【何もかもが】司馬遼太郎アンチスレ【嫌い】
司馬遼太郎の一方的な決め付けが嫌い。 そのクセ裸眼の思索者とか馬鹿? 司馬遼太郎『長安から北京へ ・ 大正期から日本の参謀本部は、中国に対する侵略ということを軍事思想の基礎に置いていたことはまぎれもない。 中国の領土の地面をおさえ、その資源を得て対ソ防衛をするという以外に防衛思想がなく、 しかも事故催眠をかけてそれが東洋平和のためだと思い、宣伝もした。 中国では礼教の外の民族(夷狄)を獣に類するものとしてきたが、 これは人種差別ではなく、「文化差別」というべきもの。 儒教は近代国家の原理と決してかみ合うことがない。 儒教の本質が同血の秩序を論理化したものである以上、「私」が絶対に優先する原理だから。 加害と被害の貸借対照表を作るとすれば、従来はモンゴル人のほうが常に加害者だとされがちだったが、 これは漢民族本位の見方で、実際には、漢民族の農民が上代以来、農地を求めてモンゴル地帯に進出し、 あるいは浸透し、それを漢民族の王朝が保護し、結局はモンゴル人の遊牧地を三色したという側面が強い。 清朝時代には、王朝の方針としてモンゴル人の力が弱められ、「外館(ワイコワン)」と称する、 魔物のような商業機構が北京に出現し、 モンゴル人相手の商売に、この世のものとは思えないほどのあくどさで儲け、 モンゴル人はこの外館に血を奪われて疲弊し、 日本の大正末期ころには救い難いほどに貧窮化させられることとなった。 中国が昔から互いにひとつの民族であるという認識を持てたのは、 「漢字」が「表意文字」であったことが大きい。 もし「表音文字」であったのなら、互いが同じ民族であるとは中々意識しづらかったにちがいない 日露戦争における海軍は、大規模な海軍たらざるをえなかった。ウラジオストックに停泊し、また欧露から回航されて来る大艦隊と戦うには、 やむなく大海軍であることを必要とした。応急の必要に迫られ、日本は開戦前7〜8年の間に世界有数の大海軍を建設した。 本来、大海軍というものは世界各地に植民地を持つような国において必要なものであり、無敵艦隊のスペインはそうした例の代表的なものである。 日露戦争後においても日本は世界中に植民地など有していない。大海軍は必要なかったのだ。 しかし、一度生まれた組織は、参謀本部という奇胎を背後に増殖を続けた。 日本における帝国主義は本当に存在したのか。たしかに日本は韓国併合を行ったが、 イギリスにおける帝国主義は、過剰な商品やカネのはけ口であるが、日本ではそんな過剰な商品など存在しなかった。日露戦争の勝利が日本国と日本人の調子をくるわせてしまった。 小村寿太郎は、ぎりぎりのところでポーツマスにおける講和を結んだ。日本にはもう戦争を続けるだけの力は残っていなかった。 しかし、国内では講和拒否、戦争継続を唱える新聞と大群衆を生んでいた。この狂気こそがその40年後の破滅への出発点であった。 満州へは当時無関税で商品を輸出していた。これにより現地の資本は総倒れとなったが、その商品たるや、人絹、砂糖、雑貨のようなものであった。 このちゃちな帝国主義のために国家が滅ぶこととなる。一人のヒトラーも出ずに大勢でばかな40年を持った国は他にはない。 日本においては君主は君臨すれども統治せず、の姿勢を持ち続けた。江戸期に実権を持っていたのは藩主ではなく老中であった。 維新後、尊王攘夷思想は、尊王だけが残り、イデオロギー化した。マルキシズムを含め、イデオロギーが善玉・悪玉をよりわけたり論断するようになると、 幼児のようにあどけなく、残忍になる。 明治憲法は明らかに三権分立の憲法であった。統帥権などという用語は存在していない。日本の歴史は一級の歴史であるが、 この昭和10年から20年だけは異質な時代である 現在と日本史上の中世、近世には十分つながりがある。しかし、近代の昭和一ケタから20年の敗戦までは、日本史の中で非連続の時代である。 昭和前期の日本は、統一的な意思決定能力をもっていたとは思われない。 当時の参謀本部作戦課長に話を聞いたことがあったが、小石ほども実のあることを言わなかった 大概大概(テゲテゲ)という言葉が薩摩にある。上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごまとした指図はしない、といった意味である。 戊辰戦争の西郷隆盛、日露戦争の大山巌、東郷平八郎といった薩摩人はみなテゲを守った。これは薩摩の風土性というより、日本全体がそのような風である。 上の三名は、マスタープランを明示した後は、部署部署を責任者に任せてしまい、自身は精神的な象徴性を保つのに終始する。これに対し、山県有朋(長州)はこまごましたことを部下に指示した。 テゲであるには、人格に光がなければならない。そうでない人物が首領になると日本人は参ってしまう。 日本陸軍では、くだらない人物も大山型を気取り、スタッフに過ぎない参謀に大きな権限を持たせた。これら参謀は専断と横暴のふるまいをした。 人間はよほどでない限り、自分の生国、母校などに自己愛のようなものをもっているが、この土俗的な感情は軽度の場合ユーモアになるが、 重度の場合は血生臭く、見苦しい。単なるナショナリズムは愛国という高度の倫理とは別次元のものである。 ナショナリズムは、本来、眠らせておくべき性質のものである。わざわざこれに火をつけるのは、 よほど高度の政治意図から出る操作であり、歴史はこれに揺さぶられると、一国一民族は壊滅してしまうという多くの例を遺している。 ついでながら「尊王攘夷」も輸入思想である。宋(960-1279)では、征服王朝による侵略を受け続け、結局滅んでしまったが、その政権下で夷を打ち払い、 漢民族の正当の王を尊ぶべしという思想を生んだ。これは危機時におけるものであり、普遍性を持つものではない。 本来の仏教はじつにすっきりしており、人が死ねば空に帰するという考え方で、釈迦も墓を持たない。他の宗教のような教義もなく、救済の思想もない。 解脱こそが理想であり、煩悩の束縛から放たれ、自主的自由を得ることが理想である。 一方、日本の宗教改革ともいえる鎌倉時代には、浄土真宗と禅宗が現れた。禅宗は、仏教本来の解脱的性格を備えている。一方、浄土真宗は、仏教よりもキリスト教に近く、救済の性格を持つ。 救済の性格は、本来の仏教にはなく、大乗仏教にはじめて現れるものである。 親鸞は大乗経典のなかでも『阿弥陀経』のみを自分の根本経典とした。阿弥陀仏をGODに近い唯一的存在ととらえた。親鸞の思想にはいっさい呪術性がなく、 これを排除した点はプロテスタンティズムに似ている。念仏はひとのためのものではなく自分のためのものであり、鎌倉時代の個の成立と関係がある ・ 日本において、「将軍」という為政者は鎌倉、室町、江戸を通じ、大名対策を行う存在ではあったが、 人民をなんとか幸福にさせたいという思想は本来、絶無に近かった。 しかし中国においては紀元前から、曲りなりにも政治とは人民のためのものであり、 人民を離れて政治思想はないという伝統が継続してきたが、日本の歴代の権力には、そういうものが殆どなかった。 ・ 中国の歴史には「王朝」と「民族」は存在したが、「国民」は新中国以前においては成立していない。 本質が違うが、国民国家の成立という点のみについていえば、新中国の誕生と日本の明治国家の誕生は酷似している。 中国においては、自国と他国とが対等であるというこの平凡な事実を知るのは、幕末から。 それまでは、世界は礼教をもつ自分たちの「天下」と、未だ礼教に服していない野蛮人たちの住む国という 二種類の認識しかもたず、この認識を強烈に支えるものが儒教だった。 中間の存在に「朝貢国」がある。 中国では、漢民族は多種類の民族の血が入り混じって民族の成立をみたためもあって、 相手が何民族であるかよりも、相手が「華夏の文化」に浴しているかいないかで自他を区別した。 もし「夷狄」の生まれであっても漢民族の衣服を着、その礼の習慣をもち、 漢民族の言語を使うという文化性さえ持てば、華夏の民であるとした。 以上の文化性のうち、時刻の言語を使う場合は、夷狄であるが、その場合は「外蕃」となった 新選組をはじめたばかりで、鴻池の番頭になるのはつまらないと思ったのでしょう。近藤は言いました。 「自分にはとてもできないが、私の国元に佐藤彦五郎という人物がいる。尊敬すべき人で、庄屋なので経済にも明るい。彼を呼びましょう」 さっそく急飛脚を出した。当時もう「支配人」という言葉がありました。 「鴻池の支配人にならないか」 という手紙が佐藤家に残っています。私は佐藤家を訪ね、その手紙を見せていただきました。もっとも、佐藤彦五郎は断りました。幕府の制度で、庄屋はよその土地に移れないのです。近藤はまだ無知で、それをよく知らなかったようですね。 こうして人を得ずに、鴻池は明治維新を迎えます。大名貸しは大打撃を受けました。天王寺屋など、次々と金融家が倒産した。 鴻池もヨタヨタしていたのですが、そのとき早くも「住友」が出現しています。住友の先見性は士族を番頭以下に入れたことでした。 鴻池は立ち遅れた。立て直しに苦慮したあげく、住友を見習おうと、つまり再び士族を入れようということになった。 落語で「士族の商法」という話があります。士族の急ごしらえではうまくいかないという話です。 ところが住友、鴻池は「士族の商法」でなければと考えた。 鴻池は五代友厚に相談します。 五代さんは薩摩の志士あがりです。 明治になって疲弊していた大坂の経済を再興するために活躍し、この商工会議所の初代会頭になった人です。 いわゆる商家の出ではありません。 「いかがでしょうか。士族を一人回していただけないでしょうか」 鴻池は頼みました。 このころの士族とは、読書階級、知識人という意味でもありました。五代さんは考えて、 「土居通夫がいいだろう」 土居さんも商工会議所の七代目の会頭となった人です 明治維新は徹底的な革命だった。諸藩に莫大な金を貸して富裕を誇った金融業は、鴻池を残して一夜でまるはだかになり、全国300万の士族とその家族は失業し、農民は米でなく現金で年貢を払わなくてはならなくなった。 江戸時代は幕府も藩も原則として自作農主義であり小作農は少なく、自作農は自給自足を原則としており、現金など持っていなかった。このため現金の入る家業の造り酒屋にたのみこみ、 自分の田の所有権を渡し、税金を肩代わりしてもらう約束で小作農になった。革命は、フランス革命やロシア革命と異なり、誰も得をせず、社会全体が手傷を負う形で成立した。 島津久光は、この革命の発端となった薩摩藩を率いていたにもかかわらず、こんなドラスティックな形での変革は望まなかった。彼は、新政府(太政官)を憎み、 西郷を安禄山であると悪罵した。西郷もこれは堪えたようで、新政府を辞して鹿児島に戻っている。久光は大久保も恨んだ。まさか版籍奉還をするとは考えていなかった。 大久保は冷厳な人物であった。儒教的な思弁を好まず、軽兆さがなく、現実主義だった。 忠臣蔵はお侍の話である。浅野家の若い殿様が、高家(儀典課長)の吉良にいじめられる。この浅野家の経済力の裏には赤穂の塩があった。 これが全国に流通していた。また、日本列島の沿岸を回船が運航し、商品流通を行っていた。 また江戸の識字率は世界一だったのではないか。文字を習わせるのは、聖賢の書を読むためではなく、農村や町方のこどもが 奉公した時に帳付けをできるようにするという、きわめて経済的な動機によるものである。江戸や大坂では劇場が栄えたが、これは貴族の保護によるものでなく、大衆の木戸銭によるものである。 商品経済の盛んな世になると、モノの売買、カネの貸借すべて個人が矢面に立つようになる。モノの価値を権力でなく相場が決めるようになり、江戸時代はそうした意味ですでに近代であった。 ヨーロッパにおける近代精神は、宗教的権威の否定、科学的合理主義と人格の自律性、人間主義の3つが柱であるが、 これらはすでにそれぞれ富永仲基、山片播桃、井原西鶴により江戸時代に育成されていた。明治維新成立の時、この日本が育てた近代に欧米の近代を接木していれば面白いことになったのではないか。 朱子学は理屈っぽい、議論の学問です。私は朱子学を呪わしく思うときがあるぐらいなのですが、この影響を深刻に受けたのは中国より朝鮮でした。中国は広いですからいろいろな考え方が雑居できますが、朝鮮は狭いですからそうはいきません。 朱子学一元主義といいましょうか。李氏朝鮮は500年続くのですが、朱子学が国の隅々まで締め付け、人々は非常に理屈っぽくなった感じがするぐらいです。 秋山玉山はよくわかっていました。熊本というところは、一人一党の土地柄で、論を立て始めたらだれも譲らない。ただでさえ理屈っぽい、この肥後の風土の中で朱子学を学ばせたら、理屈っぽい人間ばかりになって、もうどうしょうもないと考えた。 ですから古文辞学を入れましょうと、これは荻生徂徠の学問であります。物を平たく見る学問でした。ちょっとオーバーな言い方をしますと、今日の人文科学に近い学問ですね。 この国のかたち:日本は、すべての人が思想化される歴史を持たず、幸運だった A 「日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている。」 A-2 日本には、普遍的な思想が、生まれなかった。 B 7世紀に、一挙に統一国家が成立したのは、キツネにつままれたように不思議。 B-2 大小の古墳を作った諸氏族や族長たちが、中国の統一(隋唐)に、恐怖した。 C 1869年の版籍奉還で、一夜にして統一国家となる。これも奇現象。 C-2 情報による想像の対外恐怖心(外圧)で、律令国家も、明治政府も、あっという間にできた。 D 律令制は、王土王民制だが、族長や氏族の長たちは、魔法のように、私有する土地を手放した。日本史がもつ不思議な「はかなさ」である。 E 日本は、隋唐の儒教を、面として、つまり民衆に溶け込んだものとしては、受け入れなかった。儒教は、中国では、血族的宗教意識である。 E-2 仏教も、日本では、鎮護国家の仏教であって、民衆を思想化しなかった。 E-3 インドのヒンズー教は、民衆の骨の髄までしみ込んでいる。 E-4 鎌倉仏教は、若干、民衆の思想化の方向を示したが、一時である。 G 「思想とは、本来、血肉になって社会化さるべきもの」だが、日本では、それは「好まれない」。 G-2 そのくせ「思想書を読む」のは大好きである。 G-3 「こういう奇妙な――得手勝手な――民族」!ほかにも、地球上にそういう民族がいるなら、「ぜひ訪ねて行って、その在りようを知りたい。」 E 尊王攘夷思想は、宋で生まれた。 E-2 あわれな統一王朝宋で、金との対抗のため、「夷を打ち払い、漢民族の正統の王は尊ぶべし」との思想が生まれた。 E-3 この宋学が、新思想として、13世紀の日本に来た。 E-4 宋学は、欧陽脩、司馬光、そして朱子が大成させた。朱子学! E-5 宋学の中核は。大義名分論と尊王攘夷論である。 F 日本では、13世紀に宋学が伝わるまで、「尊王」、「攘夷」、「大義」、「名分」などの観念は、なかった。 F-2 宋学は、“正義”の体系であり、日本の当時の読書界に、大きな影響をあたえた。 G 日本の13世紀は、素晴らしい時代。すなわち、関東に開拓農民の政権、鎌倉幕府が成立した。 G-2 武士は自作農、家の子は小農民。 G-3 鎌倉幕府は、素朴なリアリズムをよりどころにする“百姓”の政権だった。 G-4 京の公家・社寺と異なる土着の倫理が、「名こそ惜しけれ」!「はずかしいことをするな」という坂東武者のすがすがしい精神。 H 宋学的名分論の「夷」(エビス)など、日本には存在しない。京の公家、また彼らに依存する真言・天台の学僧たちが、坂東の大小の農場主の政権を、強引に「夷」とした。 H-2 後醍醐天皇は、宋学というイデオロギーのとりことなり、中国皇帝のつもりになった。やがて武家と対立し、南北朝の大乱を引き起こす。 I 中国では、元・明・清で科挙の試験は、朱子学によった。 I-2 朱子学の理屈っぽさ、すなわち現実より「名分」を重んずることの弊害。 I-3 李氏朝鮮の末期には、官学の朱子学が、亡国の因を作った。官僚は、神学論争に終始した。 J 徳川幕府は朱子学を官学としたが、江戸中期に、幸いにも、多様な思想が出てきた。すなわち、人文科学に近い荻生徂徠や伊藤仁斎。彼らは、朱子学の空論性を、攻撃した。 J-2 徂徠の実証主義は、清朝の考証学より半世紀早く、江戸期の思想に好影響を与えた。 K 日本で、おそるべき朱子学的幻想が沈殿したのは、水戸。 K-2 水戸光圀は、明の遺臣・朱舜水 を保護 L-2 革命思想(尊王攘夷)を守る革命政権(明治政府)は、あとから来たルソーの思想を、当然、危険思想扱いした。 L-2 明治後、教育の面では、宋学(水戸学)イデオロギーが、生き続けた。 L-3 左翼の間でさえ、水戸イデオロギー的な名分論のやかましい歴史が、続いた。 A 1905年の日露戦争勝利から、1945年の日本敗戦までの「40年」。それは、日本の歴史における化物でのような期間である。 B 日本は、日露戦争の勝利後、形相を、一変させた。 B-2 日本は、にわか作りの大海軍を、日露戦争後、半減させればよかったのに、維持し続けた。みずからの防衛に適合した小さな海軍に、もどさなかった。 B-3 日露戦争では、やむなく大海軍を必要とした。日本は、開戦前7-8年で、世界有数の大海軍を建設。 B-4 ロシア海軍は、日露戦争でほぼ壊滅。再建には半世紀以上かかると、言われた。 C 大海軍は、本来、帝国主義国のみが必要とする。@植民地の威圧・収奪、A陸兵の輸送、B各地からの収奪物の運搬のため。Ex. スペイン、イギリス。 C-2 しかし日本は、日露戦争が終了したとき、そもそも世界中に植民地など持たなかった。 C-3 にもかかわらず、「栄光」の海軍は、目的が無いのに、大海軍を維持した。組織の自己増殖。 D-3 「参謀本部」が、ロシアの復讐を恐れた。 D-4 日露戦争後、1908年、参謀本部は、関係条例改正で、内閣どころか、陸軍大臣からも、独立した。 D-5 ただし、まだ“満州事変”のように、“参謀”たちの謀略で侵略戦争が起こされるところまでは、行っていない。 E 日本は、当時、経済が貧弱で、帝国主義ですらなかった。 E-2 過剰な商品と、過剰な資本(カネ)のはけ口のため、植民地を求めるのが「帝国主義」。つまり、企業の私的動機のため、公的な政府や軍隊を使う。 E-3 日本が、韓国併合したとき、日本の産業界に、過剰な商品などなかった。日本が朝鮮で売ったのは、タオル、日本酒、マッチその他、日用雑貨品だった。“ちゃちな”帝国主義。 日露戦争の勝利が、日本国と日本人を、“調子狂い”にした この大会と暴動が、「向こう40年の魔の季節」の出発点となる F-5 日比谷焼き討ち事件の原因は、@戦争の実相を明かさぬ政府の秘密主義、A煽るのみで真実を知ろうとしない新聞にもあった。 ただし、新聞が実相を知っていて煽ったとすれば、以後の歴史への犯罪である。 G 韓国併合について、ソロバン勘定としてペイするか、誰も考えなかった。 G-2 満州国を作った時も、ペイの計算がなかった。結果としてもペイしなかった。 H 華北に、謀略的な冀東(キトウ)政権が1935年にできて、日本からの商品が無関税で輸出できるようになる。このため、上海などの中国の民族資本は総倒れ。抗日に、資本家も参加するようになる。 翌々年(1937年)、日本は、泥沼の日中戦争に入る。 H-2 華北の無関税化で、“満州”も儲かるようになるが、その商品たるや、1935年段階でも、人絹、砂糖、雑貨がおもだった。この“ちゃちな”帝国主義のため、国家がほろぶ。 4)“統帥権”の無限性:「参謀」たちが愛国的に自己肥大し、謀略を企み国家に追認させてきたのが、昭和前期国家である。 A 昭和ヒトケタから同20年は異胎の時代”である。ほかの時期なら、兼好法師、宗祇の室町時代、また芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期と、連続性をもつが、昭和前期の20年は、全く非連続である。 ノモンハンで、関東軍は、戦車隊の育成と保全のためと称し、戦闘の進行中、戦車隊だけ撤退させた。 日本軍は、死傷者70%以上という世界戦史にも、まれな敗北。 D-4 ノモンハン事変は、関東軍参謀の独走で、参謀の元締めである東京の参謀本部さえ、事後に知らされた。 E 「参謀」という得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略を企んでは、国家に追認させてきたのが、昭和前期国家である。 「無限に近い権能をもちつつ、何の責任もとらされず、とりもしない」 敗戦の責任は、生き残った何人かの部隊長にかぶせられ、自殺させられた人もいた。参謀は責任を取らない。当時、日本陸軍の暗黙の作法として、責任を取らせたい相手の卓上に拳銃を、置いておいた。 G-4 かの連隊長(元大佐)は、自殺を拒否。このため退職させられた。 アメリカ軍が本土上陸すれば、避難する国民をひき殺して南下しない限り、戦車は進めない。道路が2車線しかなかった。 C-2 旅の僧(実は北条時頼)に、鉢の木を焚いて暖をとらせた佐野源左衛門常世、そして平明な良心だけを政治の心としていた時頼。彼らこそ、日本人の代表だった。 明治維新は、「国民国家を成立させ、日本を植民地化の危険から救い出す」というただ一つの目的のために、一挙に封建社会を否定した革命。 C 明治維新は「徹底的な革命」だった。 @ 諸藩に莫大な金を貸し、富裕を誇った大阪の金融業は、鴻池を残し、すべて一夜で丸裸になった。 A 全国300万の士族とその家族が、失業。 C-2 「明治維新は革命でなく、権力が移行しただけ」との説は、のんきすぎる! C-3 明治維新は、封建性が一挙に否定されたので、“階級”として得をしたものがいない。 D 太政官政府だけが、うまい目を見ているとされ憎まれた。 D-2 薩摩の島津久光も、新政府を激しく憎んだ。藩そのものも否定され、「家来どもにたぶらかされた」と久光。 D-3 久光は、西郷隆盛を、「安禄山」と、ののしり続けた。 D-4 西郷が、新政府を辞した感情的な理由の最大のものは、久光からの悪罵。 D-5 久光は、「新政府が、まさか版籍奉還はすまい」と思っていた。ところがM2、版籍奉還! E 久光は、西郷と同様、大久保利通も、憎む。主筋から人格もろとも否定された西郷と大久保(太政官の二大巨頭)は革命の成立後、笑顔を忘れた。「旧主筋を裏切った」という倫理の基本を揺るがす呵責。 E-2 大久保は「冷血」(福地桜痴)をもって、情熱のすべてを国家建設にそそぐ以外なかった。 F 明治初年の太政官の重要な構成員の多くは、旧主家に対し複雑な感情。その感情を礼節で補った。 F-2 大久保、もしくは太政官の権力は、背後の神のようなもの、聖なるもの、聖なる虚空を必要とした。 F-3 諸藩の下級武士が、@将軍を政権から追い、A旧主である諸侯から統治権を取り上げ、B四民を平等にし“国民”というそれ以前の日本になかったものを創り出す。 F-4 悪意がインプットされた「天皇制」の語だけで、明治維新や明治期をかたづけることはできない。 A 江戸期は、商品生産、流通が盛んだった。 A-2 忠臣蔵によれば、浅野家が、一晩で江戸城の畳替えができるほど、江戸には多くの畳屋があった。 A-3 赤穂塩が、とびきりのブランド品として、全国に流通するなど、江戸期の経済社会は、“近代”だった。 A-4 江戸期には、日本列島沿岸を、商品を運ぶ廻船が、すきまなく旋回した。 A-5 北前船:@大阪湾出航のとき六甲山麓の菜種油・綿布を積む→A赤穂で赤穂塩→B伊予で蝋(ロウ)(ビンツケやローソクの材料)や絣→D周防で紙を積む→Eそれらを日本海航路の諸港で売り、また諸国の物産を買う→F敦賀でムシロ(肥料用干ニシンの梱包材)を買う→G松前で干ニシンやコンブを積む→H大阪の靭(ウツボ)(全国的な金肥の問屋街)で干ニシンを売る→I干ニシンは河内などの綿作地で綿に化ける→J再び全国に運ばれる・・・・ B 江戸中期の日本の識字率は、世界一レベル。農村や町方の子どもが、奉公で帳付けができるための寺子屋。 B-2 無学だと、船で船頭になれず、商家で手代・番頭になれず、大工で棟梁になれない。これは、“近代”的! C 大坂や江戸で劇場、相撲の興行。貴族の保護によらず、大衆の木戸銭で運営されていた。これも“近代”的! D 江戸期には、商品経済社会の発展で、ルネサンス期のように、個人の自覚の高まり生じた。中世では、ひとびとは、ブドウの房のように一族として、ぶら下がっていた。 D-2 商品経済の社会では、モノの売買、カネの貸借で、個人が矢面に立つ。神仏の加護、家格の権威でなく、現世的人間主義、個人の自律性が、要求される。 D-3 モノの価値を決めるのは、権力でなく、相場。ひとびとは、合理主義者となる。 D-4 江戸中期ごろから、「“近代”という潮が腰まできていた」。 F 明治政権は、「近代」を欧米から買ったが、「近代」は江戸期日本に、少量はあった。明治政権は、それを知らなかったか、黙殺した。 F-2 ヨーロッパの近代精神とは、(1)宗教的権威の否定(Ex. 富永仲基)。(2)科学的合理主義と人格の自律性(Ex. 山片蟠桃、三浦梅園)。(3)人間主義(Ex. 井原西鶴)。 G 明治維新の時、日本・江戸期の“近代”的な要素に、欧米の近代を接ぎ木できるとよかった。そうすれば、昭和の初期、あれほど「思想として痩せた社会」に、ならなかったろう。 G-2 雄藩の下級武士の教養は、朱子学的なものだった。(一部、国学的なもの。) G-3 日本の風土的な近代主義者は、坂本龍馬(質屋の分家の子)だったが、政権樹立前に倒れた。 H 「近代の超克」は戦時中(S17)、知識人に衝撃を与えた。戦後は、「近代の超克」は、「軍の戦時指導に調整的役割を果たした」と、評判が悪くなった。 H-2 小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、下村寅太郎、河上徹太郎など。 H-3 近代とは、本来、「ガラのわるさ」、「モノの質量を、大衆レベルで比較する精神」、「モノを比較して、ハダカの価値を見てしまう精神」。 H-4 ところが、「近代の超克」派は、「ヨーロッパ文明に依って教育されてきた」などと、「品がよく、教養的な」近代について、語る。 H-5 近代とは、“三八式歩兵銃を何十万挺ならべたって、世界を相手に戦争はできませんよ”といったガラの悪さのことである。 H-5 「戦後のガラのわるさ」こそ、江戸の“近代”に対応する。 H-6 戦時中の「近代の超克」が語る“近代”は、「痛ましいほどに品がよく、教養的」である。それが、明治国家が、買いに買った近代であった。 https://blog.goo.ne.jp/higa58/e/515574df904f470d45c1098da385f0fc 司馬遼太郎『この国のかたち 街道をゆく 28 耽羅紀行 海女やシャーマニズムなど昔の日本と生活スタイルが似ていることを指摘している。 また、蒙古が元として中国・韓国を統治していた時代に、日本に襲来していきた 蒙古軍がこの島の漢拏山麓の草原で蒙古馬を放牧し、現地人として土着化したことなども興味深い。 そして朝鮮半島が高麗朝から李氏朝鮮にとってかわられてからの儒教・朱子学が人民をいかに苦しめたという歴史が説明されている。 そして李氏朝鮮が科挙制度を導入し政治闘争が絶えず、その負け組で死罪を逃れたものが 島流しにされた島であることが記され、日本の隠岐や八丈島に似ている。 また、李氏朝鮮は奴婢を含めていくつもの賤民を作っていたが、漁民や聖職者もその中に入っていたのは日本と異なっている。海女のように裸になることは賤しいこと、 また目に見えない神や霊魂を語ることはタブーで孔子の論語に怪力乱神を語らずとある。共に儒教の影響で日本とは異なることが印象的だった。 著者によると、日本の江戸時代に儒教・朱子学を幕府は推奨したにもかわらずその被害を受けなかったのは、 儒教ではなく儒学を学んだだけで生活や政治にはさほど取り入れなかったことが功をなしたと言っている 日本にとっては遠いヨーロッパでおこった戦争だが、普仏戦争(1870〜1871)ほど、ひとの国同士のさわぎながら、日本に影響の大きかった事件はない。 「幕府がフランスに魅力を感じたのも当然であろう。幕府はナポレオン三世の寵臣のひとりである駐日公使レオン・ロッシュをまるで政治顧問のように信頼し、ロッシュも幕府瓦解までこれを自分の政府のように愛着をもった。 小栗ら幕府の急進的な改革派は、同時代の最大の偉人はナポレオン三世であると信じた 三世は、大ナポレオンのおいというだけのきわめて薄弱な政治的根拠を手品のたねにし、大の没落後、フランスは何度も革命的な 政変の歴史をへているにもかかわらず、二月革命のどさくさのなかから皇帝という時代遅れの地位をつくりあげてしまった 「プロシャの宰相のビスマルクがさまざまの手でフランスを挑発しナポレオン三世はついその手に乗り、景気よく宣戦布告した。ひとつにはこのころには 三世皇帝の政治的寿命がそろそろ尽きはじめており、外征をすることによって国民の関心を外にむけようとしたこともあったがなによりも彼がフランス陸軍の精強さについての信者であることだった。当然、勝つとおもった これが明治になり、普仏戦争でのフランスの敗北とナポレオン三世の失脚によってがらりとかわるのだが、かわるまでにすこし話がある 中国は日清戦争で一方的に敗北を喫し、そのために列国からナショナリズムがない、国を守る気概がないと見なされて一斉に侵略を受けたと『坂の上の雲』で司馬遼太郎が言っている 『坂の上の雲』を完全に読了。いろいろ印象に残ったことはあるが、明治の陸軍の肋骨服といわれる黒に金モールの軍服が、カーキ色の昭和陸軍のものに変わったのが奉天会戦のころ、つまり日露戦争中に満州の 黄色い荒野で敵に目立たないようにするためだったというのをはじめて知る 司馬遼太郎氏の言葉です 職人。実に響きがよい。日本は世界でも珍しいほど職人を尊ぶ文化を保ち続けてきた。 近隣の中国や韓国では職人を必要以上にいやしめてきた事に比べれば、日本は「重職人主義」の文化だったとさえ言いたくなる。 『この国のかたち』よ 司馬遼太郎『この国のかたち』の第六巻に「醤油の話」がある。 覚心という信州出身の禅宗のお坊さんが中国から帰り、和歌山県の湯浅で径山寺味噌をつくった。すると上に液が溜まり、それを取り出したものが醤油の原型となって、16世紀初めに千葉県野田に伝えられたそうだ。 そして、飯田市郎兵衛家が醤油の醸造を開始した 江戸期の赤穂の塩は日本一の品質をもっていた。「いいものがほしい」という、商品経済の熟成期の傾向がすでに社会をおおっていた。塩であれば何でもいいという社会ではなくなっていたのである もしソ連が、無償で北方四島を日本に返還するようなことがあれば、それとおなじ法解釈のもとで、多くの手持ちの領土を、 それはわが国の固有領土だと思っている国々に対しても返還せねばならないという理屈がなりたつ。ソ連の首脳部にとって、返還など、無理難題を越えたほどのことだということを、私どもは成熟した国民として理解しておく必要がある。 ヤルタ協定では、広大なモンゴル高原と、小さな千島列島とが、それぞれ一条項を立て、等価値であるかのように相並んで記され、 アジアにおける戦後領域がきめられたのである。このことは、もし千島列島をソ連が日本に返還するとすれば、ヤルタ協定が崩れ、モンゴル高原もまた、中国側から要求されればその「現状が維持される」ことを、法理的にはやめざるをえなくなる 。中国のように長城や防御力をもつ都市をつくるにいたらず、また西方のローマ文明社会のように城壁と石造城館をもつ都市国家をつくるということもしなかったということが、ロシア国家史の開幕を遅らせ、またその遅い開幕を内容をも特異なものにしたといえる。 江戸期の大名は、行政の場である「表」だけでなく、私生活の場である「奥」までが行政化されていた。性生活ですら相続をたしかなものにするための子供づくりという目的意識が明快で、まわりの家臣たちから管理されていた。 江戸時代は武士の面でとらえてもいいが、商品生産や流通の異常な盛行という側面からみると、性格がはっきりしてくる。 当時、長大な日本列島の沿岸を、商品を運送するための廻船がすきまなく旋回していた。例えば、北前船の場合、どの船も大阪湾を出る時に、六甲山麓で搾油された菜種油や綿花を積む。その後、決まって赤穂の外港により、赤穂塩を積むのである。また伊予ではビンツケやローソクの材料の蝋や絣(かすり)、周防では紙といったように、各地の商品を積む。それらを日本海航路の諸港で売り、土地の物産を買い、途中で敦賀ではムシロ(北海道でつみこむ肥料用の干しニシンの梱包材)を購入する。松前では船ばたがずっしり沈むほど干しニシンや昆布などを積み、干しニシンは大阪の靫(うつぼ:全国的な金肥の問屋街)に売るのである。干しニシンは河内などの綿作地の土の中に入って、綿に化け、再び全国に運ばれる。 さらに違う面は識字率である。江戸中期以後の日本の識字率はあるいは世界一だったと思われる。子弟に文字を習わせる武士を除き、農民や町人のこどもが、奉公した時に帳簿付けがでるように親が願って、我が子に習わせるのであり、無学だと、船に乗っても船頭になれず、商家につてめても、手代・番頭になれず、大工に弟子入りしても棟梁になれなかった。 また、大阪や江戸では劇場がさかえ、相撲が常設的に興行され、大衆の木戸銭で運営されていた。 さて、モノには質と量があり、これを教えるのは商品経済の社会である。この商品経済がさかんな世となると、モノの売買もカネの賃借もすべてが個人が矢面に立つことになる。 こういう社会になると、神仏の加護は頼めず、家格の権威も役に立たないため、人々は現世的な人間主義やおのれ一個を戒める自立性をもたざるをえなくる。また、モノの価値をきめるのは権力ではなく、相場である。ゆえに人々は知らず知らずに合理主義者になる。 江戸中期は人々の自覚なしに、『近代』という潮が腰まで来ていた。 メッケルは参謀教育をするのについては現地へ行くのです。これが当時のドイツふうですね。古戦場へ行く。古戦場で最大のものは関ケ原です。関ケ原へ参謀たちを連れていって、メッケルが統裁官になり、参謀を石田方や徳川方にさせて作戦の訓練をするわけです。その時メッケルはさほどの 予備知識なくして関ケ原盆地へ入っていったのです、両軍の配備地図だけを持って。両軍の配備地図というのはもう徳川期にできておりましたですからね。メッケルはそれをじっと見ていて、「石田方の勝ち」とまず宣言したわけです。 誰が見ても石田方の勝ちなんです。先にふれましたように、石田方は大垣から夜行軍によって戦場に先着していた。それ以前から到着していた部隊もある。それぞれが丘陵のいいところに場所を占めており、その丘陵たるや、 東軍が赤坂から入るには一つしか道がない。赤坂というのはやや低い土地で、その低地から大げさにいえば登るようにして二列縦隊ぐらいで東軍が入ってこなければならない。これでは袋のネズミになるわけであり、部署からいえば、まさに石田方の勝ちなのです。 ところが、当時の参謀―日本人将校たちが、いや、そうじゃないんです、石田方が負けたのです、といっても、メッケルはそんなバカなことがあるか、これは石田方が勝ったのだ、といいはってきかなかったらしい。 しかたがないので当時の政治情勢と徳川家康の威望を説明したわけです。家康が戦う前にすでに一種の世間の機運と自分の威望を計算しつくして、 敵に対して内部工作をしていたこと、そして裏切り、もしくは戦場で中立をとる者が続出するであろうという期待を持っていたし、その手もうっていた―それで結果がメッケルの考えたのと違うことになったのだ、と説明したのですね。 するとメッケルはすぐに、ああ、わかった、政略は別だ。純粋に軍事的にみれば石田方の勝ちだが、その上に政略という大きな要素がのればこれはまた別だ、といったという話です。 司馬遼太郎「関ケ原私観」(『歴史と風土』 「どの国府もそうだが、水害のすくない場所がえらばれていた。そのくせ、まわりに美田があり、細流も流れている、という場所が理想とされた。さらには交通路に不便があってはならない、というのも条件だった。(略)三角洲とか扇状地とかよばれる水害の多い低地に大集落(たとえば城下町)が進出するのは、豊臣秀吉がえらんだ大坂が最初である。次いで江戸、広島、名古屋など、海に面した土地に大城下町が営まれるのが普通になった。理由は、水害の危険よりも、商品経済のために、河口港を付属させるという利益のほうが大切になったのである」。 司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で、「実は華も礼も虚礼に過ぎない」と書き記している。その例の一つとして、「李氏朝鮮の場合、社会の底にいる聡明な小児をえらび、男根を断って宦官にし、宮廷で秀才教育を施した。 明の宮廷への工作のためだった。ありようは、朝鮮国王から『天朝』に美姫を献ずるとき、お付きとしてその宦官をも贈り、入り込ませるのである。 その宦官は学才があるため、当然ながら明の宮中で出世をする。明のほうもよく心得ていて、朝鮮国王の代がかわるとき、冊封のための勅使としてその朝鮮系宦官をその母国に派遣するのである。ブラックユーモアといっていい。 天朝の勅使になったその朝鮮系宦官は道中、ほしいままな気儘をはたらき、賄賂をふところにいれつづけ、ついに母国の王城にいたる。朝鮮国王は城門のそとでその宦官に拝跪するのである。壮大な虚構ではないか」と記す[12]。 この他にも司馬遼太郎は同書の中で、「清の世になると、朝鮮は(オランケと蔑視していた女真族・満州人の) 清朝に対して前代の明朝と同様、これを、『天朝』ととなえ、清国皇帝に手厚く事えた」としながらも、「内々においては清朝をもって夷狄とののしり、また女真風に辮髪させられている中国人民についてはこれを『犬羊』であるとした」と記す。そして「このような腸捻転(ねんてん)にも似た思想的閉塞は朱子学という思弁哲学の惨禍であったともいえる」 司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で、 「朝鮮では明の年号を使用するとともに、両国は儒教という思想を共有し、祭典もまた朝鮮は明の礼制に合わせた。朝鮮固有のシャーマニズムを淫祠とし、また廃仏毀釈(仏教弾圧)をおこなって、 儒教の優位性を高め、観念の上では中国以上の儒教国家となった」とし、「やがて本流である中国の「中華」に対し、支の国として『小華(小中華)』と称するようになる」と同書の中で述べる。 そして「小華である以上、その徳に服する蛮(蕃)が必要となる。このため他の国々(日本や琉球や満州の一部など)が(思想的に)それらに当て嵌められた」と関係性を述べ、 「この理(空論)によって日本は蕃国(野蛮国)とされた。ただ朝鮮という華に朝貢してこないのは、日本がそれだけ無知だったという形式論になった」 韓のくに紀行』の中で、「儒教というものは、日本にあっては紙で木版画印刷された書物というかたちをとりつづけてきたが、中国ではもっとおそるべきものである」 と記す。それは「漢以来、(儒教が)統治の原理であり、多分に体制そのものであり、これを統治させるものからいえば人間関係の唯一の原則で、人間であるかぎりこれ以外の習俗はない」 「李朝五百年間、中国的儒教体制の模範生であった朝鮮は、中国の歴代王朝から、『東方儀礼ノ国』とほめられつづけたように、 習俗として礼教を重んじつづけてきた。むろんそれは形式主義であってもかわまない。むしろ形式主義こそ国家と人間の秩序にもっとも大切な物だというのが、儒教的な思考法である」 朝鮮儒教は華夷の差をたてることに敏感だった。『小華』である以上、その徳にすいふくする『蛮』(蕃)をもたねばならない」とし 「このため、(儒教)思想的に日本が蕃(野蛮)に当て嵌められた」 「朝鮮王から派遣された1人なので、対馬の殿様なんてものは自分より下だと思っている」 小中華という架空の真実のなかで生きる儒教の徒の申維翰は、日本人に対し、『人』という文字をつかわないのである。人とは文明人のことで、 申維翰的定義では、中華と小中華の場合のみつかわれるのに違いない」 江戸時代の沸騰した商品経済や、庶民を含めた識字率の高さ、商売での公の精神などには目もくれず、華夷の差別感だけで日本を見たとされ[12]、 しきりに「笑うべし」という問投句を入れつつ[12]、さらに中国古典にあった『士農工商』という言葉さえ使わず、 『国に四民あり、曰く兵農工商』と言った。このことについて司馬遼太郎は『この国のかたち』の中で、儒教文明にあって『兵』は卑しいものとされ、たとえば中国の俗諺に「良い鉄は釘にならない。良い人間は兵にならない」 とあるように、兵とはあぶれ者ややくざ者が王朝の徴に応じて兵になるものとされ、読書階級の士である申維翰は、『士』という言葉を日本人に使うことを惜しんだとしている 鄭家は大軍を養うために、台湾における漢人開拓農民を、残念ながら奴隷にした。 というより、それより前、38年間この島を統治してきたオランダ人の奴隷農民をひきついだのである。 もっとも、鄭家の台湾時代、全軍が屯田兵になって農地をひらいた。 そういう農地は、とくに“営”とよばれた。いまでも地名にその痕跡がのこっていて、 たとえば台南県の平野に、「新営」 という小ぶりないい町がある。その南に林鳳営、林鳳営の西に下営などという集落もあって、いずれも鄭氏時代の名残りといえる 中国は前漢の武帝以来、儒教が国教とされ、二千年もそれがドグマとしてつづいた。 つらぬいて人治主義だった。 身もふたもなくいえば、歴朝の中国皇帝は私で、公であったことがない。 その股肱の官僚もまた私で、たとえば地方官の場合、ふんだんに賄賂をとることは自然な私の営みだった。このため近代が興りにくかった。 台湾にやってきた蒋介石の権力も、当然私であった。一方、勝者になった毛沢東(1893〜1976)の権力も、多分に私だった。 毛沢東の権力が私でなければ、プロレタリア文化大革命のような私的ヒステリーを展開できるわけはないのである。 後藤新平は、日本ふうの法律万能が現地の不評を買っていることを知っていた。のちのち台湾が法治国家の一部として熟するにせよ、いまは“科学的(生物学的)にやる”と言い、また、“無方針でゆく”ともいった。 シンガポールの指導者、リー・クワン・ユーさんが豪州に行ったとき、「いまの豪州人が英国人だと思っていないように、われわれも中国人ではありませんよ、シンガポール人です」、そういったそうです。 ドイツ人もスウェーデン人も同じゲルマン民族です。しかしドイツ人が「君も私も同じゲルマン人じゃないか」といって、スウェーデンで物を売ることはない。スペイン人がフランスに行って、おなじラテン人のよしみで、などともいわないでしょう。 漢民族ではあっても、台湾は台湾人の国ですね 大陸の政権は、本来ならば住民の意思を聞くべきでしたね。チベット人に、モンゴル人に、ウイグル人に聞けばよかった。聞く余裕も思想もなく、清朝の版図をそのまま継承した。(p.419) 「ほかの国を植民地にするのは、何よりも他民族の自尊心という背景をくだくことで、国家悪の最たるものだ」 「内蒙古を国土にしているのも、住民の側からみれば実におかしい。 毛沢東さんの初期の少数民族対策は理念としてよかったが、実際には内蒙古もチベットも、住民は大変苦痛なようですね。それをもう一度台湾でやるなら世界史の上で、人類史の惨禍になりそうですね」 「中国のえらい人は、台湾とは何ぞやということを根源的に世界史的に考えたこともない」 現代中国の統一者である毛沢東も、漢の武帝と同様、一思想をもって統一を維持しようとした。(中略) もっとも、武帝の世とは違い、毛沢東のやり方は苛烈だった。かれの 教説に沿わない者は、殺されたり幽閉されたりした。この点では、清朝よりもさらに”古代”だったというほかはない。 漢民族世界は、孔子が音楽好きであったように、古代は音楽がさかんだった。 歴代の王朝は、宮廷に伶人(楽官)を抱え、華麗なものだった。とくに唐朝の国楽が日本に影響して雅楽になった。 ただ、漢民族世界は、王朝が亡ぶたびに、音楽も亡んだ。前王朝につかえた伶人が、殺されるのを避けて逃げてしまったからである 人間は、一個の精神のなかに、子供と大人を同時に持っている。子供 の部分で恋を語り、芸術に接し、科学・技術や芸術を創造する。さらには正義を語る。 だからこそ大人は、終生、自分の中の至純な子供をひからびさせるべ きではないのだが、その方法は少年少女期の教育にある、と伊沢は思ったに違いない もう少し非学問的な空想をつづけると、”高砂族”と日本時代に呼ばれ てきた台湾山地人の美質は、黒潮が洗っている鹿児島県(薩摩藩)や 高知県(土佐藩)の明治までの美質に似ているのではないか。 この黒潮の気質というべきものは、男は男らしく、戦いに臨んでは剽悍で、生死に淡泊であるということである 花蓮はいいまちである。ただ、ほとんどのまちの人達の家祖がここ百 年来の移住者だけに、移ってきたときの悲しみが、まだ乾かずにいる。 準造氏は、そういう悲しみを小石の中から見出そうとしているらしく、拾っては袋に入れていた 柴田錬三郎と野坂昭如が司馬遼太郎は資料を集めるしか能がないなと言っていたな 昭和の戦争について批判的な司馬遼太郎ですら、『坂の上の雲』の中で、ロシアは日本に対して白人同士ではあり得ないサディスティックな折衝をやっており、同じように「ハルノート」もサディスティックな要求で、白人同士の国ではあり得なかっただろうと書いている 蝦夷地は河内の棉作の盛行により活況を呈する。棉が多くの「蝶」をつけるにはすさまじい肥料を投入しなければならない。はじめは干鰯が投入されたが、おいつかず、 鰊が用いられるようになった。その鰊がすべて蝦夷地から運ばれてくる。 盛況だった頃は、松前城下の三人の家老の屋敷は、江戸で言えば諸侯の館のようであったといい、家老でもない家でも一万石の館ほどはあったという 徳川慶喜は大坂城におり、京の薩長と向かい合っていた。大坂の旧幕府軍が五万、京都側は五千。さらに大坂湾には開陽丸以下四隻がある。幕府側が負けるはずがなかった。 だが、と司馬遼太郎氏は言う。日本の変動期は奇妙なもので、源平決戦や関ヶ原のように、旧時代を背負う勢力が兵力も多く、地の利も有利であるのに、あたらしい時代を背負う兵力寡少の側に負けてきた。 面白いのは、横浜あたりの外国人の目から見れば、新政府に対する信用はなかったようだ。発行されている外字紙で新政府びいきのものはなく、徳川方がいずれ政権を回復するという観測をもつもののあったそうだ。 開陽丸に掲揚されている国旗は、徳川国家の国旗である日の丸の旗だった。日の丸は幕府が総船印として制定したもので、いつの間にか外国人もこれを日本の国旗として認識するようになったようだ。 これをいつ明治政府が継承したのかはよくわからないそうだ。戊辰戦争での新政府軍の旗は菊花紋だった。 独自の文化に閉じこもっていた民族が世界史的な潮流の中で自立しようとする時に普遍性にあこがれる傾向があることを指摘している。そして、そのために夢中に跳躍するというのだ。 それが端的に見えるのが、兵器というものであるという。この兵器は普遍性を戦慄的に体感できるものだともいっている。 この兵器によって引き起こされる戦争。 戦争は補給が決定する。補給が相手よりもはなはだしく劣弱になった時に終了するというのだ。ベトナム戦争は敵味方とも他国から無料で際限なく補給されている。 なら、どうなるか。あるベトナム人は、ベトナム人がいなくなるまで戦争は続くという。 ベトナムでは韓国人は憎悪と嫌悪の対象だという。 というのは、ベトナム戦争で韓国兵は強く、不幸なことに殺人技術者としての悪い印象のみをベトナム人に与えたというのだ。 だが、この両国は歴史も地理的環境も酷似しているというのだ。それは、両国とも中国の歴史的変化に大きく巻き込まれ、そして、 それによって政治的な体制も大きく変化を経てきていることに起因している。 似たような運命を経てきたのに、皮肉な結果となったのがベトナム戦争だったといえる 「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。」と井上光貞・山本健吉は述べている。 また、司馬遼太郎・上田正昭・金達寿の対談集によれば「飛鳥は朝鮮文化をぬきには語れない」と語り、 「飛鳥における政治の実権は蘇我氏<朝鮮人>の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」と亀井勝一郎氏は述べている。 「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。」と佐々克明は述べている 薩摩藩領に入る。その夜は鹿児島の三大ホテルの一つといわれるところに泊まったが、その猥雑さに鹿児島には洗練された文化意識というものが絶えてしまったのだという思いを抱いた。 九州が豊かさゆえに中央から独立圏を形成しえたこと、一方で、薩摩藩では富農富商が育たず、伝統を溜めこんで洗練し、次代に継承していくことがなかったため、明治で藩がくつがえると同時にすべてを失ったということが述べられている。 時代小説の戦後史 柴田錬三郎から隆慶一郎まで』 縄田一男著(新潮選書、1650円) 『眠狂四郎』『柳生武芸帳』『魔界転生』……。戦後の文壇で一世を風靡(ふうび)した剣豪・時代小説。そのヒーロー像には作家の激烈な戦争体験が影を落としていた。柴田錬三郎、五味康祐、山田風太郎、隆慶一郎、 4人の流行作家の実像と名作誕生の背景を、大衆小説評論の第一人者が解き明かす。 北上次郎 いやはや、面白い。いま読んでも面白いのか、と驚いてしまった。 直木三十五なおきさんじゅうご『南国太平記 ようするに、小太郎に倒されて地面に横になるというシーンだが、 それを「外」から説明として描くのではなく、庄吉の感覚として「内」から描くのである。 すなわち、足に大きな力がぶつかって、次に気がつくと青空が見えていた ――つまり地面に倒されていた、 というわけだ。すごくリアルで肉感的といっていい。 句点を多用して独特のリズムをつくり、そのために読みやすいこと。 本書は86年前に書かれた長編ながらも、アクションの切れがよく、 文体のリズムがよく、わき役たちの造形もいいという傑作である。 ・忠誠心という、この甘美な精神は、中世のひとびとの多くに、原液として湛えられていたかと思える。ただ農民の場合、その対象がなく、武士の場合も、地上のなまの主人もさることながら、天国の支配者であるキリストに仕えることのほうに強烈な昇華を見出したのではないかと思える。 こういう点でも、インドや中国の社会よりは、当時の日本の社会のほうが、切支丹受容にむいていたであろう。 ザビエルが、「東インド地方で発見された国々のなかで、日本の国民だけがキリスト教を伝えるのに適している」と報告したのも、むりもないことかもしれない。 ・ところが、ローマ法王庁は、当時も、そしてこんにちにいたるまで、かれらを殉教者としては認めていないのである。その理由の一つは、神父が存在しない場所で事をおこしたということがあるのであろう。 ・近世日本が、同時代の中国や朝鮮の社会と異なっていたのは、商業上の文書類が圧倒的に多いこと、武士や庄屋階級という、儒教体制における「官」からいえばはるかにひくい層において、自分の体験や見聞を私家用に書く者が圧倒的に多かったことである。 ・天草が幕府直轄領になると、むしろ禅宗が前面に押し出された。 禅宗は、自分一己の解脱のみを説く。他宗のように、神仏に頼み、祖先の霊にたすけをもとめたりする他力の心があればそれだけで解脱への勇猛心が弱まるとする。 禅家の積極的無神論にかかっては、切支丹の神などは迷信になってしまうのである。 ・「明治のとき、なぜ長崎県に組み入れてもらえなかったのか」 たしかに人情ということからいっても、肥後(熊本県)の気風がもっている重厚さや理屈っぽさよりも、肥前がもっている軽快さのほうが、天草の風に似つかわしい。 これに対し、仏教は釈迦以来、人間固有の欲望を捨てるという態度でつらぬかれています。 ところが密教にあっては俗世での欲望を保持したまま悟りをひらくことができるというのです。密教には一歩間違えば淫祇邪教(いんしじゃきょう) になりかねないきわどさがありました。それだけに初期密教は、刃物の上を素足で渡るような危険性を持ちつつ、緊張した論理で構築されています。 インド密教は北へ行って八世紀にチベットにおいて「ラマ教」となり、また東に向かって中国に入り、一時期栄えましたがほどなく衰えました。 中国には道教という似たような土着の呪術があり、西方から密教がやって来ると道教は密教の思想的内容 を取り入れて体力を強くしたために、密教は中国人の感覚に訴える力を失いました 。欽明天皇は宗教的感動を持ったというよりも、もっと初歩的な感動を持ったはずです。それまでの日本の人物彫刻というと゛埴輪゛のような素朴なものだけでした。 仏像のリアリズムに驚いたにちがいないのです。゛人間とそっくりの形をしているじゃないか゛と。 つまり思想よりも目に見える゛文明゛に驚いたのです。気取って言うと、芸術的ショックをうけたのです。 さて、古代に話を戻します。その後二百年間、日本国は ゛造寺造仏゛に精を出しました。 大乗仏教は釈迦の時代の原始仏教と違い、大寺という建物を造り、仏像を鋳造せねばならないので、お金がかかるのです。 ゛国家仏教゛たらざるをえませんでした。 その゛造寺造仏゛は七〇八年、奈良の都という新首都が建設されるころに頂点に達します。 ただしこの首都はわずか七十七年間で捨てられました。 僧侶達が暴慢になったからだといわれています。 一例で言いますと、大仏造営に熱心だった聖武天皇(701〜56)が、自分は「三宝(仏教)の奴(やっこ・・奴隷)である」と宣言したことがあります。今 日の法解釈で言えば「地上の王様の上に仏法がある」というようなものです。 このため大寺が横暴をきわめるようになりました。 子規と最澄には似たところが多い。どちらも物事の創始者でありながら政治性をもたなかったこと、自分の人生の主題について 電流に打たれつづけるような生き方でみじかく生き、しかもその果実を得ることなく死に、世俗的には門流のひとびとが栄えたこと、などである。 江戸幕府は、天皇家に親王がたくさんうまれることをおそれた。それらが俗体のままでうろうろしていたりすると、南北朝のころのように 「宮」を奉じて挙兵するという酔狂者が出ぬともかぎらず、このため原則として天皇家には世継ぎだけをのこし、他は僧にし、法親王としてその身分を保全したまま世間から隔離することにした。 かつて木造であったものが、一見木造風のコンクリートに模様がえさせられる場合、実体であるよりも実体の説明者(ナレーター)の位置に転落させられてしまうことを、 建てるひとびとは考えてやらないのではないか。 ときに唐は、晩唐の衰弱期で、かつてあれだけ世界の思想や文物に寛容だったこの王朝が、仏教に非寛容になり、土俗信仰である道教を大いに保護しはじめていた。 多くの理由があるにせよ、国家が衰弱して力に自信がもてなくなると、かえってナショナリズムが興るということであるのかもしれない。 積極的に殺生するなということですが、しかし、殺生すると罰があたるという意味ではないのです。 門徒には仏罰というような迷信はありませんから、阿彌陀如来が本願をたてて、せっかく悪人といえども、残らずお浄土に連れて行ってくださる、 それに感謝する、それに感謝する意味を込めて、生き物を殺さないんだということなのです。 そのくせ一見矛盾して いるかのようですが、浄土真宗の僧侶は親鸞以来、肉食妻帯を(肉食というのは魚を食べること) 原則としてきました。 空海(774〜835)も煩悩は肯定していますが、煩悩を軸にして即身成仏するというのが空海のセオリーでした。 しかし親鸞はちょっとちがっていて、どうしようもなく煩悩があるから人間だという、普通人間認識から出発しています。 新幹線でも東海道在来線でも、滋賀県を通ります。 田園の広がる近江平野を眺めていると、大きな屋根のお寺を1ケ寺囲んで家々があるのが目に付くはずです。 あれが滋賀県の景色で浄土真宗の景色です。 その浄土真宗のお寺は、他宗の寺と違い、いっぺんにわかります。 中世の一向一揆のさなかにできてゆく形なのですが、要するに砦なんです。 屋根を大きくしてあれば、戦争の時に城を焼くための火箭が飛ばされても、屋根に落ちますから瓦は燃えない。 ですから屋根の部分、上部構造を非常に大きくしているわけです。 これに似た屋根は、想像図にある安土城の天守閣にある屋根、黒田屏風にある大阪城の天守閣最上階の屋根で、私はひょっとすると、 この形は室町時代に蓮如が発明したものではないかと空想したりします。 ともかくも、戦国のころ浄土真宗は寺々が砦でした。 ですから浄土真宗のお寺は遠目にもひとめでわかります。 なぜ中世の浄土真宗が、そのように布教に熱心だったかと いいますと、領地が無かったのです。 同じ浄土教でも浄土宗と浄土真宗が際だって違っていたのは浄土宗には領地があり、どんな寺でも小さな田圃か山林を持っていることでした。 つまり浄土宗は農地地主として寺を維持していました。 というのは家康は江戸を開府すると権威のために東叡山寛永寺を建てます。 これは幕府は京都の天皇家に対抗する存在であるべきで、 しかも江戸を新しい首都にするためには、日本仏教のオーソリティである天台宗の叡山が必要であったということです。 一方自分の宗旨の浄土宗を大事にして天台宗と同格にし増上寺を造り、これを将軍家の二大菩提寺にしたのです。 ところが 一方の浄土真宗というものは、そんなものは無かったわけですから、信徒をもって田圃にする。 そのことを古くからある仏教用語で福田(フクデン)と言いました。 わたしのところも信徒でしたから、私の戸籍名 福田(フクダ)はフクデンからきているわけです。 西洋の貴族と普通の民衆の間には、中世の貴族と民衆の関係が継承され、いまだに貴族の家、貴族の意識というものはなかなか壊れないでいます。 そのかわり貴族というのは、身体も庶民と喧嘩しても勝たなければいかんとか、自分自身の体力その他を作り出すのになかなかしっかりしています。 第一次大戦が起こるとケンブリッジの学生は真っ先に志願して兵隊に行くなど 「尊ばれているものはそれだけの義務がある」 別に階級意識があるから悪いとかいいとかの問題では無く、日本人の猥雑なほどの無階級意識というのはどうも室町時代にできたようです。 室町期でそういう社会的気分を大きく膨らませたのは浄土教だと思います。 マルコはフビライに仕えていた時期があり、「日本は黄金の島といえるほどに金銀を産出する、といった誤った情報を、フビライは確固として信じ」ていたと、 作家の司馬遼太郎は『街道をゆく11 肥前の諸街道』(朝日文庫)の中で記している。 広大な版図内で交易が活発になるにつれ、元では貨幣制度が発達していった。 「紙幣の濫発によるインフレを鎮静させるには国家が銀を大量に獲得せねばならず」、 日本を征服するのが手っ取り早いと考えたと司馬は推測する。 浜辺は、たちまちにして元軍による鎌倉武士の屠殺場のような惨況を呈した。元軍は城楼のような大船九百隻でもって博多湾をうずめている。上陸軍は二万人であった。迎え討った九州の武士たちは、せいぜい一万騎足らずであったであろう。(中略) 武器は、中国をふくめたユーラシア大陸という広域規模の中から、よりどりで採用した強力かつ新奇なものをそろえていた。たとえば、鎌倉武士の頭上でさかんに炸裂した震天雷という投擲(とうてき)爆弾もそうであった。 鋳鉄もしくは陶製の器の中に火薬を詰め、 導火線に火をつけて敵にむかって投げつける兵器で、当時としては他に比類のない殺傷力をもっていた。(中略) 軍隊の進退は、鉦(かね)や太鼓によっておこなうあたり、漢民族の様式であった。その騒がしさは天地も震うかのようであり、鎌倉武士たちの馬はこの音におどろき、武者たちは敵と戦うよりも自分の馬をしずめるのに大童(おおわらわ)になった。 よく知られているように、鎌倉期の日本の戦法も、敗因のひとつだった。(中略) たとえば、いざ開戦というときに、矢合(やあわせ)の儀式をおこなう。飛ばせば空中で鳴る鏑矢(かぶらや)という殺傷力のない矢をまず射るのである。この博多湾の多々羅浜辺でも、これをやった。元軍はどっと笑ったという。 その次の儀式は、両軍の各陣から力自慢の 武者一騎ずつが出て勝負するのだが、日本軍がこれをやったために、その選りぬきの一騎武者たちは多数の元軍歩兵にかこまれ、殺されたり、捕らえられたりした。 そのあとも華麗な甲冑武者が散発的に突出したが、ねずみの大群の上を蝶々が舞っているようなもので、戦争という形態さえ成立しなかった。」 元寇について) ・戦争とは敵を大量に殺傷することだという思想は、 源平合戦においても、まったく存在しない。 それよりも敵をおどし、意識の上で敵をして敗北を悟らしめようというやり方で、戦争というよりもスポーツに近く、 スポーツと同質の約束事が同民族内で成立し、慣用されていた 日本での貿易の利益というのは、とほうもないほどに大きかった。 日本は銀にくらべて金のやすい国で、欧州の値段からみれば三分の一程度にすぎず、日本から金を持ち帰るだけでも巨利を博した。 この日本の金相場の特殊さは、その後、徳川時代になっても変わらず、オランダ人が、尊大な徳川幕府の態度と 牢獄のような出島の暮らしに二世紀半も耐えていたのも、この利があるからであった。 「オランダ人はその独立戦争によってスペインの首かせから脱し、ヨーロッパで最初の市民社会を創ったと考えていいが、 同時にビジネスというものを宗教から切り離して独立させて近代を開いた最初の民族ではないかと思われる。」 秀吉の反発は、神社仏閣の焼き払いということにおいてもっとも大きかったに違いない。逆にいえば、イエズス会がもしこれをしなければ、秀吉の反発というのはさほどのものではなかったのではないか。 秀吉の感覚では、(神社仏閣は)日本における社会的効用の高い施設であり、それを否定することは、宗教問題をはみ出て、主権者への挑戦と受け取ってしまう要素があったであろう。 ・江戸時代の兵学の愉快なことは、兵学自身、兵器の進歩発達をいっさい認めなかったことである。決して勝たない、しかし同僚の大名には作法上の恥はかかない、 しかも、社会というものに進歩はありえないし、あってはならないのだという三千万の合意の上に、その兵学の基礎は成立している 稲垣 史生(いながき しせい 考証テレビ時代劇を斬る』河出書房新社 1981 多くの映画やテレビドラマの時代考証を手掛けた江戸時代考証の第一人者。江戸趣味の好事家や時代小説好きにはよく知られた存在であった。 司馬遼太郎は、稲垣の著書「時代考証事典」の帯に「唯一の先達の仕事」との推薦文を寄せるなど、江戸時代考証において自分よりも優れた知識を持つ稲垣には敬意を表していた。 近世風俗志 5冊 守貞謾稿もりさだまんこう、 (岩波文庫 黄 1996/5/16 喜田川 守貞 (著) 喜多川守貞という人は、大坂に生まれ、のち江戸に住んだ人で、大坂と江戸の風俗の違いに大いに興味を持ち、ありとあらゆることを書き残してくれた人です。 「人生を無駄に過ごさないで、それを書き残しておきたい」というのが動機らしい。 喜田川守貞さんの私的な考察が多分に含まれるとは言いながら、幕末に近い時代を生きた人の貴重な記録である 江戸時代の考証本には、結構、孫引きしてある内容も多く、間違いも散見している場合があるが、この本を読んでおけば間違いはない 百科事典ということでは「和漢三才図会」などもありますが、守貞漫稿とセットで利用すれば、かなりの事が分かってくるかと思いますね 和漢三才図会わかんさんさいずえ、寺島 良安(てらしま りょうあん、東洋文庫 全18巻 明の王圻による類書『三才図会』を範とした絵入りの百科事典 南方熊楠は、全巻を筆写したという 喜多村 信節(きたむら のぶよ 嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん) 岩波文庫5冊 日本剣客伝 (朝日文庫) 時代小説ファンが愛する作家たちの傑作を集めた、 競作シリーズ「日本剣客伝」を、剣豪が活躍した時代ごとに編みなおして復刊 戦国篇では、南條範夫『原卜伝』、 池波正太郎『上泉伊勢守』、柴田錬三郎『小野次郎右衛門』を収録。 江戸篇では、山岡荘八『柳生十兵衛』、吉行淳之介『堀部安兵衛』、 有馬頼義『針谷夕雲』を収録。 幕末篇では、村上元三『高柳又四郎』、 海音寺潮五郎『千葉周作』、永井龍男『沖田総司』を収録 。B司馬:合理主義というのは哲学者が生んだものではなく、貨幣経済が密度高く行われることにより生まれた。京都で室町時代から貨幣経済が稠密に行われ、 その余波を受けたのは大坂ぐらい。それ以外は明治以後。 多田/司馬:名は体をあらわすというのは、名前が人生に対するしぐさというか親の希望を表すわけで、名前はむしろ、親を判断する手がかりになる。 read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる