0048吾輩は名無しである
2024/05/06(月) 12:22:47.40ID:JpGOs3tgいう映画である。そうして、「無法松」はたいへんつまらなかった。「芸術的」という努力は、
なんてまあ古いもんだろうと思った。阪妻はヤニングスみたいな熱演で、私は阪妻に同情した
が、しかし、いいとは思えなかった。阪妻に対する不満ではない。「無法松」という映画に対す
る不満である。どこがいいのか、私には、さっぱりわからなかった。傑作意識を捨てなければな
らぬ。傑作意識というものは、かならず昔のお手本の幻影に迷わされているものである。だから
いつまで経っても、古いのである。まるで、それこそ、筋書どおりじゃないか。あまりに、もの
ほしげで、閉口した。「芸術的」陶酔をやめなければならぬ。始めから終りまで「優秀場面」の
連続で、そうして全体が、ぐんなりしている。「重慶から来た男」のほうは、これとは、まるで
反対であった。およそ「芸術的」でない。優秀場面なんて一つもない。ひどく皆うろたえて走り
廻っている。けれども私には、これが非常に面白かった。決して「傑作」ではない。傑作だの何
だのそんな事、まるで忘れて走り廻っている。日本の映画は、進歩したと私はそれを見て思っ
た。こんな映画だったら、半日をつぶしても見に行きたいと思った。昔の傑作をお手本にして作
った映画ではないのである。表現したい現実をムキになって追いかけているのである。そのムキ
なところが、新鮮なのである。書生劇みたいな粗雑なところもある。学芸会みたいな稚拙なとこ
ろもある。けれども、なんだか、ムキである。あの映画には、いままでの日本の映画に無かった
清潔な新しさがあった。いやらしい「芸術的」な装飾をつい失念したから、かえって成功しちゃ
ったのだ。重ねて言う。映画は、「芸術」であってはならぬ。私はまじめに言っているのであ
る。
太宰治「芸術ぎらい」
「映画評論」1944年4月1日