タイトル 「分際」

 分別という言葉がある。分けて別ける、なんとなれば、自分と他人の別のことであろうか。
 そこをはっきりと区切って、他人には鐚一文やらないという意味なのであろうか。だとする
と、寂しい話である。
 分際という言葉もある。
「分際を知れ!」
 と怒鳴ったりする。近頃の人はこんなことを言うのかは知らない。
 自分は、他人に助けられている。他人なくしては自分はない。
 だから謙虚に生きましょう。そういうことだ。
 だがこの教え、なぜだか自分の心の一番深い所、一番奥に深く根ざしている。
 心の芯に、こびりついて離れないといった感じである。
 ぶんざい、ぶんざい、分際よりも大事なものはないと、そう教えられて育った気がする。

 だが、一体誰に教えられたのであろうか。親に教えられた記憶はない。
 何かの本に書いてあった気がするが、思い出せない。

 そうして最近、ある恐ろしい事実にふと思い当たったのである。そこに思い当たった時、心
の芯からぞっと寒くなる気持がした。
 この言葉を知ったのは、おそらくテレビか何かであったろう。もう記憶はない。それがこう
まで金科玉条として自分に根付いたのは、なぜであろうか。それを考えていくと、結局この言
葉の意味するところが、自分には「怖かった」せいではないか、恐怖が私に、その言葉を特別
なものとして認識させたせいではないか、そう思ったのだ。

 たとえばエイズという病気がある。この病気にかかった人は、もう一生セックスはできない。
 同じ病気にかかった人同士であっても、細かいウイルスの種類の違いがあって、更に酷く感
染してしまうリスクがあるため同様である。
 感染者にとっての分際は
「色事をつつしみ、健康的な生活を送り、薬を毎日飲み、病気のことは忘れて暮らす」
 こととなる。そうして、セックスするという自由が、奪われることになる。泣いても喚いて
も、取り返しは付かない。放縦な性生活のツケと言ったらそれまでだが、ただ生きていただけ
で、とんだ悲運だ。
 このようなことは他にもある。いじめのターゲットにされること、大学受験の失敗、社会人
であれば、ヒエラルキーからの逸脱による、その共同体からの蔑視と冷遇、病気へ罹患するこ
とや、事故による怪我での不自由、身内のしくじりや犯罪による不名誉と敬遠されることなど
の実害、いくらでもある。
 はじめから分際がゼロの人はどうだろう。何も持っていない人は。
 その自分の分際を守って生きていかねばならないとしたら、不運という言葉ではとても足り
ない。
 マイナスの人は、そのマイナスを人の幾層倍の努力によってプラスにすること、そのためだ
けに生涯の全ての時間を費やすことになるかもしれない。初めから自分の分際が「大きい」人
は、苦もなくプラスの境遇を手に入れることができるのにもかかわらずである。
 分際というのは、冷たい言葉だ。この世の中に、平等などない。あるのは形だけの平等であ
る。弱者は虐げられ、強者は世に憚る。増長する。それが世の中だ。あるいはそれが、真の平
等なのかもしれない。
 自分はもう、
「分際を知れ」
 などとは他人に言えなくなってしまった。
 この世の中は冷たい。