日独の慰安婦問題より非道なソ連軍性犯罪を世界に [転載禁止]©2ch.net

1反日バスター2015/08/03(月) 15:38:01.85ID:G6tvqTGx
身柄の拘束など性奴隷にも見えるが、多くが当人の同意を得ていた慰安婦どころではない。
和姦はほぼ皆無、憲兵が取り締まるどころか、野放し状態で、参政権すらなかった
何の罪も無い日独の一般女性を毒牙にかけながら、「大祖国戦争」の名で、犯罪を隠蔽し続ける。
あれだけ世界に迷惑を掛けながら、日独と異なり、反省とは縁もゆかりもない。
今では人権先進国として世界中から尊敬を集める日本とドイツが手を組んで、
ロシアと中国のゴロツキ・コンビの反日宣伝に立ち向かおう。両国からドイツを切り離そう。

http://www.sankei.com/west/news/150723/wst1507230085-n1.html
米カリフォルニア州サンフランシスコ市議会の委員会で、
慰安婦の碑または像の設置を支持する決議案が審議される問題で、
姉妹都市の橋下徹大阪市長は23日の定例記者会見で、
「旧日本軍だけを取り上げるのだとすればアンフェア」と述べ、
決議案の内容を確認し、見解をただす文書を送る方針を明らかにした。

55名無し三等兵2017/09/02(土) 08:43:39.26ID:S+B2sGpj
【群馬】73回目の夏に語る「満州引き揚げ」 朝鮮人や中国人による略奪、中国共産党による虐殺…いまだ止まらぬ涙[8/15] [無断転載禁止](c)2ch.net
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1502755835/

56名無し三等兵2017/09/02(土) 12:52:12.86ID:Q1Is8AnO
>>55
やるだけやった報いだ

57名無し三等兵2017/09/05(火) 05:02:12.73ID:LLeL3Usm
ソ連軍が満州やドイツで行なった強姦、輪姦【7】
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/whis/1291120614/
なぜソ連軍は占領した満洲から撤退したか [無断転載禁止]©2ch.net
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/whis/1450334877/

58名無し三等兵2017/09/05(火) 05:04:20.72ID:LLeL3Usm
水子の譜―引揚孤児と犯された女たちの記録 昭和史の記録 (1979年)
上坪 隆 (著) 出版社: 現代史出版会 (1979/08)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J8FHPG/

2016-09-15
?54」─3─日本人は薄情である。満州や北朝鮮からの引揚女性はロシア人、朝鮮人、中国人らに強姦され妊娠して帰国し、
二日市保養所で堕胎した。水子供養碑。1946年〜No.262@    
http://d.hatena.ne.jp/nisikiyama2-14+2617/20160915/1473950699



2015/02/23
下川正晴コリア研究室
福岡県「二日市保養所」〜引揚げ女性500人が堕胎手術を受けた
http://shimokawa.at.webry.info/201502/article_68.html

2016年07月15日
封印された引揚女性の慟哭 「二日市保養所」70年目の記録
元毎日新聞ソウル特派員 下川正晴 月刊正論8月号
http://seiron-sankei.com/9866

忘却の引揚げ史《泉靖一と二日市保養所》
下川 正晴 (著) 出版社: 弦書房 (2017/7/21)
https://www.amazon.co.jp/dp/4863291558

59名無し三等兵2017/09/05(火) 05:04:44.96ID:LLeL3Usm
2017年07月28日
一般埋もれてはならない歴史がある 『忘却の引揚げ史 泉靖一と二日市保養所』
http://www.data-max.co.jp/290728_dm1771/
 日本は敗戦によって海外領土を喪失。国外にいた日本人は帰国することになるのだが、この道のりはまさに茨の道であった。
 「帰国」という言葉を軽々に使ったが、特にソ連軍が侵攻してきた地域では民間人も戦闘に巻き込まれた。
満州での民間人犠牲者は24万人を超え、これは沖縄戦や広島への原爆投下による犠牲者よりも多い。
生き残った人々も捕虜として収容所に拘束され、兵士たちは繰り返し女性たちを強姦した。ようやく解放されて日本の地を
踏むときには、望まぬ妊娠をしていた女性もまた数多くいたのである。この悲痛な経験は、本書にも当事者の発言を引用する形で
何度も登場する。
 性暴行被害を受け、妊娠した女性たちに中絶手術と治療を施したのが、現在の筑紫野市にあった二日市保養所である。
本書は、この保養所と、その創立者である人類学者・泉靖一の軌跡を軸に、私たちが置き捨てたまま忘れてしまった「引揚げ」という
巨大な国民的体験を、再び掘り起こそうとしている。
 沖縄戦、広島・長崎の原爆投下、東京大空襲。かつての戦争を語ろうとするとき、これ以外のキーワードが使われることが
どれだけあるだろうか。従軍慰安婦問題、南京大虐殺など「加害者としての日本」が語られることは多いが、
当時の日本人が「国民的体験」として直面した、「600万人の引揚げ」はなぜ語られないのか。

   「なぜ、引き揚げ研究か。」一息ついて、彼(編注:全京秀教授)は言った。「この引揚げ研究を今、日本では誰もしていません。
   これはちょっと不思議だと思います」。私たちはどうして、この苦言を外国人教授の口から聞かねばならないのか。

 私たちは、この下川氏の苦衷を共に背負わなければならない。それが、日本の現代を生きる私たちの責務だ。

60名無し三等兵2017/09/05(火) 05:05:03.19ID:LLeL3Usm
2017年8月27日
『忘却の引揚げ史 泉靖一と二日市保養所』=下川正晴・著
https://mainichi.jp/articles/20170827/ddm/015/070/034000c
07/30
<訪問>「忘却の引揚げ史」を書いた 下川正晴(しもかわ・まさはる)さん
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/122729
2017年08月13日
『忘却の引揚げ史』  下川正晴 著  (弦書房・2376円)
https://www.nishinippon.co.jp/nlp/book_kyushu/article/350595
2017年08月15日
『忘却の引揚げ史』 下川正晴さん
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/raiten/20170807-OYT8T50088.html
2017/9/2付
忘却の引揚げ史 下川正晴著
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO20649630R00C17A9MY7000/

61名無し三等兵2017/09/12(火) 00:06:59.58ID:N957wkeB
忘却の引揚げ史 下川正晴著 女性支援した中絶施設描く
2017/9/2付日本経済新聞 朝刊
ttps://www.nikkei.com/article/DGKKZO20649630R00C17A9MY7000/
 敗戦後、福岡県二日市町(現在の筑紫野市)に、満州や朝鮮北部から引き揚げる途中で性暴行を受けた
被害女性のための中絶施設「二日市保養所」があった。中絶は当時違法だったが、約1年半の開設期間に
400〜500件を実施したとされる。本書は心ならず身ごもった女性の再出発を後押しし、彼女たちを献身的に
支えた支援者を描くノンフィクションである。

 新事実も得た。関東の国立病院でも中絶手術が施されていたとの元看護師の証言だ。著者は、国家による
非常対策として「中絶手術は全国的に行われていたとみるべきだ」と考える。

62名無し三等兵2017/09/16(土) 10:58:09.40ID:ynSLE3cy
封印された引揚女性の慟哭「二日市保養所」
http://www.howitzer.jp/temple/box2/a01.pdf

63名無し三等兵2017/09/21(木) 21:18:15.74ID:E5vDsDSB
【戦後70年 東北からの伝言】(3)終戦の日 死線を越えて
http://www.sankei.com/region/news/150815/rgn1508150016-n1.html

 □満州引き揚げ 青森県八戸市 天内(あまない)みどりさん(82)

 昭和20年8月15日の終戦を、日本統治下だった朝鮮北部(今の北朝鮮)の宣川(ソンチョン)で迎えた。
日本が負けたと分かると、日本人に襲いかかる朝鮮人がいた。
 午後3時ごろのことだ。野道を1人で歩いていると、15〜16歳の5人の朝鮮人の男たちが大声で歌いながら
やってきた。草むらに身を潜めてのぞいた。
 男たちが持つ2本の長い棒の先には、若い日本人女性の足がくくり付けられていた。獲物のように逆さまに
つるされた女性は全裸で血まみれ。体の真ん中には棒が刺さっていた…。
 「許せない。きのうまで同じ日本国民だったのに、なぜ。絶対に忘れない」と心に誓った。「一生分の涙を流した。
そして、それからは『泣かない、笑わない少女』になった。今の言葉で言えば心的外傷後ストレス障害(PTSD)」

 ■ソ連兵の“女狩り”

 引き揚げの道は地獄だった。飢えや感染症に加え、鬼畜のようなソ連兵による“女狩り”が待っていた。自身も
襲われそうになり、機関車の下にもぐって難を逃れたことがある。平壌(ピョンヤン)で入れられた日本人収容所では、
多くの女性が連れ去られ、戻ってこなかった。
 収容所を集団で脱走し、南へ向かって歩く列をソ連兵が止めた。一人一人の顔を銃で押し上げ、“品定め”した。
2人の女性を選んで「残りは行っていい」。泣き叫ぶ2人を置いて、列は歩き出した。「申し訳ない。でも、どうする
こともできなかった」

64名無し三等兵2017/09/21(木) 21:18:37.93ID:E5vDsDSB
>>63
引き揚げ体験と拉致問題 特定失踪者木村かほるさん
http://miura.trycomp.net/?p=4406
「1945年8月9日、ソ連が満州に侵攻してきた。天内みどり(83)は当時12歳。(中略)日本人学校に連行された。
日本の敗戦を知った自餅住民らが、竹やりを手に校舎内に入り込んできたが、大人たちが何とかなだめた。ほっとした
天内が一人で校庭に出ると、どこからか朝鮮語の歌が聞こえてきた。校舎の陰から現れたのは、4,5人の少年兵だった。
彼らが担いだ棒に、16歳くらいの少女が裸でさかさまにつるされていた。直感的に日本人だと思った。(中略)
『見てはいけないものを見た」母には話せなかった。

収容所での暮らしが始まった。食べ物といえば、コーリャンが10粒ほど浮かんだおかゆ。病弱な母の代わりに海神や
豆腐売りを引き受け、焼き芋などを買って飢えをしのいだ。」夜中になるとソ連兵が現れ「マダムダワイ(女を出せ)」
と騒いだ。そのたびに、若い女性が叫び声をあげながら連れていかれた。

芙蓉の花―北朝鮮引揚げの記録 増補・「特定失踪者」の妹いづこ 単行本 - 2009/3
天内 みどり (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4773376325

65名無し三等兵2017/09/26(火) 02:30:25.46ID:65FCb6Rw
@−引揚民間人を襲った朝鮮保安隊の略奪・暴行・殺戮の嵐 −
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らない幾(いく)つかのエピソードがある。
 北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、 辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、
ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱(はずかし)められたうえ、
虐殺されている光景であった。」
(中略)
「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対するソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。
娘は明け方になり無残な姿で、涙も枯れはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。
 部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのは普通。
一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
城津での惨状は言語に絶した。(中略)
朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、 干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、あげくは婦人の“提供”を要求されたという」
博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちについても、匿(かくま)って回復するまで治療が行われた 。

−以上『引揚民間人を襲った朝鮮保安隊の略奪・暴行・殺戮の嵐 』正論 2005年11月号より

66名無し三等兵2017/09/26(火) 02:31:09.21ID:65FCb6Rw
A−惨憺たる北鮮引揚げ−
(前略)南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでに殆(ほとん)ど全て引揚げたが、北鮮では約31〜2万の日本人がそのまま残っていた。
もともと北鮮に住んでいた27〜8万と、満州から戦火を避(さ)けて逃げてきた4万人である。
北鮮に入って来たソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦を欲しいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。
白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的に拉致(らち)された。
反抗した者、暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。

「各地の凄惨な記録は読むに堪(た)えない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者:森田芳夫氏は書いている。
それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれた事であり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、
ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任は免(まぬか)れない。
例えば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された
咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。 

…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪(はくだつ)され、零細なる金銭と着衣のみにて咸興市内に殺到したるも…
われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、
ごく無意識のうちにファッショ的誤謬(ごびゅう)を犯したことを告白せざるを得ない。…

駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬(ぎ)して、即時咸興市外脱出を強要し、市外に追放した。
その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊(こんぱい)と栄養不良を激成し、…
富坪避難民の宿舎は実に呪われたる存在である。
(続く)

67名無し三等兵2017/09/26(火) 02:32:08.95ID:65FCb6Rw
Bそれは実に煤煙と、余りの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。
襲いくる寒波を防ぐため戸窓は足(た)らず、カマスで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟(びょうくつ)なり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、
呪いを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、蒼白(そうはく)な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、
足はきかず、立つときは全身を支えることも出来ず、ぶるぶる震(ふる)い、子供たちは伏して泣す。
無数の病める半死体は呻(うめ)きながらカマスの中に仰臥(ぎょうが)しており、暗黒の中に咽(むせ)びつつ、……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)
一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。
こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。
痩(や)せこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、
そして時には泣き叫ぶ子供の口を塞(ふさ)いで死に至(いた)らしめるまでして、人々は南に辿(たど)り着いたのである。
38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘(そうとう)の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みに彩(いろど)られた『天国と地獄の境』となったのである。
−以上「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房

68名無し三等兵2017/09/26(火) 02:32:32.82ID:65FCb6Rw
C−南朝鮮(韓国)人の証言−
15日の夜、(朝鮮半島北部にある)羅南の(日本)軍当局は最後の破壊作戦に出て、全市の軍事施設に火をかけて焼いた。
その夜、僕は鏡城の北にあたる山の上から、炎上する羅南の赤い空を眺めていた。
…36年、わが国を軍靴で踏みにじってきた侵略者の断末魔の光景であった。
朝鮮の農民たちは、15日(終戦日)が過ぎても何が起こっているのか正確には知らないでいた。
ただ、津波の引き去るように逃げてゆく日本軍、警察、一般日本人が、もう二度と戻ってこないようにと願いながら、そのさまを眺めていた。
(中略)
羅南の軍事施設が燃えた晩、市内は無人地帯であった。
数千人の日本人は、臨時疎開して、すぐ帰るつもりであったかもしれぬが、市が燃え尽きても、ついに一人も戻らなかった。
日本人は永遠に去ったのである。
帰ってきたのは全部朝鮮人であった。
彼らは、防空壕からはい出し、あるいは郊外の避難先から、続々戻ってきた。
(続く)

69名無し三等兵2017/09/26(火) 02:32:56.86ID:65FCb6Rw
D火災の翌日、いたるところに余燼(よじん)のくすぶる市内で、物資あさりの騒乱が始まった。
窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫などにアリのように人間が群がった。
家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。
町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。

ある人はトランクを担いで逃げる。
ある人は自分の体よりも大きい布団袋を引っ張って走る。
ある人はリヤカーに山ほど積んで汗を流しながら家に急ぐ。
ある婦人は衣類をいっぱい頭に載せオーバーを抱えて土手にのぼる。
ある老人はチゲ(背中に荷物を担ぐ時に用いる木製の背負子)の上に衣類ダンスを担いで走る。
みな走る、ぶつかる、罵(ののし)る、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。
先着の略奪者は血相を変えながら部屋から部屋に出入りする。
集めた品物から目を離したとたん、別の者が担いで逃げる。
家に持って帰っても、また出ていくと、その間に誰かが来て持ち去る。
こういう時には誰も安心できない。隣り近所、みな疑心暗鬼である。
避難先から帰りの遅れている肉親を罵(ののし)る。だからといって呼びに行く暇もない。
(続く)

70名無し三等兵2017/09/26(火) 02:33:44.07ID:65FCb6Rw
E「――あのとんま野郎!こういう重大な時に家に居さえすれば、
いっぺんに大金持ちに成れるのに・・・!」

2、3千軒の日本人民間住宅と商店、数百件の焼け残りの軍用官舎は、わずか5,6時間でスッカラカンになった。
僕が羅南に着いた時は、そういう"敵産の分配"が終わってから一週間も経っていた。残るのは日本人の不動産である。
日本人の家屋、商店、車庫、倉庫の壁や門に、色とりどりのペンキで、大小さまざまに、ハングルや漢字で所有者の名前が書かれていた。
"李XXの家"と書いた反対側には、もっと大きな文字で"金XXのジップ(家)"と書いたり、
前に書いた文字を消して一尺もある大きさの漢字で"この土地は40年前のわが祖先の土地なり"と書いてあったり、
"この建物では近き将来平和食堂開業予定" "まもなくアリラン床屋になります"
 "この建物の主、日本人某は一週間前、小人(自分)に移譲せり"等々、何とかして自分のものにする口実を書きつけていた
(まもなく敵産家屋、土地、軍事施設は全部登録され、政府または全人民の所有になった)。

僕の伯父が住んでいた初瀬町のはずれの谷間の入り口に、小玉(こだま)氏経営のよく手入れした農園があった。
解放前には周辺の朝鮮人は皆、小玉さんを尊敬していたが、世の中が逆さまになって、皆、彼を"日帝の悪質地主"とののしった。
今度の騒動で、小玉邸も無疵(むきず)なはずはなくサジ一本、畳一枚残さず、すっかり群衆に没収された。
引揚げの惨事は北朝鮮だけに起こったのではない。
南朝鮮(韓国)においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。
北と南に民族性の違いはないのである。

―以上「朝鮮戦争の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」 朱栄福 1992年 悠思社

71名無し三等兵2017/09/26(火) 02:34:06.58ID:65FCb6Rw
F−賄賂を使った逃避行−
私も居所を中心とした50人ほどのグループに参加した。
昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
(中略)
夕闇の迫る時刻に平壌郊外に集会することになった… 全員乗車し終わると、大きなシートで人間を覆って、トラックは始動をしはじめた。
あのエンジンの音の嬉(うれ)しさと恐ろしさとは忘れることができない。
途中、第1のソ連兵の関門を通った時、停車を命ぜられたのにトラックはそのまま猛スピードで逃れて発砲された。
銃の発射音を聞いたが、別状無く進んだ。
第2、第3の関門では、用意の賄賂の酒瓶を与えることで無事通過した…
 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。
牛車代はもちろん多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる…
 いよいよ38度線が稜線だという山にかかると、牛車から下ろした荷のうち、病人や老人の荷は、強制的に数人の朝鮮人たちの背中のチゲ(背負子)に載せることになる。
山の中腹に煙が見えた。
そこはチゲ部隊の交替地であった。
もうこの頃には、醵出(きょしゅつ)する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、
せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。
稜線まできたチゲ部隊に、「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。
もっと出せ出せ!!」と威かくされ、
残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。
ああ、ここは衛生施設の整ったアメリカ軍管轄の開城府のテント村であった。
この脱出コースは、関所があり、検査所があり、
牛車やチゲによって金銭や持ち物を日本人から取上げてしまおうという、
最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのである。

このようにして、病死を除いた引揚者は、命だけをようやく日本へ運んだということになったのだった。 (常松泰秀)

−以上「生きて祖国へ5 死の三十八度線」引揚体験集編集委員会編 昭和56年 図書刊行会

72名無し三等兵2017/09/26(火) 02:34:29.09ID:65FCb6Rw
G−人間の皮を被った悪魔・北朝鮮人民−
満州から鴨緑江を越えてぞくぞくと南下する避難民を朝鮮軍は平壌でストップさせた。
やがて、38度線は朝鮮を南北に真(ま)っ二(ぷた)つに分断した。
北鮮にあった日本人は、この分断線によって悲運のどん底に突き落とされた。
(中略)北鮮を追われた避難民の群れは、平壌へ、平壌へと流れてきた。列をなした乞食の群れである。
草履(ぞうり)を履いている者はほとんどいない。
女も子供も皆ハダシである。
山を越え、熱砂をふんだ足の裏は、ザクロのように裂け、その傷にはウジがわいている人もいた… 
平壌には元からの在住者が2万8千名もいる所へ、汽車で送られて来た疎開者が1万2千名もはいっていた。
そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日毎日流れてきた。

若松小学校の避難舎は、これらの人々を迎え入れて日とともに膨れ上がっていく。
中には一椀の粥(かゆ)をふるまわれ優しい言葉で迎えられると、悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、
「畜生、ロスケの奴(やつ)」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、勝利者の暴力を訴える婦人もいる。
負けた者の宿命に、悲しい諦(あきら)めを残して、これらハダシ部隊の大部分は草履を恵まれて発(た)って行く。
1日でも早く、1時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。
南へ、南へ、38度線突破の一念に燃えながら――
(続く)

73名無し三等兵2017/09/26(火) 02:38:27.59ID:65FCb6Rw
H乏しい食糧の所へ、これらの南下部隊を迎え入れて、若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。
1日一人1合の米が心細くなって、1日2食のカユになった。
子供たちは腹をすかして母親を困らせた。
ある日――それは何かの祝いの日にあたっていたので、肉入りの味噌汁が大鍋で作られていた。         
 そこへ朝鮮の子供がいつものとおり4、5人からかいにやって来た。 
遊びに来るというのではなく、子供ながらも自分たちの優越感を誇りに来るのである。
そんな時に、このやろう! とでも言おうものなら、後の仕返しがそれこそ大変である。
朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。
この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、
「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。あまりの雑言にきっと目をすえると
「これでも食え!」と言いざま、足もとの土砂をすくって、パッと味噌汁の鍋に叩き込んで逃げていった。
久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、
この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤(いきどお)りに変わった。
(続く)

74名無し三等兵2017/09/26(火) 02:41:03.22ID:65FCb6Rw
I今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。
カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。
これらは軍需品だから没収するというのである。これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、
その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。
避難の人々は、最後の1枚を没収されないために知恵を絞り出した。
明日もまた現れるであろう没収団のため、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。

その翌日――。朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。
一同は一夜で変わった黒や青色の服で列をつくったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。

「今度は一切の所持金を提出しなければならない。
もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが
後で分った場合は銃殺される。では、本日ただちに提出するように。」

有無を言わせない強制処置である。
今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。
その命の綱を一銭残らず供出したら――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。
しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。
その夜――カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。
その朝も、恐怖のマトである命令が来た。
1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。
「命令――」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。
「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」
十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。
この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。
残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが… 」と冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。
この雨中の別れが、長い長い別れとなった。
この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、
遠くシベリア送りとなったのである。

―以上「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑より
「三十八度線」木下宗一[著]

75名無し三等兵2017/09/26(火) 02:41:32.17ID:65FCb6Rw
J−私の三十八度線突破記録−
8月15日(終戦日)を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、いく先の運命は段々と暗くなっていった… 
文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。
しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁(ちょうりょう)が始まってきた。
元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。
私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策を立てないと、ということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊(朝鮮人による警備隊)から指示があった。
その内容は、「日本人は町中の一ヵ所に集め、集団生活をさせることとなった。
2世帯か3世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。
態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。
まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。
私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。
(続く)

76名無し三等兵2017/09/26(火) 02:43:20.23ID:65FCb6Rw
Kそのうちに、ソ連軍が進駐してきた。
ソ連兵は朝鮮保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。
その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。
私たち若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。
ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して掘った穴に身を潜めた。
時には敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家に匿(かくま)ってもらったりもして難を逃れていた。
こんなに恐ろしいことになったのも、それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に就いていたのに、
日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、
最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、警察官補助者であった者が保安隊員となって報復心しか持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。
(続く)

77名無し三等兵2017/09/26(火) 02:43:48.73ID:65FCb6Rw
L命を削り取られるような不安におののく毎日であった。
男の子のような姿になっていても、 顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、
ソ連兵の先導として襲ってきた
保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。

ソ連軍の将校クラブができて、そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。
私の住んでいた集団住宅にも度々、ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。
(中略)
そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終戦前から避難行を開始していた開拓団員などの人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪にもやってきた。
十数日間、食べるものも食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。
しかし文坪でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。
このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。
(続く)

78名無し三等兵2017/09/26(火) 02:44:14.88ID:65FCb6Rw
M秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。
こうなると無謀な脱出はできなくなるので、時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。
しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵の行動に一喜一憂していた。
ある時は、保安隊員がやってきて、「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後3時までに、駅前広場に身の回りの最小限の荷物だけを持って集合せよ」と言って回った。
突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した… 
両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。
準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。
あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。
もう帰国することだけが頭にあった。
元山駅に向かって歩き出した…
 数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、いとも平然とした態度で言い放った。
みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。
しかしここで座り込んでいてはどうにもならないので、お互いに励まし合って、またもとの道をトボトボと引き返して家に戻った。
戻ってみてびっくりした。
家の中がひっくり返ったように荒らされていた。
タンスの中に残してあった母の着物や、私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。

実は、これは引揚げのために元山に向かうといって日本人を家から出して、
その間に空き家になった家に入り込み、残っている物を略奪するための手段だった。
その上に今度は、住居まで替えられて棟(むね)割長屋に数所帯が押し込められてしまった。
リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが財産となった…
 布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、残っているのは古い汚れた物ばかりだった。
(続く)

79名無し三等兵2017/09/26(火) 02:44:39.02ID:65FCb6Rw
N厳寒の冬になると、集団生活をしている者の中にも発疹チフスなどの伝染病が蔓延し、 老人や赤ん坊などが次から次ぎと死んでいった…  薬もないし医者もいないので、そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。
不安は日に日につのるばかりだが、冬の間はここから脱出することもならず、なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。
ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。
女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人の中には自ら死を選んだ人も多かった…
 死者が出ても葬式をだせるはずもない…
 なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た
… 深さ1.5メートル、幅2.5メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風(ふう)倒木(とうぼく)を運んできて薪(たきぎ)を作り、
それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘(だび)に付した。
 家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ、悲しく、かつわびしい有り様でした…  保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。噂話で聞くところによると、
遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。
(中略 続く)

80名無し三等兵2017/09/26(火) 02:45:17.97ID:65FCb6Rw
O昭和21年の正月を収容所で迎えた。
その頃になると満州の奥地から、また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難してくる人が増えてきた。
…相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、やっとここまでたどり着いたが、
ここで発病して死んでいく人も多かった。

…収容施設も超満員となった。
これ以上の人が入ってきて、いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろうという話になり、
ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。
 …やっと綿密周到な、「集団脱走計画」が完成した。決行日は、昭和21年4月3日の夜と決定された…
 北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、行なわれていない。
命からがら38度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、それぞれその個人の労苦と努力によって38度線という関所を、
ソ連兵や保安隊のすきをみて突破・脱出してきたのである。
それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まっておくり返されたりしてしまった。
いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が失敗してしまったらしい。
元山から多額の金を払って船を雇い、集団で脱出しようとしたが、
途中の38度線近くの江原道付近で、だまされて上陸させられたということもあったらしい。
それこそ死を覚悟しての38度線突破以外に、南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。
(続く)

81名無し三等兵2017/09/26(火) 02:45:52.07ID:65FCb6Rw
P私たちの脱出グループは70人ぐらいで、老若男女入り交じった集団だった。
もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて当座の食糧も入れて背負った。
ソ連兵や保安隊員の目につかないように、あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、三々五々と集合した…
 闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。
38度線突破行の第一歩がこうして始まった…
 東海岸沿いの山中の間道を歩いた。夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、納屋に分散して泊めてもらったりした…
 大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。
通行料は10円ぐらいだったと記憶している。
そのほかに荷物検査料とか、何とか名目をつけては、2、30円は取られていた…
 38度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、昼間は人目につかないようにして休息をとり、暗くなってから歩き出すようになった。
4月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。
特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、歩くことも容易ではなかった…
 行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、それでも保安隊員に発見されて荷物検査されたが、寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。

…連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積されて歩くのも困難になった人が出てきた…
 ある女性は、2歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、荷物を背負って歩いていたが、
とうとう体力の限界がきて、もうこれ以上歩けないからここに残ると言い出した。
しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いた時に、とうとう2歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。
それからはその女性は、魂の抜けたようになって、話もせずにただ列について歩いていた。
みんなも、自分のこと、子供のことだけで精一杯の極限状態だったので、だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。
致し方ないことであった。
(続く)

82名無し三等兵2017/09/26(火) 02:46:22.30ID:65FCb6Rw
Q私は、最近テレビなどで、中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、
あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、胸を締め付けられるような思いをする。
 …3歳になったばかりの妹は私が背負い、10歳の弟と一緒に歩いていた。
父母と私は地下足袋を履き、弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。
歩いている人の中には、藁沓(わらぐつ)を履いていて底が擦り切れ、はだし同然になって、
擦(す)り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、助ける手段もなかった。

…国境近くになると警戒が一段と厳重になって。
保安隊員が組を作ってあちらこちらに立っていた。
 …疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。
保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射された時は、背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終りかと観念したが、
相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、ほっと安堵の胸をなで下ろした。
38度線上の山々は、標高が400メートル前後で山肌はむき出しているような峻険な姿であった。
この峻険(しゅんけん)な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。
特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、しかしこれを突破しなければ脱出できないと思うと、苦にはならなかった。
1日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。
いよいよ明日は、38度線を突破するという日の夜に、全員が集められて細かい注意事項が示された。
「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。
そしてさらに、「 …最後は走るようになるから履物が脱げないように上から結びつけること。
荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。
荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。
(続く)

83名無し三等兵2017/09/26(火) 02:46:55.62ID:65FCb6Rw
R…ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけが全てであった。これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。
どの人の顔をみても必死の形相で、それは凄まじいものがあった。
夜半の12時に行動が開始された。
やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、最後を男の人が歩き落伍する人を監視、激励していた。
深々として寒気が身にしみ込んできたが、極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。
ただ、サクサクと踏みつぶしていく霜柱の音だけが、耳に響いていたことを覚えている。
息を殺して歩いていたが、38度線の山の頂上にはなかなか出ない。
歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた…
 そんな時に、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。
みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足に力が出てきた。
無言の行進が続いた。
しばらく歩いている時に、家畜商人が「あの丘の向こうが38度線だ」と、指差した。
勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。
しかし、歩けども歩けど国境線らしきところには着かない。
はじめて騙(だま)されたことに気付いた。
みんなはそれを知って、一遍に疲れが出てその場にへたへたと腰をおろしてしまった。
今までの張り詰めていた気持ちが一度に消えて、動く気力もなくなっていた。
その夜は特に寒さが厳しかった。
腰をおろしている間にも霜が降りてきて、髪の毛までざくざくになったと母が話していた。
世話人の話し合いがあり、「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」ということになり、
みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。
(続く)

84名無し三等兵2017/09/26(火) 02:48:15.80ID:65FCb6Rw
S…夜はもうとっくに明けて、太陽が上がってきた。
…しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。
山頂に出たのだ。 見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。
紛れもなく三十八度線を流れている川であった。
一同は、なんの抵抗もなく急いで渡った。
弟が一番先に渡り、
向こう岸から母に向かって、「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。

疲れきって歩くことも難儀(なんぎ)になって列の後ろの方で、父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、
力なくてを振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。
岸には鉄条網が張り巡らされていたが、みんなはその隙間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。
本当に命懸けの渡河だった。無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。
(続く)

85名無し三等兵2017/09/26(火) 02:49:10.66ID:65FCb6Rw
蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。
どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、それこそ虚脱状態だったのだろう。
自動車の音で、みんな我に帰って立ちあがった。
よく見ると赤十字のマークのついた車だった。
最初は半信半疑だったが、だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。
すると自然に涙が流れてきた。あとからあとから、拭(ぬぐ)っても拭(ぬぐ)っても流れ出てきた。
とうとう38度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。
アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、病人らしき人々を見て回っていた。
そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せていった。
母も弟も乗せてくれた。
私はなんとなくほっとした気持ちになった。(その後、筆者は2、3日収容所で過ごした後、京城から列車で釜山へ行き帰還船に乗って無事に故郷へ帰った。)
戦争は、本当に怖く悲しいものである。
アルバム一つ残せなかった私たちですが、しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。

帰国が果たせなかった多くの人が、
異郷の地で死んでいったその怨念(おんねん)を忘れてはならない。

謹(つつし)んで哀悼(あいとう)の意を表したいと思う。

―以上「平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦12」 平成14年 平和祈念事業特別基金から
「私の三十八度線突破記録」梶山緑【著】より

恩を仇で返すゴキブリ朝鮮ハエもどきの悪行を、全世界に発信しなければなりません!!!

86名無し三等兵2017/10/01(日) 10:19:17.35ID:+AOVgyTS
終戦後、四烈士による壮烈な自爆を目の当たりにしたソ連軍は、その後日本側への態度を変えた。
ttps://youtu.be/-Ks9ysmGbBQ

87名無し三等兵2017/10/01(日) 14:10:39.94ID:+AOVgyTS
敵軍から尊敬される人って、少ないよね。
ttps://youtu.be/yrTDkjCcLoE

88名無し三等兵2017/10/04(水) 18:36:21.64ID:CtiAq8qI
【在日特権】でチョンに収奪される、今の社会はイヤだよな!


中共・小鮮・奸国と実際に戦ったらどうなる?wwww
爽快で示唆に富んだ「東京都=精神」の自主独立(インデペンデンス)の物語りです。
現実路線のお話し。
       ↓       
       
  ★『東京独立戦争(だれも書かなかった日本)』★

   http://slib.net/77259


上松煌(うえまつあきら)
http://slib.net/a/21610/ (プロフィール)

89名無し三等兵2017/10/05(木) 19:38:11.19ID:JdgLUGm/
編集後記「風蕭蕭」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170919-00000001-facta-bus_all
https://facta.co.jp/article/201710041.html

映画「葛根廟事件の証言」 | 長澤孝昭blog
http://www.kooshoo.jp/2017/09/02/%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8C%E8%91%9B%E6%A0%B9%E5%BB%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E8%A8%BC%E8%A8%80%E3%80%8D/
終戦時の満州では開拓団がソ連軍の攻撃を受け、多雨の死者を出す事件が続発。父が軍官学校の教師だった
藤原作弥氏元時事通信社記者(元日銀副総裁)は「一国の軍隊の攻撃によって無差別的に行われたジェノサイド」
であると主張しているが、旧ソ連の歴史学者らは「事件をねつ造」とし、「神話」と否定している。

90名無し三等兵2017/10/09(月) 04:56:42.98ID:P37UwShv
2017/10/03
【新潮】「慰安婦」問題をより広い視点で見るとどうなるか 「慰安婦」を殺したドイツ軍、ソ連軍の非道…
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1506969617/1-2,309-310

91名無し三等兵2017/10/17(火) 08:03:20.95ID:u0abj1bM
舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー
著者:山崎 正和出版社:中央公論新社装丁:単行本(363ページ)発売日:2017-03-21 ISBN:4120048837
https://allreviews.jp/review/31
満州医科大学教授(専門は生態学)を父として京都に生まれた山崎はコスモポリタン都市・奉天の空気を吸いながら
少年時代を過ごす。結核治療で戻った京都で「京都人の根性の狭さ」ゆえの激しいイジメに遭い、満州に舞い戻ったが、
そこにソ連軍がやってくる。「これは本当に『占領軍』というものでした。(中略)それは血に飢えた狼(おおかみ)でした。
おまけに無知蒙昧(もうまい)さは漫画の域です」

舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー
山崎 正和
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4120048837
カスタマーレビュー
オーラルヒストリーの金字塔
投稿者浜田山ベスト500レビュアー2017年4月7日

山崎の原体験は満州での大日本帝国崩壊であり、その直後に生じた阿鼻叫喚の「無政府状態」に対する恐怖と嫌悪である。
山崎は語っている。「私はどの政治学者よりも、無政府状態がいかに怖ろしいか知っています。そしてどんなに悪い政府でも、
無政府状態よりはましだという信念の持ち主です」と。大日本帝国と満州国が崩壊した後にやってきたのはソ連軍で、
その多くはソ連軍の中でも最下層の囚人兵の集団だった。彼らは収監時に手の甲に掘られた刺青を持っていた。その彼らは
白昼堂々街を歩いているロシア人女性、日本人女性、中国人女性、朝鮮人女性らを次々に強姦したという。彼らの無知蒙昧ぶり
は漫画の領域に達しており、腕から肩にかけて日本人らから取り上げた腕時計をし、そのまま川に飛び込んで泳ぎ始めるも、
時計は防水でないからあっという間に壊れた云々。こういう「原体験」があればこその反共であり反ソ連が山崎の背骨だった
のであろう。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)

92名無し三等兵2017/11/05(日) 08:16:31.74ID:ZKrBiHyS
ブックウオッチング
新刊 『満州開拓団の真実 なぜ、悲劇が起きてしまったのか』=小林弘忠・著
毎日新聞2017年11月1日 東京朝刊
ttps://mainichi.jp/articles/20171101/ddm/015/070/012000c
 1945年8月9日、対日戦に参戦した旧ソ連は旧満州(現中国東北部)にも侵攻。日本から入植した開拓団の人々の
苦難が始まる。集団自決をした開拓団も多く、長野県北部からの「高社郷」もその一つだ。本書は同開拓団だけでなく、
他の悲劇や、日本の移民事業などの背景も丹念に調べ、開拓団を守らず退いた関東軍の体たらくや旧ソ連兵の悪行も
描いた。著者は元毎日新聞記者で本書刊行直前に死去した。(七つ森書館・2160円)

93名無し三等兵2017/11/05(日) 08:17:44.18ID:ZKrBiHyS
旧満州「大兵庫開拓団」の悲劇
(その1) 終戦、298人が自決した
ttps://mainichi.jp/articles/20171105/ddm/001/040/091000c
 兵庫県の旧高橋村(現豊岡市)も現在の黒竜江省隆安村へ「大兵庫開拓団」476人を送り出した。だが1945年
8月17日、日本の敗戦を知って暴徒化した現地住民らに追われた開拓団の384人がこの丘から川に飛び込み、
自決を図った。岸辺に流れ着いた人などを除き、298人が川底に沈んだ。

(その2止) 語られぬ集団自決
ttps://mainichi.jp/articles/20171105/ddm/010/040/079000c
 ソ連が対日参戦し、取り残された女性や子供たちは8月14日未明、開拓団本部から別の町に向かうよう命じられる。
その日のうちに到着したが、頼みの関東軍はいない。さらにハルビンへ逃れようとしたが、日本の降伏を知って暴徒化した
現地住民らに襲われ途中で断念。昼夜歩き続けて16日深夜、元の村に戻ったが、夜が明けると村は暴徒に囲まれていた。
 打つ手はなく、開拓団の班長会議で「無残に殺されるよりは」と集団自決が決まった。武器も毒薬もなく、村はずれの
丘から、長雨で増水した川に入水することになった。

94名無し三等兵2017/11/07(火) 14:10:33.09ID:tEsOXMr6
もうソ連は崩壊してロスケは死亡寸前

95名無し三等兵2017/11/26(日) 22:30:26.80ID:78SFKU74
Red Army Veterans Talk About Rape and Murder of Innocents
https://www.youtube.com/watch?v=BTMlT7yafg4

96名無し三等兵2017/12/19(火) 00:13:40.98ID:OEn4f3pW
ウクライナ紛争ではびこる性暴力
The Rape of Ukraine
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/12/post-9136.php

97名無し三等兵2017/12/27(水) 21:56:37.54ID:/cyH2dNS
満州から命からがら日本へ/板東英二2
https://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikarakoko/news/201712210000362.html

98名無し三等兵2018/01/27(土) 17:43:51.57ID:ufbh4zj/
ジョージア(グルジア)出身
栃ノ心 祝 平幕優勝は6年振り!
所属の春日野部屋は46年振りの優勝

99名無し三等兵2018/02/06(火) 09:21:33.65ID:IHvyjzqO
シベリア抑留の労苦 阿見 絵画や物品展示
http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15176579446409
牛舎に忍び込み、牛の飼料を食べる飢えた兵士を描いた作品=阿見町廻戸
http://ibarakinews.jp/photo/15176579446409_1.jpg

100名無し三等兵2018/02/06(火) 11:29:46.17ID:q4+wMiQ6
牛も泣いただろう

101名無し三等兵2018/02/22(木) 08:18:21.49ID:zf2p0zg+
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102名無し三等兵2018/03/16(金) 20:56:52.14ID:Mh6d5cOl
満州の月と星〔1〕 五族協和を夢見た花嫁が体験した満州国の現実
初出:朝日新聞2016年8月2日〜2017年4月25日
WEB新書発売:2018年3月15日
http://astand.asahi.com/webshinsho/asahi/asahishimbun/product/2018031300001.html

103名無し三等兵2018/03/23(金) 19:44:30.57ID:jyQ9ON+G
【NHK】 7:00〜おはよう日本 終戦時に旧満州や朝鮮半島で起きたソ連兵による日本人女性に対する性暴力
http://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1521226008/
https://hh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20180317-21-07751
埋もれた戦争の性被害 〜老医師の告白〜
http://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2018/03/0317.html

104名無し三等兵2018/03/30(金) 20:13:29.09ID:Y3pH0+wm
DDR における妊娠中絶問題の歴史的展開
https://nfu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1667&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=4&block_id=73

第 1 章 戦後混乱期の妊娠中絶問題強姦と性病

ヨール (1996) の精緻な統計的な推論によれば, 1945 年初夏から秋にかけて, ベルリンの少女・女性 140 万人のうち,
少なくとも 11 万人が赤軍兵士によって強姦されたという. また, ライヒリンクによれば, 赤軍の男たちがベルリンに
進行してくる間に, 190 万人の少女・女性が強姦されたという (ヨール 1996, p. 75, 95). そこで 1945∼46 年にかけて
ソ連占領地域では, 特別規定 (das Gesetz vom 29. 8. 1945 ber Unterbrechung der durch ein
Sittlichkeitsverbrechenverursachten Schwangerschaft) が設けられ, 強姦を理由とする妊娠中絶は事実上合法とされた2).
だが, この事態に対しては, 当時の産婦人科医の多く (男性) は中絶を拒否していたという (ヨール 1996, p. 76).
1946 年 10 月 5∼6 日にイエナで開かれた産婦人科医会議では, 「しばしば, 1945 年 8 月 29 日付の風俗犯罪に起因する
妊娠中絶に関する法律が濫用されていることに著しい非難が起こっていた. この濫用を防止するためにこの法律の廃止すら
求められた」 (ヨール 1996, p. 102 の図 10) ほどであった.また, こうした強姦の多発とその後の占領軍兵士との自発的な
性交の結果, 性病にかかる女性が, 戦前とは反対に増加した.

105名無し三等兵2018/05/15(火) 21:20:45.04ID:vW9UXitt
【昭和天皇の87年】
悲劇の満州在留邦人 婦女子らの列にソ連軍戦車が突っ込んだ!
http://www.sankei.com/premium/news/180513/prm1805130007-n1.html

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