンモー民とかマヌケすぎてwテーノーすぎてw σ < ワロタ
(V) 読まんからwww
||
しかし、先ほど、マイクロソフトがやっていることのパラドックスにふと気づいてワロテしもたwww >>161
そこまでして何でWindows捨てられないんだwww
リンゴのPC使ってみろよ〜 Linuxとはまた違うぜwww σ < ワロタ
(V) このようなジャングルの野砲図と技術的エラーの問題に対する
|| リスク対抗策は寡占では防ぎきれない
多頭の分散が必要になるってことだ
独占禁止なんてものじゃなくて
リスク分散が環境荒廃に対する回答ということだ
同じOSで異なるデバイスに間に合わせるとんでもない勘違いから人類は開放されなくてはならない
思い起こせば生命は多様性ストラテジィで過酷な環境の変化を生き残ってきたのだ σ < ワロタ
(V) マイクロソフトはやっぱし
|| テーノーモンスターでありましたな、わわわわわ σ < セキュリティリスクを克服しようとして
(V) 構造的なリスクを作り上げてしまう
|| これほど馬鹿げたことはないわwww あれだけ、Win10を褒めそやしていたお人は今どんな気分?
キードードも操作できないOSなんてもうお仕舞いでしょうよ。 >>165
だからテーノーモンスターが作ったWindowsは捨ててリンゴにしろや
できるもんならwww σ < ワロタ
(V) おいらのロジックが理解できないらしいwww
|| ちなみにWin10ってキーロガーみたいのが装備されてんでしょ
10IPで爺が打ち込んだものは、誤字や打ち直しも含めて全部テーノーモンスターに
収集されてるかもよw >>168
テーノーのカキコなんか理解する気になれないもんw
力作長文はまずスルー、読む価値が見出せないwww ____
____(^o^)ノ__ < それそろ寝る時間だぉ
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| (^o^)ノ | < 涙拭けぉ
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| (^o^)ノ | < 糞の絶対値、分からん、ネルぉ
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 ̄ ̄ ̄ ̄ σ < 【韓国の反応】みずきの女子知韓宣言(´∀`*)
(V)
|| 623 :動け動けウゴウゴ2ちゃんねる:2016/05/05(木) 00:41:48.82 ID:yrhzRZrS
ワロタ。
Windowsで工作活動してる香具師が、おいらの名前欄のコテ解読して成りすました。
その香具師がこちらで同じコテを晒した。
同じ並びの文字列を保存しておかなくては、それは出来ない相談だ。
そのことから<工><作><員>の同定は完了が完了した。
アンチネトウヨの立場の香具師が長らくWindows擁護の工作をやっているwww
↑
◆IF7sht0hM2なんてトリップ、他にも思いつく人間がいるってだけ
ちょっと見当付けられた程度でこの妄想
鳥なんて早々割れるもんじゃない事が解ってない馬鹿w
オノ・アヤコ ◇IF7sht0hM2
レイ ◇IF7sht0hM2
リン様 ◇IF7sht0hM2
スピンシティ ◇IF7sht0hM2 ____
____(^o^)ノ__ < 朝だ
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____(^o^)ノ__ < やっぱ、起きるか
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 ̄ ̄ ̄ ̄ http://www.antiatom.org/page/index.php?id=334
トップページ >>> 被爆者との連帯【広島・長崎】 >>> 沈黙の閃光/ セツコ・サーロー
被爆者との連帯【広島・長崎】
沈黙の閃光/ セツコ・サーロー
いまから40年前の1945年8月6日、アメリカは広島に原爆を投下しました。当時、私は広
島女学院に通う13歳の生徒でした。この一発の爆弾でおよそ14万の人々が命を失いました。
私は生き残った者のひとりです。その後の人生の大半を、あのとき目の当たりにした恐怖
と被害を二度とくり返させないために生きてきました。廃墟から這い出てきた私たちは、
いま世界を脅かしている核の破局を垣間見ました。私のことをお話しするのは同情を得る
ためではありません。警告なのです。
被爆以前の私の生活は、日本の若い女の子としては例外的なものでした。家族は武士階
級の家系でした。侍といっても、封建的な特権はずっと以前になくなっていたのですが、
それでも武士の家系にははっきりとした社会的な格式が残っていました。私たちの住む広
島の大きな家の門には、武士の家系であることを示す家紋が刻まれていました。 西洋の知識という点でも私たちは例外でした。戦前、私の父はドイツ人のパートナーと
「西部フルーツ会社」を起こし、カリフォルニアで果実の商売を営んでいました。6人の
兄弟姉妹のうち何人かはそこで生まれました。家族は、ゴルフとかスキーとか、西洋の中
流の人たちが楽しむ娯楽にも親しんでいました。ほとんどの日本人にとって、習いたいと
は思っていたかも知れませんが、何の知識ももっていないような活動でした。
私は、1932年1月3日、中村節子として広島に生まれました。兄弟姉妹のほとんどはすで
に成人年齢に達していました。だから私は大人の世界で一人っ子のようにおませで、甘や
かされて育ったわけです。たくさんの楽しい時間がありました。けれど戦争はいつも影を
落としていました。ラジオで日米開戦の報道を聞いたことも覚えています。9歳のときで
した。勇ましい軍歌に続いて、陸や海戦での勝利が伝えられました。しかし太平洋戦争の
なかで年とともに音楽は暗いものへと変わっていきました。大きな敗戦の報道が続くよう
になり、天皇陛下への忠誠が強調されました。状況は悪化の一途をたどりました。なにも
かも配給に変わりました。着るものも、とりわけ食べるものも。ごはんに押し麦や、さら
には食べられるものなら何でも混ぜるようになりました。砂糖はほとんど手に入らなくな
りました。 私は、1932年1月3日、中村節子として広島に生まれました。兄弟姉妹のほとんどはすで
に成人年齢に達していました。だから私は大人の世界で一人っ子のようにおませで、甘や
かされて育ったわけです。たくさんの楽しい時間がありました。けれど戦争はいつも影を
落としていました。ラジオで日米開戦の報道を聞いたことも覚えています。9歳のときで
した。勇ましい軍歌に続いて、陸や海戦での勝利が伝えられました。しかし太平洋戦争の
なかで年とともに音楽は暗いものへと変わっていきました。大きな敗戦の報道が続くよう
になり、天皇陛下への忠誠が強調されました。状況は悪化の一途をたどりました。なにも
かも配給に変わりました。着るものも、とりわけ食べるものも。ごはんに押し麦や、さら
には食べられるものなら何でも混ぜるようになりました。砂糖はほとんど手に入らなくな
りました。
終戦間際のある日のことです。二階に行くと父がテーブルの前に座って、なにか外国の
本を読んでいました。「それなに?」と聴くと、「英語の文法の本だよ」とのこと。驚き
ました。父は、「やがてこれが必要となる」と言いました。当時は、まだそれがどういう
ことなのかよくわかりませんでした。いまから思えば、父は日本の敗戦が近づいていたこ
とを知っていたのです。米国に住んだことがあり、アメリカのすごい力をよく知っていた
のですから。 その年の春から夏にかけて、米軍はサイパン、テニアン、硫黄島の空港を相次いで落と
し、日本の都市を攻撃できるようになりました。広島を爆撃する前、米軍は東京はじめ、
大きな都市を次々と爆撃しました。広島が攻撃されるのも時間の問題でした。37万人の人
口と優れた港をもち、そこから軍人を船で太平洋の戦場に送り出していた広島は、主要な
攻撃目標だったのです。
私たちも、備えを固めようとしました。市全体が班に分けられ、それぞれが民間防衛体
制の責任者である班長の下に置かれました。女性のスカートやハイヒールは禁止です。実
際、非常時に自由に動けるように、もんぺとよばれる機能的なだぶだぶのズボンをはいた
わけです。外出するときは救急セットが入った布のバッグと炒った豆の袋とを持ち歩きま
した。もし取り残されても飢えることがないようにです。夜は敵機が家を標的にするのを
防ぐため、窓という窓に覆いをつけました。毎晩、空襲警報で眠りを中断されました。い
つでも防空壕に逃げ込めるよう、寝るときも服は着たままでした。 ふだんの授業は停止され、生徒たちには動員がかかりました。原爆が爆発したとき、7
年生、8年生の生徒のほとんどにあたる6000人以上の生徒が市の中心付近で、建物疎開に
あたっていました。爆撃の後、火災が広がるのを防ぐため防火帯をつくる作業です。その
ためには家々を引き倒さなければなりません。志願していた大人に助けられながら、生徒
たちは木材や瓦の片付けにあたったわけです。
私自身は、建物疎開の作業はしませんでした。同じ学校から行った30人くらいの女子生
徒と、前線から届いたメッセージの暗号を解読する特別の訓練を受けていたのです。すば
やく足し算、引き算をし、暗号表と照らし合わせなければならない複雑な作業です。成績
が上位の生徒だけがこの仕事に撰びだされました。そんな重大な情報に13歳の女子生徒を
あたらせるくらいですから、日本がどれほど絶望的な状態にあったかがよくわかります。
夏が盛りになっても、懸念された広島の空襲はありませんでした。人々は次第にいらだ
って、アメリカは何か特別な計画をもっているのではないかと疑いはじめていました。 私の、正規の暗号解読助手としての第一日は、1945年8月6日月曜日、朝8時にはじまろ
うとしていました。市の上空で原爆が破裂した時間の正確に15分前です。前の晩、31歳の
姉綾子と姉の4歳の子ども英治が田舎から広島に出てきました。医者に行ってものもらい
を見てもらい、ついでに美容院でパーマをかけてもらおうと、出かけてきたのです。綾子
の夫は戦地に出ており、彼女は、子どもを空襲から守るため広島を出て、田舎に疎開して
いました。
その晩はいつものように空襲警報が鳴り、よく眠れませんでした。しかし翌朝は警報解
除が鳴り、人々はいつもの仕事を始めようとしていました。美しい夏の日で、青空がいっ
ぱいに広がっていました。6時30分に布団から出て朝食をとりました。綾子と英治は医者
と美容院へと出かけました。7時45分頃、私も家を出て、生徒たちのグループといっしょ
になるために駅へと歩きました。私が班長でした。隊列を組み、市の中心から1.8キロ
メートルのところにある第二総軍司令部へとむかいました。「歩調をとれ!」「かしら、
右!」と、私の号令で入り口の歩哨に敬礼した隊員たちを、暗号作戦の責任者であった柳
井少佐が待っていました。少佐は、二階の大きな部屋に集まった私たちを前に演説し、元
気で、天皇陛下のために一生懸命に働くよう話しました。ちょうど、私らが「わかりまし
た。最善を尽くします」と言ったときでした。窓全体が青白い閃光でいっぱいになったの
です。 爆発音は聞きませんでした。市から何キロもはなれたところでは、落雷のような轟音が
はっきりと聞こえました。しかし私たちは、爆心近くにいたほかのすべての被爆者と同じ
ように何も耳にしなかったのです。静かな閃光だけがあったのです。それを見た瞬間、机
の下に潜り込もうとしました。けれどなにか浮かび上がるような感じがしました。建物と
ともに、私の身体は落ちていったのです。
気がつくと、辺りは静かで真っ暗でした。瓦礫の下敷きになっていました。爆弾が頭上
に落ちたのだと思いました。市民の誰もがそういう感じを持ったようです。
瓦礫の中に横になり、動くこともできず、このまま死ぬんだなと思いました。不思議な
ことに怯えはありませんでした。しばらくして、級友の声が聞こえてきました。弱々しい
声で神様を呼んでいました。「神様、たすけて!」「おかあさん、たすけて!」 そのと
き、だれかの手が私の左の肩に触れました。私の近くに埋まっているだれかでした。それ
から、その手が私の周りの木片を緩め始めました。真っ暗な中で男子の声がしました。
「いいか、あきらめるな。押し続けるんだ。動かし続けるんだ。いま助けるから。見え
る? 陽の光が差しているだろ」。左側に光がちらちらと差し込んでいました。その人は、
「動くんだ。隙間から這い出るんだ!」と言います。私には彼が見えませんでしたが、こ
うして二人で闇の中から這い出したのです。そのとき、火はすでにその瓦礫となった建物
にもまわりはじめていました。 私が着ていた服はぼろぼろになり、血に染まっていました。体中、傷だらけでしたが、
手足を失うことはありませんでした。朝だったのに空は暗く、まるで夕暮れのようでした。
そのとき、市の中心の方から、人々が足を引きずりながら歩いてくるのが見えました。体
の一部を失った人、目が溶け出してしまった人、黒ずんだ皮膚、骨からはがれ、リボンの
ように垂れ下がった肉片、あたりを満たすひどい臭い、焼けた人の身体の悪臭。それは説
明しようのない臭いでした。あえて言えば、魚を焼いたような臭いです。
一番不思議だったのは、あのときの静けさです。それは、私が感じたもっとも忘れるこ
とのできない記憶のひとつです。みなさんは、人々がパニックに襲われ、走り、叫びまわ
ると思うかもしれません。ですが広島では、そうではなかったのです。無声映画の絵姿の
ようにゆっくりと動き、埃と煙の中を足を引き摺りながら歩いていたのです。何千人もの
人が、「水、水をください」といってあえいでいました。多くの人がそうして崩れ落ち、
死んでいったのです。
這い出すことができた2、3人の級友と一緒に、幽霊のような人の列に加わりました。
1マイル(約1.6キロメートル)くらい歩いたでしょうか。非常の場合はそこへ逃げろとい
われていた丘の斜面の方向です。何もかもが炎に包まれ、黒い煙と埃が空を覆い、ますま
す暗くなっていました。 丘のふもとには練兵場がありました。地面はすべて死体と瀕死の人々でいっぱいでした。
歩ける人は近づいて助けようとしました。だれもが水を欲しがっていました。熱と脱水症
状による最悪の苦しみにあえいでいたのです。けれど、コップもなければ水を運ぶ水筒も
ありません。近くの小川に行き、ブラウスを脱いで水につけました。そうして急いで戻り、
ぬれた布を死んでいく人たちの口にあてがったのです。人々は必死になって水分を吸おう
としました。それが、私たちができた精一杯のことでした。
一日中、その仕事に追われました。夜が来て、私たちは丘に腰を下ろし、火が市全体を
なめ尽くしているのを茫然と眺めていました。朝には、広島はまったいらになっていまし
た。ふつうならずっと遠くに見えていたはずの市の背後の山が、すぐ近くに見えていまし
た。私たちを襲ったものが通常爆弾以外のなにかであったことはあきらかでした。まるで
突然、青空から地獄が降ってきたようでした。
被爆者が「原爆」という言葉を聞いたのはずっと後になってのことです。けれど、私は
その言葉を、その日のうちに、丘の中腹に腰を下ろし市が焼けるのを見ているときに耳に
したのです。暗号解読本部で私たちのボスであった柳井少佐が傍らに立っていました。眼
下に広がる破壊の跡を見下ろしながら彼は、「これは、アメリカが開発してきた新型爆弾
に違いない。原子爆弾だ」といったのです。暗号解読の専門家として、彼は秘密情報を知
っていました。彼の言葉は、もちろん、当時の私には何のことかわかりませんでした。10
日ほどして、「広島は新型爆弾によって壊滅した」と書かれたポスターが電柱に張り出さ
れはじめました。それには、初歩的な科学の解説が書かれていました。そこには「高度曳
光性新型爆弾」という言葉が使われていました。 σ < なんだかなぁなんだかなぁなんだかなぁ
{V}
U 原爆が落ちたとき、父は瀬戸内海で、好きだった釣りをしていました。広島からほぼ10
キロメートルほどのところで、ボートの上からきのこ雲が市を覆うのを見たといいます。
すぐに岸にとって返し,急いで市内に歩いて戻りました。母は、爆発のとき、朝食の後の
食器を洗っていました。つぶれた家の下敷きになりましたが、火がまわる前にのがれるこ
とができました。
家族の間では、もし何か起こったら、親戚が住む広島郊外の府中に逃げることになって
いました。母はただちにそこに向かいましたが、父は別の郊外にある親戚の別荘のほうに
行きました。綾子と英治が生き延びたと聞き、そこへ行ったのです。両親がどうやってふ
たたび落ち合ったのか判りません。たぶん翌朝、別荘で落ち合ったのでしょう。同じ朝、
父は私を探しに出ました。私が働いていた陸軍本部の人たちは丘に逃げたと聞いていたの
です。兵隊さんが、「中村節子!」と、私の名前をよぶので、「はい、ここです」と答え
ました。そこに父が居たのです。父はひとこと「よかった!」といいました。「ありがた
い、おまえは生きていた!」という意味です。その後しばらく、言うべき言葉もありませ
んでした。
父と私は、母、綾子、英治と別荘で一緒になりました。姉と英治は生きてはいましたが
ひどい状態でした。 σ < なんだかなぁ
\/V__.__/
|ξ|ノ| ̄| 爆発のとき、ふたりは医師のところへ行こうと橋をわたっていました。爆心では摂氏60
00度にものぼった、焼き尽くすような熱線を遮蔽するものは何もありませんでした。多く
の人々がただ、ただ、蒸発したといいます。姉と子どもは爆心地よりは離れていましたが、
ひどいやけどを負いました。綾子はどうにか、息子を背負って、崩れ落ちた私たちの家ま
でたどり着きました。隣の人は、姉が廃墟を掘り起こしているのを見たといいます。そこ
から彼女は食用油を掘り出していました。やけどに塗って和らげようとしたのでしょう。
姉は隣の人に、親戚の別荘へ連れて行ってくれるよう、助けを求めました。隣の人は、瀕
死の英治を運び、姉は腕に食用油を抱え、這うようにして来たのです。翌朝会ったとき、
二人の身体は二倍もの大きさに腫れ上がっていました。皮膚は溶け、火ぶくれが覆ってい
ました。
10日ほどその家にいる間、姉と彼女の子どもは薬もないまま、じわじわと死にむかっ
て苦しみがつづいていました。なにも食べられず、小さな子どもが「おばーちゃん、英治
にブーブーをちょうだい」というのです。「ブーブー」というのは水のことです。でも、
私たちは二人に水をあげることができませんでした。兵隊さんから「水をやると、死を早
める」と言われていたからです。 σ < ナンダカナァ
\/V__.__/
|ξ|ノ| ̄| 敵機はなお、広島上空を飛び、破壊の様子を調べていました。飛行機が来るたびに防空
壕に逃げ込まなければなりませんでした。私は容易に駆け込めたのですが、綾子と英治に
は、何をしてやることができたでしょう。二人はもはや歩くこともできず、触るだけで肉
が剥げ落ちるのです。父は部屋で寝ている姉を残して防空壕に行くことができず、彼女も
運ぼうとしました。姉は痛みで悲鳴をあげました。恐ろしい声でしたが、それでも父の心
は姉をそこに残すことを許さなかったのです。
10日後、綾子と英治は息を引き取りました。二人の焼けて膨れた体が溝の中で無造作に
焼かれるのを見つめました。兵隊さんが二人にガソリンをかけ、マッチで火をつけ、焼い
ていきました。よく焼けるように、竹の棒で遺体をひっくり返さなければなりませんでし
た。彼らは作業しながら、「腹はまだ半分しか焼けてないぞ」とか「脳みそがよく焼けて
ないぞ」などといっていました。泣くこともできませんでした。この記憶はその後もずっ
と、私を苦しめ続けました。同じような経験は他の被爆者のみなさんからも報告されてい
ます。級友のひとりは、家があったところに戻ったら、家族すべての焼かれた死体があっ
た。あまりのことに泣くこともできなかったといっていました。
ずっとあとになって、原爆の心理学的影響について研究をはじめ、私たちが感じた感情
の麻痺についてわかるようになりました。アメリカの精神科医ロバート・ジェイ・リフトン
が書いた広島の被爆者についての本「生のなかの死」(Death in Life 岩波の訳は「広島
を生き抜く」)によって、私は、彼のいう「精神の閉鎖」について学びました。過度にお
ぞましい刺激が意識に入り込むのを防ぐための心の麻痺についてです。私のなじんだ家庭、
友だち、学校、町そのものなど、すべてが一瞬にして消え去った悪夢の世界でなお、私が
行動することを可能にしたもの、それがこの心の麻痺であったと信じています。 ____
____(^o^)____ < トッホッホ
| レ{ V }し |
|\⌒⌒⌒ \
\| ⌒⌒⌒⌒|
 ̄ ̄ ̄ ̄ 8月15日、被爆から9日後、兵隊さんたちが、正午にラジオで重大放送があるとメガフォ
ンで伝えてまわりました。私たちは、特別放送があるから近くの丘の中腹まで来るように
いわれました。父と私が行きました。木の枝にかけられた拡声器から天皇の声が流れてき
ました。音質はひどく聞き取りにくく、おまけに私たちは天皇の公式の宮廷用語に慣れて
いませんでした。けれど彼が、降伏を決定したことについて伝えていることは判りました。
彼は、広島と長崎(広島から3日後に爆撃された)の破壊についても述べました。これら
二つの都市の運命が降伏の決定に関わっていると言っているようでした。天皇は、臣下が
「耐えがたきを耐え」るよう言って、演説を終えました。数人の兵隊が泣き出しましたが、
ほとんどの人はただ、呆然として立ち尽くしていました。
敗戦の翌日、私たちは郊外にある伯父の家に移りました。伯父の妻と二人の娘は広島か
ら戻りませんでした。幸いなことに伯父のところには私たちの分の食糧や衣類があり、彼
が所有する貸家に住まわせてくれたのです。生き残ることだけが問題でした。
当時の私たちがおこなった一番の仕事のひとつは、義理の姉を探すことでした。彼女は
被爆のとき市の中心に居ました。数日間、私たちは瓦礫を調べ、焼けた死体を裏返しまし
た。家があったところにも行きましたが、灰と砕けた瓦以外、何もありませんでした。湯
のみとご飯茶碗が溶けて、ひとつにくっついていましたが、鋳物の鉄枠がついた飾り時計
を拾い出すことができました。(それは今でも私がもっています)。9月もずっと探しま
したが、彼女を見つけることはついにできませんでした。 ____
___〈(^o^)〉__ < なんだかなぁ
| { V } |
|\⌒⌒⌒ \
\| ⌒⌒⌒⌒|
 ̄ ̄ ̄ ̄ 去年の夏、彼女の息子と話をしました。彼は、被爆のとき市の外にある家に居ました。
いまは広島工業大学で電子工学の教授をしています。母親が帰らなかったことについてど
う感じているか尋ねたのにたいして彼は、そのことと向かい合えるまで本当に長いときが
かかったといっていました。被爆当時、彼はちょうど5歳でした。母親は亡くなったとい
われていたのですが、それでも毎日駅に行き、母親が広島での仕事を終えて帰ってくるの
を待っていた、何カ月もそうしていたとのことでした。
9月の半ば、原爆が落ちてから5週間後、台風が広島を直撃しました。家に帰りながら雨
に降られ、ごみや糞が流れている中をひざまで水に浸かって歩かなければなりませんでし
た。原爆にあって以後はじめて、泣き崩れ、号泣しました。びしょぬれになり、疲れ果て
て家に着いたとき、父に惨めな気持ちをぶつけました。父は、「お互いに命があり、ひと
つ屋根の下に暮らせているのに、お前はなんの権利があって不満を言うのか!」と、私を
叱り付けました。
はじめは、父の言葉に打ちのめされました。しかし、結局、父の言ったことはそのとお
りでした。生活の現実と折り合いを付けていかざるを得なかったのです。私の両親は典型
的な模範でした。一度も不満を漏らしたことはありませんでした。すべてを失いながら、
なお打ちひしがれませんでした。たぶん、それが侍の息子や娘の矜持だったのでしょう。
私にはわかりませんが、父のその言葉が私にふたたび生活をはじめ、立ち直る力を与えた
のは確かです。その日は、私の感情的な麻痺に終わりを告げる日となりました。ひどい窮
乏と惨めさという事実に向かい合って生き続ける決意を固めたのです。 10月頃、学校が再開しました。市内の元の校舎は灰燼となりましたが、市外の山に土地
をもっていて、仮の施設をつくったのです。波型のブリキの屋根を載せた粗末な小屋でし
た。雨が降るたびに、先生の声が聞こえなくなるほどひどい音がしました。窓もなく、風
が直接入ってくるので凍えるような寒さでした。でも、気になりませんでした。級友と一
緒になれ、以前の生活が戻ってきたようでうれしかったのです。
生き残ったことを喜びあったのですが、長くは続きませんでした。被爆に続いて、生き
残った人たちに不思議な症状が表れてきました。他の多くの人たちと同じように、私も内
出血や下痢、歯茎の出血に襲われました。脱毛もありました。私の場合はそれほどでもな
かったのですが、なかには全部抜け落ちてしまった女の子もいました。そういう生徒たち
は防空頭巾をかぶって登校していました。それが、なんの外傷もない人たちまで、静かに
死んでいくようになったのです。最初は、身体に細かい紫斑が表れ、生徒たちが次第に学
校に来なくなりました。先生が、「今日は、だれとだれが休みかな」というようになり、
まもなく、その子が亡くなったと知らされます。それが紫斑と関わっていることは判って
いました。毎朝、紫斑が出ているか調べました。もしあれば、死が待っていたのです。 私が大好きだった叔父と叔母もそうして亡くなりました。二人とも爆心から離れた、市
のはずれにいたのに症状が表れました。私の両親は、二人が亡くなるまで世話をしました。
母の話だと、二人の内臓や組織は、腐り、溶け、黒い水のような液体になって流れ出てい
くようだったとのことでした。ふたりともオムツをつけなければなりませんでした。母は
あるものなら何でも使いました。しばらくの間は、古い着物を使っていましたが、それが
なくなると新聞紙を使いました。けっきょく、叔母も叔父も、他のたくさんの人たちと同
じように亡くなりました。原爆症について知ったのは、後々のことでした。ゆっくりとし
た、不可解な放射線による死、それは広島に引き起こされたたくさんのおぞましい出来事
のひとつでした。核兵器を認める人たちは、生きた人間に対するこの恐ろしい、野蛮な影
響を考えようとしません。彼らが考えるのは戦略と統計だけです。
その後2、3カ月の間、人々は次第に市内に戻り始めました。他の人たちと同様、戦地
から帰った兄も焼け跡をきれいにし、小屋を建て、妻と娘と一緒に住むようになりました。
私と両親はその後も市外に住み続けました。学校は数年後、丘の上の仮施設から市の中心
に近い立派な建物に移りました。私は広島で高校へ、そして大学へと進みました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています