やはり流通する情報の閾値がゼロに近いのは良し悪しだ。
昨日ゲットした書籍なんかは超マイナーで、「一般的なニーズ」から言えば、
それが売りに出されたという情報の価値は限りなくゼロに近いのだが、
そうしたマイナーな情報に容易にアクセスできてしまう。

一方で、例えば
>>140
の書き込みなどは、「個」を持った人間の所産というよりも、
集団の無意識が生み出した断片的なノイズと解釈した方が、より納得できるように思う。
もちろん、書き込みの背景には、キーボードを叩いている、責任を負うべき「個」がいるのだろうが、
にしても、その「個」はいわば量子論における一個の素粒子のようなもので、
無数の「個」による書き込みがなすマクロな「全体」の中で、統計的、確率的に解釈するのが一番すっきりする。
端的に、>>140は「個」ではない。
「個」は、ある種の「閾値」を前提とするからだ。
自分の頭の中に渦巻いている思念を全て口にだしてみたまえ。すると君はもはや「個」とは言えなくなるだろう。
無数の思念の中に、閾値を設けて選択すること。これが「個」である。
とすれば、ネットにあふれている言説の多くは「個」に値しない。
もちろん「個」に最上の価値があるというわけでもないが、
以前の社会では無意識の澱の中で溜まっていた有害なノイズが、閾値ゼロのネット空間に溢れ出ている状況を、
「個」の論理で非難してもあまり意味がない。つまり「倫理」とは「個」に属するものなので、
そもそも「個」ですらない書き込みに対して倫理を説いても何の意味もない。

というわけでP君。
やるべきことは「全体」に対して、いかに発信するかということなのだよ。
頭髪に湧いたフケを相手にしていてもきりはない。
社会全体の、集合的無意識そのものに変革の手を差し伸べること。
それは厳しく困難な道のりではあるが、それを夢見ないで哲学も宗教も小説もありえない。
俺はちょっと最近はそういう試みに手を出そうとしている。