『ふしぎなキリスト教』論争
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
橋爪大三郎、大澤真幸という二人の学者による共著で 2012年新書大賞を受賞したベストセラー『ふしぎなキリスト教』。 大学の講義やキリスト教会での勉強会でもテキストとして指定されるようになってきました。 http://www.amazon.co.jp/dp/4062881004 しかし一方で、「2ページに1つ誤りがある怪著」として、 特に事実に関する記述の誤りについて指摘するTwitter住人有志が存在し 彼らの指摘は『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』という形で出版されるにいたりました。 http://www.amazon.co.jp/dp/4863300581/ はてさて、どちらの主張が正しいのでしょうか? このスレッドでは、冷静かつ事実に基づいた議論をお願いします。 相手の主張に耳を貸さない発言、根拠に基づかない発言は荒らしということでスルーしてください。 参考URL 『ふしぎなキリスト教』採用大学・教会一覧表 http://togetter.com/li/315494 新書大賞関連 http://www.chuko.co.jp/special/shinsho_award/ ふしぎなキリスト教 @ ウィキ http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/ >>99 プロテスタントも教会で祈ってるよ。それこそルーテルでも。 教会として祈ることは、見てもらおうとして人の前で行う善行とは違うから。 「主の祈り」は主日礼拝で必ず祈るし、 司会者が代表する祈祷や牧会祈祷、感謝祈祷、その他 何か集会やる時はそこが野外で人目があっても祈る時はある。 橋爪さんは「教会」の実態をあまりよく知らないのかも知れない。 >>99 間違いでないことはないけど 聖書にそういう箇所があることを批判派は言及すべきだとは思う。 礼拝その他で人前でも祈る時はあるのだから「キリスト教の祈りは外から見えない」と断言するのは間違いだろ 教会がイエスの時代になかったのだから「教会で祈ってはならない」なんて言うわけがない なおかつイエスは普通にどこでも祈ってた そもそも信仰と儀礼を区別して前者を高く評価するのはプロテスタント以降 (橋爪は特に「キリスト教=プロテスタント」として解説してるのが多すぎる 「ふしぎなプロテスタント」だったらここまで批判はなかったかも) >>104 カトリックもプロテスタントも批判派と擁護派の両方にいるからそれは何とも言えない >>100 回復訳の英語版は1985年に出版された。 日本語訳は、初版が1995年に出ている。 田川健三の「書物としての新約聖書」は、1997年に初版がでている。 その「書物としての新約聖書」の中で田川は以下のように書いている 「部分的な翻訳は別として、新約聖書全体の翻訳としては、個人訳では 上記の諸訳の水準のものは、日本語や英語には存在しない」 (490ページ) また「協会訳とすでに言及したカトリックの翻訳以外には、翻訳としては まともに取り上げる価値のあるものは存在しない。」(688ページ) とまで書いている。 >>106 田川さん一流のハッタリだろう。 1997年初版なら回復訳の存在を知らなかった可能性もある。 私自身出版後何年も存在を知らなかった。 田川訳は回復訳を参照したと思われるところがいくつもある。 >>109 >田川訳は回復訳を参照したと思われるところがいくつもある。 具体的に示してください。 >>104 正確に言うと「シナゴーグ」で、キリスト教会ではない。 ユダヤ教のシナゴーグはあった。但し、シナゴーグ(会堂)で祈る なとあるので教会で祈ってはならないのは当然。 (101の言うとおり、それで神の報いを受けないことは承知している なら良いのかもしれないが。というか今のキリスト教の解釈はそう なのだろうが。 聖書を読むとそれでもいけないというようにも読めるが。 いずれにしても「ふしぎなキリスト教」の文脈がわからないので、 今のキリスト教の実態を言っているのか、 本来のキリスト教の祈りのことなのかわからない) イエスが言う訳ないというが、聖書に書いてある。 マタイによる福音書第6章第5節 「また、祈るときには、偽善者たち のようであってはいけません。彼らは、人に見られ たくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだ からです。まことに、あなたがたに告げます。彼ら はすでに自分の報いを受け取っているのです。」 第6節 「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。 そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈り なさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、 あなたに報いてくださいます。」 >>111 傑作なのはコロサイ2:9だね。 英訳は大概がGodheadとかDeityとしているのに、 邦訳聖書は「神の性質」とアリウス主義のような訳し方をしているものがある。 福音主義バリバリの新改訳なんかは、どういうわけかアリウス主義バリバリの新世界訳と同じ訳になっている。 たぶん新世界訳が新改訳を真似たのかな? ところがアリウス主義の田川先生は回復訳とそっくりな訳し方をしてるんだ。 回復訳はかなり意訳してるから、偶然ではこうはならない。 ギャグだろうかとしばし考え込んでしまった。 >>114 コロサイ 2−9 ネストレ οτι εν αυτω κατοικει παν το πληρωμα τη? θεοτητο? σωματικω? 新世界訳 というのは,[キリスト]の中にこそ,神の特質の満ち満ちたさまが形を取って余すところなく宿っているからです。 口語訳 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、 新共同 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、 新改訳 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 フランシスコ会訳 実に、神のうちに満ち満ちているもの全ては、キリストのうちに形をとって宿っており、 岩波訳 キリストのうちにこそ神聖の全き充満が形態化して宿っており、 回復訳 なぜなら、キリストの中には、神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいるからです. θεοτητο?は、新約聖書ギリシャ語小事典では、神の性質、神である者の本質、神聖 また 新約聖書ギリシャ語辞典では、神たること、神聖、神格 で、田川さんは具体的にどのように訳しているですか >>115 単純に直訳するとこんな感じか。 何故なら、彼の中に神性の充滿全てが肉体として住まわっている。 新世界訳は直訳に近い。意外に悪くないと思った。 口語訳はθεοτησを神の徳と訳するのは、無理矢理すぎる。 新共同訳は大分かみ砕いた訳文。でも悪くないと思う。 新改訳はシンプル。 でも、θεοτησという一語を「神の」と「ご性質」の二語に分けるのはイマイチ。 フランシスコ会訳の「神のうちに満ち満ちているもの」は誤訳のレベルじゃないか? 岩波の「神聖」って「神性」の打ち間違い?「神聖」だったら誤訳だろ。「神聖の全き充滿」なんて、何のことやらさっぱり分からんし。「形態化」という訳もなんだか。 回復訳は、なかなか良い訳だと思う。 σωματικωσを「肉体」の意で訳すのが、原文に素直な訳だと思う。 他の訳だと、その意味を汲んでるのないんだよなぁ。ただθεοτητοσを「神たる方」とするのはちょっと苦しいな。 >>114 θεοτησを「神の性質」と訳したからといって、それがアリウス主義だとかなんだとか、そういう事にはならないだろ。 原文の単語を単純に訳せば、「神性」「神としての性質」。神が神たることのそれ、を意味する。 それを「神の性質」と訳しても問題はない。 原文は原文として、その言葉をどのように解釈するかが、教派の違いでしょ。 正教会訳だと「蓋し~性の充滿は、悉く實體を以てハリストスに居るなり」。 神性だとよくて、神の性質だとアリウス派的訳し方、なんて話はあるまい。 ふしぎな「ふしぎなキリスト教」85ページ >復活につき事実ととらえない信者、教会もいるにはいるが >全体から見れば少数派であるうえに、歴史的事実ではないと捉える >信者も、信仰理解の上では「枝葉末節」「付録」とは考えない。 確かに、イエスの復活を「事実」としてとらえていない信者は少数派ですが 歴史的事実と捉えている信者は、少数派ではないでしょうね。 パラパラ見た感じでは、 揚げ足を取られないように、非常に工夫した本だね。 >>99 読んでから言えw 橋爪「祈りは、ただの瞑想と違って、その本質は対話なのです。付け加えると、祈りのあり方は、キリスト教とイスラム教ではちょっと違っている。キリスト教の祈りは、外からは見えない。 これみよがしに祈るな、とイエスが命じたから。いっぽう、イスラム教の祈りは、外から見える。仲間と一緒に祈ることで、 ムスリムであることが自他ともに確認できる」(「ふしぎなキリスト教」67頁)。 イエスが命じたからそうなってるなんて、どこのキリスト教を考えてんだ、橋爪www というか、キリスト教ってそんな明確なものなんてなにもないからな。 祈りの家で商売した方が、これみよがしをカムフラージュ出来ていいじゃんねw 正餐が「自他ともによる確認」で行う共同体意識でなければなんなんだ >>118 「神性」≠「神としての性質」 基本がなってない。 「神の性質」って訳したらキリストが神でないと言ってるのと同じで異端。 ふしぎな「ふしぎなキリスト教」82ページ >弟子や校正の人物によって綴られている 「校正」ではなく「後世」で誤植ですよね この「弟子」と言うのは いわゆる12使徒ではなく後世の弟子のことでしょうね だとすれば「後世の人物が綴った」で良いのではないの >>125 あんた 恥ずかしくないのか? 田川と回復訳とは キリスト教内では対極の立場なのですよ 多少の事情を知っている者にはあんたの書き込みは、噴飯ものなのよ >>126 がちがちの保守への配慮じゃね?<弟子 >>127 あんた恥ずかしくないのか? スレタイ見た? ふしぎな「ふしぎなキリスト教」57ページ で ファリサイ派をセクトと説明してる まあ それはそれでようのだが 83ページに参考文献に 佐藤研「聖書時代史 新約編」 を示して ふしぎな「キリスト教」の間違いを指摘している。 佐藤研の本では ファリサイ派を党派ではなく 「宗教改革運動の潮流」(29ページ)だと書いている セクトは「組織の中の分派」とすれば 「潮流」とは違うのではないかな ある項目を間違いだとする根拠に使用した資料の内容と 違う事を 正しいとするのは 何だか違和感があるね >>127 >田川と回復訳とは キリスト教内では対極の立場なのですよ そう。だから言ってるんだよ。 田川さんはイエスは神であると認めない立場だ。 じゃあ何で田川訳はイエス・キリストの神格について言っている節で 回復訳の訳し方を真似たのか、まったもって傑作だって。 多分、福音主義のはずの新改訳が変なことをしているので あてつけのつもりでやったのかもしれない。 以下のサイトのコロサイ2:9のところをみてみるといい。 訳者が困って(文字通り「神性」を意味する)と付け加えてる。 http://www.jca.apc.org/ ~resqjw/verse/letter.htm >多少の事情を知っている者にはあんたの書き込みは、噴飯ものなのよ 多少しか知らないからだよ。 こういう正統的信仰とアリウス主義の異端の区別もつかないような、 物事を多少知っただけの人たちが、ふしキリを賞賛してるってことなんだろうな。 >>127 ふしふしキリ推奨図書。巻末索引をつかって必要なページだけでも 拾い読みしてみてくだしゃんせ。 http://www.amazon.co.jp/dp/4764272032/ 豊○の会。群馬病院。 日本キリスト教団と日本プロテスタント教団と野中拡務事務所と 河野洋平事務所と河野太郎事務所に至急連絡願います。 連絡先 mizu1615@d/como.ne.jp ↑追記 菱田の言質は全て嘘です。お調べになって下さい。 ふしぎな「ふしぎなキリスト教」61ページ >13部族とする伝承か一般的 60ページで「ふしぎなキリスト教」で誤り22 の根拠として参照している 「旧約新約聖書時代史」の旧約部分を底本とした 「旧約聖書時代史」 では 16ページからイスラム12部族の説明している ここでも 一つ資料を誤り指摘の根拠に使い その同じ資料の他のヶ所の記述とは違う事を主張している >>137 >では 16ページからイスラム12部族の説明している ではなく 「では 16ページからイスラエルの12部族の説明している」 >>137 あのね、あなたが問題として指摘していることは、実際は何の問題でもないの。言いがかりレベル。 Aという1ポイントを述べる典拠としてXの本を挙げると、X本の隅から隅までを正確と認定したってことになるの? あるいは、参考文献に挙げたが最後、自分の主張の全内容はその本の主張と絶対矛盾させてはいけない、なんてルールがあるわけ? 真剣に不安になってきたわ。 >>141 もちろんそんなルールはないけど、>>129 も >>137 もそういうルールを考えてるみたいね。 勉強したことないからそういうルールを前提にしているんじゃないかしら? そんなルールはないと思う 聖書学の成果を受け入れる信仰と福音派の信仰を 調和させる試は悪い事では無いと思う 福音派から見れば 佐藤研等の本は受けないとは出来ないし オレから見れば 某宗教法人から出ているキリスト教の本は受けることが出来ないものが多いし 現代聖書学を受け入れるオレから見ても「ふしぎなキリスト教」には 不正確な記述が多いと感じる また 「ふしぎな「ふしぎなキリスト教」」からも 某宗教法人から出ている本に似た雰囲気を感じ 受け入れる事が出来ない記述がある 大多数のキリスト教徒での共有出来るのは 信徒信条 だけではないのかな それ以外は何でも有りなのがキリスト教なのだと思う >>143 >受け入れる信仰 ではなく 「受け入れる信仰」 >受けないとは出来ないしてはなく 「受け入れる事は出来ないし」 >本は受けることが出来ない ではなく 「本は受け入れる事が出来ない」 携帯なので失礼した >>141 参考文献が無謬なんて滅多に無いでしょ。 橋爪せんせーが依拠してそうなマックス・ウェーバーも、間違いは色々指摘されてるはずだしね〜。 徳善先生の『マルティン・ルター』(岩波新書)もルターにの功罪に関しては良書だけど、東方正教会については間違いまくり。 以前ドストつながりで、高橋保行『ギリシャ正教』読んでたからその辺の記述はスルーできたけど。 ある本のここは正しくここは正しくない、ということを指摘するのが書評のはずなんだろうけど、 そうなってないもんな。だから参考文献無謬説を唱える >>129 >>137 が出てくるw ふしぎなキリスト教の場合だって、ほめてばかり。せめてキリスト新聞くらいは取り上げるなら批判しろよと思ったら、 インタビューを何回も掲載するくらいのよいしょw 批判はしたけど、それも自社の本の販促のための批判だったしw キリスト新聞社みたいなちっぽけな会社が、講談社を敵に回せるわけないではないか あんな小さな会社(マスコミというよりミニコミ)に過度の期待をしてはいかん 大手出版社と著名学者を敵に回せるのは、もともと失うものを持ってない人たちの特権です 講談社を敵に回せないなんてのより、もっと積極的にふしキリを肯定してるよw>キリ新 パウロがサドカイ派とファリサイ派の信仰の違いを利用して 窮地をすり抜けたのとおなじように「ふしぎなキリスト教」もキリスト教内の信仰の違い利用して 逃げ切れると考えているのよ 確かにキリスト教も教派によって幅があるけど、 「神様(God)はエイリアン」 これをふむふむと受容できる信徒はかなり少数だと思う。 あとキリスト教じゃない部分だけど、 "一神教で偶像崇拝禁止だと製造業が栄えない" てな事書いてあったが、まさにそこ読んだ時、 モロッコのバブーシュ履いてて(スリッパ)、足下にはトルコのキリム敷いてたので、 「そりゃないわーw」 と脳内でツッコミ。 (バブーシュは流通量から考えて大量生産だしね) イスラム建築・美術好きで、モスクなど見るためにイスラム圏を旅した私は何なのかと思いましたw >>147 あれでふしキリについては「中立」と主張しないならそう考えても良いけどねw あれだけふしキリ販促インタビュー載せといてキリスト新聞が中立とか言っているのは滑稽。 ふしふしキリ著者たちのインタビューをふしキリ著者たちと同じ回数だけ掲載したら中立と思うけど、 それができないなら中立とかせめて言うなよwww >>143 使徒信条だけ!? せまいって。 カルケドン信条の「神の母」あたりが分岐点でしょうに。 ふしぎな「ふしぎなキリスト教」170ページ >「日本基督教団の讃美歌に書かれている「明治訳聖書に基づく「天にましますわれらの神よ」ではありません。 「神」ではなく「父」の誤植ですかね? 日本基督教団出版局 讃美歌 讃美歌第二編 564番 >「天にましますわれらの父よ」 565番 >「天にまします父よ」 手元に明治訳聖書が無いのでどうなっているかは不明。 ふしぎな「ふしぎなキリスト教」 46ページ >ヘブライ語での意味は「油注がれし者・・・・・略・・・・・・ >ヘブライ語などとは言わず「メシアとは救世主を意味するようになった単語です。」 >という説明であれば正解だったのだが。 ヘブライ語の「メシア」の日本語訳として、旧約聖書ヘブライ語大辞典」には 救世主という訳は載っていない 現代ヘブライ語辞典(キリスト聖書塾)には、 @油注がれたもの A救世主 メシア とある。 英語の辞書ですけど the BROWN DRIVER-BRIGGS HEBREW and ENGLISH LEXICON には 例として ダニエル9章25節を messianic prince としている。 ENGLISH-HEBREW HEBREW-ENGLISH DICTINARY (OXFORD UNIVERSITY PRESS) は 英訳として Messish とある。 現代ヘブライ語では、「救世主」と訳して問題ないと思う。 ふしぎな「ふしぎなキリスト教」 280ページ >その「本気の答え」らしい答えは、いくら探してもも見つからない。 その答えは、旧約聖書の描く歴史の中で説明するのが簡単だと考えたのでしょう。 ふしぎなキリスト教の41ページ以下の歴史を記述してるでしょ。 その本気の答えは、北王国の滅亡と南王国の存続の歴史、なんだろうね。 ここでも、「ふしぎな「キリスト教」」は雑なという説明不足なのですね。 「一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ」( 加藤隆 講談社現代新書)で この辺の事情を、旧約聖書の描く歴史で丁寧に説明している。 2011年5月20日 第一刷の348ページの文献案内には この本は載ってないね。 ふしぎな「ふしぎなキリスト教」 78ページ >原住民は「わたしはあの畑をあなたにさしあげます。」と提案している。 「スリリングな読みの冒険」(水野隆一 新教出版社) >「いいえ、わたしのご主人、わたしはの言うことを聞いてください。畑はあなたに与えました。 >その中にある洞窟も、あなたに与えました。わたしの民の人々の目(の前で)、それをあなたに与えました。 >あなたの死者を葬りなさい。」アブラハムはお辞儀をした。(その地の)民の前で。 この「与える」と訳されている言葉を、 >「極めてあいまいな、どのようにでもとることが出来る表現を、意図的に使っているのだろう >そうすることで、アブラハムが次にどのような動きを見せるのかを待つことが出来る。 >アブラハムは、この挑戦を「許可」と受け取ったのか(「与えるは、許可の意味もある)「お辞儀をする」。 (スリリングな読みの冒険) 7節と12節の新共同訳で「挨拶をし」訳されている言葉は、18章2節の「地にひれ伏し」と同じ動詞です。 >>157 >「スリリングな読みの冒険」 ではなく 「アブラハム物語を読む」 です。 ずいぶん前に読んだ本なので勘違いしていた すまん >>156 >>157 何を言いたいのか不明なんだが。要点をもっとはっきり書いて欲しい。 >>156 加藤隆の本、何冊か読んだが信頼できないのが多いと思う。 ふしぎな「ふしぎなキリスト教」 93ページ >誤り67(p.93) マタイ伝のイエスは、「おまえは神の子か」に否定も肯定もしない ふしぎな「ふしぎなキリスト教」 93ページ >挙げられているのはマタイによる福音書では無く、マルコによる福音書である。 「マタイ伝」は校正からもれたのかな? 156は、加藤隆の本をあわせて読めば、「本気の答え」がわかると思う。 たぶん加藤隆説と同じだと思う。 157は水野隆一の創世記23章の解釈です。 これも水野と同意見なのでしょう。 >>161 ふしぎなキリスト教にどんなによく分からないことが書いてあっても ○○先生の本に同じことが書いてあったからふしぎなキリスト教の記述は間違えとは言えない!キリッ ってこと?もしそうなら、おかしな立場。 トギャッターみたら、こんな変な立場からふしぎなキリスト教を擁護していた奴がいたなw 〇〇を受け入れる〇〇教神学者もいないわけではない この立場をとればどんなトンデモ本も容認できる ふしぎな「ふしぎなキリスト教」81ページ >誤り50 共観福音書は対照して読む福音書 大澤が言う「相互に比較対照しながら一緒に読む福音書という意味でしよう」 が正しい >マタイ マルコ ルカはひとまとめにして「共観福音書」と呼ばれる >18世紀に学者達が それらを「シノプス」(対照表)と呼ばれる並列形式の縦欄が >記載された本で研究し始めた事による。 >「シノプス」とは字義通り「共に見る」の意である 「イエス その歴史的事像に迫る」EPサンダース 教文館 101ページ >>164 あんたの書き込み、何を言いたいのかわからん。 >>165 はげど。どういう考えを持ってるのかもわからないよ…。 今のうちに流れを無視して低レベルの書き込みしちゃうよー。 『ふし「ふしキリ」』まだざっと見ただけなんだけど、 第5章 III その「ふしぎ」に否と言う(p.269) (byラスキン〜さん) を読んで粛然とすると同時に、キリスト教をdisって安心する日本って何なんだろうなとしみじみ思った。 他にも読んで良かった所はあるんだけど、とりあえず一番印象に残ったのは此処でした。 長崎(浦上)への原爆投下の話、読んでしばらく絶句した。 長崎じゃないけど、俺もキリシタンの末裔なので。 >>168 >>167 さんじゃなくて>>166 ですが、 ラスキン〜氏の文章は中身の濃い6ページ余りなので私の能力では要約しにくい。 出来れば立ち読みでいいから読んで欲しい。 長崎原爆についてのみ。 長崎の地形の特徴により特に浦上地区の被害が大きく、 原爆投下後から戦後の復興期に至っても、長崎市民の中では 「原爆は長崎ではなく?浦上?に落ちた」 「耶蘇にバチが当たった」 といった差別・偏見があったせいで (戦時中から「耶蘇は異質で普通の日本人とは違う」という扱いがあった模様) 原爆からの復興が遅れた、という事でした。 本来は、長崎の人たち皆で復興のために力を合わせるべきところなのに、「耶蘇」への偏見と差別によって住民に亀裂が残り続けたのが復興への障害になったと。 これ、たった60年ちょっと前の話なんですよね…。 ふしキリに通底すると思しき 「キリスト教はふしぎ、異質。それに比べて神様が友達みたいな多神教の日本は寛容でいい」 てな安易な思い込みへの静かな怒りと痛みが心に響きました。 文字化けしてしまった。 「原爆は長崎ではなく?浦上?に落ちた」 ↓ 「原爆は長崎ではなく『浦上』に落ちた」 9月21日の週刊読書人で「ふしぎなキリスト教は、日本人論でもある」と橋爪大三郎は言ってるが、 それに対するみごとな反論になってるよね、ラスキンさんの文章。 締め切り考えると橋爪もラスキンさんも互いの言葉も知らないで書いてたと思うが。 ふしキリって、無神経な暴言多いよね。指摘されまくってるけど。 橋爪先生ってもっと紳士的なイメージがあったんだけど、 どうなってんの? ふしぎな「ふしぎなキリスト教」52ページ >誤り10(p22) 怖い神と付き合うのが一神教の重大なテーマ テリトゥリアヌスは、マルキオンに反論する特別な著書の中で神の怒りについて述べている。 紀元260年生まれの、北アフリカの修辞学教師で晩年キリスト教に改宗したアルノビウスも、 「神も怒ると主張するのは、?神の罪を犯すことになる。」と述べている。 彼の弟子であり同国人の、ラクタンティウスは、「神の怒りについて」という文書で テリトゥリアヌスの説に反論している。 クレメンスとオリゲネスも神の怒りついて記述している。 「イスラエル預言者 下 」A.J.ヘッシェル 教文館 P126 神の人間に対する怒りの問題は、古くから色々な議論がなされている。 ふしぎな「ふしぎなキリスト教」59ページ >律法学者は、読み書きに関する能力を持った人々を指すのであって 「律法学者は、律法を専門に研究し、解釈して民衆に教える教師。」です。 聖書 新共同訳 旧約続編つき 日本聖書協会 のなかの 用語解説(43) ふしキリに限ったことじゃないんだけど、 キリスト教の重大なテーマに「神と人の合一」ってのがある。 これは近代以降になってからも、神学だけでなく西洋哲学の中でさえ かなり重要なテーマなんだけどさあ、 これがどういうわけか忘れ去られてるんだよね。 亡くなった今道友信先生の『西洋哲学史』にも書いてある。 ふしぎな「ふしぎなキリスト教」87ページ >「義の教師」は死海写本に現れ、クムラン教団を作った人物を指していると考えられている。 「義の教師」は、「ダマスコ文書」と」は「ハバクク注解書」に記述されている。そして >その人物が現実的にどのような意味を持っていたのか、、あるいは、ひとつの「共同体の >創始者として、どのような役割をはたしたのか、ということは何も記されてはいない。 「死海写本とイエス」 K・ベルガー 教分館 (P64) >義の教師と称されるクムラン共同体の指導者 「国際聖書ホィーラム2006 講義禄」 (日本聖書協会・編) 死海文書に関する近年の学問上の諸問題 エマニュエル・トーヴ 「儀の教師」は、クムラン共同体の創始者と考えられている のではく、指導者と考えられている。 ふしふしの「第2章 ふしぎなキリスト教の誤り」を 書いた人は、色々な立場なのでしょう。 その誤りの指摘の視点の統一が不十分に感じる。 非常に濃く分かりやすい解説がある反面 批判本にしては、不正確な記述が多くあるように感じる。 また、出版する前に、日本基督教団の信徒ではなくとも、 日本基督教団出版局の讃美歌にある主の祈りや、 普段、新改訳聖書を利用していても 日本聖書協会の聖書の巻末の用語解説とか は確認すべきでしょうね。 この辺は編集者の仕事なのかな? オレガ思うに、ふしキリは新書で読み捨てにするものですよ。 それを教会で使う教会の役員や牧師の神経は理解できないですよ。 それと、日本人の宗教に対する誤解に興味があるのなら 「教科書の中の宗教 この奇妙な実態」 藤原聖子 岩波新書 を読んでみるよいと思う。 >日本基督教団の信徒ではなくとも、 >日本基督教団出版局の讃美歌にある主の祈りや、 > >普段、新改訳聖書を利用していても >日本聖書協会の聖書の巻末の用語解説とか >は確認すべきでしょうね。 これは「ふしふし」にではなく「ふしキリ」に言うべき言葉だろう。 >>178 ふしぎなキリスト教」は 信用出来ない本なのは 間違いない ふしぎな「ふしぎなキリスト教」も 信用出来ない本 ということです。 以下 チラシの裏 不思議なのが 「ふしぎな「ふしぎなキリスト教」」に参加したメンバーに 「ふしぎな「ふしぎなキリスト教」」の中の不正確な記述が有ることを指摘出来る人がいると思うのだが 何故 不正確な箇所を指摘しないのかだ 議論を避けて仲間内の和を重視したのなら残念だと思う ふしぎなふしぎなキリスト教、不正確な記述があるが大雑把には合ってる。その点ではふしぎなキリスト教より信頼出来るし、 参考が書かれているだけでもふしぎなキリスト教よりもよっぽどまし。 ま、参考文献はもう少し学術的なものをお願いしたいがw >>179 wikiは日々更新されているらしいから(ふしぎなふしぎなキリスト教、41ページ)、 不正確な箇所はこれから訂正されるんじゃね? つーか、正確な記述は参考の文献やらHPに書いてあるのが大抵だから、不正確じゃないんじゃね? それ以上を指摘した人はどうぞと思うが。 普段本を買わない人が買うからベストセラーになのでしょう 通常は橋爪先生と大澤先生の読者とキリスト教に社会学的興味がある人が買って それでおしまいだったのでしよ 私は 最後まで読んだけど読んでいて退屈でしたよ 面白かったのは「贖罪の同害報復説」ぐらいですよ まあ 普段本を買わない人に何がうけたのでしよかね 最後まで読まない人もいるだろうけど 失礼だけども「ふしぎな「ふしぎなキリスト教」」は 拾い読みで終わる可能性が高いな >>185 特になんの根拠もない憶測を書き連ねただけ。 >>185 ふしぎなキリスト教を大学や教会が評価する状況を批判するためにふしぎなふしぎなキリスト教が書かれたから、 ふしぎなキリスト教が退屈な人にはふしぎなふしぎなキリスト教は退屈かもしれん。 >>188 ツイッターみてると、ふしぎなキリスト教を批判している奴は敵だと思ってるやつのほうが目につくw 粘着だよな、あれ。わざわざアカウント作ってふしぎなキリスト教批判者を批判してる奴もいるしw >>185 >普段本を買わない人が買うからベストセラーになのでしょう ちょっと脱線するけど 正しくは、 「話題の書!」「ベストセラー」「新書大賞」 などとと知ると、大して興味なくても買っちゃう層が結構いて、その人達がもれなく買うと確実ベストセラーになる。 うちの親がそういうタイプだからわかるよさ…orz で、得てしてそのミーハー層はじっくり読まないw 感想訊いても「なんか面白かった」程度で内容忘れてる率が高い。 ちなみに、普段本を買わない人は本屋にも行かないので、この書名さえ知らないと思う。 学校卒業してから仕事のマニュアル以外、1冊も読んでない人いるからねー。 >面白かったのは「贖罪の同害報復説」ぐらいですよ そこも山ほどある 「えっ、ちょっ待てよ!Σ(゚д゚lll)」 の一つでした。 橋爪氏はちゃんと教会籍あるらしいけど、どうしてこうなった?? うーん、やはり教会で読書会なんてどうかしてるし、『ふし「ふしキリ」』は出版できて良かったと思うわ。 普通に「ふしキリ」読むと疑問だらけになるから、真面目に疑問点が気になる人にはとりあえずお勧めできるしね。 ちゃんと読まない人には不必要でも、私は買って良かったよ。 ちょっと言い返されたらすぐ「賛同しなかったら敵かw」って反応するのも 結局は自分の主張だけ通そうとしてるのではないか 橋爪先生の「世界がわかる宗教社会学入門」のキリスト教の部分を読んでいたら 「同害報復」の他に、「奴隷解放の原理」で贖罪のことを説明していた。 「イエスの時」 (大貫隆 岩波書店)によると 贖罪の説明は、複数あると考えられている。まず一つは、 ハネ 3:16 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 この「与えるほどに」は、イエスの十字架上の死が含まれている。 ハネ 1:29 「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」 この「取り除く」のは、個々人を超えた世の罪 つまり 不信仰なのです。 二つ目は、ローマ 3:25「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。 それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」 レビ記16章15節〜16節を根拠とするもので、これはパウロ以前から、ユダヤ人キリスト者に有った信仰だと言われている。 コリント15:3 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。 すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、」 この「わたしたちの罪のために死んだこと」もレビ記15章15節〜16節が根拠でしょう。 この「罪」は 複数形なのですよ。つまり一つ二つと数えられる「罪」なのです。 三つ目が パウロの十字架の神学なのですよ。 ローマ7章7節〜24節には、罪という語が沢山出てくるが、単数形なのですよ。つまり 一つ二つとは、数えられない「罪」なのです。 根源的な人間の「罪」なにですね。一つ二つと罪を数えて、競争してまう事の罪なのですよ。 パウロは、エルサレム教会の信徒から聞いた、イエスの十字架上の刑死という出来事を、「神が自分の一人子を、つまり自分自身を 凄惨きわまる十字架の刑死に破棄してまで、パウロの「この死の体」つまり現にあるがままのパウロに向かって、 「おまえは現に存在している」「有なるものだ」と呼びかける行動であった」 紀元一世紀ごろ、ユダヤ教徒では「シェマ」と呼ばれる祈りの後に、「十八祈祷」が祈られていた。 その中に、「異端者どもにはどのような希望もなくさせ、不遜な支配者を急いで汝の手で根こそぎにしてしまえ。 ナザレ人と異端者どもは、瞬く間に滅びうせ、生命の書から消し去られ、義人とともにその名が記されることが 有りませんように。不義を退けたもう主よ。汝に栄光あれ。」という祈りがった。 「ナザレ人」とは、ナザレ人イエスをキリストと告白する人達のことで、 この祈りから分ることは、「ナザレ人」とは、ファリサイ派やサドカイ派から区別するためではなく 他の「異端者」から区別するために、使われた言葉なのでしょうね。 「福音書のイエスキリストC ヨハネによる福音書 世の光イエス」 (大貫隆 日本基督教団出版局) 「社会がわかる宗教社会学入門」を見ると 橋爪先生は、預言者を社会があるべき状態を逸脱したとき、そのあるべき正しい状態に戻すために 神から使わされた存在と理解してるのではないかな。 その正しい状態とは、神との契約が守られている状態の事のなのでしょう。 神道等の多神教には、神官や巫女等の神の意思を伝える者は存在するが、 神との契約という考え方が無いから、契約から逸脱した状態がないのよ。 つまり、多神教には、契約による社会の本来あるべき姿がない。 だから、多神教には預言者は、いないといっているのね。 この本の中でも「神様はエイリアン」って言ってるのね。w 今から100年程度前は、「個人的宗教は副次的派生的現象である」と考えられてたのよ。 「崇拝者と自分と神の密接な関係の信仰は、かつては限られた少数者の教説に依存していたが、 数世紀をへてゆっくりと民衆の中に広まった。」 部族や国家等の集団の宗教が先にあって、個人的宗教は、その副次的派生的なものだと考えられていたのよ。 「ヘブライの神」(B.ラング 教文館) しかし今日では、個人的崇敬は、一般の人の心に起源をもち、はじめから民衆の中に広まっていた と考えるようです。また聖書学は、個人的崇敬と公的宗教を分けて記述してきた。 橋爪先生は、社会学からキリスト教を語るから、 集団や部族あるいは国家の宗教 とくに戦争神を強調するのかな? 大雑把に言って70年以降に神殿ユダヤ教からキリスト教が生まれたのでしょうね。 で、ラビ的ユダヤ教も神殿ユダヤ教から生まれたのでよう イエスの時代の神殿ユダヤ教から、キリスト教とラビ的ユダヤ教が分裂したと 言うことも出来るのですよ。 パウロを、ユダヤ教かキリスト教の、どちらかに分けることは無意味なのですよ。 パウロの時代は、キリスト教もラビ的ユダヤ教も神殿ユダヤ教の中に混在しているのだから。 その混在の事が、「ヨハネ福音書」に描かれているでしょ。 キリスト教も神殿ユダヤ教の延長であるし ラビ的ユダヤ教も神殿ユダヤ教の延長にあるわけですよ。 別に言い方をすれば、キリスト教は、旧約聖書と新約聖書の宗教で ラビ的ユダヤ教は、旧約聖書とタルムードの宗教なのですよ。 >>193 何を言いたいかよくわからんが、橋爪と大澤がふしぎなキリスト教で何できちんとそう説明していないかも説明しろw あと、>>192-195 は日本語とスレタイとの関係をわかってから書き込め 小室直樹氏は、よくも悪くもヴェーバーと大塚久雄の受け売りで宗教を論じてた。 橋爪さんは・・・・・・ネタ本が絵本だって話が出てたりするんだよね。 ●日本のキリスト教会は反日組織に汚染されている で検索 この、住所の一致、本当ですか? ふしぎなキリスト教は単純ミスや雑な言葉使いが あるが言いたい事はそんなにおかしいとは思わない。 ふしぎなふしぎなキリスト教の言いたい事はふしぎなキリスト教にある誤りが根拠 なのでしょうから誤りの根拠や検証は重要だと思う 誤りの指摘が雑なのよ 雑なデータで論を展開してもその結論は雑なものでしかないのだと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる