日本史上最高の歌人って誰?
大伴家持なんてどうでしょうか
鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける なんとなく西行
さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵並べん冬の山里 在原業平
千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは
これは颯爽とした男前にしか詠めんようなw ふと思いついて橘曙覧
吾が歌をよろこび涙こぼすらむ鬼のなく声する夜の窓 たまには額田王
金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮子能借五百磯所念 〆に田安宗武
真帆ひきてよせくる舟に月照れり楽しくぞあらむその舟人は 萩原慎一郎
ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる >>76
萩原慎一郎はおもしろいね
毎日の雑務の果てに思うのは「もっと勉強すればよかった」 >>77
上手いとはとても言えないレベルだと思うよ? お世辞でも言えない。こんなのを持ち上げてるんだから話にならない。どうかしているとしか思えない。 どうも無教養無見識がばれてしまったようで恥ずかしいな藁
ということで恥かきついでにもう一首
読書とは対話することだと書きし『方法序説』デカルトを読む ある意味踊りが得意なのまあ和歌のイメージからかけ離れたダンスミュージックが真実。 そういう意味でダンサーとして評価が高いのが上に来る。 それをわかって詠じているかというのは大事なポイントじゃないか。 死廃神(以下略、ゴメン)さんて
名前だけじゃなく
言葉も凄いな
これは素直にそう思うのであります
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる 奥の細道の松尾芭蕉一行なんかは、かなりなダンサーだったろ。歩きながら、ノートを広げて一句を詠みながら書き込んでいた。
出だしが舟乗りなのも揺れる点でダンスっぽい。 しはらく紀貫之
一年に一夜と思へど織女は二人ともなき妻にざりける 突然思いついて飯尾彦六左衛門尉常房
汝ヤ知ル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ツルナミダハ >>76
>>77
俺でも書けそうと思って一句
夢だけを見せてくれたねマスコミが
よってたかって独身いじめ ゆきて見ぬ人もしのべと春の野のかたみにつめる若菜なりけり
紀貫之 >>76
短歌といえるかどうかはわからんが面白いし、才能あるね。
wikiで調べると、早逝したんだね。合掌。 >>91
誰でも書ける俺でも書ける非正規舐めんな正社員 世とともに流れてぞゆく涙河冬もこほらぬみなわなりけり 都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ 波とのみ一つに聞けど色みれば雪と花とにまがひけるかな 見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや 海山のみちに心をつくし果てないしの鉢のなみだ流れき
石作皇子 呉竹のよよの竹取野山にもさやはわびしき節をのみ見し
讃岐造 寺山か塚本のどっちか。今生きている人間の感覚では古典だと隔世すぎるしな 今はとて天の羽衣着るをりぞ君をあはれと思ひ出でける
かぐや姫 さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと
啄木 道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそたちどまりつれ
西行 海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり
牧水 うらうらに照れる春日にひばり上がり
心悲しもひとりし思へば
大伴家持 「紅旗征戎我ガ事ニ非ズ」
幽玄耽美妖艶の心酔者、藤原定家の後世への影響は素晴らしい。 梅の花
にほひをうつす袖の上に
軒もる月の
影ぞあらそふ
藤原定家
何と言う妖艶優美なイマジネーション。平安時代の歌人の感性の豊かさよ。 和漢朗詠集
風雅調の内には、. 花芬馥の気を含み、流泉の曲の間には、月清明の光浮かぶ
平家物語
風雅調の内には、. 花芬馥の気を含み、流泉の曲の間には、月清明の光をあらそふ
藤原定家の歌は、本歌は在原業平の歌だが、↑の和漢朗詠集の漢詩にも着想を得ているといわれるので、
本歌取りだというだけではなく、漢詩取りでもあるということになるだろう。
わたしとしては、定家が「争ふ」としたのは、筝(そう、こと)この文字からの連想だろうと思う。
そして、平家物語で「浮かぶ」が「あらそふ」になったのは、定家の歌の影響であろう。 「猿を聞く人捨て子に秋の風いかに」
芭蕉
「〜汝の性(さが)の拙さを嘆け」 たけじゅん短歌
― 武富純一の短歌、書評、評論、エッセイ.etc ―
わからない歌たちへ ― 前衛短歌、四世代の変容 ―
2015-09-22
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
穂村弘『シンジケート』
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも
塚本邦雄『日本人霊歌』
夜明け前 誰も守らぬ信号が海の手前で瞬いている
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』
海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も
塚本邦雄『水葬物語』
いつかみたうなぎ屋の甕のたれなどを、永遠的なものの例として
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』
ダマスクス生れの火夫がひと夜ねてかへる港の百合科植物
塚本邦雄『水葬物語』
殺虫剤ばんばん浴びて死んだから魂の引取り手がないの
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』
少女死するまで炎天の繩跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ
塚本邦雄『日本人靈歌』 塚本邦雄、岡井隆、寺山修司から始まり現代短歌に多大な影響を与えた前衛短歌運動であ
るが、とりわけ、多感な青年期にリアルタイムで前衛に出会った、今の七十歳前後の世代
(塚本からすれば「子世代」つまり第二世代にあたる)の衝撃は相当に凄かったことだろ
う。
もろびとに青春一過さらさらにうねれる水の上の稲妻
伊藤一彦『火の橘』
君去りしけざむい朝 挽く豆のキリマンジャロに死すべくもなく
福島泰樹『転調哀傷歌』
湖にふりくらみつつたゆたえるひとりのこころ一漕の舟
三枝昂之『水の覇権』
母狩の山に雪降り母狩を見つつ老いゆく村の嫗は
小高賢『耳の伝説』
真昼間に感電死する工夫あれ かの汗の塩をも吾は愛さむ
大島史洋『藍を走るべし』 塚本の孫世代でその影響を色濃く受けた歌人は、先の穂村の他、加藤治郎、坂井修一、東
直子等が挙げられる。
砕けてもぼくの体がわかるなら母よまっ青な絵具のチューブ
加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった
〃 『ハレアカラ』
工学も思へばなべて一行のボードレールにしかず、さりとて……
坂井修一『ラビュリントス』
WWWのかなたぐんぐん朝はきて無量大数の脳が脳呼ぶ
〃 『スピリチュアル』
そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています
東直子『春原さんのリコーダー』
特急券を落としたのです(お荷物は?)ブリキで焼いたカステイラです
〃 『春原さんのリコーダー』 さて、戦後七十年ともなれば第三世代でさえももはや壮年期である。そうなると当然、第
四世代、つまり「塚本の曾孫世代」がすでに活躍し始めている。
「水菜買いにきた」/三時間高速を飛ばしてこのへやに/みずな/かいに。
今橋愛『O脚の膝』
痣売りや石並べ屋が繁盛する火星がなつかしいね くわがた
雪舟えま『たんぽるぽる』
婦人用トイレ表示がきらいきらいあたしはケンカつよいつよい
飯田有子『林檎貫通式』
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔
〃
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな
永井祐『日本のなかで楽しく暮らす』 奥の細道の旅において、松尾芭蕉と弟子である曾良は、旅の情景を俳句に詠み、記録する行為を常に行っていました。歩きながらノートを広げ、一句を詠み、書き込むという行為は、並大抵のことではありません。旅の不安定さや揺れ動きを表現する上で、冒頭が舟旅の情景を詠んだ句であることも効果的な役割を果たしています。このように、松尾芭蕉と曾良の旅における行動は、俳諧師としての資質の高さを示すものであり、特に旅の情景を俳句に詠み、記録する行為は、彼らの芸術性の高さを象徴するものと言えるでしょう。 石作皇子:愚か者か、挑戦者か?
竹取物語に登場する石作皇子は、天竺の仏の御石の鉢を偽物で偽ろうとした愚か者なのか、それとも不可能な課題に挑戦した勇敢な人物なのか。私は後者であると考える。
石作皇子が直面した課題は、当時の技術や知識では到底成し遂げられるものではなかった。天竺へ渡航すること自体が難しく、ましてや仏の御石の鉢を見つけるのは至難の業だったろう。
石作皇子は3年間もの間、天竺を目指して旅をしたという。これは並大抵の決意ではできないことだ。また、彼は偽物ではなく、本物の仏の御石の鉢を見つけようと努力した。
石作皇子は、無謀な挑戦者ではなく、不可能に挑戦した勇敢な人物であった。彼の行動は、たとえ失敗に終わっても、称賛に値するものである。
石作皇子の行動から何を学ぶべきか
石作皇子の行動から、私たちは以下のようなことを学ぶことができる。
困難な課題にも果敢に挑戦すること
諦めずに努力すること
不可能と思われることにも挑戦すること
石作皇子は、私たちに勇気と希望を与えてくれる人物である。
以上が、石作皇子についての私の考えです。