キムチ在日P ◆.uKag/vUmYと純文学5誌を語ろう!
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DHC会長「サントリーのCMに出てるやつは在日だサントリーよりDHCを買おう」
化粧品販売大手DHCの吉田嘉明会長が、サイト上に在日コリアンに対する差別的なメッセージを載せていた問題。これを4月9日の「おはよう日本」で報じたNHKに対し、
吉田会長が「NHKは日本の敵です。不要です。つぶしましょう」などとする声明を改めて、サイト上に公開した。
まず、経緯を振り返る
自社のサプリメントについて記した内容だが、途中でライバル企業であるサントリー(ウエルネス)に言及。根拠もまったく示さずに、以下のように記している。
サントリーのCMに起用されているタレントはどういうわけかほぼ全員がコリアン系の日本人です。そのためネットではチョントリーと揶揄されているようです。DHCは起用タレントをはじめ、すべてが純粋な日本人です。
サントリーに対するメッセージについて、NHKは4月9日、「おはよう日本」でDHCの名前を公にしながら、「在日コリアンを蔑む表現をしている」と指摘。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8c83f1770572e3ce9f1332bba006111420aad662 ≫現象学→実存主義ってゆう系譜があったのかなーって妄想してた
サルトルは、フッサール・前期ハイデガーの「現象学」から
大きな影響を受けた、という通説は間違いではないだろうが、
たほうで、ヘーゲルの「精神現象学」のほうの「現象学」から
もろに影響を受けている、ということもある。
なお、デリダが「声と現象」で指摘していることだが、
フッサール本人がいうように超越論哲学の一種であるフッサール現象学は、
じつはカント派哲学の一種で、それを批判するのは、
ハイデガーといわず、ヘーゲルを持ち出せば足りる、という面もあるのではないか。 wiki「存在と無」
内容は、現象学的立場と存在論について記述された『緒論』と、意識の志向性、無化作用と無について記述された『第一部 無の問題』、対自存在と即自存在について記述された『第二部 対自存在』、他者のまなざしと自分の意識について記述された『第三部 対他存在』、一切の行動は「持つ」「為す」「ある」に集約されるとして、それを基に実存的精神分析を記述した『第四部 「持つ」「為す」「ある」』の四部構成になっている。
即自、対自、対他、こういう語で検索すれば出てくるのは、
まずはヘーゲルだということは、やってみればすぐにわかると思う。 南孝典
『フッサールとカント』1
(1964 年)の中でイゾ・ケルンは、フッサールの『ヨー
ロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下『危機』)(1937 年)におけるカント哲学
への親密な関係を顧慮するならば、また未完の著作である『危機』がその予告どお
りに完成されていたならば、この最晩年の作品が、「『カント的省察』」(HK, S. 50)と
呼ばれ得るようなものになっていたかもしれないと指摘している。 アリストテレスの可能態→現実態みたいなものを
近代においてリバイバルさせたのも、もっぱらヘーゲルだといえる。 ハイデガー ヘーゲル「精神現象学」についての講義
わたくしたちは「経験」の二つのグループと概念とを簡単に次のように区別する。
(1)経験をするー何か或ることについての意見を、直観によって事柄自身に照らして証明し、その正しさを確証する。
(2)経験をするー事柄自身に、それに関して真実にはどのようになっているのかを、言いかえればそれ自身の正しさを示させる、すなわち事柄自身に自己をその真実のあり方において示させる。
さて『現象学』の表題−意識の経験の学−のなかに現れるヘーゲルの経験の概念は、決して今日の現象学が用いる上述の経験の概念の方向に沿うものではない。その強調点は、直観による正しさの確証という意味契機のうちにはない。(38)
ヘーゲルの経験概念は、むしろ、経験という語の意味の第二のグループの方向に沿う。つまり或ることについて経験をすることによって−それも否定的かつ肯定的な意味において−この或るものが自己をその真実のあり方において示す、あるいは、この或るものが最初見えた通りにではなく、真実にはそれとは別の仕方で有ることを経験する、このような意味の方向に沿う。…経験は意識においてなされる。意識が経験の対象である。 デリダ「声と現象」
イデア的なものはフッサールによってはつねに、カント的
な意味での理念という形で考えられている。 ジジェク「否定的なもののもとへの滞留」
カントが気づき損ねたのは、<物>〔自体〕が超越論的対象によって呼び
出された幻影であるということなのだ。限界づけは超越に先立つ。『現
実に存在するもの』のすべては、現象の領野とその限界づけであって、
<物>〔自体〕とは、超越論的対象の空虚を埋める幻想以外の何もので
もない」のである。 プラトンにおいては分離していた「形相」と「質料」を合一させるために
アリストテレスの導入したのが、
「可能態(デュナミス)」と「現実態(エネルゲイア)」
という時間と運動を基礎とした概念
というのが通説的な理解。 >>129
やっと「可能態」の意味分かった。
ジャガイモはポテチの可能態なんだな
この概念を発明したアリストテレスはやるな! サルトル後回しにするつもりだったけど
小林秀雄と併読するか! >>124
二つのプロジェクトが平行して進んでんのかな
「drive my car」広島着いたらへんイイなー >>121
ユウ・ササモトのアカ見に行ったらサンリオのツイートして
イメージアップしようとしてる アイツのそういうとこ薄っぺらいと思うな
恣意的に凍結してるってことはあるのかなー 難しい >>120
焦っちゃった! 俺らもビール飲みながら現象学語ってくかー >>138
今ワイン飲みながらインスタントトッポギ(チーズ味)食ってる。現象学としてのトッポギ。美味いけど夕飯としては少ないな~😭 >>125
これはジャネットさんか!後で読んでみる。カントは古くないって柄谷行人先生が言ってたよ。 ジャネットさんカント読んだことある?難しすぎて読めないんだよな… ヘテパシフィック HAITAI PACIFIC ヨッポギ チーズ味 120g [トッポギ]
https://www.yodobashi.com/product/100000001005110417/
これのタレが余ったからコメ入れたらマジで美味いジャンクすぎる ちょっと濃くなっちゃってたから牛乳でのばしてレンジで再加熱 >>126
第三部だけ読んでみようか。ジャネットさん持ってる? >>137
笹本クソだと思う。ホプキンスの言う通り、それを「恣意的」だと断定する事はある意味陰謀論だから慎重になるべき😂
でも、目障りだろうとは思うんだよな。ネトウヨはTwitterのシステムに文句を言わないが、ANTIFAは言いまくるから。 >>136
よくわかってなかったけど、これ映画のサントラなんだな! Smells like teen spirit 和訳ー皆が誤解している!スメルズライクティーンスピリット 意味 歌詞の徹底解説
https://youtu.be/ZbFjqJv9zME
今これ見てる。むっちゃ英語の勉強になる… >>129
こういうことか。イミダスより
>可能態が現実化に至る以前の潜在的な能力を指すのに対し、現実態は可能態の実現されたありさまを指す。 可能態をあらわす「デュナミス」は、もともと「能力、力」を意味するものであり、「潜勢態」「能力態」などとも訳される。 >>128
小林秀雄がフッサールにハマってなかったっけ。幻覚かも知れないけど… 小林は、フッサールに凝っていた時期はあるでしょう。
わたしは、「存在と無」は、はるかむかし十代のころに少し読んだと思う。
そのころすでに、サルトルの思想は、ダサいことになっていたので、
ちゃんと読む気にならなかったのだ。
当時かっこいいとされていたのは、ドゥルーズ、デリダだったわけです。
以来、サルトルの哲学関係の本は、ちゃんと読んだことがない。 >>139
俺も「まる」飲んで現象学を実践的に学んでた。
マルめちゃうまいような気がしてきたけど
おやつと一緒に飲むからもっと甘味少ないやつも試してみたいな >>142
普通に売ってるかな みっけたら俺も買う >>150
関東連合の人?オシャレだね。
個人的にはカーテンはもっと明るい色の方が好きだけど >>155
サルトルダサい風潮あるのか。
たしかにビーフに負けたはずのカミュの方がイケてるイメージある >>148
英語繊細だなムズい。
「load up guns」と「load up on guns」
onのニュアンスが難しい!
ミリオタっぽいやつらを一行目からディスってく
カートはホントいいやつだな サルトル「存在と無」
カントのいう非時間的な自由が、ここで我々が考察している自己時間化する自由の代わ
りを務めることは絶対に不可能である。というのも、カント的な自由は現象的世界の外に留
まっているのであり、アプリオリな判断の純粋に総合的な作業は自分自身にとって見通せな
いものであり、みずからの根拠を自己自身の外に有しているからである サルトルは、カントの言う「自由」は、たんなる理念だ、として批判している。
柄谷がいうのとは逆でしょう。
柄谷行人は、まじめな研究者があっけにとられるようなことを平気で書くのです。
そういうものだと思って読んだほうがいい。 柄谷の書くことの多くは、よく言えば創作的、
悪く言えばデタラメということだ。 ↓のようなのが、まじめに研究しているような人の正直な感想でしょう。
田村真理
1.0 out of 5 stars 思想書でも研究書でもなく柄谷の随筆
Reviewed in Japan on February 1, 2021
ヘーゲルではなくカントであり、またマルクスに先行したプルードンの意義を言いたいのなら、副題は「カントとマルクス」ではなく、「カントとプルードン」にすべき。プルードンではなくマルクスにしたところが柄谷の日和見的心性を表しているとも。内容は、厳密にいえば、カントともマルクス、プルードンとも関係なく、柄谷の主張を、彼らの名と引用によって根拠があるように装っているにすぎない。いろんな思想家が出てくるが、それぞれの研究者から見れば驚きの連続となるほど適当な内容。これは分厚いが、思想書でも研究書でもなく柄谷の随筆。 サルトルがダサかったのは、ポモ時代で、
その後はそれなりに人気が回復したのではないか。 >>155
俺がさっき貼ったやつで柄谷行人は「このような話が古臭く見えるなら、私はここで「現代思想」とやらについて話しましょう」って書いてるね >>166
でも、本当はデリダもドゥルーズもサルトルに憧れていたのだって聞いたな。 >>161
冒頭が「銃をたくさん持って来い」だとは思わなかった(>_<)弾を込めるのかと思ってた Pツイッターで俺の動画宣伝してくれたんだね。
情に厚いな(涙 「存在と無」2章読んだー
サルトルは「性質」と「存在」を分けて考えてんだね多分。
リンゴで例えるなら赤が性質でリンゴが存在だな多分 ヴァルター・イェシュケ「ヘーゲルの自由概念」
牧野訳
自由は規範性の唯一の源泉である。道徳
的善や道徳法則についての知について言えば,
その起源と妥当根拠を,(プラトン的に)自体
的に存在するイデアの世界であれ,(宗教的に)
神の決定であれ,自由とは別のところにもつよ
うな知は存在しない。自由はむしろそれ自身が
原理であり,道徳的な善についてのそのような
議論を根拠づける審級である。そして,自由は
そのような原理として,自己立法であり,自律
である。─これらの概念は,確かにカントに特
有の含意のために,ヘーゲルにおいて術語的に
はカントに立ちもどるが,しかしその概念はヘ
ーゲルによってけっして撤回されるのではなく,
より普遍化され,同時により具体に規定される
のである。すなわち,自由はもはや道徳的な自
己立法ではなく,自由は普遍的な自己規定であ
り,そしてそのような普遍的な自己規定として,
まさに法と道徳の領域における実践的な立法な
のである。 ジャック・ラカン「カントとサド」
ラカン試訳から
<他者>の中でこだまに吊り下げされることで不安定になるこの享楽を調べよう。享楽は、享楽を耐えられないものと結びつけ、順々に享楽を撤廃することでこだまを呼び起こす。最後には、享楽がただそれ自身だけで、別の恐ろしい自由にまで高まるように見えないだろうか。
それに、カントによれば道徳経験に欠けている第三項が明らかになるだろう。それはつまり対象であるが、<法>を実現することにおいて意志に対してその対象を保証するために、カントは対象を物自体の思考不可能性へと送り返さざるを得なくなっている。サド的経験ではこの対象が、その接近不可能性から降ろされ、拷問執行者の現存在(Dasein)としてあらわになっているのではないだろうか。
先験的なものの不透明性が残らないわけではない。というのも、その対象は奇妙に主体から切り離されるからである。その格率の伝令官がここで放射点である必要しかないことを観察しよう。その放射点はラジオの声かもしれないが、フランス人がサドの訴えに同意したであろう努力の追加に促進された権利を呼び戻す点である。そしてその格率は再生された共和国の組織的な<法>となるのである。
このような声の現象、とりわけ精神病の声の現象は、まさにその対象の側面である。そして精神分析はその黎明期には、良心の声をその声の現象に関係づけることから遠く離れてはいなかった。
カントがどうしてこの対象を先験的感性論のあらゆる決定から逃れるものとみなすかがわかる。その対象が現象に関するヴェールの何らかのこぶに現れないことはないにしても、それは宿無しであったり、直観における時間であったり、非現実に位置づけられるモードがなかったり、現実における効果がなかったりするわけではない。それはここでただカントの現象学が欠けているのではなく、狂っている声までもが主体の観念を押しつけるのであり、法の対象が現実の<神>の悪意をほのめかしてはならないのである。 ↑ラカン調は面白い。
「悪徳の栄え」の主人公はよく警察に捕まらなかったよね >>172
文芸誌情報、何のアカウントなんだよって感じだな😂 >>173
ホプキンスあれ読めるのがすげーわ!地頭がいいと思う。なんか誰かが「サルトルが出してくる例が面白い」って言ってたんだけど、そういうのあった? >>163
だから「人間は自由という刑に処されている」という話になるわけでしょう。それはカントに対して批判的な文脈で語られたが、柄谷行人はそこにカント的な理念を見る、という話でしょうね。 >>164
ていうか、柄谷行人は自分が書きたい事に沿った文脈でしか引用しないんだよ😂 >>16
その人の言ってる事はわかんないな。そもそもトランスクリティークは読んでないから。でも、柄谷の文章が「哲学研究」じゃなくて「文学」だという事なら同意する。 サルトル
「カントのいう非時間的な自由が、ここで我々が考察している自己時間化する自由の代わ
りを務めることは絶対に不可能である」
ラカン
「<法>を実現することにおいて意志に対してその対象を保証するために、
カントは対象を物自体の思考不可能性へと送り返さざるを得なくなっている。
サド的経験ではこの対象が、その接近不可能性から降ろされ、
拷問執行者の現存在(Dasein)としてあらわになっているのではないだろうか。」
サルトルのいう「自己時間化」というのは
ラカンの言う「現存在」と同じ意味ですよ。
現存在の存在が(本来の)時間性、だということは、
「存在と時間」についての解説書のどれを読んでも
例外なく書いてあるのでわかるでしょう。 >>184
まず「存在と時間」を読んだことがないんだよな。読むべき? 柄谷のカント論が創作的であってもそれはそれでかまわない。
ただ、ヘーゲルのカント哲学の批判および継承、
ハイデガーの「カントと形而上学の問題」
こういうものの成果をいかにも卑小化している。
これは「カントとマルクス」を必読の書だと褒めたジジェクですら指摘していることだ。
また、ドゥルーズの「カントの批判哲学」も無視。
それどころか、有名思想家のカント論は、
ほぼすべて無視にちかい。
これではさすがにやりすぎなんです。 柄谷は、同じ超越論でも、
フッサールの超越論哲学はダメ、
ともしている。 >>188
「自分が読みたいようにしか読まない」って公言しててもダメ? 柄谷の場合は、「読みたいように読んでいる」というよりは、
党派的な思惑にもとづいて読んでいる、というようなものではないか。
それを読者がわかっているならば、べつにいいんではないですか。
わたしは、柄谷の書くことがてきとうだということは、おおむかしからわかっていて、
そのうえで柄谷ファンだったのだから、それでかまわないのです。 >>191
党派的なのはその通りだけど面白いじゃん。大江健三郎を徹底的に貶して中上健次を絶賛するとかエンターテイメントでしょ。 Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 12122020
https://open.spotify.com/album/1b77q3rQBtZtrq6QZ3yrBC
これ聴きながら寝るか ↑ピアノ音一本で勝負とはやるな!
これ本人が弾いてるのかなすげー >>187
と言いながらまたマル買っちゃったけど
辛口でいいのあったら教えて! >>194
坂本龍一は親に無理やりピアノを習わされて当時は嫌で仕方なかったけど、大人になってみたらそれがよかったって言ってたな。俺もやっておけばよかった… >>195
俺もそんな詳しくない(>_<) 高知県の酒は美味いって聞いた 日本酒度がプラスのやつで純米吟醸のやつを選べばいいのかな
辛口の日本酒おすすめ銘柄18選。爽やかな香りとキレのある味わいが人気
https://sakidori.co/article/364333
これもどこまで宣伝なのかわかんないよな >>199
日本酒度という概念があるのか。
糖分の多さを数値化したものなのに高いほど辛いってややこしい!
そこで紹介されてるのは高そうなやつばっかだから買えないな。
スーパーとかに売ってる3Lで1000円くらいのヤツ自分で探してくか >>197
嫌々やりながら習ったモンが実るとは
何が起こるか分からないもんだね >>181
カントは「キツくても頑張って自由意志を持った人間になりなさい」
って言いたかったのか >>180
読めてるってほどは読めてない 4ページくらいの章読んだ感想が
>>173だけだから
例はまだ出てきてない気がするけど
サルトルの話し方は小泉進次郎っぽいなって思った。
例えば2章の題名『存在現象と現象の存在』とか >>179
PのフォロワーでSMOKEEの獄中記読んだ人いるかな。
てかいま捕まってるんだ >>201
北秋田は720mlが1000円くらいでコンビニで売ってた気がする >>202
そこで叩き込まれる基礎みたいのが役に立ったとか言ってたような朧げな記憶が 小林秀雄と青山二郎の対談読んだー
口喧嘩最強の小林さんを「小林」と呼び捨てにする男青山とはいったい何者なのか。
4歳の子供が個展開いたみたいな話に対して小林は煙たそうにしてたな。
言っていいのか分かんないけど
時間的に経験が足りない人間が作ったアートってちょっと青すぎると思うんだよな。
そういう意味でランボーの「永遠」もどうなんだろうなと思うんだよな >>203
わかんないけど確か「それが義務だ」みたいなことを言ったんだよね Nirvana - Smells Like Teen Spirit (Official Music Video)
https://youtu.be/hTWKbfoikeg
この字幕ひどいね ズレまくってる Nevermind (Remastered) - Album by ニルヴァーナ
https://open.spotify.com/album/2UJcKiJxNryhL050F5Z1Fk
英語ネイティブのオッサンの蘊蓄動画に触発されて改めて聴いてるけどすげーな MTV Unplugged In New York - Album by ニルヴァーナ
https://open.spotify.com/album/1To7kv722A8SpZF789MZy7
若干やかましいが心地よいのでこれ聴きながら寝る 訂正
162、184の引用文は、「存在と無」からではなく、
「真理と実存」からでした。 >>162
「非時間的」が分かんない!どうゆうこと? 現象はすべて時間に於いてあるでしょう。
非時間的ということは、感性的なものから離れて現象世界の外にある、
ということで、いうなれば超越的な理念ということになる。 ヘーゲルだともう少し込み入っている。
超感性界は、感性界(の外にあるわけでなく)一致していながら、
感性界の否定(感性界をを規定するもの)としてある、という風になっていたと思う。
なお、カントについても、↑のヘーゲルの言うことと違わないことをすでに説いていた、
という理解もあった。 ひじょうに、雑ないい方になってしまうが、
プラトンにおいては分離していた「形相」と「質料」を合一させるために
アリストテレスの導入したのが、
「可能態(デュナミス)」と「現実態(エネルゲイア)」
という時間と運動を基礎とした概念
とりあえず、(サルトルが理解したような)カントがプラトン、
アリストテレスがヘーゲル、という風に考えれば、
それほど的外れではないと思う。
可能態→現実態、というは時間で、感性界のことなのだが、
質量と形相というレベルで見れば、それは非時間的で超感性界のこと、
といえると思う。 >>219
ちょっとだけ分かったような気がする・・・! >>212
「hello hello hello how low」が「hello hello hello hello」
になってるの台無しだなー 英語のオッサンの解説を見た人なら
「how low」の部分がコクを生み出してるのが分かるのに ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています