【復活】ライダース・革ジャンの手入れスレッド
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ライダース・革ジャンの手入れについて語るスレ。
◎語るテーマは、
・普段の手入れ方法
・雨に濡れた時の手入れ方法
・傷・めくれ・色ムラなどが出来たときの修理法
・臭いの対処法
・お薦めの手入れ用品、または、避けるべき手入れ用品など。
◎禁則
・どれがおしゃれか、カッコ悪いかは語らない。別スレでどうぞ。(結論でないから)
・どの商品が自分にお薦めですかは、聞かない。別スレでどうぞ。 店で新品で買った物はそんなことないんだけど、
オクで買ったのはどれもギシギシいってやかましい。 艶やかにはなるけどギシギシいわない物ってないのかな 袖がカビちゃったんだけどどうしたらいい?
クリーニングに出すのが無難かな 父の持ってた革ジャンを着ようと思いましたが、長く着てなかったせいかめっちゃ硬くなってました。
自分大学生で一日中家にいるので、基本的に一日中着ようと思い、朝起きてから着て、寝る時もずっと着ています。
これで柔らかくなりますか?昨日から着始めましたがまだ硬いです。 【このスレのルール】
・ハイブランド禁止
・インポートブランドきんし
・ドメブラ禁止
・セレオリ禁止
・ショットやルイスなどコテコテ系禁止
・激安レザー禁止
・プロテクターなしレザー禁止
・プロテクターついたガチならレザーでなくてもアリ いやあああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!! プロテクターなしのレザーの話をしようとしてるうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!!!!!!!!!!!!! らめええええええええええええええええ!!!!!
らめなのおおおおおおおおおおおおおおお!!!!! プロテクターがないとらめなのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!! 危ないのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!! 死んじゃうううううううううううううううううううううう!!!!!! はあああん!!!
あんっ///あんっ!あぁんっ!!
ああああんんんっ/// イエローコーンは最高なのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
https://i.imgur.com/uLLWy8l.jpg はああああん!!!
あんっ///あんっ!あぁんっ!!
ああああんんんっ/// いやあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!
(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! ) んああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!
(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! ) 硬い皮なら古いリンスぬれ んできて余分なリンスふきとれ 色が抜けてたら100きんで色と筆かってぬれ んでリンスぬれ ボロい下着でふいたらピカピカになる ラナパーのみ
これで革は全てメンテしてる
靴、カバンとか色々使ってるよ お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。 その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められました。 人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。 しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。 お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。 「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」 それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。 「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。 体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。 体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。 これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです(つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません)。 シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。 汚れているとか、清らかであるということもありません。 迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。 このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。 目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。 目に映る世界から、心の世界まですべてありません(つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません)。 迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。 同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません(つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません)。 苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません(つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません)。 知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。 このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。 誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。 過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。 “智慧の完成”は大いなる真言、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除き(取り除く真言であり)、偽りがないので確実に効果があります。 「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ) シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」 この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。 そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。 般若心経をはる不敬な荒らしがいるのか
なんでそこまで粘着するのかね ライダースのリメイク頼むならこの店が良いとかあります? 世の中カーフばっかりやけど、
あれ長生きせんじゃろ?
まぁラムよりはいいけど ほっといてんか! ほっといてんか!
一人ぼっちで ほっといてんか! ラムは長生きせんのか
ラム皮のジャケット20年くらい着てるな
いや、年一回とかだが >>141
お前みたいな奴がいるから荒らしが消えない リューグー
但馬屋
FREEDOM
モーガン
どれがいい? リューグー
但馬屋
FREEDOM
モーガン
ウィンドアーマー
どれがいい? 『般若心経』は正しくは『般若波羅蜜多心(プラジュニャーパーラミターフリダヤ)経』と言いますが、インドのサンスクリット語の原典にはタイトルはなく、中国で、結びの言葉に「経」を付加してタイトルにしたのです。 「般若波羅蜜多」について説く経典は多数あって、それらを総称して般若経典と呼びます。 般若経典は紀元前後から作られ始め、12世紀頃まで作られました。 『般若心経』はその中の一つで、般若経典の神髄を短くまとめたとする経典です。 『般若心経』がいつどこで書かれたかははっきりしませんが、インドで観音信仰が広がり、仏教が密教化していった5-6世紀頃ではないかと推測されています。 4-5世紀に生きた鳩摩羅什によるとされる漢訳本があるため、もっと早く成立していたと思われていましたが、最近の研究では羅什訳は後の時代の偽作の可能性が強く、『般若心経』の成立が確実に確認できるのは7世紀初頭頃になってからです。 『般若心経』には、玄奘訳のように観音菩薩の説法に当たる本文だけからなる「小本」と、本文の前後に物語の基本的な設定に当たる序文やエピローグを含んだ「大本」の2つの系列があります。 上の和訳では「大本」だけにある部分は青字で大筋を訳しました。 この部分がないと、お釈迦様も登場せず「仏説」としての根拠がないので経典として成立しません。 歴史的には、最初に般若経典から神髄だけを抽出した「小本」が作られて、後に経典として体裁の整った「大本」が 作られたようです。 「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。 「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。 大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜多」と言い ますが、その中の最後の最も重要なものが「般若波羅蜜多」です。 「心」と訳されている「フリダヤ」は、直訳すると「心臓」ですが「神髄」という意味で使われます。 つまり「般若心経」とは、「般若波羅蜜多の神髄」であると共に「般若経典の神髄」という意味です。 「フリダヤ」は「真言」という意味でも使われるので、「般若波羅蜜多の真言」という意味だと解釈する説もありますが、結局はどちらでも同じです。 なぜなら、『般若心経』の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてあり、『般若心経』の主張は「般若波羅蜜多の神髄は真言である」ということだからです。 『般若心経』は「般若波羅蜜多」の修行方法を説いており、文章の流れからして、明らかに真言を伝授することを核心としています。 お釈迦様の生きておられた当時の多くのインドの宗教・思想では、禁欲・苦行や無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱ができると考えていたのですが、お釈迦様は、あるがままを観察する瞑想で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解してそれをなくすことで解脱ができると考えました。 仏教では何かに集中し、一体化して心を静める瞑想を「止(シャマタ、サマタ)」、何かを観察し、分析する瞑想を「観(ヴィパッシュャナー、ヴィパッサナー)」と呼びます。 「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当します。 『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。 『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。 仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます。 原則としてお釈迦様の説法を記録した「経」に対して、お釈迦様の教えを解釈し、体系化したものが「論」です。 小乗仏教の各宗派はそれぞれに「論」を作りましたが、シャーリプトラがお釈迦様の教えを解釈してまとめたことが、「論」の始ま りとも言われています。 「観」の瞑想では、どのように集中するかということと、どうような教説に即して観察・分析し智慧を得るかということが問題になります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています