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もし第2次大戦が1946年の開戦だったら? [無断転載禁止]©2ch.net
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0001名無し三等兵
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2017/04/15(土) 10:12:49.51ID:NtPWKsjv
ヒットラの予言どうり46年開戦になったら
列強諸国の大艦隊構想が完成し
大艦巨砲艦隊による大海戦が繰り広げられていたでしょう
0018名無し三等兵
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2017/04/19(水) 10:01:58.34ID:JALQkdCr
>>17
そのゴミとわかったのは開戦したあとのマレー沖海戦なんだよなあ
0019名無し三等兵
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2017/04/19(水) 14:47:18.90ID:YGe1WFzu
タラントなけりゃ真珠湾もなし、空母もそこまで活用しないだろう
純粋に数対数になって日本に勝ち目あるの?
0020名無し三等兵
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2017/04/19(水) 21:37:11.68ID:pQU0ZEM/
>>18
航空機の性能が倍々ゲームになっているから、40年代半ばになれば
戦艦ヤバくね?になりそうな気がする。
0021名無し三等兵
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2017/04/20(木) 04:47:31.41ID:PMvfNOcm
>>13
>欧州戦線が無ければ、日本はシナから撤退

総統閣下は皇軍の勇気に感嘆すると同時に、その武装と技術の悪さを嘆いた。そこで訪独潜水艦に
ドイツ兵器を満載して、これで大陸打通やってこいと、総統閣下は激励してくれた。
ソ連は日ソ中立条約で、チンピラゴロツキ討伐を支持してた。ドイツ降伏後もすぐには参戦せず、
これまたチンピラゴロツキ討伐への理解の現れだった。
大陸打通作戦が成功したのも 、米国がドイツ打倒優先で米軍主力をヨーロッパへ向けたから。
大陸打通作戦の輝かしい大勝利の裏には、ドイツの悲しい犠牲があったことを忘れてはいけない。
0022名無し三等兵
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2017/04/20(木) 06:49:53.90ID:APwrUeMZ
>ヒットラの予言どうり46年開戦
前提条件がわからない
そのヒトラー自身が1939年にポーランド侵攻して始まったのがWWUなんだが
ドイツが1946年までポーランド侵攻しなかったらということ?
ドイツが1939年にポーランド侵攻しても英仏は1946年まで報復しないということ?
意味わからんぜ
0023名無し三等兵
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2017/04/20(木) 06:56:09.29ID:To8uN/rH
>>22
チェコのときと同じく、ポーランドのときも形だけの抗議で終わると思ってたんだろw
0024名無し三等兵
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2017/04/20(木) 14:27:58.72ID:/HAlwZmt
>>14
というか日本は革命の一つでも起きてるんじゃないのか
ハルノート拒否したのって飲んだら民衆に殺されるから戦争で民衆を道連れにしようって判断だろ
0025名無し三等兵
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2017/04/21(金) 19:35:46.80ID:B51pQXFY
>>24
共産党の手先アカヒ新聞を潰しておけは大丈夫
奴らが国民を戦争に駆り立てた
0026名無し三等兵
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2017/04/21(金) 19:41:28.02ID:N1RU71ow
ナチスのせいで欧州大陸の資産や頭脳がイギリス・アメリカに流出したことには変わりないから
連合軍が技術資金資源面で優位になるな。
むしろ慢性不況と石油不足のまま枢軸側が1946年まで我慢できるかが謎
0027名無し三等兵
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2017/04/22(土) 09:06:30.81ID:kXLHtUwL
おそらくフランスはドイツ側についてくるだろう
資源の確保は、工業製品と引き換えにソ連から
ヒットラーの目的は、欧州連合でアメリカの覇権を潰す事だったから
0028名無し三等兵
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2017/04/22(土) 13:03:19.02ID:MiC/9mOj
ヒットラー以前は、反英教育が盛んだったが
ヒットラーは英国と組みたかった
反日感情も改め、米国を挟み撃ちにしようという考え
0029名無し三等兵
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2017/04/22(土) 13:44:29.09ID:76kkRGLV
「たられば」ここに極まれりだな
ポーランド侵攻時点で総統は東を確保しその資源を最大限に活用して英国に宣戦したかったと思う
無論、仏は相手ではない
日本も早かれ遅かれ対米戦争へ突入した、原油を筆頭に資源が枯渇したら終わりだからな
何れにしても米国を敵に回したら勝ち目は無いわな
0030名無し三等兵
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2017/04/22(土) 18:34:44.84ID:44pxRja9
核持った米帝が史実以上に無双するだけなのでは?
0031名無し三等兵
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2017/04/22(土) 19:39:43.84ID:mZ6yi6Ky
>>28
ユダヤの陰謀みたいな本に感化されたヒトラーは
白人キリスト教徒を結集してアンチユダヤ連合をつくろうと思っていたんだよ。
なかでも国際ユダヤ人という反ユダヤ本を書いた自動車王のフォードに感銘を受けて
ドイツにフォードの自動車工場を誘致しまくったうえ75歳の誕生日というだけの理由で
ヒムラー長官やフランコ将軍と同列の星章付ドイツ鷲大十字勲章を送ったりしております
0032名無し三等兵
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2017/04/26(水) 18:18:21.27ID:AblYI8oi
大日本帝国はどうすれば開戦しない状態で1946年を迎えられるか、だけど

〇長城以南に本格的に攻め込まない
一番国力を温存出来る、が対米開戦事由が怪しくなる。あと戦時予算が中々付かない
〇日本が中国でどれだけ暴れても欧米が制裁を科さない
泥沼にどこまでもハマり財政が相当疲弊する。あと大陸利権喪失を傍観するとかご都合主義過ぎる
〇ハルノートを飲んでとっとと撤兵
当時の日本が撤兵する可能性は非常に低く、また飲んだら飲んだで三国同盟破棄で参戦の理由が無くなる

どれも微妙さね
0033名無し三等兵
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2017/04/27(木) 16:46:35.85ID:UhWBA151
開戦してない状況下でも
東南海
東三河
出雲
で大きな地震起きるよね
あと 64000tで50口径とか51サンチとか
を三連装三基は夢見すぎじゃね?
0034名無し三等兵
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2017/04/27(木) 22:07:49.95ID:GbeMLKT1
>>33
まぁほらニワカ君は過武装な程つおい!って考えな人ばっかりですし・・・
なろう辺りのト空戦記で出てくるオリジナル戦艦とか、重量以前に甲板に置けるのか?って位武装を羅列するのが割と普通
0035名無し三等兵
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2017/05/12(金) 19:58:03.46ID:YIPmVnVx
>>3-4
第2次ジュットラント海戦とか胸熱だな
0036名無し三等兵
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2017/05/14(日) 01:19:49.17ID:emDay9FT
44年当たりにアメリカ側から仕掛けられて結局戦争になる可能性が高いと思う
0037名無し三等兵
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2017/05/15(月) 14:43:05.03ID:Glx7ZDgK
>>33
> あと 64000tで50口径とか51サンチとか
> を三連装三基は夢見すぎじゃね?

ヒント 戦艦厨は知能が幼児並み
0038名無し三等兵
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2017/05/15(月) 19:23:22.16ID:t44d55vM
>>36
>44年当たりにアメリカ側から仕掛けられて
アメリカが仕掛ける状況ってのは、イコール日本が史実通り野放図な侵略を始めてる場合だからなぁ
その場合、日本の軍拡が遅れて43年中頃に仏印進駐してるのかね?
0039名無し三等兵
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2017/05/18(木) 22:13:12.24ID:dn+BDx8K
レイ ハリーハウゼン
0040名無し三等兵
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2017/05/18(木) 22:42:03.34ID:MbI2Ot8U
しかしルペン大統領の手腕を見たかったな
独のメンケル婆さんとは握手しないだろうし
いち早くプチンと怪談か?
0041名無し三等兵
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2017/05/20(土) 06:37:39.02ID:Se322D5D
アメリカが正規空母20 軽空母20 護衛空母100でスタート
にほんが正規空母8軽空母12護衛空母と揚陸艦10でスタート

だから山本は奇襲一色でこれが通説
0042名無し三等兵
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2017/05/29(月) 15:26:16.37ID:a86XaEKv
兵器増やしても用兵が幼児レベルのままじゃ意味ないと思う
0043名無し三等兵
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2017/05/29(月) 23:54:54.66ID:p0/PkbH8
兵器増やしても、と言うのも実際どこまで増やせるかだな
1946年開戦を想定すると言っても、>>3>>15辺りが妄想してるような
史実1941年当時から更に5年、ずっと戦時ベースで艦隊計画なんてやってたら
日本を筆頭に1946年を待たずして財政破綻しかねないわけで。

そもそも>>3>>15辺りだと日本は大和型7隻保有と言たいようだが
797号艦の起工ですら昭和18年の予定だったから、
あのまま戦時ベースで計画した所で1946年までには111号艦までの4隻しか間に合わんしな
0044名無し三等兵
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2017/05/30(火) 15:54:01.95ID:w3o/707t
>史実1941年当時から更に5年、ずっと戦時ベースで艦隊計画なんてやってたら
>日本を筆頭に1946年を待たずして財政破綻しかねないわけで。
史実だと1937年頃から実質戦時予算(マル3計画)だから、これと続くマル4計画辺りまでは平時ペースで行く必要があるな
となると、どう見ても1計画ごとに差し込める大和型は1隻までだからマル4までに2隻、
更に大和1隻に対し1、2隻の旧式戦艦退役はセットになるだろう
けど、1941年辺りに戦時予算が付けば(改)大和型2隻位押し込め、1946年までになんとか間に合う・・・かもしれない

この場合、大和型4隻はなんとか建造できる代わり、維持費的に旧式戦艦3、4隻は退役しないとならない
練習戦艦だった比叡はそのまま退役、あとは扶桑型辺りに引退してもらって
第一戦隊 大和型4隻
第二戦隊 長門型2隻伊勢型2隻
第三戦隊 金剛型3隻
の11隻体制ならなんとか実現できそう
0045名無し三等兵
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2017/09/24(日) 10:56:32.64ID:rqfwv6/h
日本のレーダー管制も米国の上をいって
航空攻撃避けれるかもしらんな
0046名無し三等兵
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2017/09/24(日) 20:33:51.74ID:18Wle9sZ
>9

満州国の経済
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88


1931年から1932年にかけては、鉄の生産量は、100万トンであった。
1934年には95万トンの低質な赤鉄鉱の鉱床が見つかり、別の場所でも23.5万トンの鉱床が見つかった。
遼寧では、10億トンの良質な鉄が眠っていた。
0047名無し三等兵
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2017/09/24(日) 20:37:43.34ID:18Wle9sZ
満州写真館 鞍山・昭和鉄工所
http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/071201/kurayasu.html

鞍山・昭和鉄工所明治四十一年に満鉄地質調査反により発見された埋蔵量数億トンの鉱脈に作られた鉄工所です。
特に丘に鉄石山という地名がついており、これに興味を感じて調査した結果の発見だそうです。
当初鞍山鉄工所として大正6年から事業を開始、満州鉱産物の中の日支合弁で鞍山を中心とした鉄工所を設立しました。
大正8年から熔鉱炉の本格運用が始まります。

満州国成立後は、満鉄資本から昭和鉄工に吸収されました。
鞍山から昭和鉄工となった経緯は資料がなく、よくわかりませんでした。
満鉄では、満州国建設にあたり、基幹産業の株を保有しし、投機の対象となるのを避けていました。
が、国政と経済の安定に伴い、満鉄は株の積極的な開放の方針を定め、実行しています。
例えば、満州電業も当初は満鉄資本で設立、給電網の整備と主要発電所の建築後、株式は一般に売りに出されています。
この鞍山鉄工所も、その流れであったのではと考えます。
昭和鉄工について、一説によると、行動力を伴う頭脳集団を持つ満鉄に対し、この勢力を嫌った日本国内の軍部と財閥の動きがあったとする資料もありますが、詳細は不明です。
0048名無し三等兵
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2017/09/24(日) 20:43:03.43ID:18Wle9sZ
http://www.cwo.zaq.ne.jp/bface700/hs1/haruka/haruka_22.html

そして工業化の一つの指標とされる粗鋼生産力だが、この当時日本の生産力はドイツやソ連とほぼ同じ数字にまで拡大していた。

しかも、フランスやイタリアに匹敵する満州の鉄もかなりが自由に使えるので、実質はドイツを抜いて世界第二位の粗鋼生産力を有していた事になる。

1940年のアメリカが約6000万トン(※1939年は5000万トンを切っていた)なので一位とは三倍の差があったが、それでも日本経済の躍進を示す数字である。
しかも生産力、生産量共に拡大傾向にあり、1930年代は相次いで近代的な大規模製鉄所が開業していた。

播磨の広畑、千葉の君津が1930年代前半までに開業もしくは完全操業(全力稼働ではない)に移り、1930年代後半に新たに大阪の堺に巨大な製鉄所が建設、そして稼働しつつあった。
堺が全力生産を行うと、ここだけで当時日本最大となる一貫製鉄の形で年産600万トンの粗鋼が生産可能で、1942年には全力稼働に移る予定だった。
また、この時期の各製鉄所は、後の産業発展を見越した規模で建設されていたので、まだ余力を十分に残して生産していた。敷地面でも、設備の拡大が可能なように事前に確保されていた。

このため日本全体で見ると、1943年までに最大2500万トンまで生産力拡大が可能と見込まれていた。満州を含めると3000万トンに達する。

これは軍需もさることながら、通常の日本経済の拡大を示す数字だと言うことを頭の隅に止めておいてもらいたい。
これは粗鋼の次に示したセメント生産量でも分かる事で、当時の日本が社会資本を一つの軸として建設面で大きな躍進期に入っていた事を示すものである。

なお、日本が自ら有する鉄鉱石の鉱山は、満州南部の鞍山鉄鉱山と海南島の石緑鉄鉱山だった。鞍山の鉄鉱石は量こそ多いが質はあまり高くなかったが、その分は良質の石緑が補っており、共に採掘量の限界はあったがほぼ自給を可能としていた。
しかし2000万トンを越えると不足するため、経済発展の為には海外貿易の維持もしくは新たな供給地の自力獲得が必要だった。
0049名無し三等兵
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2017/09/24(日) 20:58:14.61ID:18Wle9sZ
同じく
http://www.cwo.zaq.ne.jp/bface700/hs1/haruka/haruka_22.html
から。

まずは近代国家の血液である石油だが、総量約2100万キロリットル(約1800万トン)を消費している。
世界で見ても、アメリカ、イギリス、ソ連に次ぐ数字となる。

これは戦乱に伴う軍の需要増加もあるが、やはり北満州油田を自由に使えるという要素が大きい。
重油とアスファルトなどの屑油は、国力を上回る量が贅沢に消費されている。
何かにつけて重油ボイラーが稼働しているのは、1930年代の日本の一般的情景ですらあった。
日本人一般の感覚としては、重油は文字通り掃いて捨てるほどあった。
しかも産油量は、増産努力もあって年々大きく拡大していた。
しかもこの数字は、満州での消費分を除いているので、北満州油田の採掘量はさらに数字が上積みされる。
1943年には、3000万キロリットルの生産を目指していたほどだ。対英戦を全面的に行うならば、その程度の量が必要と考えられたからだ。

一方、日本国内の石油のほとんどは北樺太油田が担っている。
この頃既に一部浅瀬の海底油田の掘削も始まっていたが、生産量は1930年頃から微増の流れが続いている。
一方爆発的に伸びているのが北満州油田で、油井の数の爆発的な増加に平行して産油量が増大していた。
当然ながら、日本経済が飲み込む石油の量も、計数的と言われるほど伸びていた。
重油に関しては国際標準よりも安価となったため、船舶運行、重油火力発電が大きな伸びを示していた。
(続く)
0050名無し三等兵
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2017/09/24(日) 20:59:03.55ID:18Wle9sZ
しかし北満州油田は、軽質油であるガソリン、軽油などの採油量が少ないため、基本的には半分以上を輸入に頼っていた。
(中略)
また日本の石油精製技術と能力だが、石油精製自体は北樺太油田の開発から同時に拡大しており、技術力も1930年代にはほぼ国際水準に達していた。

1935年にはオクタン価96の航空ガソリンの大量生産にも成功し、1938年にはオクタン価99まで量産の目処が付くようになっていた。
オクタン価100への到達は1940年だった。
アメリカにはやや劣るが、
この当時のアメリカは石油の生産と精製双方で世界ダントツであるので、この点は日本の力が不足している訳ではない。

また日本の場合は、アメリカほど油質の高い油田を持たず、モリブデンなどのレアメタルが不足している事が、高いオクタン価の石油精製を阻んでもいる。

引用終わり

大連は開発されてたら南満州油田になるのかな?

5年開戦を我慢してれば....
0051名無し三等兵
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2017/09/24(日) 21:14:01.14ID:18Wle9sZ
http://www.cwo.zaq.ne.jp/bface700/hs1/haruka/haruka_16.html
からの引用。

石油については、北樺太油田のお陰で1933年の国内産油量は300万キロリットル近くを記録していた。
トン数にすると約250万トンで、1930年代前半の日本の石油消費の半分以上を賄っていた。
しかし足りてない資源であり、日本政府も憂慮していた。

しかしその憂慮を打開する一つの出来事が発生する。
北満州油田の開発開始だ。

「北満州油田」の存在は、古くは1908年の日米合同の地質調査で存在が確認されていた。
しかし当時は、初歩的な簡単な調査しか行われなかった。
原因は、地表近くの調査では油質が非常に重くワックス分が多いため、油質がかなり悪いと考えられたからだ。
 
そして十年以上存在が忘れ去れるも、日本で石油需要が大幅に伸び始める1920年代半ばに再び目が向けられるようになる。
この時は政府系の帝国石油と坂本石油の二社が合同で大規模な調査を行い、かなり深い地下に対するボーリング調査も実施された。
そしてアメリカ資本は採算性が低すぎるとして見向きもしなかったため、この時の調査結果を日本政府は箝口令を敷いた。

そして1928年に、日本が軍の駐屯地として同地を買収又は権利を取得。広大な土地が日本軍の「駐屯地」、「演習地」とされ、一般人の出入りが禁じられる。
そしてその後、満州政府の協力を受けて鉄道の引き込み線が作られ、基地の外から見て地平線の向こう側に幾つもの巨大な建造物、油井が建ち始める。

当然油田開発を行っているのであり、昭和石油という日満合同の政府系の合弁会社も新たに設立され、1930年から開発が本格化した。
開発には先にも挙げたように坂本石油が大規模に参加していたが、同社が北樺太油田の開発とアメリカからの技術習得で高い技術を有していたからだった。
(続く)
0052名無し三等兵
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2017/09/24(日) 21:15:57.10ID:18Wle9sZ
1930年に最初の商業試掘に成功。埋蔵量は、当初から数億バレル以上(※埋蔵量50億バレル=約8億キロリットル)と予測された。
この一面的な報告に政府は安堵したのだが、石油に詳しい人々はすぐにも眉を曇らせた。
予想以上に石油の質、油質が悪かったからだ。

油質は重質油と呼ばれるもので、原油性状はワックス分が多く(22.4%)、比較的重質で(API 33.2 度)、重油収率が 61%もあった。
硫黄分が低いのがせめてもの救いだったが(0.08%)、流動点が非常に高い(+32.5℃)という特徴も有していた。

つまり、屑油とすらされる重油が平均より二割ほど多く採れるが、価値の高い灯油、軽油、ガソリンは極端に少なかった。
単純な数字で言えば平均の三分一以下で、軽質油になればなるほど採油率は低く、最も軽い高純度ガソリン、ナフサなどは現状の技術では商業的採算がほとんど取れないというものだった。
またワックスが多く粘っこい油なので、産油の際のコストも通常より高くなりがちだった。

取りあえず喜んだのは、海軍と海運会社だった。
船の釜(ボイラー)は多くが重油で動いていたので、重油が多く取れるという点が評価された形だった。
また当時爆発的に増えていた電力需要に対して、重油を用いた火力発電にはかなりの魅力があった。
(中略)
続く
0053名無し三等兵
垢版 |
2017/09/24(日) 21:19:14.45ID:18Wle9sZ
日本政府が秘密にし続けた産油量だが、早くも1934年には300万トンを記録した。
この時点で北樺太油田を上回り、日本は再び石油をほぼ自給できるようになる。

それでも一部のガソリン、軽油、灯油、ナフサなどは依然として輸入に頼らねばならず、潤滑油の不足も続いていた。
日本の産業発展のため不足分はむしろ増える一方だったのだが、重油など重い油に関しては完全に自給できるようになった。

1938年を例に取ると、自動車用ガソリンだけで約300万キロリットルを消費しており、このうち3割程度しか国産と満州で自給できていなかった。
このため有事の際の資源獲得を憂慮した日本政府は、1935年にドイツから人造石油のパテントを純金込みの大金をはたいて獲得。
早くも37年には、年産50万トン規模の大規模な人造石油精製工場が稼働するようになっている。
有事に備え、各種石油備蓄基地も日本各地に建設された。北樺太では、樺太島を横断するパイプラインも敷設された。

一方では、満州での産油量は莫大な投資もあって年々劇的に増加し、1938年には1000万トンを記録。
その後も大幅な拡大を続け、あり余っている重油については日本以外にも国際価格よりやや安価で輸出された。
これを、その頃から関係の深まったドイツやイタリアが、1930年代中頃から近在からの不足分を購入した。
特にエチオピア戦争で国際的な孤立を深めたイタリアは、日本から積極的に購入している。
(中略)続く
0054名無し三等兵
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2017/09/24(日) 21:21:57.64ID:18Wle9sZ
ガソリンや灯油に関しても、満州からの産油量のそれぞれ5%がそれらに精製されれば、
高品質を求めない限り、かなりを自給できるようになった。

単純に比較すれば、北樺太で200万トンの石油が取れても、せいぜい20%の40万トン余りがガソリンになるだけで、
1000万トンの北満州油田なら5%でも50万トンのガソリンとなる。

高純度が求められる飛行機エンジン用燃料はともかく、
当時の自動車エンジン相手のガソリンなら北満州油田でも贅沢を言わなければ使用に耐えた。
また、日本では、少しでも得やすい軽油を燃料とするディーゼルエンジンの開発と品質向上も進められた。

また原油、重油に限り余剰分が輸出にまで回されるようになり、
石油の輸入先に困っていたイタリア、そしてドイツに輸出されるようになった。
0055名無し三等兵
垢版 |
2017/09/24(日) 21:44:03.15ID:18Wle9sZ
大慶油田も遼河油田も位置的には、南満州だなー。

日本政府が秘密にしてた北満州油田は中国も開発してない?

どこだよ、これは?
0056名無し三等兵
垢版 |
2017/09/24(日) 23:15:18.06ID:18Wle9sZ
>47から

>54は、
虚飾を織り混ぜた一部、創作であった。

が、大連で南満州油田を発見していれば基本的に変わりはないね。
0057名無し三等兵
垢版 |
2017/09/24(日) 23:19:58.86ID:18Wle9sZ
おっと

>48
からの間違い。
失礼
0058名無し三等兵
垢版 |
2017/09/24(日) 23:31:29.93ID:18Wle9sZ
新日鐵住金広畑製鐵所
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%97%A5%E9%90%B5%E4%BD%8F%E9%87%91%E5%BA%83%E7%95%91%E8%A3%BD%E9%90%B5%E6%89%80

新日鐵住金広畑製鐵所(しんにってつすみきんひろはたせいてつじょ)は、兵庫県姫路市広畑区富士町にある新日鐵住金の工場である。

概要

姫路市南部、夢前川の河口に隣接し姫路港(広畑港)に面する場所に立地する工場である。播磨臨海工業地帯を形成する工場の一つ。

1939年(昭和14年)に日本製鐵(日鉄)によって銑鋼一貫製鉄所として建設された、比較的古い製鉄所である。
戦後賠償に充てられる予定となったため1946年(昭和21年)に休止するが、解体はなされず4年後の1950年(昭和25年)に再開した。
再開直後に日鉄が解体され広畑製鐵所は富士製鐵が継承、その後は同社の主力製鉄所として発展する。
1970年(昭和45年)には八幡製鐵・富士製鐵の合併により新日鉄が発足すると、同社の広畑製鐵所となった。
新日鉄は1970年代後半以降、各製鉄所の縮小・合理化を進めるが、その一環として広畑製鐵所は1993年(平成5年)に高炉を休止し、銑鋼一貫体制を廃止した。

鉄鋼所
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%BD%E9%89%84%E6%89%80

本稿では、その中でも日本の鉄鋼業の主流である、鉄鉱石から鉄を取り出すところから最終製品の製造までを一つの敷地内で行う(間接製鋼法による)銑鋼一貫製鉄所を取り上げる。
(中略)
日本初の銑鋼一貫製鉄所としては一般的に北九州の官営八幡製鐵所(1901年(明治34年)操業開始)が挙げられるが、
操業当初には生産が不安定で、開始の翌年から2年間稼動が停止(1904年まで)されている。
一方、民間では岩手県の釜石鉱山田中製鉄所(1887年(明治20年)創業)が1903年(明治36年)より銑鋼一貫製鉄所となって稼動しているので、こちらの方が時期的に早い。
0059名無し三等兵
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2017/09/24(日) 23:43:07.54ID:18Wle9sZ
釜石鉱山田中製鉄所
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E7%9F%B3%E9%89%B1%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%A3%BD%E9%89%84%E6%89%80

釜石鉱山田中製鉄所(かまいしこうざん たなかせいてつじょ)は、新日鐵住金釜石製鐵所(岩手県釜石市)の前身にあたる製鉄所である。
1886年(明治19年)に日本で最初に高炉による製鉄を軌道に乗せた。
コークスを使った銑鉄の産出もここが最初であり、日本で初めて安定稼動した銑鋼一貫製鉄所でもある。
(中略)
1890年(明治23年)には大阪砲兵工廠において当時世界的に評価の高かったイタリアのグレゴリーニ製銑鉄よりも
釜石製銑鉄の方が弾丸用としてより優れていることが立証された。
製鋼原料としての釜石銑もまたクルップ社製、H・レミー社製の物に匹敵し、
その上クルップに対して3割、レミーに対しては6割安価に作成できることも判明している。

1894年(明治27年)には顧問に冶金学者の野呂景義(1854-1923)、主任技師にその弟子香村小録(1866-1939)を迎え、野呂が提唱したコークス利用の製銑法に挑戦。
改修・大型化した官営時代の英国製30t高炉で、日本初のコークス銑の産出にも成功した。

この年釜石の銑鉄生産高は、砂鉄銑の生産高を超えて国内で生産される銑鉄のおよそ7割を占めている。
翌1895年(明治28年)に上記2名による鉱石埋蔵量の調査を行ったところ、
前回1892年調査時の1,400万トンを遥かに上回る推定4,900万トンという調査結果が報告された。
0060名無し三等兵
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2017/09/24(日) 23:54:29.16ID:18Wle9sZ
>48

千葉の君津と堺の製鉄は戦後やね。
0061名無し三等兵
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2017/09/25(月) 00:02:25.85ID:Uq5GQ6vh
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%8D%97%E5%B3%B6

資源

海南島は鉱産資源も多く、鉄鉱石・錫・タングステン・金・水晶・オイルシェールなどが知られている。
良質の鉄鉱石を産出する石緑鉄鉱山は内外に知られ、海洋資源も非常に豊富である。
楽東県の鶯歌塩田は中国南部最大の塩田である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%8D%97%E7%9C%81

海南省(かいなんしょう、中国語:海南省、??音:H??in??n Sh??ng、英語:Hainan)は中華人民共和国最南部の省。
海南島と付属の島嶼からなる。
省都は海口市。
(中略)
日中戦争中、日本軍が島を占領し、ビルマ独立の志士アウン・サンらの軍事訓練がこの島で行われた。
0062名無し三等兵
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2017/09/25(月) 00:08:49.56ID:Uq5GQ6vh
>49

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8F%E6%B2%B9%E7%94%B0

オハ油田(おはゆでん)とは、北樺太に存在する油田・ガス田地帯の一つである。ロシア・サハリン州北部の都市、オハ周辺を中心とする。この名称を北樺太の油田全体を指して使用する場合も見られるが、現実にはオハ油田が北樺太最大の油田というわけではない。

概要編集

北樺太のオホーツク海側で最初に開発された油田である。
日本が占領中に生産を開始し、施政権がソビエト連邦に返還された後も日本が採掘権を維持した。
しかしソ連側が人員や物資の出入りを制限するなどの操業妨害をしばしば行ったことから、日本にとっての経済価値や戦略価値はあまり大きくなかった。
1941年に日ソ中立条約締結の条件としてソ連に返還された。

第二次世界大戦の後、1961年にはサハリン州全体で168万トンの石油が生産されていた。
1970年代には、年間約250万トン程度の石油が生産されていたとも言われる。

現在では採掘量が減少し、生産はほとんど行われていない。
事実上廃鉱と言えるが、これに対し、埋蔵量が減少したのではなく、老朽化した施設を更新する事によって生産量を回復させることができるとの説もある。
しかし実際には、より生産性の高いサハリンプロジェクトの進行によって、このような意見は顧みられていない。

歴史

1880年??樺太北部で、ロシアの毛皮商人が石油の露頭を発見する。
1919年??オハ地区で日露合同の試掘が開始される。
1920年??尼港事件について責任と賠償を求め、日本のサガレン州派遣軍が北樺太を占領、樺太での石油試掘が中断される。
1923年??試掘再開される。
オハで油田が発見され、同年中に最初の油井が生産を開始する。
1925年??日ソ基本条約締結される。これによって、日本が北樺太での石油採掘権と試掘権を得る。また、北樺太から日本軍が撤兵。
1926年??北樺太石油会社(英:??Northern Karafuto Oil Consession)設立。初代社長は中里重次海軍中将。
1944年??北樺太利権移譲議定書が締結される。これによって、北樺太における日本側の採掘権が消滅する。
0063名無し三等兵
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2017/09/25(月) 00:13:52.55ID:Uq5GQ6vh
結局はコミンテルンのスパイが、日本軍部や官僚、政治家、マスコミなどに多かったことが敗戦の、また開戦の大きな原因だね。
0064名無し三等兵
垢版 |
2017/09/25(月) 01:40:04.18ID:+GffbQqR
偽日本人エベンキ東朝鮮非大和民族様ゴキブリチョンコ韓唐エラ俘囚ヒトモドキ頭狂の存在だろ
0065名無し三等兵
垢版 |
2017/09/25(月) 03:21:06.89ID:Uq5GQ6vh
>49
~>54

史実は
第2章  燃料工業50年 の推移 と将来 の展望PDFからの引用
(前略)
その成果をみると,国産原油の生産は依然と して横這いであり,人造石油事業は巨額の資金を投じ,必要機器の製作,設備の整備,製造工場の建設など強力に押し進めたるも,
高度の技術を必要とするため,石炭水素添加法,フィシャー式石油合成 法,ともにその成果遅々として挙が らず,ただ撫順の頁岩油工業 のみある程度の実績を挙げ得た次第であっ た。
この間陸海軍 は,その所要燃料をもっぱ ら外油の輸入による備蓄を主体として,それぞれ 自らの燃料廠において主として航空燃料の質的向上をはかる研究と, 高オクタン揮発油の生産を行 ない,自給態勢を樹つる ことに努めた。
かくして昭和16年(1941)12月 第2次世界大戦に入ったのであった。

その当時における,わが国石油の備蓄および生産の状況を見ると,

備蓄量:海軍約650万kl,陸軍約120万kl,民間約
70万kl,計約840万kl
生産量;国内産油約30万kl,人造石油(撫順頁岩 油約17万klを含め約30万kl)
輸入量:(一例として昭和15年度(1940))
海軍120万kl,陸軍および民需併せて420万kl
すなわち大戦に臨む石油の主体 は上掲の備蓄量840万klであった 。

この量は開戦前,作戦当局において戦事約2ヵ 年を支え得るものと予測せられたが,実際は戦事第1年において,海軍485万kl,陸軍91万klを消費している。
このような石油の窮状は,開戦時における南方石油資源の占拠開発により補填することを,戦略の大綱とせられ,幸いにして占拠開発 は順調に進められ た。

戦前南方の産油は年約1,000万klであ り,敵側撤退時にほとんど破壊されたが,わが方の復 旧は順調に推移し,南方現地における調達を行なうとともに,戦時中bフ内地送還量は520万klに達し,ほぼ需給の均衡を保持し得た。

しかしながら戦争中期以降 は,敵潜水艦の跳梁による輸送の困難は次第 に激化し,戦争末期には輸送はほとんど不可能となり,わが戦力急激に低下し,ついに全面降服に立到った次第である。
終戦時は太平洋沿岸の製油所 は,陸海軍の所属と民有とを問わずほ とんど壊滅に帰し,ど こも余すところ皆無に近き情況に立到ったのであった。
第2次世界大戦中に消費され た石油の総量 は,海軍1,288万kl,陸軍274万kl,民需474万kl,合計2,036 万klで あった。
0067名無し三等兵
垢版 |
2017/09/25(月) 07:08:06.24ID:h/N51Cbl
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%B8%93%E6%B9%96%E7%82%AD%E9%89%B1
から引用。

本溪湖炭鉱(ほんけいこたんこう、本溪湖煤礦)は、
1905年に大倉財閥の投資による日中合弁事業として採掘が開始された満州国の炭坑、
またポツダム宣言の受諾に伴い閉鎖されたその合弁会社。
現在の中国遼寧省本渓に位置し、40−50万トン級の産出量を持っていた。

PDFファイル
『南満洲鉄道株式会社撫順炭鉱の経営活動―
創業から第一次世界大戦期までを中心として』庚柄富
から引用。

本溪湖炭鉱はコークス用(精錬、製鉄)に最も優れた炭質をもっていた。
0068名無し三等兵
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2018/02/22(木) 10:33:44.15ID:zf2p0zg+
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